ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男 翻訳

13 故郷から吹く風

 いったん名が上り、名声、肩書き、地位を獲得すると、各方面からさまざまな反応が生まれるものである。崇敬、羨望、嫉妬、嘲笑、非難、邪推、招請、接近、疎遠、追従、欺瞞、忠告、利用、難癖、提灯持ち、中傷、などなど。これらによってまたデマが飛ぶことになる。デマにもまた善意のものと悪意のものとがある。なるほど誰かが言うように、名のある人のまわりには、人類の美徳と醜行もまた集まってくるものなのだ。

 ツァンヤン・ギャツォの故郷では、彼がダライラマの転生であることがわかって以来、さまざまな伝説が生まれ、流布した。たとえば、彼は予言者で、幼い頃「ぼく、ラサに行きたい。歓迎してくださる人々がいるの」と言ったとか言わないとか。また少年時代、何度もブータンから刺客がやってきて彼を殺そうとしたが、彼はそれを察知して逃げることができたとか。
 ダライラマ五世は、転生の姓や名も含め、十二年極秘にせよという遺言を残した。摂政サンギェ・ギャツォはたいへんな権力を持っていたので、さらに三年を加えた。十五歳になったとき、少年は故郷を離れ、ラサに行って登位した。こういった摂政が関わる伝説になると、少年の将来の運命への不安がにじみ出ているようである。

 故郷の人々は彼の伝説を耳にしたが、彼のほうへは故郷のことはまったく伝わってこなかった。

 

 秋が深まってきた。風も日差しもおだやかで、爽快な日を選び、六世はポタラ宮の裏の空き地で弓の練習をおこなった。彼はとくに南方の竹を使った弓を好んだ。この強靭な南弓を手にすると、彼は故郷のことに思いを馳せた。彼は音を発する鏑(かぶら)矢を好んだ。この種の矢先は鉄ではなく、穴のあいた瓢(ひさご)がついているので、発射されたあと、あらぬ方角に飛んだとしても人を傷つけることがなく、心地よい音が聞こえるだけだった。

 六世は政治活動に参加することがほとんどなかったので、彼と認識できる人は非常に限られていた。俗装に着替えたなら、高僧ラマも僧俗官員もまさかダライラマだとは思わず、容易に外出できたのである。この日、ゲタンひとりをつれて出たので、的を立てるのも、弓を拾うのも彼の仕事だった。

 こうした行動は、摂政サンギェ・ギャツォが許可していた。サンギェは五世の死を隠したことによって危機を招いたが、その権勢はかえって強まっていた。彼は六世が年齢を増すごとに権威欲を高めるのではないかと恐れた。そこでひとつの原則を設けた。すなわち自分と権力争いをするのでなければ何でも許す、最低限のことは了承する、と。

 六世ツァンヤン・ギャツォが弓を楽しんだ場所は、しばらく前までは荒れはてた草地だった。ポタラ宮を修築するために土が掘られ、しだいに大きな穴が形成された。そして地上の泉水と天上の雨水が流れ込んで湖となった。人々はその周囲に楊柳を植え、いっそう美しくなった。小さな山を盛り、楼閣を建て、土塀を築き、有名な竜王塘になった。竜王潭ともいう。チベット語ではツォンジャ・ルカンである。伝説によれば湖中に竜が住むというので、湖の中心に竜宮を築いた。

 ツァンヤン・ギャツォが柳の林の中をゆっくり散歩していると、落ち葉が彼の頬を叩き、ひらひらと舞い落ち、水中に沈んでいった。ポタラ宮の倒影は信じられないほど透き通り、色鮮やかで、威厳があった。彼は自分の影を見て、いつのまにか背が高く伸び、しかしやせ細っていることに気がついた。

 秋の景色は人の入り乱れた複雑な心情を触発する。ある人は成熟感、成就感を覚え、大樹の果実が結実したように思い満足を得る。ある人は焦燥感、没落感を覚え、枯れ果てた小さな草のような痛みを得る。ある人は自分の実力を確信し、奮闘しているという実感を持ち、山頂で雪や霜を迎え撃つ心意気を抱く。ある人は享受している感覚、さわやかな気持ちを抱き、誇りを持つ自分に陶酔する。どれだけ多くの芸術作品が秋に生まれただろうか。

 ツァンヤン・ギャツォはラサの秋の光の中で故郷への思いを禁じえず、詩にして歌った。

 

山の上の緑の草は黄色くなった。

山の下の木の葉は落ちた。

ホトトギスがもしツバメなら

モンユルへ向かって飛んでおくれ。

 

 彼はホトトギスでもなければツバメでもなかった。彼は飛びたかった。彼は自由になりたかった。彼はおのれの願望をかなえたかったのだけれど、結局は天の風によって想像の翼を広げるしかなかった。

 

風よ、おまえはどこから吹く?

