ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男訳

Photo:Mikio Miyamoto

6 影武者

 かつて旅客を装ったソナム・ドルジェは、こんどはポタラ宮でダライラマ五世を演じることとなった。

 灯明の発するかすかな黄色の光が殿内の霞がかった暗がりを照らし出した。さまざまな色、様式の仏像、タンカ、幡、カタなど、立っているものから掛けられているものまで、種々のものが奇異な光景を作り出すさまは、月夜の原生の森のようだった。

 彼はただ高くて立派な台の上に坐る影にすぎなかった。ほんのわずか現れては消えたり、ちょっとした儀礼を主催したり、遠くからやってきた高僧やモンゴル貴族の訪問を受けたりするだけだった。いったいだれが招かれてもいないのに近づく人間がいるだろうか。またいったいだれが顔をあげてじっと見つめるだろうか。

 このダライラマ五世はこの何年というもの大声で話すことはなかったし、人の近くに行くこともなく、だれかに疑問を起こさせるようなこともなかった。人々はこのような変化がなぜ起こったのか理解できなかった。ポタラ宮で何かが起きているのではないか、という猜疑心が生まれ始めていた。しかしあえてそれを表にすることはなかった。尋ねたり、論じたりすることはなかった。

 人々の心中では、年々疑問が膨らんでいった。切ることもできず、かといって消すこともできない、次第に大きくなる瘤のようなものだった。彼らはひそかに証拠をつかむか、疑問を解こうとした。さまざまな方法が試された。

 ミンドゥ活仏はたしかめようとしたひとりである。彼は以前とおなじように和詩(相手に応じて作る詩)を作って献上した。

 

星よ、月よ、太陽よ。

どれもあなたの輝きには及ばない。

世にあなたと比べられうるものといえば

ただあなた自身の光しかない。

 

 五日後、ナンソ(大臣)が通例の報告のため、ポタラ宮の侍従室にやってきた。ゲタンは彼に休憩して食事をするように言って時間稼ぎをした。そのあいだに接見のための準備を整えようというのである。

 ゲタンは知っていた、ナンソは何度も五世に謁見しているので、たやすく真偽を見極められることを。準備が終わると、ゲタンはナンソに言った。

「ギャルワ・リンポチェ(五世)はただいま儀礼を行っておられる。しかしそなたと接見したいとせつに願ってもおられるのだ。それゆえそなたには大殿の外から遥拝していただき、ギャルワ・リンポチェからの祝福を得ていただきたい」

「ははっ」。ナンソはダライラマの命とあらば従うしかない。

 大殿の高台に向かってナンソは叩頭の礼をした。見上げると、ダライラマ五世は祝福を与えるしぐさをしたあと、退去を促しているようだった。

 ナンソはあわてて懐から例の詩の書かれた巻物を出しながら、ゲタンに言った。

「ミンドゥ活仏の詩を持ってまいりました。どうかこれをギャルワ・リンポチェに渡していただき、その和詩を賜りたいと存じます」

「なんと…‥いや、これはよきこと。少々お待ちを」

 ゲタンはそうこたえて台上に近寄り、詩の書かれた巻物を献上した。しかしその実、小さな声ながら命令調で「さ、早く、持っていけ」と言った。

 ソナム・ドルジェはタツァン(僧院)のラマだが学問はたいしてなく、『修辞論詩鏡』を参考になんとか乗り切ろうとしていた。この日のことは意外ではあったが、彼には困難なことではなかった。詩に関しては美しい詩句を引用し、和詩も切り貼りして体裁を整えた。また詩に「求同喩」という注釈をつければ、詩の本質は何かなどどうでもよかった。

 このような傀儡のような生活はうんざりだと彼は思った。この日はしかしいつもと少し違っていた。彼はダライラマの影武者を演じただけでなく、かわりに詩まで作ったのだ。本物のダライラマかどうかはともかく、詩なんてだれが書こうがたいしてかわらないのだ。そんなことを思いながら、彼は和詩を書き上げた。

 ナンソはミンドゥリン寺に戻り、活仏に報告するとともに、和詩を渡し、家に帰った。

 ミンドゥ活仏はポタラ宮でのことをナンソから聞きながら、何も言わず、何も問いたださなかったが、何か腑に落ちないものを感じていた。五世は年を取り、病気で、よぼよぼしていたはずなのに、ナンソの話から察するに、健康で、しかも敏捷なのである。それにどうしてナンソに私のことについて何か言わなかったのだろうか。

 活仏は巻物を広げて詩を見ると、あっけにとられた。ひとつひとつの字句が蜂のように彼の頭を刺した。

 

