11 チベット研究が完成し、最後の旅路に就く

 ジャックモンの訪問から数か月後、チョマはケネディ大尉に手紙を書き、チベット語の印刷された経典と写本を入れた箱と8年間の成果を持ってカルカッタへ向かう旨を知らせた。

 チョマがどうやって、山のような経典を持って、カルカッタまでの1100マイルの旅を遂行したかは、記録がないのでわからない。ただケネディが500ルピーほど旅費として彼に送ったので、これまでの旅と比べるとずっと楽に旅することができただろう。

 彼は1831年4月にカルカッタに着いた。カルカッタでは、ベンガルのアジア協会の図書館司書に任命された。そしてカルカッタの下町にある大きな建物のなかの協会の本部の一室が与えられた。

 もし彼がやっと認められ、心慰められると思ったら、それは大きな間違いだった。彼の敵手であるアジア協会の書記、ホレース・ウィルソンは、チョマに給料を払っても無益だと主張し、もし払うなら、雇用の条件として彼自身のプロジェクトではなく、ネパール・カトマンドゥ在住の英国人大臣(レジデント)B・H・ホジソンが協会に送った数百のチベット語経典のカタログを作るべきだと言い張った。

 チョマはこの提案を受け入れたが、協会が彼に払おうとした俸給は拒否した。むしろカヌムの3年間にためたすこしばかりの貯蓄で、つつましい生活を送るほうを選んだのである。

 チョマがカルカッタでチベット語の文法書と辞書を完成し、それらを出版したのは、1834年12月のことだった。それらは2巻本として印刷された。チベット語のフォントは特別に作られた。辞書の表紙にはつぎのような言葉が記された。

「チベット語、英語の辞書の試み。協力、準備、ザンスカルの学識あるラマ、バンデ・サンギェ・プンツォグ。編纂、トランシルバニアのシチリア・ハンガリー人、アレクサンドル・チョマ・ド・ケレシュ。1827年から1830年、インドとチベット国境地帯ヒマラヤのカヌムに滞在」

 彼の一生をかけた基本的な事業は完成し、学問の世界に提出された。この学問世界は、「トランシルバニアのシチリア・ハンガリー人」によって、チベット語へ入る鍵がだれにでも使えるようになったことを知るべきなのである。

 長い間待った学問世界へのデビューに際し、彼は同郷の仲間たちにどうしても呼びかけたくなった。というのも彼らにとって、チベット語の辞書と文法書は、ナジェニェドで立てた愛国主義的誓いを成就するための第一歩だったからである。チョマは前書きに書く。

「ハンガリー人は彼らの起源、風俗習慣、言語について、根本的な知識を得ることになるでしょう」

 彼は証明できていない「ハンガリー人のアジア起源の理論」の旗を振るチャンスをみすみす見逃したくなかったのである。

 辞書と文法書の出版は、彼がついに英国人パトロンにたいし、職務を果たしたことを意味した。そしていまや自由の身なのである。しかしアレクサンドル・チョマ・ド・ケレシュにとって自由とは、ヒマラヤの寺院での状況を複製することだった。それは彼にとってのカルバリー(イエスの磔の地)でありゴルゴタの丘だったのだ。

 彼は他のヨーロッパ人から離れて、部屋でひとりきりになる必要があった。世俗的なことにとらわれないで、心を新しい言語の研究に集中した。そして貧しきものの誓いを自身に課して生き続けることにした。彼はカルカッタの北にある現在バングラデシュと呼ばれる西ベンガルで、サンスクリット語とそれから派生したインド諸語の研究をするという新しいプランをたてた。

 そこで1835年11月、チョマは2種のパスポートを発行するよう要求した。ひとつは、英語で「トランシルバニア生まれのハンガリー人哲学者、ミスター・アレクサンダー・チョマ」と書かれたパスポート、もうひとつは、ペルシア語で「モッラ・エスカンデル・チョマ・アズ・ムルク・イ・ルム」と書かれたパスポートである。

 彼は西ベンガルで2年間を過ごした。50代になっても苦行生活にたいする志向性は強かった。この時代のチョマの旅に関しては、英国レジデント(大臣)のロイド大佐の報告がある。無理解ゆえのやさしいトーンで彼は記す。

