ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男訳


 Photo: Mikio Miyamoto

8 処女作

 ガワン・ギャツォが寺に戻った時分には、みな寝入っていた。彼は火打ち金をまさぐって探しあて、浮かんだ詩を心の中で誦しながら、火を作ろうとした。手がふるえ、五、六度火打ち金を振っても、うまくいかなかった。つぎの一打は指に当たったが、同時に草紙に含まれた煙硝に火が着いた。彼は火種を吹いて灯明を点し、カンギュール(大蔵経)の一冊を下敷きとし、その上に紙を置いた。

 何行か書いたところで、筆を止めた。感情の迸るままに書き連ねたものの、散漫であったり、冗長であったり、普通の人がしゃべるのと変わりないと思えたからだ。文字の並びも悪く、足に合わない大きな靴のようだった。詩にはまた詩体が必要だった。リンチェン・ワンモは、ひたむきでまじめな心と美しい容姿をあわせもつという意味で、外見と中身が一致するたぐいまれな詩のようだった。

 どんな詩体を用いるべきか。古代チベットで用いられた六言四行体がまず浮かんだ。三文字ごとにひとつの頓とする。二頓で一句である。これは窮屈な靴のようだ。彼はまた何百何千もある民衆の詩について考えた。そのなかの諧体は三頓で一句ではないだろうか。民衆はそれを愛好しているのではなかろうか。また教師が言っていたことを彼は思い出した。古代中国に、三台詞と呼ばれるものがあったが、これは六言四行三頓ではないのか。この様式はよさそうだ。詩体が決まると、彼は砂粒から金を取り出すようにことばを紡ぎだした。こうして彼は最初の一篇を書き上げた。

 

心から愛する人よ

齢(よわい)百まで添い遂げられたら!

はるかなる海の深い底で

かけがえのない宝を探し当てた私

 

 最後の文字を書いたとき、力をこめすぎて、紙が破れてしまった。彼は自分の詩に満足し、おのれの才能を確信した。彼はまわりを見て詩を鑑賞してくれる友を探したが、みな熟睡していた。このとき彼のためにとり置かれた晩御飯の残りを見つけた。鍋に入ったトゥクパはもう冷め切っていた。彼は食べる気にならなかった。あふれる情熱がまさり、腹ペコであることを忘れていた。

 彼は灯明の火を吹き消し、からだを横たえたが、眠くはなかった。彼は目を大きく見開き、昼間に起きたことをありありと思い起こしていた。蜂蜜のように甘い想いを噛みしめていた。

 東の窓から射し込んだ月の光が彼の胸を照らし、情感を誘った。ごろりと転がって上半身を起こし、衣をかけ、火を点したくなかったので、月の光で一首したためた。字は乱れたが、筆は重々しかった。

 

東の山の端(は)から

昇る白く清らかな月

母の愛のような娘の顔(かんばせ)

わが心にぽっかりと浮かぶ

 

 月が高く昇れば昇るほど室内も明るくなった。ガワン・ギャツォは目をそらさず月をじっとみつめた。その光はリンチェン・ワンモの眼差しのように温かく、やわらかく、やさしく包み込んだ。

「ああ、おまえを幸せにしたい……」

 ガワン・ギャツォは心の中でそうつぶやきながら、袖から布切れを取り出し、月の光のもとでリンチェン・ワンモに幸福を祈願することばを書いた。しばらくぼっとしたあと、月の光が漏れ入る寝室で、その切れ端を懐に入れ、嬰児のような笑みを浮かべながら眠りについた。

 翌日、ガワン・ギャツォは授業を終え、『チベット王統史』を復唱したあと、急いで街へ向かった。意図的に遠回りをしたのは、静かな場所を探し、リンチェン・ワンモの幸福を祈る旗を立てるためだった。

 彼はほどよい大きさの柳の木の前に来た。彼は旗を柳の木の上のほうに挿したら、強い風によって、一万回も十万回も祈りを捧げることになるだろうと考えた。木のまわりには棘の枝が積み上げられていて、羊の群れが樹皮を齧るのを阻止していた。彼は棘の枝を一部取り除いて中に入り、木に登った。棘が手に刺さっても、頭部がこすれても、リンチェン・ワンモのためなら平気だった。