風よ、おまえは故郷から吹く!

幼い頃から愛し合った恋人を

風よ、ここに連れてきておくれ。

 

 彼は初恋の人が彼のことを理解してくれると信じた。ひたすら彼のことを愛し、彼のことばを聞き、彼に夢中になっていると信じた。彼は空高い雲を見上げ、涙で潤んだ眼に詩句をひらめかせた。

 

西のほうの峰々の頂に

白い雲が飄々と浮かぶ。

あれはリンチェン・ワンモだろうか。

彼女のために焚こう、極上のお香を。

 

 ゲタンが側に来て、弓の準備が整ったことを知らせた。彼は物憂げに弓を引き、ゲタンが指で押さえて的に方向を絞り、距離にはかまわず、心所在なげに矢を射た。矢は的をはずれ、そのまま低い塀を飛び越え、通行人の帽子を射抜いた。その人は一瞬あっけにとられていたが、帽子を拾って、埃を払い、周囲を見回した。湖辺に南弓を持った貴族ふうの青年を見つけると、彼は急に腹が立ってきた。貴族の子弟にからかわれたのだと思い、怒りを収めきれなくなった。彼は血気盛んな青年であり、こんな侮辱には慣れていなかった。貴族の子弟とはいえ舌を出して敬意を示そうとはせず、その場に立ったまま、胸を張り、憤怒の眼でにらみつけ、「もう一度やってみたらどうだ」と言わんばかりだった。

 ツァンヤン・ギャツォは散漫であったことを悔い、その人に謝ろうと考えた。彼は弓をゲタンに預け、低い塀のほうに大またで歩いていった。男もまた塀に近づき、ツァンヤン・ギャツォを迎え撃とうというのか、右手を高く挙げ、長い袖を払い、腰刀をつかんだ。

 ゲタンは仰天しあわてて走って近づき、大声で「閣下……」と言いかけてやめた。ここでダライラマ六世であることがばれてしまってはいけない。ゲタンはただその男を制するようなしぐさをしながら「下がれ! 行け! 消えろ!」と命令した。彼はたとえ自分が刀で切られようとも、ダライラマに怪我を負わせるわけにはいかなかった。たとえ摂政もチベット中の僧も彼を極刑に処さないにせよ、彼は永遠の罪人になってしまうだろう。もし血を流しながらダライラマを守ったなら、生きた護法金剛として人々から英雄として扱われるだろう。このダライラマは若かったが、親しみの持てる面も尊敬できる面もあった。しかし僧である以上、日頃武器を携帯することはできず、俗装に着替えるとき鋼刀のことは忘れていた。

 ツァンヤン・ギャツォはすばやく制止して、激昂しないようにした。男は塀の横にいた。ツァンヤン・ギャツォは笑いながら両手を広げて言った。「本当にすいません。どうか怒らないでください。意図的ではありません。私の弓が下手くそだったのです。たまたまあなたの帽子に当たってしまったのです。これも何かの縁かもしれません。友だちになれるかもしれませんよ」

 明敏な少年にそう謝られて、だれが敵意を抱くだろうか。その男は刀を持つ手をゆるめ、手を伸ばして丁寧に言った。

「どうってことないよ! でも友だちにはならない。ぼくらはおなじ鍋をつつく間柄ではないからね」と言うと身を翻して去ろうとした。

「ちょっと待って」ツァンヤン・ギャツォは叫んだ。「話をすることもできないの? もちろん忙しくなければだけど」と言いながら低い塀の上に坐った。

 傍にいたゲタンの心は千々に乱れていた。功を遂げる機会を逸したのは残念だったが、勃発した諍いが収まったことは喜ばしかった。彼はまた六世が乞食のような平民にこのような口をきくのはいかがなものかと思った。ダライラマの威厳もくそもあったもんじゃない。五世ならこんなことはありえなかった。各寺院の活仏、座主、ゲシェ(博士)でさえも高位に座することを理解し、高貴の身であることを認識する。ダライラマならば言わずと知れている。仏教の長である者は慈悲と善をよくし、衆生を愛し守るべきである。しかしいま俗装を身にまとい、ダライラマの身分を隠している以上、こういう態度を取るのはもっともだと言えなくもない……。

「忙しくはないよ。腹は減って胃袋は暇じゃないけどな」と男は低い塀に坐りながら言った。

 ツァンヤン・ギャツォは嬉しかった。袈裟を着ていない人、官服を着ていない人とどんなに話をしたかっただろうか。彼は男をじっと見て、突然何かよく知っているような気がした。ぼろぼろの服ではなく、その身の何か。それは顔か、目か、態度か、話しぶりか。

