5 苦難の旅のすえ、カシミールに至る
アレクサンドル・チョーマ・ド・ケレシュと彼の旅に関して、何が本当に驚きかといえば、1825年にインドで英国官吏に活動と動向について書くよう促されなかったら、ハンガリーを出発してから6年、何千マイルもの過酷な旅をしたこと、またヒマラヤにおける辛く厳しい滞在について自らの手で記録を残すことはなかったであろうということである。
日記やカメラ、出版契約を携えて出発する現在の旅行者とちがい、彼は旅行文学を書いて名声を得ようという考えはなかった。彼が条例のような簡潔な文体で書いた、たくさんの章からなる8ページの報告文は、あたかも苦しみ抜いたすえ、なんとか絞り出したような文章だった。
チョーマは、地中海を渡って中東へ行った迂回ルートは、英国の船がフランス海軍によってブロックされたために取ったということを隠していた。数か所の港以外はすべてフランス海軍によって閉じてられていたのだ。
疫病が波及し、汚染されていたアレクサンドリア港で、彼はオーストリア人のヨセフ・シェイファーと出会っている。シェイファーは彼に食事と寝る場所を与え、経験は浅いが善意のオーストリア人副領事を紹介してくれた。彼はチョーマが持っていた無効の通行手形に、ビザの裏書きしてくれたのである。チョーマにとって幸運なことに、文書はハンガリー語で書かれていたので、副領事は読むことができなかった。彼はオーストリア帝国の官僚的な網から滑り出て、ついに自由の身となった。
しかしチョーマは東方へ向かうに際し、できるだけ人目を引かないように気をつけた。アレッポでは、彼はヨーロッパから着てきた服を脱ぎ、彼が「素朴なアジア的な衣装」と呼ぶ衣に着替えた。そして名をスカンデル・ベグと、アラブ式に変えた。スカンデルはアレクサンダーのアラブ名であり、ベグは尊称である。彼のヨーロッパ人としてのアイデンティティはもはや障害物にしかならなかったので、捨て去ることにした。それゆえ旅をするのに都合のいい新しいアイデンティティを作らねばならなかった。
ペルシアやアフガニスタンを旅するとき、彼はアメリカ人になった。期間を延長した第一回目のヒマラヤ滞在のあと、英国のヒマチャルプラデーシュのヒル・ステーションのゲートにあらわれたとき、インド服を異なる着方でまとったその外観があまりにも特異だったので、担当係官は彼がロシアのスパイではないかと疑った。そのため高官から指令を受け取るまで、チョマは軟禁されることになった。
チョーマはアレッポに6週間ほど滞在した。そしてイラクへ向かう隊商に加わった。隊商(キャラバン)というのは、砂漠や敵対する地域を安全に通過するために人々がグループを作るものである。隊商に加わる個人は一般的に彼自身と荷物を運ぶために、ラクダを1頭か2頭買うことになる。そして旅の終わりにこのラクダを売るのである。
しかしチョーマが記すには、彼は他の者たちがラクダに乗っているときも、ひとりずっと歩いていたのだという。変装して、灼熱地獄のなかを歩き、お金はほとんど持たず、南京虫だらけの隊商宿に寝て(人は想像することしかできないが)、人間の食い物とは思えないものを食べるのだ。この旅は試練だと彼は思った。寄宿舎で肉体的に耐える訓練をしたのは、このときのためだった。彼は隊商とともにモスルまで旅をつづけ、それからティグリス川をボートで下ってバグダッドに着いた。距離は200マイルほど離れているが、そのことについてはひとことも記されていない。
バグダッドでは、彼はハンガリー人商人と過ごした。彼は自分のことを東インド会社の常駐員だと紹介した。これがきっかけとなり、残りの人生において、チョーマは英国の役人の保護を受けることになる。英国はアジアにおけるヨーロッパ勢力の代表格だった。チョーマは東インド会社のクラウディウス・リッチ本人と接触したいと思った。彼は実質的に英国の大使だった。
彼はチョマを金銭的に援助し、紹介の手紙を書くことができる立場にあるだけでなく、自身輝かしい学者であり、言語学者でもあった。彼は1811年、24歳のときにはじめてバビロンの考古学的調査をおこなった。(彼が収集したメソポタミアの考古学的文物は、現在大英博物館に保管されている)