 登ろうとして木に手をかけたとき、それほど遠くないところに羊を放牧する少年の姿が目に入った。彼よりもすこし背が高い少年は、こちらを警戒するそぶりで見ていた。この木はおそらく彼の家のものなのだろう。ガワン・ギャツォはすまない気持ちになったが、かといって逃げ出したら、なにかひどく悪いことをしでかそうとしていたと疑われかねない。そこでもともと考えていたとおり、旗を木の上に挿した。

 旗を挿し、木から下りて棘の枝を元通りに積み、一首詠みながら、朝市の街へ向かった。

 

愛する人のために旗を挿す

梢に掛けて、風を迎える

柳を見守るお兄さん

旗に礫(つぶて)を投げないで

 

 彼は比較的大きな商店の前で足を止めた。今日は最初に恋人に会いに行く日、なにか贈り物をすべきではないかと考えたのである。口づけに報いるため、彼女の気持ちにこたえるため、金の山を贈るべきなのだ。懐をまさぐると、大き目の銀が出てきた。ポラのパサン寺にいたとき、風雪のなかナセンがやってきた。彼が言うには、家を処分し、五克分の土地や三頭の牛を売って金銭を得たが、一部はお布施として寺に納め、一部は母親の死亡税として納め、一部は葬式用に残し、残りのすべてをガワン・ギャツォに分け与えたのだった。

彼は商店に入り、何を買うか迷い、決めかねた。彼女が何を欲しているのか、何が必要なのか、よくわからなかったのだ。結局トルコ石の入った銀の頭飾りを選んだ。余ったお金で靴を買った。

 苦もなく小さな店を探し当てた。リンチェン・ワンモは戸口に坐っていた。からだの半分を通りに出して、だれかが現れるのを待っているかのようだった。

 彼女は彼を見ると立ち上がり、喜んで奥の部屋に招きいれた。昨日覆っていた窓掛けがまくられ、いつからそうなっていたのか、斜めに掛けられていた。ガワン・ギャツォは室内に入り、見回すと、床が黒く汚いことが気になった。彼はこんな美しい娘がこんなところにいるのが、くやしくもあり、我慢ならなかった。彼女が彩雲の上に坐ったら、蓮の花のなかに坐ったら、宮殿のなかに坐ったら、どんなにふさわしいだろう!

 ガワン・ギャツォは懇願するような口調で言った。

「どうしてもあなたに記念のものを贈りたかったのだけど、これがいいのかどうか……。気分を悪くしたらごめんなさい」と言いながら両手でトルコ石を持ち、差し出した。「どうか受け取ってください」

「よくわかるわ、あなたの気持ち」リンチェン・ワンモはやさしく両手で彼の両手を覆うようにして、「とてもうれしい。どんなものよりも……だってあなたからの贈り物なのだもの」と言った。

 ガワン・ギャツォは安心すると、慇懃な口調で「さ、ぼくからあなたの頭にこれを載せるよ」と言った。

「だめよ」リンチェン・ワンモは即座に頭からそれを取った。

「人に見られるのが怖いのかい?」

「叔母さんが聞くわ、こんな高価なものいったいどうしたんだねって」彼女は叔母の口調を真似て言った。

「ぼくからもらったって言えばいいじゃないか」

「あなた? あなたってだれ? 叔母さんはあなたを知ってるかしら? 喜ぶかしら? あなたのことを何と言うかわからないわ」彼女は話しづらそうに言う。「叔母さんはとても厳しいのよ」