「あんた、何してるんだい?」

「何もしてない……。いや何もしてないってわけじゃない。いや話すことは何もないってことだが……」

「どこの人だい?」

「モンユルだ」

「え? モンユルはいいところだ。ぼくも……」ツァンヤン・ギャツォは軽率にももうすこしでしゃべりそうになった。「ラサには何をしに来たんだい?」

「人探しだ」

「親戚かい?」

「いや友達だよ」

「探せたのかい?」

「探せたけど、まだ会ってない」

「どういうこと?」

「高いところに住んでるんだ」

「高い山の上だって会えないわけじゃないだろう?」と六世は興味を持って聞いた。

「聞かないでくれよ。たぶん信じてもらえないだろうから。馬が蹄を失くすのは人が口を失くすのといっしょって言うからね。もしことばを間違えたらそれはダライラマに不敬を犯したことになり、捕まってしまって割に合わないからね」

「大丈夫さ。ぼくはいま手元が狂ってしまったけど、あんたはそれをとがめたわけでもない。失言したとしてもダライラマがあんたをとがめる理由は何もない。それでそのあんたが探してる人はどこにいるんだい?」

「目の前にいる」

「え、目の前?」ツァンヤン・ギャツォは驚く。

 男は眼前に聳え立つポタラ宮を指差していた。

「見ろよ。あいつはあそこにいるんだ。こんなに近いのに会えないんだ! 山を越え川を渡りやっとここに至ったのに、その石の階段を上ることができないんだ。門を守るやつらはたいへんな強面で、おれのことをペテンだの、狂人だの、魔物だのさんざんに罵るのさ。足が速かったら毒でも投げつけて逃げるところだ。ああ、あいつは中にいて当然知らないだろう。知らなければおれを中に入れることもできない。なんて言ったらいいのか。あいつはきれいな水瓶に供えられた白い蓮華だ。泥水で育ったときのことを忘れてしまったのさ!」

 ツァンヤン・ギャツォの心の中の疑いの氷が解け始めた。彼はあわてて聞いた。

「ということは探しているのは誰だい?」

「ガワン・ギャツォ。いまはツァンヤン・ギャツォという名だ」男はダライラマの名を口にした。

「なんてやつだ! ダライラマ閣下の御名を口にしてはならぬ!」突然大声を出してゲタンが叱責した。ゲタンは殴りかかるか男の口を叩くかといった勢いだったが、六世が制した。

 ツァンヤン・ギャツォは男の両手を取り、言った。

「おまえは……ガンツだね?」

「そうだ。どうして知ってるんだ?」男は驚き、信じられないといった顔をした。

「おれだよ。ガワン・ギャツォだよ」

「そ、そんなばかな。おれを笑いものにしないでくれ。ガワン・ギャツォはもうダライラマになったんだ。あんたのわけがない」

 ガンツは手を引っ込めた。どうしても十二年前の子どもとおなじとは思えなかった。またダライラマがこんなふうであることが理解できなかった。

「ガンツ、忘れたのかい?『肉と骨におかゆをかけたい。屠殺人と友だちになりたい』それからこんな歌も。『牛さんよ、ぼくは叫ぶ、行け、牛よ。牛さんよ、はやく、はやく。その声が山に響くよ』」

 ツァンヤン・ギャツォは低い声で歌った。幼年時代の悲哀を思い出し、声をふるわせ、嗚咽し、涙が落ちるままにした。

 ガンツは立ち上がり、二、三歩下がり、突然ひざまずいて声を出して泣き始めた。

「ダライラマ閣下……」これ以上何も言えなかった。

 ツァンヤン・ギャツォは走り寄ってガンツを起こした。ふたりは見つめあい、破顔一笑した。

「さあ、いっしょにポタラ宮に戻ろう」

 どうしたらいいかわからないゲタンは、返事をし、急いで的や落ちていた弓矢を回収した。

 彼らは西へ進み、ポタラ宮の北西の角に着くと、後門に向かって斜面の石畳の道を上っていった。

 ゲタンは六世が卑しい者を貴賓客のようにポタラ宮の中に入れるのを見て、非常に不愉快に思い、まるで突き落とされてズタズタにされたように感じた。彼には身分の高い者がどうして支え台をはずすまねをするのか、理解に苦しんだ。なんたってダライラマである。神聖にして不可侵なる最高位である。それなのに屠殺人と肩を並べて歩くとは! それどころか屠殺人のあとを歩いている! 名もガンツとは! なんと下卑ていて、けがらわしいことか。仏は衆生を愛すというが、衆生はみな仏の足下にあるということか……。

