3 マハーヤーナ:開かれた道 

 ヒナヤーナの狭い道と比べて、マハーヤーナ、あるいは「大いなる乗り物」は「広く開かれたハイウェイ」のようである。開かれたといってもかなり広いのである。実践者はもはや自分たちのために悟りを得ることを目標とさえしない。彼らは他者の解放のために身を捧げる。このようにマハーヤーナは、シンプルなヒナヤーナの理想的な個人の解放を超越し、すべての人の解放を目的とするのである。

 マハーヤーナ(大乗仏教)における主要な修行は、他者を自分よりも優先し、他者が自分よりも大切であることを発見することである。しかしそのような態度は「自己否定や殉教に基づくものではなく、むしろ真の温かさと慈悲の心を育むことから生まれる」ものだ。道徳的規範に従うかどうかの問題ではない。

 慈悲とは、他人を哀れむことでも、苦しみを分かち合うことでもない。それは「根源的な温かさを含む明晰さ」のこと。それはあらゆる生き物に向かって自然に輝く知的なやさしさの感情だ。太陽が何の努力もせず、何の差別もなく自然に輝くように、私たちもその表現を妨げるベールや障壁を取り除くことができれば――まさにそれが大乗の道である――心の慈悲は、すべての人の利益のために流れ出る。

 これを伝えるために、チューギャム・トゥルクパはGI・グルジェフから「愚かな慈悲」という対照的な概念を借用した。これは「自分の欲望を密かに満たそうとする下劣な方法」を意味している。つまり誰かを気分良くさせるが、それは彼らの幻想を増幅させ、彼らを弱める方法である。

 実際真の慈悲は、状況をありのままに見ることであり、それに従って行動することである。子どもが電気コンセントに指を入れないようにするために怒りを表現したり、治療のために注射を打ったりするのと同じように、誰かを助けるためには傷つけることが必要になるかもしれない。

 このようなビジョンの力は、他者を自分よりも優先しようとする努力が、私たちの通常の生き方とは正反対であり、自己中心的な執着からの抜本的な転換であるという事実の中にある。思いやりを育むということは、私たちの視野を狭める障害、つまり恐怖、利己的な関心、(罪悪感の)投射、期待などを解消して心を開くことを意味する。これらはたんに私たちの妄想を維持し、自分たちが存在すると常に安心させるための手段にすぎない。

 チューギャム・トゥルンパは説明する。

「私たちが言いたいのは、いったいいつになったら本当に心を開くのか、ということです。私たちの心の動きは、まるで内に食い込む爪のように内向的で、重なり合っています。これをやったら、ああなる、あれをやったら、こうなる、と」

 純粋な慈悲はもとから私たちの中にあるものではない。私たちはどうしたらそれを育てることができるか、学ばなければならない。

「マハーヤニスト(大乗仏教徒)になるにおいて障害となるのは、他者、あるいは本人に対して十分シンパシーを持っていないことです。それが基本点なのです。そして問題点は実際的な修行によって取り扱うことができます。それはロジョン修行(lojong  བློ་སྦྱོང 修心)として、あるいは心の修行として知れています」

 チューギャム・トゥルンパがとくに重要とみなしたロジョン修行の一つは、トンレン(tonglen གཏོང་ལེན་)すなわち「送ることと受け取ること」の修行である。1979年のセミナリーで彼はそれを導入していた。

 トンレンの修行には3つのステップがある。まず心を少しの間、開放的な状態におく。これは深い静けさと偉大な明晰さが一瞬閃くようなものだ。これは突然の空虚体験に相当する。まさに「絶対的な慈悲」に他ならない。真の慈悲は、自我が存在しないという悟りと、空、シューニャター(空性)の認識からのみ生まれるため、このステップは特に重要だ。

 現実の本質を理解することは、慈悲につながる。

「無に気づき始めると、より慈悲深く、より寛大になる余裕が生まれます。問題は、私たちは通常、自分の領域に固執し、特定の領域に固執しようとすることです。一度特定の領域に固執し始めると、与える術がなくなります。空を理解することは、得るべき領域がないこと、つまり、私たちは究極的には自由で、非攻撃的で、開かれた存在であることに気づき始めることを意味します」

 第二に、「質感」に取り組む。ジュディス・L・リーフは説明する。

 

 息を吸い込むと、熱さ、暗さ、重さ、閉所恐怖症のような感覚が生まれ、息を吐くと、涼しさ、明るさ、軽さ、つまり爽快感が得られる。これらの性質が毛穴を通して出入りするのを感じる。トンレンの全体的な感覚や調子を確立したら、精神的な内容に取り組み始めることになる。