 そう、女性は幼いときも、老いても、つねに管理されているものなのだ。両親であろうと、年上であろうと、夫であろうと、同輩であろうと、子どもであろうと、たとえ後輩であろうと、彼女は管理されてしまう。成文化されない法律によって人生を生きなければならないのだ。どんなに厳しすぎても、不公正であっても、性格を捻じ曲げてでも、彼らのからだの血液中に卑屈、虚栄、狭隘、脆弱といったものが流れる。これらはけっして女性特有のものではないはずなのに。これらがなくなったら、どんなにすばらしいことだろう! もちろんじゃじゃ馬娘になっても困ったものだが。彼がリンチェン・ワンモを好きなのは、彼女が女性の美しさを備えただけでなく、そういった女性ならではの弱点がなく、大胆さを持ちながらきめ細かさも持ち合わせているからだ。

「どうして入り口のカーテンを上げているの?」とガワン・ギャツォは聞いた。

「どういうこと?」

「外が見えないと心配なのかな、と思って。盗人が物を盗むかもしれないからね」

「心配ないわ」

「それならいいけど」

「よくないわ」とリンチェン・ワンモは言って首を振った。「よくないのよ」といたずらっ子のような目をして、付け加えた。「叔母は隊商を迎えに行っていて、いつもどるかわからないの」

 

 壁越しに六弦琴の音が聞こえてきた。ガワン・ギャツォの熟知した優雅な曲調は、巧みな指さばきで奏でられていた。音楽というのは酒に似て、熟せば熟すほどよく、知れば知るほど親しくなり、人を酔わせる。

 琴の伴奏のもと、老いて渋みのある歌声が響く。

 

山桃花、かくも美しく

鸚鵡の群れが枝をたわめる

娘さん、我とともにいざ行かん

春光明媚なあの清浄なる地へ

 

「この歌はだれの歌?」とガワン・ギャツォはもどかしそうにたずねた。

「ツェタン・トゥグという歌手で乞食らしいわ。不思議な話ね」

「詩と音楽はなんて不幸なんだろう。物乞いもしなければならないなんて」とガワン・ギャツォは憤懣やるかたない、といった風につぶやいた。

琴の音も歌声も止まった。

 

「あす、また来ていただけるかしら」リンチェン・ワンモは叔母がいつ帰ってくるのか気がかりだったが、会う時間が取れさえすればよかった。

「来れるよ」とガワン・ギャツォは何も考えずにこたえた。

「どこかべつの場所で会うほうがいいと思うの」

「そうだね。寺以外ならどこでもいいけど」

「寺には行かないわ」

「どこかいい場所知ってる?」

「あの歌、覚えてる?」

「山桃花の花開くところ」

「そうよ、南の谷」

「いいね。それで、いつ?」

「正午がいいわ」

 リンチェン・ワンモはそう言うと水が半分入った盆を持ち、店から出て、左右を見て叔母がいないことを確認した。水をまくふりをしながら、振り返ると、ガワン・ギャツォに向かって短く叫んだ。「早く行って」

 ガワン・ギャツォは彼女の聡明さに拍手を送りたかった。同時に彼女の用心深さも理解できたので、聞き分けよく、迅速に門から外に身を押し出した。そのときからだをすり寄せて来た彼女が、蜜蜂の羽音のような声でささやいた。「絶対に秘密よ」

 彼は深々とうなずき、最高の賞でももらったかのように、意気揚々と寺のほうへ歩いていった。向かう先は仏像のたくさんある寺ではなく、桃の花が咲き乱れた谷間のようだった。

 

 数羽の鸚鵡が山桃花の花びらを落とし、ガワン・ギャツォとリンチェン・ワンモの上に舞い落ちた。

「ぼくに対して誓うこと、できるかい?」彼は彼女の愛を失うのが怖かった。

「我、神山に対し誓う! あなたがどこへ行っても、わたし、追いかけて行くわ!」彼女の目には涙の花が光った。

 ふたりは長い間寄り添っていた。陽光のもと、樹木の影は飛ぶように、北から東へと移動した。

「一首、詩をきみに捧げたい」

「詩? わたしにわかるかしら」と彼女は言った。「わたし、字が読めないから」

「わかるはずだよ」

「経典に書かれてるの?」

「ぼくが作った詩だよ」

「あなたが?」

「そう」

「だれに教わったの?」

「きみだよ」

「わたし?」彼女は彼が冗談を言っているのだと思った。「わたし、詩なんて作れない。どうやって教えるというの?」

「詩は文字を書けばいいってものじゃない。情を燃やすものだ。きみのおかげでぼくの情が燃えて、詩を書くことができたんだ」とガワン・ギャツォは自分の詩を思い起こしながら答え、満足げだった。

