クリスチャンの瞑想 J・フィンリー 宮本訳
前言
3世紀から4世紀にかけての「砂漠の神父」の時代以来、クリスチャンは日々の生活において、神の存在を体験する方法として、また神の呼びかけに応じる方法として瞑想を実践してきた。マイスター・エックハルト、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、その他数えきれないほどの神秘主義者、そういった伝説的な人物たちが残した膨大な著述には信頼のおける、われわれを鼓舞する智慧を含んでいる。日常生活において、瞑想でいかに神の存在を体験できるかがそれによってわかるのである。本書は、キリスト教信仰の豊かな神秘的遺産に内面的に惹かれ、瞑想を実践したい人々に向けた手軽なユーザーマニュアルとして書かれた。
この本の最初の7章では、キリスト教の伝統的な瞑想の基礎を探索する。何も歴史的、神学的見地を示すために時代をさかのぼるわけではない。意図しているのは、神に近づく経験的な道としての、キリスト教の伝統的な瞑想を理解する探求である。より短いいくつかの章には、ソリン・ブックスから出版されたわが著作『黙考の心』(2000)の一つの章に入っている論考の改訂版が含まれている。それらは「静かに坐る」「ゆっくりと、深く、自然に呼吸する」、そして「神との永遠の合一に目覚める自己変容の道を具象化する瞑想の一面」などである。
この本を通じてわたしが神に言及するとき、神を表すのに人称代名詞の男性形と女性形の両方を使用している。ユダヤ・キリスト教の伝統において神は無限なるものと理解されてきた。つまり男性形や女性形といったカテゴリーを含む有限のカテゴリーを超越した存在なのである。同時に、神はすべのものの創造者だった。このように神は無限の源であり、基盤であり、女性的な要素と男性的な要素をあわせもっていた。ユダヤ。キリスト教が生まれ、つねに発展し続けてきたのは、彼らの文化が家父長的だったからである。ユダヤ・キリスト教の聖典ならびに神学や教会は、神をあらわすのに男性形の代名詞を使用してきた。現在、キリスト教関連の文書においても、こういったことには敏感にならざるをえないが、わたしはとくに神に言及するとき性差別のない言葉を選んできた。このことは黙想的霊性を扱う本にはまさにぴったりだった。すべてのカテゴリーと区別を認識し、超越してきた、慈悲深い神の意識と自己の合一を呼び起こそうとしているのだから。
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