 あなたの経験の中で何が起ころうとも、あなたはただ望ましくないものを吸い込み、望ましいものを吐き出すだけだ。まずは目の前の経験から始め、それを周りの人々や、あなたと同じように苦しんでいる他の生きとし生けるものへと広げていく。例えば、自分が不十分だと感じているなら、まずそれを吸い込み、自分が有能である感覚や十分であるという感覚を吐き出すことから始める。

 そして、実践を拡張し、個人的な関心事を超えて、身近な環境や世界全体における、そうした感情の切ない思いに繋がる。この実践の本質は、心を開くこと、つまり心から受け入れ、心から手放すことだ。トンレンでは、何も拒絶しない。湧き上がるものはすべて、この実践のさらなる原動力となる。

 チベットでは、修行者はさまざまな論理的議論を通して、自らの中に慈悲の心を育み、自分が世界の中心であるという考えをやめる必要性が説かれる。私たちはみな、無数の生を経験してきたというカルマの原理に基づき、すべての生き物はかつて私たちの母であったという事実、そしてだからこそ私たちは彼らを愛すべきであるという事実が強調される。このような考え方は、大乗仏教のあらゆる教えに不可欠な要素である。また、過去の偉大な師たちは、激しい苦しみを乗り越え、他者のために自らの腿、あるいは頭さえも切り落とす覚悟で臨んだとされている。私たちも彼らの模範に倣わなければならない。

 西洋が特殊な運命のもとにあるため、チューギャム・トゥルンパは大乗仏教の異なる側面を強調した。論理的な議論を用いる代わりに、彼は慈悲を、自我という虚構を維持しようとする闘いが終わったときに生じる経験として強調した。それは、他者に対して自然に広がり、放射される受容と信頼の感情だ。

「大乗仏教の伝統において、私たちは自分自身にやさしさが向けられ、他者に対する友情が芽生え始めるのを経験します」

 彼が教える際、この経験を体感させ、それは知的な理想ではなく、より具体的なものとなった。彼の言葉と彼の姿の間には、何の違いもなかった。

 慈悲の本質を強調するこのようなアプローチによって、西洋の学生を悩ませていると思われる主な障害が回避される。彼らにとって問題はモチベーションの欠如ではないのだ。彼らは大乗仏教の利他的な視点の重要性を容易に認識できる。しかし、この視点を実践することは不可能に思える。彼らはしばしば、何も感じない、心が閉ざされている、と嘆き、心を開こうとすると、ますます苛立ちを覚えるのだ。

 チューギャム・トゥルンパは、生徒たちにまず自分自身の心、つまり自分が置かれている状況、そして自分自身の混乱とつながることから始めるよう強く求めた。そうすることで彼らはその優しさを他者に広げることができるのだ。彼が「自分自身へのやさしさ」あるいは「基本的な友情」と呼んだ「マイトリ」は、伝統的に「愛」と訳される。

 チューギャム・トゥルンパはこの言葉を翻訳し、まず自分自身の心に触れなければ、愛や慈悲を育むことは不可能であると示した。自分自身を顧みずに他者を助けるという態度は、大きな憤りを生み出し、真の慈悲とは程遠いものだ。私たちはまず自分自身に対して真のやさしさを育んで初めて、愛することができるのだ。

 このような態度をとることで、私たちはチューギャム・トゥルンパが深く「痛いところ」と呼んだものを育んでしまうのだ。否定的な感情、恨み、怒り、苛立ちは、私たちが心の弱さを隠そうとするからこそ生まれるのだ。

「私たちがどんなに狂っていても、鈍くても、攻撃的でも、自尊心にとらわれていても、どんな人間であろうと、私たちの中には痛いところが残ります。より鮮明な例えと言えるかもしれない、開いた傷口は常にそこにあります」

 その開いた傷は、いつも非常に不便で問題を引き起こす。私たちはそれを嫌うのだ。私たちは強くありたいと願っている。戦いながら、強くなりたいのだ。そうすれば自分自身のいかなる側面も守る必要がなくなるだろう。チューギャム・トゥルンパはこのように、肯定的な行為を強調した。私たちが自分自身を守ることをやめるのは、私たちが傷つき、深く傷ついているからである。大乗の修行とは、その脆さを信頼することである。それは障害どころか、私たちの人間性の証なのです。