ダライラマ六世とその秘せられた生涯
秘せられた生涯
(1)
半世紀のち、大ゴビ砂漠の南、アラシャン砂漠の仏教僧院からやってきたモンゴル人僧侶は、『全知たるンガワン・チューダク・ペルサンポの伝記』を書き上げた。それは「美徳のもっともすばらしい行為についての耳に心地よい教え」を含む「聖なる月琴の調べ」と題された作品である。印刷された作品の一枚一枚の片隅には「ツァンヤン・ギャツォの秘密の伝記」という短いタイトルが入っている。簡潔に言うなら、作者は、ダライラマ六世が1706年にクンガノール湖で死ななかったという物語を語っているのである。
彼はそこで監視者のもとを離れ、巡礼僧に扮し、秘密の人生を送りはじめた。彼はチベットの東部、中央部、南西部、さらには中国、ネパール、インド、故郷のモンユルを旅してまわった。旅をしながら彼はあらゆる種類の冒険を経験した。その多くは奇跡譚と呼べるたぐいのものだった。すべては注意深く年月に沿って並べられた。
人生の後期には、彼は北東へ向かい、アムド、モンゴル、アラシャンをまわりつづけた。彼はアムドのパリ地区(dPa’ ris 天祝)のいくつかの仏教僧院の寺主に任命された。とくによく知られているのがジャクルン僧院である。彼はそこで1746年に亡くなった。彼は即身仏となった(遺体はミイラ化された)。
死の時まで数人の直弟子を除くと真のアイデンティティはあきらかにされなかった。彼はそのことを秘密にすると誓っていた。しかしながら、ラサにいた若い頃の彼を知っている人々によって本当の姿を見破られることが何度かあった。
ここに語られる物語の多くはラマが書いた手稿――それは作者の手元にあった――の文章を直接写したものである。作者自身、ラマの身近な弟子だった。つまり物語の多くはもっとも身近な人間によって語られるのだ。
チベットの神秘的な物語のなかでも、もっとも途方もない物語のひとつであることは疑いない。それはだれからも愛されたダライラマ六世の話であるだけでなく、状況からいっても、感情的にも、称賛に値する、人の心を動かす話だからだ。現在のインドにあるチベット亡命政府の筋からも、疑念なく受け入れられた。ダライラマ事務所の後援のもと、1977年に出版された歴代ダライラマの生涯についての公式の伝記集にも含まれているほどである。このようにチベット亡命政府が運営する教育機関のなかでは、この書を読むことが求められている。
もしこの書を受け入れるなら、人は奇妙な状況に、すなわち同時に二人のダライラマが存在するという矛盾した状況に向かい合わねばならなくなる。六世と七世は38年間も同時に存在していることになってしまうのだ。チベットの権威筋は、輪廻転生の概念、またとくにダライラマ制度に関する潜在的脅威に対して、軽く考えすぎているようである。原作者が巻頭詩に織り込んだ説明を受け入れるしかないだろう。
ボーディサットヴァ・アヴァローキテ―シュヴァラ(観音菩薩)は
目に見える世界を超越したダルマカーヤ(法界)で永遠を享受するだろう。
彼は多面体に変身し、この果てしなく限りない世界で
無数の存在として魔術的なダンスを踊るだろう。
つまり、手短に言えば、彼は同時にいくつもの体に転生する能力を持っていたのである。ゆえに彼は二人のダライラマとして同時に現れることがあり、異なる日に生まれることさえあり、転生の概念を土台から崩すどころか、普遍的な真実とパワーを顕示するのである。
しかし秘密の生涯を読んだと思われるダライラマ十三世は、先達の体から体にジャンプする習慣には批判的だった。チャールズ・ベル卿との会話のなかで十三世は、「ツァンヤン・ギャツォは同時にいくつもの場所に、たとえばラサ、コンポ(ラサから東へ七日ほどの距離にある地方)、その他の場所に体ごと現れることができたようだ。どこで彼が名誉ある野原に退いたか(死んだか)さえわかっていない。墓のひとつはモンゴルのアラシャンにあり、もうひとつの墓は稲の山積みの僧院(つまりデプン僧院)にある。同時に多くの場所に現れるのは、われわれの宗教のどの宗派でも許されていない。なぜなら修練するときに混乱をきたすからだ」。(これから見ていくように、現代の歴史家にも混乱をもたらす!)
ベルのもうひとりのチベット人の知人は、ツァンヤン・ギャツォのラサにいるときの夜間の突飛もないおこないについて、複数の変身で説明している。「彼自身の体はポタラ宮の中にあったが、第二の体はうろつきまわり、ワインを飲み、女たちを囲っていた」。この考え方を受け入れると、可能性は無限大に広がった。ユーモラスな話の可能性もあるが。
近年の数人の学者の間では、話をまるごと信じるか、判断を控えるかに分かれる傾向がある。わずかだが一部の学者は懐疑的に見ている。たった一人、ダライラマが死んだと言われる場所に近いアムドの地方に住むチベット人が、この物語がうそであることを証明しようとした。ダライラマが公的な1706年の死を免れたという説を受け入れるということは、彼が二つの体で生きたと信じることを意味しない。つまり論理的に探る道は残されているということだ。
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