チョーマはリッチに「わが到着と調査計画について知らせ、彼の保護を願った」という内容の手紙をラテン語で書いた。しかしリッチは不在で、クルディスタンで調査をおこなっていた。しかし彼の秘書がチョーマに旅をつづけるのに必要な金銭とアジアで着る新しい衣服を贈ったので、チョーマはリッチを待つ必要がなくなった。
バグダッドで彼が受け取った資金は、交通手段をよりよいものにするには十分だった。彼はヨーロッパ式のいでたちでキャラバンに加わり、馬に乗って荒涼とした、雪を被ったザグロス山脈を越えてペルシアに入ったと記している。彼は1820年11月14日にテヘランに到着した。
チョーマはテヘランに長く滞在した。この地の彼のパトロン、英国代表部のヘンリーとジョージ・ウィロックは、彼のために大使館の宿舎を用意した。チョーマはここで好きなだけ研究に時間を費やし、今後の旅の計画を練ることができた。
「この人たちの親切のおかげで」とチョーマは記す。「私はペルシアの都に4か月滞在することができました。その間にペルシア語の文法がわかるようになり、英語も少し上達し、私の目的にあったいくつかの論文を精読し、パルティア朝の古代のコインを吟味することができました」
このあと、彼の旅はもっともリスクの高い段階に入った。テヘランからつぎの英国領事館の所在地まで1000マイルも離れていた。つまりインドである。ペルシアとインドの間に横たわるとてつもない距離は、いままで彼が出会ったたことがない危険をはらんでいた。ペルシアは政治的にいつも不安定で、ロシアと英国という帝国主義国家のライバル関係のはざまで、弱者として犠牲を強いられていた。そして勢力の空白地帯では強盗団が各道路を支配していた。
テヘランを出発する前、あたかも強盗団の手にかかって命を奪われるのを予期するかのように、持ち物を置いていった。彼は用心のためにウィロック夫妻のもとに手持ちの本や論文を預けた。
「ゲッティンゲン大学からの推薦状、トランシルバニアのパスポート、スクラヴォニックにおける言語習得の進歩の証明書などを置く」と彼は記している。彼はヨーロッパ人としての痕跡を示すものすべてを置いていったのである。
彼はまた2通の手紙をウィロック夫妻に託した。両方ともナジェニェドの学寮に宛てたもので、2通目の手紙は「もし私がブハラへ行く途中で死んだり行方不明になったりした場合」の指示が書かれていた。
最初の手紙は、アジアへ行く使命を熱狂的に正当化するものだった。そしてそれをまっとうするためには、資金が必要だと訴えている。
「特別な目的のために、外国の言語を勉強すること、時間と場所、状況に相応した国々の歴史を研究するのは、このうえなく楽しい仕事です。そうしたことはとくに身を入れて実践してきました。だれにも説明できなかった長い間の秘密を解き明かしたとき、私はこの仕事に大いなる喜びを見出すでしょう」と彼は書いている。
「この知識は私にとって、とても近しいものです。神はこの短い期間、私を生かして、支援者や母国の言語および文学を共有する友人たちが長い間待ち望んでいたもの、すなわちわれらの国の人間の故郷がどこにあるのか、探させ、証明させようとしているのではないか。そういう絶対的な確信を持つにいたったのです。
わが歩みに神のご加護がありますように。私はすでにいくつもの山脈を越え、いくつもの大河や海を渡り、無骨な国々をわずかな健康上の変化もなく、通過してきました。とくに危険にみまわれることなくやってきました。ペルシアのテヘランに2か月以上滞在しております。そして大きな災難にあわないかぎり、普通に言われているのと違うルートをたどっていますが、わが確信がまちがった仮定の上に成り立っているわけではないことを証明することができるという希望を持っています」
