祖先と故郷 

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 ダライラマ五世とブータンで現在支配的なカギュー派支系ドゥク派との関係においても同様のことが言えるかといえば、そうではない。ドゥク派はむしろ頭痛の種であることがわかってきたのだ。五世が1642年にグシ汗(Khoshuud)モンゴルの助けを借りてチベット全体を支配するようになる前に、ブータンにドゥク派のンガワン・ナムギェルが創建した新しい国はツァンの支配者に三度も侵略されていた。ツァンパの覇権は、ペマリンパの時代に権勢をふるったパモドゥ派やリンプン派の覇権を引き継いだものだった。ダライラマ五世が権力を握ると、1644年と1649年にモンゴル連合の力を借りてブータンのドゥク派政権に対して軍事侵攻を断行した。これら二回の軍事侵攻は失敗に終わり、新生ブータン国は深刻な障害もなく、国家としての道を歩みはじめた。新しい国家の形成へと向かう動きの一環として、1650年代、ドゥク派政権は、断続的にチベットの支配下となっていた東部の地域を奪還するため、軍を差し向けた。この地域にはトンサ(Tongsa)の東の地区ほか、さらにはブムタン(Bumthang)、クルト(Kurto)、ションガル(Shongar)、タシヤンツェ(Tashiyangtse)、タシガン(Tashigan)地区も含まれていた。軍事侵攻の火付け役となったのは、二つの支配的家族の南部の平原におけるインドの領土に対する主張をめぐる論争だった。論争はチベットの仲裁に言及していた。居留地に向かっていたチベット人官吏は少女たちをめぐる酔っぱらいのいさかいに巻き込まれ、襲われ、ひどいケガを負ってしまった。特筆すべきことは、このときチベット人官吏が採用していた通訳のひとりが将来のダライラマ六世の祖父の従兄弟であったことである。ラマ・チューイン・ギャツォの名は図1の系譜にも記されている。

 官吏を刺した男、ラマ・ナムセはチベット政府の報復を恐れ、西方へ逃げ、トンサのドゥク派政府の宮廷にたどり着いた。ドゥク派政府は彼を潜在的な同調者とみなし、新しいブータン国の創建者であるシャブドゥンのところに使者として送った。軍隊がようやく出動したとき、ラマ・ナムセは案内人として、またドゥク派軍への使者として行動した。ドゥク派軍は東方へ、地区から地区へと進んでいった。ツァンマ(Tsangma)王子の後裔であることを主張しながら、すべての支配的氏族を征服していった。ドゥク派の拡張に反対した地元の勢力のひとつはナクセン(Nakseng)と呼ばれるメラ(Mera)のゲルク派のラマだった。ナクセンの僧院はベルカルから来たラマ、ロブサン・テンパイ・ドンメ(Lobsang Tenpai Dronme)の弟子により創建されていた。ドゥク派がチベット軍と地元勢力の混合軍を破ったことにより、メラを含む東部全域がブータン政府のコントロール下に置かれることになった。そしてこの地域は以後ずっとブータンの領土となったのである。

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