「本当かしら。いま詩を作ることもできるの?」と訝しそうな表情を浮かべながら、顔の上の花びらを払った。卵のような顔がむず痒かったのである。

 ガワン・ギャツォは詩篇を思い起こしながら、かろやかな声で詠み始めた。

 

南の谷の鬱蒼とした森で

私と恋人のひそやかな逢う瀬。

だれも知らない密会

知るのは口のうまい鸚鵡だけ。

おしゃべりな鸚鵡さん!

このことは秘密にしておくれ。

 

「わかった?」彼は詠み終わり、首を傾けて問うた。

「わかるし、いい詩だと思うわ」

「そりゃすごいよ」

「すごいって、どういうこと?」

「きみがいま言ったことがすごいって言ったんだ。詩は人に理解させないとよくない。だけど理解できるだけでなく、いいと思わせないとだめなんだ。ワンモ、きみはとても頭がいいよ」

「わたしには詩を作る才能なんてない。あなたこそ頭がいい」

「いや、きみは詩を作ることができる。ただ書けないだけなんだ。感覚は無限にあるんだよ。きみは詩そのものだ」

「わたし……わたしが詩だなんて」リンチェン・ワンモは目をかすかに閉じ、ガワン・ギャツォの胸に寄りかかった。鸚鵡が暴露してはならない甘い蜜の秘密だった。

「ワンモ、目を閉じたまま何も考えないで。もう二つの詩をきみに捧げるので、しっかりと聞いて欲しい」

 リンチェン・ワンモのくりくりとした大きな瞳は驚きに光っていた。しかしすぐさま身を硬くして、彼の朗読に聞き入った。

ガワン・ギャツォは昨夜作った二首の詩を披露した。リンチェン・ワンモは堪能した。ガワン・ギャツォ、詩、愛情、春……これらが融けて発酵し、濃い酒となり、彼女は酩酊した。

 

 数日後、ケサンはまた仕入れのため遠出をし、リンチェン・ワンモが店番をすることになった。ガワン・ギャツォの希望で、ふたりは老歌手ツェタン・トゥグを訪ねた。

 ツェタン老人をガワン・ギャツォは父親のように敬い、師と仰ぎ、歌について、また琴について学びたいと願った。すると涙が白い花のようなあご鬚を伝って落ち、琴の弦を濡らした。

「わしはもう長年、流浪の旅をつづけている物乞いでございます。だれもが下等人として蔑みます。なんという不運な人生でありましょう」ツェタンは琴には向かず、親族にでも話すように語った。「わしはお釈迦さまを信じて生きております。聞くところによりますと、ラサのバイグ寺は屠殺場となり、血まみれの皮が仏像に掛けられ、羊や牛の内臓が仏像の手に掛けられたとのこと。そんな罰当たりの輩は呪われねばなりませぬ」

「それは歴史上のできごとです。チベットの王チソンデツェンが幼少の頃、ボン教徒の大臣によって起こされたことです」とガワン・ギャツォは老人に説明した。

「おや、ご存知で? それは本当で?」ツェタンは驚き、疑った。このような少年にそんな学があるとは。

「これは歴史書の『バシェ』に書かれていました」

「はあ」と老人は話題を変えた。「わしは仏を愛し、敬う者です。それなのに、この生の貧苦はいっこうに変わらない。バターは堆積して山となる。だがわしはおこぼれにもあずからない。乳は流れて川となる。それなのにわしは一滴も飲むことができない。野山には牛や羊があふれている。だがわしには一本の毛すらない。蔵はチンコー麦で満杯。わしにはザンパ一椀すらない。川の水は澄み、また濁る。濁り、また澄む。わしのからだの傷もできてはよくなり、よくなったかと思うとまたできる。山は高ければ雪も多い。人も貧しければ、不幸も多いのじゃ。あんたがたは、こんな貧しい老人だからといって嫌ったりしない。下賎だと蔑んだりしない。それどころかカタをくださる。あんたがたの心はこのカタのように真っ白じゃよ」