この手紙はつぎの文章で終わる。「こうしたことを考えるに、恐れ多いことではありますが、立派な紳士がたにおかれましては、わが目的を達成するために必要な援助をお願いしたいのです。私は国を出発したときとおなじ勤勉さをもって、ふたたび旅をつづけることを約束します。お金を受け取ったあと、一年以内に私は故郷に戻るでしょう。そして故郷をすばらしいと思っているすべての人々が、私から喜ばしい詳しい知らせを聞くことができるでしょう」
この手紙に動かされたナジェニェド学寮は、相当の支援金をチョーマのために用意するという決定を下した。しかし彼があまりにも遠いところにいたため、結局は彼が切望していたにもかかわらず、手元に届くことはなかった。
第二の手紙は後世の人々に訴える力を持っている。これは墓所の向こうから仲間の同国人への別れの言葉であり、世界への弁明書だった。この手紙のなかで、路上で死んだとき、そのまま世間から忘れられることを恐れ、彼は一部の学者にとってのみなじみがある秘密を明かす。それはこの旅行の正確な目的と彼が原ハンガリー人を探そうとしているアジアの場所についてである。こうしてチョマが不完全なまま残したものをふたたび組み立て、目的をはたすことができるだろう。
「われらの先祖の古代の故郷は」と彼は高らかに述べる。「大ブハリアと小ブハリアです」
すなわち二つの地理的に巨大なエリアのことである。ひとつは旧ソ連のウズベクスタンに、もうひとつはチベット高原の北にある現在は中国新疆のタリム盆地のヤルカンドのことである。
こう考える彼の根拠は、ひどく曖昧で、夢想的で、非現実的である。
「これまで見てきたことから、われわれの先祖がキリストの数世紀前にこの地域を占めていたのはまちがいありません。彼らはそのあと、現代のペルシア、アラビア、アビシニアなどに移住したのです。さまざまな時代に、彼らは王朝を形成し、アジアで革命をいくつも起こし、シリア、アッシリア、グルジア、ロシアなどを通り、ヨーロッパへと至ったのです。上述の国々では数々の記念碑が発見されるでしょう。そして人々の習慣、生き方、彼らの伝統も見いだされるでしょう。そして調査する者に、年代記はどんな王朝を先祖たちは建てたのか、いつ、どんな名前で、なぜ彼らがヨーロッパに移住してきたかについて語ってくれるでしょう」
(何年ものち、ヘンリー・ウィロックはチョーマの消息を聞かなかったので、彼はすでに死亡したものと推定し、この手紙を送った)
1821年3月1日、ウィロック兄弟からもらった40金貨とヘンリー・ウィロックから送られたジョンソン博士の豆辞典を携えて、テヘランを出発した。「私はアルメニア人としてそこから旅をしました」とチョマは記している。(この地域ではよく見かけられる外国人のキリスト教徒に扮することで、スムーズに旅行できると考えた)
彼は隊商に加わって旅をし、イラン北東部のマシャドにたどりついた。しかしそこから先に進めなくなった。「近隣諸国の間で戦争のような状態になっているため」と彼は記す。彼はここに6か月も足止めを食らうことになる。
この時点でチョーマは姿を消したかのように思われる。ナジェニェドからのお金がテヘランの英国領事館に届いていた。2878フォリントという巨額な資金である。このお金をチョーマに渡すために、ヘンリー・ウィロックはその地域にいる英国人探検家とコンタクトを取り、チョーマの居場所を見つけようとした。しかし何ら有効な情報が得られなかったので、彼はお金をトランシルバニアに返却せざるをえなかったのである。
チョーマは黒死病に斃れたのではないかという噂が流れた。一文無しか、あるいはそれに近かったアルメニア人スカンデル・ベグことチョーマは、人でごったがえすマシャドの背景に溶け込んだかのようだった。この町は、カリフ・ハルン・アル・ラシド廟とシーア派の第8代イマム、アリ・アル・リダ廟の参拝者でいつもいっぱいだった。この時期のことはまったくの謎である。彼がそのことについて触れることはなかった。ヨルバ人の考える地獄に「一文無しの終わりのない旅」というのがあるが、まさにそのような状態だったのかもしれない。