わが友よ、

あなたは霧の中に聳え立つ山のようだ。

あなたは清らかで甘い泉の水のようだ。

そして流れ込む、

衆生の渡る広大無辺の大海へ。

 

「これが五世の詩だなどありえぬは! 字はいささかそう見えなくもないが、それとて模倣したものであろう」

 ミンドゥ活仏はしだいに確信を持つようになった。

「私が用いたのは最勝喩だが、これは一般的な直喩にすぎない。原詩には求同喩であるという注釈までつけたのだが。五世がこんないい加減な詩を書くわけがなかろう。また韻律も間違っておる。五世作などと聞いてあきれるわ。ダライラマであるはずがない」

 恐怖、憤慨、恥辱、焦燥……。ミンドゥ活仏は袈裟に火が着いたかのように感じた。しかし自分に何ができるだろう。なんと言うべきだろう。ポタラ宮の周辺の様子、また人々は、どうなっているのだろうか。

 活仏は苦悶し、目を閉じた。頭上にはデシ(宰相)の幻がのしかかるように感じられた。権力は真相を隠すこともできるだろう。真相をあきらかにするときが来れば、いっそうの権力を得ることができるだろう。自分はひとりの普通のラマであり、無能を術としている。しかし愚者に智慧ある者を演じさせるのは非常にむつかしいのだ。ミンドゥ活仏はこの偽ダライラマとは交流しないことを決めた。

 活仏は寺を出て、山の洞窟に入り、篭って修行をした。

 

 ミンドゥ活仏の挙動を見てナンソもまた懐疑のかたまりとなった。活仏の感情の変化を何度も思い浮かべ、それがダライラマ五世のことに起因していることがわかった。実際ダライラマは以前のダライラマとは違っていた。ロブサン・ギャツォという名の「偉大なるダライラマ」には見えなかった。どういうことだろうか。もし別人ならだれなのだろうか。すぐにでもポタラ宮に行ってあきらかにしたい。しかし待てよ、とナンソは思った。もし疑惑がそのとおりなら、デシも、ゲタンも本当のことを知っているのだから、自分が真相究明なんてできるわけがないではないか。もしこちらの意図がわかったら、自分は宮中で殺されるだろう。

 ナンソがあれこれ思い巡らしていると、小坊主のドンセが入ってきた。ドンセは受戒をしたばかりの僧で、寺の中の規律などは知らないが、機敏で頭がよかった。ミンドゥ活仏はこの小僧に法名を与えたが、本人はあまり気に入っていなかった。その件に関してやってきたのである。

 ナンソはいい考えがひらめき、ドンセを部屋に呼んだ。

「活仏はすぐにはお戻りにならない。考えがあるんだ。おまえはいい法名をもらえるだろうよ」

「どんな考えですか? 教えてください。そのとおりにしますから」

「本当か?」

「もちろんですよ、見えないなら山を見上げよ、わからないなら老人に聞け、と言うではないですか。あなたは年輩者です。考えを教えてください」

「よかろう」とナンソは声を低くして話し出した。「ポタラ宮へ行って偉大なるダライラマ五世に法名をいただくのだ」

「え?」とドンセは驚く。「それは天に昇って月を取るようなものではないでしょうか。そんな高い梯子もないでしょう?」

「行って様子をうかがうのはむつかしくなかろう」

「ええ、むつかしくありません。ラサに行ってダライラマを拝みたいというのはごく普通のことです。けれどダライラマご自身から法名をいただこうなんて!」

「しっ、声を小さく」とナンソは注意した。「もしポタラ宮に着いておまえがごく普通の僧だと言ったら、ダライラマに接見するなど不可能だろう。もしはるか遠くから、たとえばモンゴル、甘粛、青海、雲南、といったところから法名をダライラマにつけてもらうため苦難の道を越えてきた、願いがかなわなければ焼身自殺をも辞さない、とでも言い張れば放っておかないだろう。五世は遠くからやってくる仏教徒が好きなお方である。自身何万里も伝教のため歩かれたのだ」

「それはいい方法ですね! 人がせっかちに神を求めると、神もまちがいを犯す、と言いますからね。うまくいくと思いますよ」

「いや、これはまちがいではなく、誇張なのだ。誇張は人を動かすものだ。世界には誇張から事が成し遂げられた事例がたくさんあるのだ」とナンソは是正し、冷静に言った。

「計略については人に言わないように。できるかできないか、自分で判断しなさい」

「できますとも」とドンセは興奮して言った。「私もついているほうなのですが、ダライラマに会えなければすぐ戻ってきます」

 この僧は若いゆえ、新奇さを求め、冒険を追った。ドンセの胸は高まるばかりだった。

「おまえはひっそりと行き、ひっそりと戻ってこなければならない。だれにもしゃべらないようにしろ。鉄の檻にいるように口を閉ざせ。機会が来れば風に紙が乱舞するように口を緩めよ」