「彼がこのまま私の家にいつづけることはないだろう。というのも、私といっしょに食べ、暮らすということは、ふだん接している地元の仲間から離れてしまうことになるからだ。彼は彼らと親しく言葉をやりとりする生活を望んでいるのだ。そこで私は彼に地元の普通の家を提供した。できるだけ気持ちよく暮らしてほしいのだ。しかしそれでも彼はまだみじめに見えてしまう」

 チョマはこの家に2年間滞在し、サンスクリット語、マラーティー語、ベンガル語を修得した。これで彼が修得した言語の数は17になった。

 チョマは人生最後の5年間をベンガルのアジア協会で過ごし、その間にチベット文学に関する記事をつぎつぎと発表した。そこでの彼は、画家アウグスト・ショーフトが1842年に見たように、決まりきった風変わりな生活をする変人だった。カルカッタのアジア協会本部の建物のなかの一室で、彼はヒマラヤの聖者のような生活をしていた。

 床の上のマットをベッドとし、彼のまわりには防御壁のように本や経典が積まれていた。お茶とごはんだけの食生活で、つねに思考に浸っていた。彼の顔は擦り傷だらけで、風雨にさらされて皺だらけだった。彼は特徴的なユニフォームに身を包んでいた。大きなポケットがついた青いコットンのゆるやかなジャケットを羽織り、その下にインド民族風の刺繍が入ったチョッキを着て、茶色のズボンをはいていた。

 特別な雰囲気の世界にまれな客がやってくると、彼は好みの理論をとうとうとしゃべった。理論というのは、ハンガリー人の起源がチベット高原の北方の西中国のウイグル族にあるというものだ。彼は証拠としてハンガリー語とサンスクリット語を比較してみせた。なにしろ両方の言語を知っているのは地上にただひとりである。彼の理論が正しいかどうか、だれにもわからなかった。あまりにむつかしすぎて、話についていくことすらだれにもできなかった。

 この理論が正しいことを証明するには、彼が1819年にはじめたが、ウィリアム・ムーアクロフトに義務を果たすために本筋からはずれてしまっていた旅を再開するしかないだろう。これは彼の人生最後の大きな旅だった。それはナジェニェドの仲間とハンガリー国に誓ったことを成し遂げるということでもあった。その到達点は、起源のない人々の起源を、あるいはチョマ自身が好例だが、流浪の人々の起源を見つけるという神秘的なものだった。

 彼は恐怖に満ちた国境を越えてチベット王国に入るだろう。そして都のラサにいたり、そこで研究をまっとうし、ダライラマの図書館で原ハンガリー人に関する情報を探し求めるだろう。それから彼はヒマラヤの高原を渡り、西中国の平原にあるヤルカンドに達するだろう。そこでほかのだれかのように彼は身の回りを整理して、死にそなえるだろう。

 彼はチベットに関する材料をすべてベンガルのアジア協会に残すだろう。それらはのちにブダペストのハンガリー科学アカデミーに移行されることになる。そしてハンガリーから来たもの以外、旅の途上の彼のもとには手紙が届かないように要求する。彼はいまやついにだれからも見られることなく、彼自身と愛国主義的な夢をのぞくすべての義務から解放される。

 1842年2月、彼は北方へ向けて出発した。まずダージリンをめざした。3月後半、マラリアが猖獗を極める亜ヒマラヤ山脈の湿地の多い密林地帯に入る。そこで迂闊にも、彼は一晩を過ごしてしまう。3月24日、彼はダージリンの辺境基地に達するが、数日のうちにマラリア熱が発症した。

 3週間後、ダージリンの監督官であるアーチボールド・キャンベル博士は英領インド政府の長官に手紙を書く。

「たいへん残念でならないのですが、ハンガリー人旅行家でチベット学者であるチョマ・ド・ヘレシュ氏が(1842年4月)11日、当地で永眠されたことを報告しなければなりません。氏は旅の途上で熱病にかかりました。薬を服用するようすすめましたが、氏は拒否し、服用したときにはもう手遅れでした」

 死の床で、チョマは熱にうなされながら、ラサの学識のあるラマたちと古典的なチベットの経典について論じている夢を見ていた。そして彼の勝利によってヨーロッパのライバルの学者たちの心に湧き起る嫉妬を想像して、彼は喜びにはしゃいだ。