「なんと多感なことだろう!」とガワン・ギャツォは心の中で賛嘆した。「なんと人の心を動かすことばだろう! どうしてこれらの金言が書きとめられることがないのだろうか」

 リンチェン・ワンモを見ると、彼女は目を潤ませていた。

「ツェタンの親父さん!」彼はツェタン・トゥグと呼ぶことはできなかった。これらの人々に必要なのは、尊重、同情、そして慰めだった。「俗諺にも言いますよ。馬があってこその騎馬。馬がなければ、犬にだって乗れない、と。われわれに馬がなければ、つまり詩や音楽がなければ、駆け回る駿馬も意味ありません」

「そう、そのとおりじゃ、聡明な若者よ。わしはこの二本の足でなんとか歩いておるが、まだ一頭の駿馬を持っていることがわかったぞ」と老人は感動した風だった。ガワン・ギャツォに向かってさらにかしこまった。

「ツェタンの親父さん、私は何首か詩を作りました。できれば琴で伴奏していただきたいのですが」ガワン・ギャツォはツェタンがかかえる六弦琴に触れた。

「琴は壊れてしまっているのじゃが、曲を弾けなくもない」と言うと老人は一弦を鳴らして、声を張り上げた。「じゃが、牛の鞍が馬の背中にあわないのとおなじ。詩がこれにあうかどうかはわからぬ」

「あなたが先に詠って聞かせてあげてはどうかしら」とリンチェン。ワンモが助け舟を出した。

 ガワン・ギャツォは処女作の四首を披露した。ツェタンは興奮し、リズムを取りながら、腿をポンと叩き、「これならできますぞ。みなさん、聞いてください」と言った。

 ツェタン老人は目をしばたたきながら、琴を調弦し、坐りやすい場所に移動して腰を下ろすと、爪弾き、歌いはじめた。彼の記憶力が元々よかったということもあるが、ガワン・ギャツォの詩が口ずさみやすく、覚えやすいため、一句たりとも間違えずに歌うことができた。曲と詩の結合はうまくいき、ぴったりで、自然だった。旋律も優美で、思いもこもり、若者たちの心も溶かした。詩がいったん音楽と結合すると、その味わいは紙の上の文字や朗読とはちがった奥深さがあった。

 はじめリンチェン・ワンモは遠くから来る人や、近くの自分の店を見ていなければならなかった。しかしそのうち詩に夢中になり、いっそのこと店などどうでもいいような気分になっていた。愛する人が自分のために詩を作り、目の前で歌われるなんて、想像を絶するほどすばらしいことだった。彼女はチベット・オペラを観たときのことを覚えていた。素敵な歌をうたわれるのは、王女だった。もちろんだれかが王女を演じていたにすぎないのだけど。いま、リンチェン・ワンモはその王女のように愛され、歌を贈られているのだ。まるで夢のようなできごとだと思った途端、彼女の両頬はぽっと赤く染まった。

 

 ケサンは仕入れをしている先で不愉快なことがあり、気分が悪く、疲れを感じながら家にもどった。腰をどっかと下ろしてくつろいでも、隊商の商人にたいする怒りが収まっていなかった。と、壁越しに六弦琴の音が響いてきた。それはしだいに煩わしくなった。「この音、リズム、ツェタン・トゥグだわ」とつぶやき、駆けていって叱り飛ばそうかと思った。しかし、詩の内容はいままで聞いたことのないものであることに気づいた。あの娶ったことのない老いぼれが、こんな歌を作ることができるだろうか。なんて感動的な歌だろう。彼女はとおの昔に失った青春のことを思いやった。また娘時代のことが記憶によみがえってきた。人生はこのように短いのに、歌はまるで枯れることを知らない松のよう……。隣の老いぼれの歌はあきあきするほど聞いたことがあるのに、今日の歌ははじめて聞くかのようだった。

