2 ヒナヤーナ;狭い道
厳密に訳すと、ヒナヤーナは「小さな、あるいは少ない乗り物」を意味する。しかしより正確に訳すと、「狭い道」である。
「小乗が小さい、あるいは狭いというのは、瞑想の厳格な規律が心の速さと混乱を狭め、あるいは鎮め、心を本来の場所に休ませるという意味です」(『ゴールなき旅』)
私たちは極めて単純かつ孤独なやり方で自分自身の心と取り組むことによって、自らの存在を本質にまで還元するのだ。
ヒナヤーナ(小乗仏教)の要点は、自分がなりたい自分として生きること。
「この可能性は、自分の混乱や苦しみ、痛みを見つめることと繋がっています。それらを答えに変えるのではなく、答えを探すことなく、さらに深く探求していくのです。」(「狂気の智慧」)
言い換えるなら、ヒナヤーナ(小乗仏教)は苦しみを経験し、肉体や自分のアイデンティティへの執着を通じて自分自身で苦しみを作り出す方法を理解することを意味する。生、老、死による肉体的な苦しみに加えて、心理学的な苦しみもある。それは喜びと苦痛の終わりのないサイクルから派生するものである。より微妙なレベルでは、希望と恐怖が絶え間なく現れ、不安が深く積もっていく。そして私たちは、物事を思い通りにしようとして、終わりのない闘いに巻き込まれてしまうのだ。
この点からヒナヤーナは,チューギャム・トゥルンパの美しい定義によれば、「険しい道」と呼ぶことができる。確かにそれを通して私たちは苦しみに直面し、私たちを救ってくれる人や、魔法で覚醒へと導いてくれる人を見つけることができない無力さに直面しなければない。
仏教の道は「無神論的」であると、チューギャム・トゥルンパはしばしば強調した。これは、誰も私たちに代わってその道を歩むことはできないということを意味している。自我の根本構造を解体し、自らの操作に囚われないことを学ぶのは、私たち自身にかかっている。操作は、私たちに安らぎを与えてくれるように見せかけながら、実際には自分自身と他者にさらなる苦しみをもたらすだけである。
これが実現するかどうかは、ブッダによって定められた僧侶と尼僧が厳密に従わなければならない規律[サンスクリットでシーラ(shila)、チベット語でツルティム(tsultrim)]を忠実に守れるかにかかっている。この規律からヴィナヤ(vinaya 律)が作られた。字義通りには、手なずけるという意味である。そして実際のところはこうだ。
「適切なツルティム(規律)のふるまいをすることで、われわれの身口意はなだめられ、神経症の熱を鎮め、さますのです」
[ヴィナヤ(विनय) 、あるいはドゥルワ(འདུལ་བ)は僧侶(bhikṣus)や尼僧(bhikṣuṇīs)が従うべき成文化された規則であり、寺院の戒律のこと。一方シーラ(शील) あるいはツルティム(ཚུལ་ཁྲིམས)は一般的な倫理や道徳的なふるまいの規則のこと。僧俗いずれにも適用される]