「わかりました。気持ちが楽になりました」

 

 ドンセはポタラ宮に着き、ナンソが示したとおり朝から晩まで宮門の前に跪き、ダライラマに接見し、法名をいただきたいと懇願した。ゲタンはデシ(摂政)にその旨を伝えた。

 サンギェ・ギャツォはドンセの年齢と出身地を吟味し、ダライラマ五世に会ったことはないと断定した。もし彼が戻り、ダライラマが健在であることを地方で宣伝してくれるなら、もうけものではないか。この少年僧の願いを聞き入れてもよさそうだ。

 

 望みどおりに事が運んだドンセは満足感に浸りながらミンドゥリンに戻り、こっそりとナンソとその喜びを分かち合った。

 ナンソはドンセがダライラマ五世に謁見したと聞き、はやる心を抑えながらたずねた。

「以前私が五世に謁見したときは、あまりはっきりと見ることができなかった。仏光が眩しすぎてな。おまえは五世に近づくことができたのか?」

「できました」

「そんな幸運なことがあるのか?」

「ほんとうです。誓ってもいいです」

「いや、誓う必要などない。で、ダライラマの様子はどうだった?」

「仏光のようなものはありませんでした。灯明が暗くて、ギャルワ・リンポチェの御顔はよくわからなかったです。黄色い帽子を被っておられるのはわかりました」

「ははん、頭のてっぺんのハゲという特徴を隠したのかな」とナンソは心の中で思った。

「帽子を目深に被っていらっしゃって、目はよく見えませんでした」

「ほう、丸い目という特徴を隠そうとしているんだな」と思う。

「こんな感じです」と絵に描いて説明する。

「十分だ」とナンソは心の中で思う。

 ドンセはナンソが何もたずねず、何も言おうとしないのを見て、頭を下げながら「すべてナンソさまの指示に従ったまでのことです」と言った。

 ナンソは礼を返した。

「このことについては誰にも言わないでくれ」

 ドンセは軽い口調で言った。

「よく話を聞く人は、一度話せば十分です。優れた馬は、一度の鞭で十分なのです」

「おまえを信じるよ」と言ってナンソは笑いながらドンセを門まで送った。彼がどんな法名をもらったのか、ナンソは聞き逃してしまった。

 夜空には雲ひとつなかった。月が昇り遠くの雪の峰が刀剣のように寒々しくきらりと光った。ナンソは寒くてぶるぶるっと震えた。心には「尖った舌は収め、丸い頭脳を使うべし」ということわざが思い出されていた。

 

 ダライラマ五世に扮した者は苦しみを味わうことになった。彼は影武者を演じつづけることに我慢ならなかった。彼はしだいに天を飛ぶ魚、海底にもぐる鳥になったように感じるようになった。何かどっちつかずで、落ち着いて生活を送ることができなかった。恐ろしかったのは、毎晩寝ようというとき、ダライラマ五世の怒った真ん丸い目ににらみつけられることだった。まるで護法神が彼の頭上にのしかかってくるかのようだった。

 彼はいつも不吉な兆しを見つけた。空の黒い雲、足下の死んだ一匹の蟻、壁の隙間の枯れ草、仏像の前の消えた灯明……これらは彼の意気を喪失させた。

「もしこのことがばれてしまったら、中国の皇帝からどんなお咎めを受けることになるだろうか。あるいはもしデシが権力を失ったら、かえっていい結果になるだろうか。だれか私のことを弁護してくれないだろうか。だれか保護を申し出てくれないだろうか。もし強風が吹いて家を倒すなら、門や窓は大目に見てくれないだろうか。仏よ、いったいどうしたらいいのだろうか……」

 肉体的にはまったく問題なかったが、精神は日々落ち込み、崩壊寸前にあった。たとえるならサソリの穴にでも投げ込まれたような気分だった。それなのにうめくこともできなければ、叫ぶこともできない。長期にわたる重圧、極度の抑圧によって、発狂の一歩手前まで追い込まれていた。

 いつか、こういう日が来るかもしれない。ポタラ宮のてっぺんに駆け上り、全チベットに向かって宣言する。

「わたしはダライラマ五世ではない! 偉大なるダライラマ五世は崩御された! わたしはデシ(摂政)サンギェ・ギャツォの特命を受けただけの影武者にすぎない! 五世ご自身は転生されてもう何年にもなるのだ。わたし自身モンユル地方で転生を探した。その名はガワン・ギャツォ。あなたがたは早くその方をお迎えせねばならぬ!」

