セミナリー 

*訳注 セミナリーの由来はラテン語のseminariumで、「育てる場所」を意味する。大学のゼミはドイツ語のseminaryが由来の日本語。英語のセミナリーは、「聖職者を育てる場所」という意味で、一般的な訳語は神学校。ここではダルマを説く者を育てる場所と言う意味。セミナーではない。

 

 チューギャム・トゥルンパは、チベットの制度とその形式的な硬直性に批判的な側面もあったが、直感という基本原則を否定することはなかった。それどころか、彼は自らのカリスマ性を超えて未来の世代に教えを継承するという伝統を体現するため、新たな制度の設立に着手した。これらの制度は、悟りを広めたいという真の願いに基づいて設立されなければならなかった。彼が最も誇りに思っていたのは、3ヶ月間のセミナリーだった。

 セミナリーは、教えの深遠さを学生に理解させるための修行プログラムを制度化するための手段だった。このプログラムは毎年再開することができた。チベットにおいてさえ、このようなプログラムはかつて存在したことがなく、チューギャム・トゥルンパはこの革新に大変満足したという。

「わたしの知る限り、このようなプログラムを作った人は誰もいません。だからこそ理想的なのです」

彼は1973年、ワイオミング州ティトン村で最初のセミナリーを率いた。その後、1977年は1年間隠遁生活を送っていたが、1986年まで、チューギャム・トゥルンパは毎年3ヶ月をこのプログラムに費やした。彼はこの修行の重要性を強く強調し、これが金剛乗(ヴァジュラヤーナ)を深く学び、予備的な修行(ンゴンドロ)を始めるための前提条件であると述べた。

 チューギャム・トゥルンパは新しい教えを説く際、しばしば、その教えがどのような経験を扱っているかを説明することから始め、その後、より知的な言葉で詳細を論じることが多かった。しかしセミナリーでは、仏教の教えの核心にまで正確に迫ろうとした。

「生徒たちが修行と学問に深く没頭するにつれ、私はジャムゴン・コントゥル・リンポチェとカギュ派の瞑想法の伝統に基づく、より高度な修行の必要性を感じました。体系的かつ徹底的にダルマを説くことができる環境が必要だったのです。」

 チューギャム・トゥルンパとともに通訳としてしばしば仕事をしていたラリー・マーメルスタインは、このアプローチの変化をつぎのように回想している。

「チューギャム・トゥルンパの講演準備は非常に多岐にわたりました。とくに最初の数年間は、ほとんどのセミナリーではまったく準備が必要なかったように思われます。おそらく1973年に開講されたヴァジュラダートゥ・セミナリーは、より詳細なダルマの解説にメモを使うようになった最初でした。彼は講演のためにチベット語の文献を熟読し、メモを取ることにかなりの時間を費やしました。初期のセミナリーでの講演の多くは、何ページにも及ぶメモがもとになっていました」

 彼の学生たちにとって、セミナリーに通うことは大きな決意の証だった。3ヶ月間のプログラムに参加することは、しばしば困難を伴った。なぜならその期間、通常の生活を諦めるだけでなく、3ヶ月間の生活費を捻出し、アパートを借りてくれる人を探し、友人と別れるなど、様々な困難に直面したからである。事前の準備なしにセミナリーに通うことは不可能であり、準備には数年かかることもあった。また入学試験のあと、セミナリー入学前に、真剣に勉強する必要があった。

 それは貴重な経験となった。そしてチューギャム・トゥルンパはこう言った。

「九乗(ヤーナ)の教えは、あなたの身体全体に、骨や骨髄にまで浸透するのです。あなたは完全に、そしてしっかりとその教えに浸り、すべてを実際に体験することができます。弟子とは、まさに鍛錬を意味し、学ぶとは真の学びを意味します」

多くの学生にとって、セミナリーへの参加は、彼らの成長の転機となった。そしてチューギャム・トゥルンパおよび仏教との個人的な関わりをもたらした。

 セミナリーでは、各月がそれぞれ一つのヤーナ(小乗、大乗、金剛乗)に充てられ、さらに各月が仏法の原理を集中的に修行し学ぶ期間に等分された。こうして連続性と一貫性を理解し、体験することができた。

 プログラムの中心となるチューギャム・トゥルンパの講演に加え、上級生による講義も行われた。セミナリーの参加者は、チューギャム・トゥルンパによるメインコースに加えて、通常3つのコースを受講した。

 通常、5つか6つのコースが提供され、そのうち1つか2つは必修科目で、3つ目は普通選択科目だった。科目は毎年大きく変化し、科学史、ダルマ詩学、ヨーガチャラ(瑜伽行唯識学派)とマディヤマカ(中観派)、チベット死者の書、有神論と無神論、アビダルマ(阿毘達磨)、法統と帰依、シャンバラ文化などが含まれていた。さらに、チューギャム・トゥルンパが以前のセミナリーで行った講義の原稿が出版される際には、前年度の教えを復習するための研究会を組織する必要もあった。

 セミナリーでは、禅の伝統から借用した食事中の瞑想的な鍛錬であるオーリョーキ(応量器)、弓道、すなわち日本のアーチェリー、そしてドルジェ・カスンの奉仕マンダラなど、多くの実践が紹介された。チューギャム・トゥルンパの世界を形作るこれらの要素については、のちほど詳しく見ていきたい。ここで重要なのは、セミナリーが道の全体像を示すものであると同時に、チューギャム・トゥルンパが創造した世界を学生たちが体験するための手段でもあったことを理解することだ。

 ドゥジョム・リンポチェとディルゴ・キェンツェ・リンポチェの弟子であるジョン・スタンリーは、1983年にセミナリーに通い、そこでの体験について記事を書いた。これは、チューギャム・トゥルンパの共同体から完全に外れていたものの、ダルマを真に理解していた仏教徒による興味深い記述である。このセミナリーは、以前のセミナリーと同様に300人以上の参加者を集め、このために予約された大きなホテルで開催された。ジョン・スタンリーは次のように記している。

「欧米人でチベット仏教の教えを知る人なら誰でも、ヴァジュラダートゥ・セミナーで修行が重視されていることに驚かされます。ここまで徹底されているセミナリーはほかにありません。一般的のセミナリーでは、修行は個々の修行者に委ねられています。ここでは修行三昧にならざるをえないのです」

 ジョン・スタンリーは、さまざまな活動がいかに緻密に行われていたかを強調している。300人の人々が完璧な規律で修行し、学んでいた。これまで見たことのないこの偉業に非常に感銘を受けた彼は、その成果の理由を理解しようと努めた。そして教えを伝えたのは環境全体だったと指摘した。

「他のすべてが印象に残らなかったとしても、修行の美学は心に刻まれ、消えることがないでしょう」

 彼はチューギャム・トゥルンパが教えを説く際に用いた二つの相補的なアプローチを指摘した。一方では、リンポチェは類まれな深みをもって、言葉と同時に伝授する感覚を帯びた古典的な視点を提示した。

「リンポチェのもう一つの教え方は、人々を魅了し、豊かにし、そして従わせる驚くべき表現でした。それは劇的で、心を掴み、全く予測不可能でした。彼の言葉、行動、表情、身振り、そして存在は、ありのままの雰囲気と輝きを放っていました……。何が伝えられたのかは誰にも説明できません。一つめの教え方が思いもよらぬものであるなら、これは想像を絶するものといえるでしょう」