 琴の音が止まる。彼女はリンチェン・ワンモが家の中にいないことに気づいた。また露店の見回り? 靴が一足たりないわ。売ったのかしら? この店の売り子はどこへ行ったの? そんなに遠くへ行くわけがない。そう、この壁の向こうで歌を聞いているのだわ! こんないい歌だったら、そりゃ近くで聞きたくなるもの。でも店をほったらかしにするなんて、あの子ったら。

「リンチェン・ワンモ!」ケサンは店からからだを乗り出し、壁の向こうの木造の家に聞こえるように叫んだ。

「ここよ! ここにいるわ」夢から醒めたリンチェン・ワンモはあわてて走ってきた。親しみのある声で「叔母さん、戻ってらっしゃったの? 疲れてるでしょう?」

「少しね。春の老いぼれ牛よ。横になったら、立ち上がれないわ」ケサンは腰をたたき、「歌を聞いてたの?」と尋ねた。

「ええ」リンチェン・ワンモは言い訳をせず、叔母の文句を待った。

「いい歌だわね」ケサンは彼女が仕事をさぼったにもかかわらず、しかも若い娘が聞くべきものでもないのに、叱らなかった。今回のことは、ケサンはやさしく、寛大だった。自分が享受できなかった青春を、若い娘が享受することに、嫉妬心はないのだろうか。

「いま靴を売ったかしら」

「靴?」リンチェン・ワンモはあせって棚を見る。

「一足たりないと思うわ」

「え、それ、そのう……」

「どうしたの?」

「わたし……」

「それはぼくが買いました」ガワン・ギャツォは店の前で、顔を赤らめ、そう言った。

 ケサンはこの突然現れた俊敏そうな少年をじろじろと見た。この老女の心の中に母性愛のようなものが芽生えたが、店主としては、このような顧客には不信感を持った。

 彼女はうやうやしく微笑んだが、リンチェン・ワンモのほうを向くと、「で、お金は?」と問い詰めた。

「お金は……」彼女は答えあぐねていた。

「ああ、ごめんなさい、ケサンさん」ガワン・ギャツォは頭を下げながら、懐から何かを取り出し、「お金はここにあります。ツェタンじいさんの歌を聞いていて払うのを忘れていました」

 そう言って、トルコ石の頭飾りのほかすべてのものを木の板の上に並べた。

「そうそう、これでいいと思うわ。どのみち客はだれも来てないだろうし」

「だれも……」経験豊富なケサンは何かにおうな、と察した。彼女はガワン・ギャツォを追及した。

「それで靴はどこにあるんだい?」

「…………」

「あんたが買った靴だよ」と問い詰める。

「靴……靴……、失くしたかもしれない」

「失くした? いまあんた、どこへ行ってたのさ」

「いま……、ツェタンじいさんの家だけど」

「そこでどうやって失くすのよ」

「ぼくもよくわからない。ともかく、お願いですから、彼女を責めるのはよしてください」と彼はすまなさそうにリンチェン・ワンモを指した。

 ケサンは即座に理解した。同時に侮辱されたような気がして、怒りがこみ上げてきた。声を裏返して矢継ぎ早にガワン・ギャツォに質問を浴びせた。「あなたは誰?」「何をしてるの?」「どうして私のリンチェン・ワンモにおかしな話をしてるの?」「この靴はいったいどういうことなの?」「あんたみたいな子どもがどんな手練手管を使って誘惑したの?」「あんたの見てくれは悪くないわ、悪い人には見えないけどね。でも白い法螺貝だって中のほうは曲がってるものなのよ。正直にいいなさい。あんたはだれなの?」