 それからひらりと空中に舞い、矢に射抜かれたカラスのようにまっさかさまに落ちていく。十三階の窓を過ぎて、地面に激突し、血肉が飛び散る。飢えた野犬どもが群がり、肉片を争い貪り食う……。

 逃げろ! 逃げるのだ! どこか遠いところに隠れる場所を見つけ、そこで自由な空気を吸って十年、二十年と生き、やすらかに死ぬのだ。だれにも知られない、だれにもあげつらわれない、だれにも罰されない、だれにも監視されない、だれにも強迫されない、だれにも利用されない、だれにも操られない……。

この数年間は世界でもっとも不自由な、鎖に繋がれた囚人だった。光栄なる使命を負った功臣という名の囚人だった。

 彼は本当に実行に移した。袈裟を脱ぎ、俗の僧服に着替え、こっそりと部屋を出た。東、北、南の大門から出ることはできない。衛兵や僧侶に問い詰められ、尋問を受けることになるだろう。西の石壁を飛び越え、紅宮の修築現場にもぐりこみ、石を背負う労働者に扮して下山するしかない。

 彼が石壁を攀じ登っていると、下から怒声が響いた。

「だれだ?」

 鉄を巻いた棒を持つ、右肩をはだけた警備の僧が攀じ登る彼の背後に立っていた。

「わたしは……そのう、タツァン(僧院)の……」

 彼は僧服を脱いでいたことをすっかり忘れていた。

「大胆な泥棒よの。ラマだとぬかすか。われら仏門の名誉を汚す気か!」と別の警護の僧がやってきて言った。

「盗ったものを出せ!」

「盗ったものなどございません。外の者ではないのです……」と彼は弁明に四苦八苦した。

「調べろ!」

 頭から足の先、頭髪の中まで隈なく調べたが、何も発見されなかった。手に巻いた数珠のみがわずかながら金目のものだった。

 ちょうどこのとき、ゲタンも彼が部屋にいないことに気づき、腹心の者たちと探し回るうち、この場に出くわした。ゲタンは手で警護の僧らに退去を促し、「こやつはおれが処分する」と言った。

 ソナム・ドルジェはゲタンの後をおとなしく、しょぼくれて歩いていった。

 

 真っ暗で何も見えない部屋の中からパン、パンという音に混じって、呻き声が聞こえた。

 脱走しようとした者が鞭打たれていた。彼にはだれがだれなのかわからなかった。だれだろうと知ろうともしなかった。彼はもう報恩の心を捨てていた。報復の人になっていた。

 鞭打つ人はただ、物を盗んだ泥棒に懲罰を加えているのだと思っていた。また、重大な罪ではないので、鞭打ちすぎないようにとも言われていた。適当な教訓を与えれば十分、それ以上は仏の慈悲を損ねてしまう。

 ほどなく暗黒の部屋はもとの死のような静けさを取り戻した。

 ゲタンがダライラマ五世の袈裟を手に持ち、扉をあけて入ってきた。嘆息しながら言う。

「おい、よろしく頼みますよ。わかってると思ったのだが。どうしてわざわざ苦悩の海に飛び込むんだね。仏の按配によってすべてうまくいくというのに」

「わたしは、わたしはできません……。もう死にたいです」と彼は泣きじゃくった。

「それは仏がお召しになったときでよろしい。いまデシが会いたがってらっしゃる。さあ、来てください」

 ソナム・ドルジェはまたゲタンの後をおとなしくついていった。

 

 サンギェ・ギャツォはかつてなく厳しく鋭い眼光で彼を見据え、長い間一言も発しなかった。その周囲には稲妻が光っているかのようだった。ソナム・ドルジェはよく知っていた。サンギェ・ギャツォは、気分のいいときは観音菩薩で、怒ったときは馬頭金剛になるのだった。このときソナム・ドルジェは認識した。偽ダライラマの罪はデシ(摂政)が迫ったものであることを。いつか罪が晴れるときが来るだろう。逃走を図った罪は自分が犯したものである。目の前のデシはけっして寛容に許すことはないだろう。ただ死を賜るしかなかった。どんな刑死もありえるだろう。毒薬、刀、縄、石、(入れて川に流す)皮袋などいくらでも道具はあるだろう。この金色に輝く牢獄にいるよりかははるかにましだ。彼は目を閉じ、長い間黙していた。

「お碗が割れるのはひとりの損、鍋が破れるのは全員の損」というサンギェ・ギャツォの声が聞こえた。

 しばらくして目を開けると、サンギェ・ギャツォの姿はなかった。

 目の前には大きなトルコ石が置いてあった。

「これはデシがおまえに贈られたものだ」とゲタンが言った。

「……」

 彼はあっけに取られて、それを手に取った。あたかもだれかに替わって高貴な贈り物を手に取るように。




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