チューギャム・トゥルンパ伝第6章 

3つのヤーナ(乗)を教える 

 わたしたちにとって、3つのヤーナ(乗)すべてに没頭すること、また純粋にヴァジュラヤーナ(金剛乗)の実践者であること以上に、完全な仏教徒になることは、とても重要なことだと思われます。わたしたちは基本的にいかにして真の仏教徒になるかについて語っているのです。つまりいかにして適切に、そして完全に帰依し、真のヒナヤーニスト[小乗仏教徒、すなわちテーラワーダ仏教徒]になるか、また真のマハヤーニスト(大乗仏教徒)になり、わたしたちに教えを授けてくれたグルや宗派、導師らに感謝と献身を分かち合うことができるのです。

     チューギャム・トゥルンパ 

 

1 三つのヤーナ(乗)の進歩的なアプローチ 

 チューギャム・トゥルンパの教えは、深遠な一貫性によって統一され、突き動かされているように見えた。しかしだからと言って、あらかじめ定められたプランに従っていたとは考えるべきではない。それどころか、彼は弟子たちの反応や理解度に応じて、教えへのアプローチを絶えず変化させた。常に周囲の環境と触れ合うことで、彼は何を教え、どのようにブッダの教えを説くかを決めることができた。

 たとえばスコットランドのサムイェ・リン(サムイェ僧院)で、彼は絶対的見解の中にある進化した教えを示した。[彼はヴァジュラキラーヤ、すなわち孤独と暗闇のバルドの修行と、ニンマ派のゾクチェンを教えた。ヴァジュラキラーヤはヴァジュラサットヴァ(金剛薩埵)の憤怒形のイダム(守護尊)]

 北米では、「チベット死者の書」に関するセミナーを開始した。その中で彼は六道輪廻について講釈した。当時の彼のスタイルはゾクチェンによるアプローチ法を取っていた。そして1973年のセミナリーでは、より段階的かつ体系的なアプローチを採用した。座位瞑想の実践を基盤として、これまで見てきたように、彼はその道を段階的に示した。

 この心の段階的なアプローチによって、彼は古典的な三つのヤーナ(乗)を採択したのである。ヤーナという言葉はしばしば乗り物(vehicle)と英訳される。「あなたを持ち上げ、運ぶ」駕籠を示している。ヤーナとは、あなたを目的地に運ぶ自動車や汽車、飛行機のようなものなのである。仏教用語では、ヤーナは乗り物であるとともに道でもある。実践者は覚醒への道を進むのである。

 チベット人の師の中には、「乗り物」の選択はそれぞれの人の精神的な成熟度によると信じている人々がいる。低い知性の者たちはヒナヤーナ(小乗仏教、テーラワーダ仏教)を用い、優れた可能性を持つ者たちはヴァジュラヤーナ(金剛乗)を選ぶ。

 チューギャム・トゥルンパはそのようなアプローチを好まない。彼はそれに反対することもある。多くの古典的な経典を引用しながら、誰にとってもヒナヤーナから精神的な道を歩み始めること、それがなければエゴ中心の構築にすぎないことを強調した。彼はヒナヤーナを劣った道と決めつけることはけっしてなかった。

 ヒナヤーナをそのように強調するのは、チベット仏教においては異例のことだった。とくに初期の時代に西欧にやってきたチベット人の師たちは、教えを求める人なら誰にでも、たとえ新しい弟子であっても、マントラや儀式の定型句の朗唱を含む実践やヴィジュアライゼーション(視覚化)を頻繁に行った。チューギャム・トゥルンパにとって、そのようなアプローチは間違いだった。

「考えるに、この時点では、ほとんどの西洋人がヴァジュラヤーナの実践に対して、心構えができていませんでした。というのも、彼らは仏教の基本さえ十分に理解していなかったのです。一般的に四諦[苦集滅道の四つの真理]によって説明される苦しみの初歩的概念さえ人々は持っていなかったのです。

 つまりこの時点では、西洋人への仏教の紹介はヒナヤーナ・レベルなのです。人々は座って瞑想し、心の中のあらゆる材料を吐き出す苦痛を理解しなければなりません」

 彼は「振り出しから」始める必要があると確信していた。この基礎がなければ、すべての精神的な働きはマテリアリズム(物質主義)になってしまう。仏教の伝統では、ヒナヤーナの誠実さから始まらなければ、精神的な旅は不可能である。チューギャム・トゥルンパが教えていると、多くの西洋の弟子がゾクチェンに魅了されるようになった。ほかの教えより価値あるものとみなされるようになったのだ。この姿勢は彼を激怒させた。彼はそれが伝統を汚すものであり、すべてを商品の観点から見る現代の象徴であると考えた。

 3つのヤーナを完全に学ぶことは、旅に出る前の地図を調べることに似ている。それによって私たちがどこに向かっているのかを知ることが可能になり、出発後は好奇心と知性を研ぎ澄ませることになる。どの道も他の道よりも価値があるわけではない。すべては目的を達成するために異なる手段を採用しているにすぎない。

 この道を説明するために、彼はしばしば、ヒナヤーナ(小乗)は家の基礎を築くことに、マハーヤーナ(大乗)は家そのものを建てることにたとえるという古典的なイメージを用いた。そしてタントラはその上に黄金の屋根を置くのである。

 それゆえ基礎の代わりに屋根から始めるのはばかげている。チューギャム・トゥルンパは各ステップがどのようにして自然につぎのステップにつながるかを示した。後続の各段階はさらに先へ進むが、その中には前の段階が保持されている。したがってこの道は、学校のように学年を進むことを意味するものではなく、また、車でイタリアを訪れ、飛行機でケニアのジャングルを見に行くと決めるのと同じように、マハーヤーナ(大乗仏教)とヴァジュラヤーナ(金剛乗仏教)のどちらに従うかを決める問題でもない。道は実践者の体験によってその姿を現すのだ。そしてチューギャム・トゥルンパが内部論理を示した方法はすばらしいものである。

 リンポチェによると、つぎからつぎへとヤーナを学ぶのは重要なことだが、つぎのヤーナを学ぶために一つのヤーナの学習を終える必要はない。与えられたヤーナの体験に慣れ親しむことはさらに進む前には必要不可欠なのである。しかし生徒たちは続ける前にすべてを理解することは期待されていない。

 最後に、すべての実践に3つのヤーナは同時に存在する。それゆえヒナヤーナを越えることは重要ではないのだ。この点を厳格にするため、チューギャム・トゥルンパは1986年の最後のセミナリーのとき、真夜中に生徒たちを起こした。彼らが集まると、彼は言った。

「ヒナヤーナの教えは、ただ単に実践し、それからやめたり捨て去ったりするものではありません。ヒナヤーナの教えはわたしたちの実践や修行を実行する生命力なのです。それはずっと続くものなのです。この観点から、ヒナヤーナは生命の強さとみなされるべきなのです。いいですか。つまりはこういうことです。ヒナヤーナを忘れてはならない、ということなのです」

 この章ではチューギャム・トゥルンパが示したように三つのヤーナの全体を説明しようとは思わない。いくつかの重要なポイントを強調し、いくつかの指摘を提供したいだけである。彼の講話集は豊富で膨大なので、ほかのポイントを選ぶのだって難しくはない。ともかく、リンポチェのヤーナに関する教えを限定すべきではないだろう。どんなテーマであろうとも、彼の教えには深い一貫性があるのだ。いずれにせよ、リンポチェのヤーナの教えを、それに関して行った講話だけに限定するのは不合理だ。どのような主題を教えるにせよ、彼は常に道の深遠なる一貫性を念頭に置いていた。