このあとチョーマはなんとか隊商に加わり、ブハラ地区の都であるブハラをめざした。ブハラは、ナジェニェドに宛てた2通の手紙のなかで、ハンガリー人の揺籃の地とされた場所である。ブハラはマシャドから350マイル離れていて、カラクム砂漠のオアシス群を通ってようやくたどりつく。この旅の速度を計算すると、1日12マイル(18キロ)にすぎなかった。オクサスを通過し、ブハラに着いたのは1821年11月18日だった。チョーマはここに数か月滞在するつもりだった。驚くべきことに、彼は5日滞在しただけで、ブハラを去ることにした。
「恐くなったのです」と彼は記す。「ロシアの大軍が近づいてきているという大げさな報告が頻繁に入ってくるのです」
ロシアがブハラを侵攻するかもしれないという恐怖は、チョーマを第二の目的地、チベットの北方に位置するタリム盆地へと向かわせることになった。彼はまた東方のアフガニスタンへ行く隊商に加わった。そのルートは古代ホラーサーンの都の巨大円形遺跡のなかにある村、バルフを通り、山脈のつづら折りの道をたどってバーミヤン峠へといたるというものだった。バーミヤンは中国仏教の最遠到達地であり、その遺跡の巨大磨崖仏は目印になっている。7週間後に彼は記している。「1822年1月6日、カブールに到着した」
チョマはアフガニスタンの首都に2週間滞在した。それから本物のアルメニア人数人とともに、カイバル峠を越えてインドへ入ろうという隊商に参加した。峠の入り口近くの村で、彼はふたりのフランス人の軍人、ジャン=フランソワ・アラールとジャン=バティスト・ヴェントゥラと出会った。彼らはたくさんの召使いや馬を連れてラホールへと向かっていた。ラホールは、パンジャブの獅子と呼ばれたマハラジャ・ランジット・シンに率いられたシーク帝国の都だった。
ランジット・シンは北インドの旧ムガル帝国の領土の大半を併合しようとしていた。そして自分の軍隊を近代化するためにヨーロッパ人の傭兵を雇うことによって征服を進めようとしていることで知られていた。ワーテルローでナポレオン軍に敗北を喫したあと、東方に幸運を求めていたアラールとヴェントゥラは、ランジット・シンに自分たちを売りこもうとしていた。このときチョーマもアラールとヴェントゥラのことを聞き、彼自身彼らに取り入って一行に加えてもらおうとした。彼らの保護があれば、アフガニスタンとインドの中間にある33マイルの自然の国境、カイバル峠を安全に超えることができるだろう。
チョーマはアラールとヴェントゥラと3か月間いっしょに旅をした。そして4月にラホールで袂を分かった。それからすぐに彼らはランジット・シンと面会し、信任状を渡した。ラホールには12日間滞在し、チョーマは北方へ向かった。「アムリトサルへ行き(シーク教徒の宗教的な都)、ジャムーを通って、4月17日にカシミールに到着した。そしてシーズンを待ち、旅仲間となるべき人を探して、5月9日までここに滞在した」とチョーマは書いている。つづけてつぎのように記す。「6月9日、ラダックの都レーに到着」。
彼の旅に困難が伴ったとは書かれていない。彼は4人のカシミール人商人とともに徒歩で旅をした。道中、彼はカシミール人とペルシア語で話をしたようである。荒涼とした、岩だらけの、危険な山脈に囲まれた斜面を登り、彼はヒマラヤの領域に入っていった。4週間のあいだに彼はスリナガルからレーまでの100マイルを走破し、海抜3500メートルの地点まで上ることができた。しかし、その高さによって旅行者は高山病にかかり、頭痛と呼吸困難に苦しんだことだろう。
スリナガルの20マイル東で彼はゾジ・ラ峠を越えた。そこはインドの文化的国境であり、そこから先はラダックというチベット仏教の国の領域なのである。雪と岩に囲まれ、薄い大気の中に作られた高みの鷲の巣のように、地上でもっとも高いところに作られた、孤高として、美しい国である。チョーマ以前にこの国に来たヨーロッパ人は、数えるほどしかいなかった。いま、ここで、彼の本当のライフワークがはじまろうとしていた。
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