 ガワン・ギャツォは罪人のようにそこに硬直して立っていた。頭ばかりが肥大化していくような感覚に捉われた。雪山ほどの罪、天空ほどの罪……いったいどこから話せばいいだろうか。ああ、なんて迂闊だったんだろう、なんてそそっかしかったのだろう、どうして感情的になってしまったのだろう。まあ、ともかく、もしこの恐ろしい家長をもっと怒らせてしまったら、二度とこの愛する娘に会いに来ることはできないだろう。ここまで考えが至ると、本当に後悔の念が生じ始めた。まるで雷に打たれ、呆然と立ち尽くしているかのようだった。まったく動かず、魂は飛び去り、肉体だけが残されたかのようだった。

「石を水に投げても、音ぐらいするさ。半日こうやって聞いてるんだから、何か言ったらどうだい?」

 ガワン・ギャツォは唇をかすかに動かしたが、声を発することはできなかった。

「この人はガワン・ギャツォ、わたしの友だちよ!」リンチェン・ワンモは割って入り、恋人を助けようとした。

 ケサンは「友だち」ということばを聞いて、鉄の烙印を押されたかのようだった。思いも寄らなかった。毎日すぐそばで守っている娘にいったいいつ友だちができるというのだろう。女の子がこういう言い方をするのがどういうことか、彼女にはよくわかっていた。自分であれば、はっきりしていた。ああ、リンチェン・ワンモは実の娘ではないのだ。こんな重大なことを隠し、私に言ってくれなかった。まだ子どもだから、愛だの何だのいうには早すぎると思っていたのに。年を取ると、若い人の心は本当にわからなくなるものなのね……。

 リンチェン・ワンモの前に立ち、彼女から反抗的な態度を読み取った。小鳥はいま羽ばたきはじめ、飛び立とうとしていると感じた。おそらく永遠に戻ってくることはないだろう。彼女の母としての愛はこの少年によって粉砕されてしまうのだ。彼女は傷つき、懊悩し、ついに怒りが爆発した。

「友だちだって! ガワン・ギャツォ、何者さ! 悪いやつに決まってるよ!」

「ケサンさん! よう聞いてくだされ!」と壁の向こうで事の次第を聞いていたツェタンじいさんが飛んできた。「この子はほんに聡明じゃ。性格もええ。天才じゃよ」

「天才?」とケサンは口を入れた。「こんなぼんくらの、どこが天才なのさ?」

「いや、ケサンさん、この子の詩はすばらしいんじゃ。わしはこの子よりはるかに年を取っている。牛の毛よりもたくさんの歌をうたってきた。けれどこの子の詩のほうがずっとええんじゃ」

「いまあんたが歌っていた歌かい?」

「そうじゃ。この子が書いた詩じゃ」

「本当かい?」

「本当じゃ」

「本当よ:とリンチェン・ワンモ。

「ケサンさん、ぼくが書いたものです」とガワン・ギャツォ。

 ケサンはもう一度ガワン・ギャツォをじろじろと見た。と、突然靴代のお金を取って彼の懐に押し込み、「これを持ってお帰り!」と命じた。

「しかし……」ガワン・ギャツォは、受け取るのはよくないと考えた。強情なケサンは自分からお金を取ることはしないだろう。その分、ワンモに懲罰を与えるにちがいない。山の奥に放り出すような懲罰を。

「靴はあげるよ!」ケサンは顔に笑みを浮かべていた。「あんたの詩は人を感動させるものがある。靴一足くらいの価値はあるでしょ」

 リンチェン・ワンモはケサンに詰め寄り、ふたたび叫んだ。「お母さん!」その声は清らかで甘かった。ケサンの心の氷は溶けかけた。

「ツェタンじいさん、あなたの歌と演奏はもっとすばらしい。だから靴はあなたに差し上げます」とガワン・ギャツォは靴代をツェタンに握らせた。

「いや! これは……なんと……ありがてえ……」老人は金を受け取り、涙を流しながら家の中に入った。

 六弦琴の奏でる音が滝のように響いた。

 

 のち路上の子どもが言っていたのだが、たまたま通りかかった男が靴を盗んでいったという。老ツェタンがガワン・ギャツォの処女作を歌った頃のことだった。

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