6 ゾクチェンの教師:すべてを究極の視点から見る
ゾクチェン(Dzogchen Skt; maha ati)とは道の究極点であり、完全なる原初の状態のことである。チューギャム・トゥルンパの弟子の中には、彼がゾクチェンの教えを深く説いてくれなかった、あるいはアメリカに来る前にイギリスにいた時期を除いては、実際にはゾクチェンを説いてくれなかったと感じた人もいた。しかしこれほど真実からかけ離れた馬鹿げた話はない。真のゾクチェンとは何か、そしてチューギャム・トゥルンパの活動の本質とは何かについて、深い誤解があることを露呈したのである。
彼が説いた教えはすべて「とてつもなく大きな空間について語っている。境界に対する空間ではなく、完全な広がりについて語っている」ことを考えると、彼自身が言ったように、彼はむしろゾクチェンだけを教えたと言っても過言ではない。そしてそれはこの道にかなっているのである。これは彼の教えのもっとも特別な側面の一つである。もっとも、それがまさにゾクチェンの視点の本質であるので、彼は間違いなくこれをもっとも純粋に普通のことと呼ぶよう望んだのだろう。
マハーアティは、山の頂上に立ち、広がるパノラマの景色を眺めながら魅了されるようなものと彼は説明する。この視点を用いながら、チューギャム・トゥルンパは道全体を明らかにした。
ヒナヤーナ(小乗仏教)において、彼はシャマタ・ヴィパシャナー(サマタ・ヴィパッサナー)の修行を、空間と自己を同一視する方法を学ぶものとして提示した。呼吸に従い、完全に息を吐き出すと、私たちは消滅する。束の間、パニックが訪れるが、その後、私たちは信念の世界を再構築する。
チューギャム・トゥルンパは弟子たちに、彼の小さな裂け目――私たちの存在の見かけ上の連続性に裂け目――の中で溶けていくように促した。このように信仰を捨て去る修行者は、他者に害を及ぼすこともやめる。
マハーヤーナ(大乗仏教)において、チューギャム・トゥルンパはアティーシャの戒律に加え、トンレンの実践を説いた。トンレンは、無条件の慈悲の閃きから始まり、吸う息と吐く息が絶え間なく交互に繰り返されることで、私たちのあらゆる基準点が消滅していくことである。アティーシャの戒律は、まるで水から出た魚のように彼の心から現れ、突然、心を開かせる。
ヴァジュラヤーナは、無限のゾクチェンの空間が無条件に開かれるという魔術とつながる手段を与えてくれる。それは、あらゆる経験の鮮明さの中に存在する空間を体験する方法である。混沌なしには平和も体験できない。そのような平和は二元論的な概念に留まってしまうだろう。
チューギャム・トゥルンパは、すべての修行は最終的にあらゆる限界を消し、すべての解放体験の中心にある計り知れない空間を見ることができるようにすることであると、つねに強調した。
チューギャム・トゥルンパはゾクチェンの究極の観点を説いたという点で異例の人物だった。それと同時に、ヒナヤーナから道を始めることの重要性を頻繁に強調してきた。しかしこれは矛盾ではなかろうか。
いや、矛盾ではない。チューギャム・トゥルンパは、もちろん、弟子たちに最初の最初から始めさせた。しかし彼が示した瞑想の実践は、ヒナヤーナに属する厳しい道の修行と誠実さに相当した。それらは不滅のヴァジュラヤーナの本質のなかでも確固たるものなのである。
このテーマに関し、ロポン(སློབ་དཔོན་ 学識のある僧)はチューギャム・トゥルンパのアイルランドにおけるダオ・ショヌへの旅の間にヨーロピアン・リトリート・センターで起きたことを思い出す。
ある日、TM(超越的瞑想)の25人の教師たちがチューギャム・トゥルンパと会うためにやってきた。彼は教師たちと話をすることに同意したのである。彼は出発点の重要性を説いた。すなわちヒナヤーナの展望を示した。
しかしロポンは回想する。
「もしそれが彼の講義の論理的な内容だとしたら、彼が醸し出す雰囲気は全く異なり、まるで巨大な崖の前にいるかのような印象を与えました。私たちの心は無限の空間に押し込まれたかのようでした。彼の教えは、ゾクチェンの伝達のような性質を持っていたのです。心を捉え、基準点を与えてから、広大な世界へと解き放つのです。彼の言うことと、実際に行うことはまったく異なっていました」
彼が行ったことや教えたことはすべて、偉大な[成就者]サラハの言葉「汚れなき意識の本質を汚すな!」を反映していた。
ゾクチェンとは、すべてのものが展開される雰囲気のことだ。
「仏教には多くの宗派があり、主にヒナヤーナ、マハーヤーナ、ヴァジュラヤーナの伝統に分かれています。そしてそれらすべての間で言い争いが起こっているのです。彼らはみな全体性の言語を語り、それぞれが答えを持っていると主張します。
ヒナヤーナ(小乗仏教)の信者は、現実を知っているからこそ答えを持っていると言うかもしれません。マハーヤーナ(大乗仏教)の信者は、菩薩こそがこの世で見つけられる最高の人物だと言うかもしれません。タントラの修行者は、最も素晴らしい人物とは、あらゆるシッディや魔力を獲得し、征服不可能な力と狂気に満ちたヨギだと言うかもしれません。
彼らが何を信じたいかは自由です。それで構いません。しかし、教えを体験したいと願う私たち弟子にとって、これらのことは一体何を意味するのでしょうか? マハーアティの修行者は、皮膚や肉、あるいは骨さえも見ず、完全に無垢な世界を見るのです。
低いヤーナでは、たくさんの慣用句や用語が生まれました。それらによってわれわれは気分がよくなります。なぜなら慈悲や空、智慧など、語るべき言葉が含まれているからです。しかし実際には、それらは人生のありのままの現実を避けるための手段になっているのです。もちろんマハーアティには温かさ、開放性、洞察力などが存在します。しかしもし私たちがダルマを細分化し、牛肉の片身をサーロインステーキ、ハンバーグ、チャック肉(肩ロース)に切り分けるように、特定の部位を他の部位よりも高価なものに設定するなら、ダルマは売り物にされていることになります。
実際、ヴィマラミトラによれば、マハーアティが必要なのは、下位の8ヤーナを通してダルマが特にジューシーな一口サイズの食べ物として売り出されてきたからです。マハーアティの段階は、ダルマが小分けされ、売り出されてしまうのを防ぐために必要です。ここで精神的な物質主義を切り抜けることは、これまでとは異なる様相を呈し、あらゆる教えの中でもっとも深遠なものの一つとなります」