 一度は、彼は力をふりしぼり、ベッドの上で上半身を起こし、理路整然としゃべった。彼は誇らしげに、ジェラード博士がカヌム滞在中のチョマを訪ねたときのことを書いた記事が載ったガゼットのコピーを見せた。ザンラの寺院の凍りつくような小部屋で、羊皮の外套にくるまって坐る様子が描かれている記事を読んで喜んだ。

 そこには世界の目に焼き付いた、英雄的な隠者にして学者というイメージがあった。キャンベルは薄いスープをチョマに飲ませながら、「世界の称賛についていかに敏感か」ということを発見し、驚いた。

 チョマの話はまもなくすると、中央アジアのハンガリー人の起源に移っていった。キャンベルは、チョマがこの世界を去る前、すくなくともだれかひとりの人に、彼の理論の完全版を聞いてほしいと思っているのだと感じた。キャンベルは興味を持ってチョマの話を聞いたが、そのあと打ち明けた。

「話の内容が複雑すぎて、それを書き記すことは私にはできません」

 気力が戻ったのはほんのわずかな間だけだった。チョマの病状はいっきに悪化した。彼は錯乱し、支離滅裂なことをしゃべるようになった。医師は薬を飲むよう説得し、こめかみに焼きつくような液状の薬をすりこんだ。

 この処置によって一瞬持ち直したように見えたが、4月10日夜、チョマは昏睡に陥った。そして翌朝の5時に息を引き取った。翌日、彼は英国辺境基地の埋葬地に埋葬された。聖人の地上における苦しみは終わった。禁欲生活によって克服した肉体の渇望はついに消え去った。そして彼の涅槃(ニルヴァーナ)への旅がはじまった。

 彼はついに先祖の定住地だったと想像されるヤルカンドに行くことはなかった。もし行っていたなら、彼は失望しただろう。ヤルカンドには何もないのだ。それは砂漠の中の隊商(キャラバン)の町にすぎない。

 チョマは、論理的には、そこからハンガリー人が来たという説は、より強力なフィン・ウゴル諸語説にかなわないことを知っていたはずだ。フィン・ウゴル諸語グループは、ハンガリー人とフィン人、その他のロシアの少数民族言語を結びつけるものなのだ。ヴィクトル・ジャックモンによれば、彼はフィン・ウゴル理論も論じ、その支えとなる言語学的用例も示したという。

 科学的合理性は問題ではなかった。チョマの理論は実際、理論とは言い難かった。それは個人的な神話であり、私的な天国だった。その天国ではすべてが彼の人生において意味があり、ひとつの統合された絵のなかでいっしょになるのだ。この至上の夢こそが彼を奮い立たせ、類を見ない学術研究を成し遂げさせ、忍耐力を与え、旅をさせたのである。

 チョマのヤルカンドの神話のなかで、彼は贖(あがな)い主の役割を演じ、抑圧された人々をもともとの故郷の避難地に案内するのである。そこは地上でもっとも高い山脈の向こうにある理想的なハンガリー仏教国なのだ。遠ければ遠いほど、聖性は高まるもの。ヤルカンドはこの輝かしい神話が刻まれる白紙のページといえる。

 チョマと会った人すべてが賛成するだろうが、彼はとても変わった人物である。現代の精神科医なら、自己愛パーソナリティー障害という診断を下すかもしれない。標準的なハンドブックである全米精神医学協会の『精神障害の診断と統計マニュアル』(第4版)によると、「自己愛パーソナリティー障害の本質的な特徴は、誇大妄想的で、つねに賞賛を求め、共感の欠如が見られることである。それはおとなになった頃にはじまり、さまざまな文脈のなかに症状が現れる」

 このすべてがチョマに当てはまるようである。しかしある一点はそうではない。彼の驚くべき自己規律、使命感、あるいは不可解な内気、こういったことは彼の途方もないプライドと分けることはできない。この障害を負った人々のほとんどは、彼が成し遂げたようなことをすることはない。

 彼の生涯の驚くべき点は、彼の人格がユニークながらも、チベット語の辞書や文法書を編纂し、チベットの文化を西側世界に紹介するという超人的な仕事にあっていたことである。そして結果として、彼が望んだように、すべてのハンガリー人が彼をあがめるのだ。

 神だけがすべてを知り給う。


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