 突然ゲタンはある一句を思い出して苦笑した。自分の頭をぽんぽんと叩いてあらためて六世に敬服した。

 すべての果実が結実した木の枝は、低く、低く、垂れていく。

 という一句だった。

ツァンヤン・ギャツォは歩きながらガンツに叔父のナセンについてたずねた。

「お父は死んだ」

 ツァンヤン・ギャツォは歩を止め、天を仰ぎ、合掌し、目を閉じてぶつぶつと念じたあと、また顔を上げ、ひたすら祈った。

 空には大きな鷹が旋回していた。

 ツァンヤン・ギャツォの記憶の中では、叔父は頑丈で、力強く、義侠心があり、豪放磊落だった。永遠の生命力があり、死ぬはずがなかった。皮衣を着た叔父がポラ山の吹雪にも負けずにやってきて、母の死を知らせてくれた。ナセンの最後の印象が雄鷹であったことを思い出した。

 ガンツは言った。

「ゾンポンのギャルイェパじじいは躍起になって屠殺税を取り立てようとした。税はしだいに高くなったんだ。お父は取り立てを迫られたけれど、拒んだ。それでギャルイェパは皮の鞭でお父を叩き、お父は全身血まみれになった。お父は罵って『おれはたくさんの家畜を屠ってきたが、今日わかったよ、本当の家畜はおまえだってね。まったくもって、屠る相手を間違えてたね!』と言った。ゾンポンのじじいは刀を出してお父を切り刻み始めた。『わしがおまえを屠ってやる。おもえこそ家畜さ!』するとお父は言い返した。『待っているがいいさ。おれはダライラマ六世の父母の友人なんだよ。六世はこのことを知ったらどうお思いになるだろうね』この一言で形勢は大逆転だ。お父の縄は解かれ、侘びの品物をもらい、税の取立てもなくなったよ。けれど遅すぎたんだ。お父は倒れ、二度と起き上がることはなかった」

 ガンツの目は怒りに燃え、涙は流れなかった。

「そうだったのか!」とツァンヤン・ギャツォも怒りを抑え切れなかった。「摂政に話して、懲罰を加えてもらうよ」

 そして長い時間の沈黙。重苦しい足取りと呼吸の音だけがポタラ宮に入る石畳の上に響き渡った。

 

 六世はガンツに書庫の中に坐るよう言った。自身は寝室に入り、ゲタンの助けで着替え、客のもてなしの体制を整えた。侍従らがあわただしく茶を出し、水、お香、食べ物などを滞りなく整えた。六世は彼らをすべて下がらせ、ゲタンに命じた。「おまえも休んでくれ」

 それからガンツに向かって「腹が減ってるだろう。好きに食べてくれ」

 ガンツはしかしかえって拘束されたような気がした。周囲のすべてのものが珍しく、高価で、神聖で、荘厳であると思い、窒息しそうだった。こんなものがあるなんて、人は想像することすらできないだろう! もっとも小さい階段でさえ、厖大なバターを塗りたくらなければ、こんなにピカピカにできないだろう!

 ツァンヤン・ギャツォは彼がとまどっているように見えたので、やさしく「くつろいでくれ。おまえは永遠に友だちだし、お兄さんだ」と言った。

 圧倒的な存在感、至上の地位。はじめて見るガンツの目には、地震によって揺らぐ山のように見えた。彼はツァンヤン・ギャツォの身体の上にかかる朝霞のような袈裟を見てこのように言わざるを得なかった。

「お願いです、どうか、けっしてそのようなことはおっしゃらないでください。恐れ多いことです。あなたさまはダライラマであらせられるのです」

 ツァンヤン・ギャツォは苦笑し、長い間考え込んで一言も発しなかった。少年時代ふたりは笑い、遊ぶ友人同士だったが、いまは越えられない山のようなものがふたりを隔てていた。これは時間が作り出したものではなかった。歳月が流れても真の友情を疎遠にすることはない。疎遠にするのは、身分と地位の変化だった。ああ、ガンツよ、高みにいるダライラマとみなさないでくれ。十年前とおなじように接してくれ。どうかポタラ宮の日光殿に坐して限りない仏法を有するなどと言わないでくれ。

彼は考えつつ、自嘲的な声で詩を吟じた。

 

黄色と赤の袈裟を着て

もし僧になることができるなら

あそこの湖上の黄毛の野鴨だって

どうして仏法を理解しないなどと言えるだろうか

 

だれかに向かって経文を唱えて

三学(戒学、定学、慧学)仏教徒の称号をもらえるなら

しゃべれるオウムだって

どうして仏教の教えを広めないと言えるだろうか

 

 吟じ終えて、彼は大きく息を吐いた。袈裟を着る人は増えているが、本当に仏教を理解している者はどれだけいるのか。本当に衆生を送り出すことのできる僧侶はどれだけいるのか。そういった昔からある問題について考えていた。

 ガンツはこの詩を聞いておおよその意味を理解することができたが、六世の憂愁と不満の情がこめられていることまではわからなかった。こんな高位にあって、食べるにも着るにも事欠くことなく、騙されたり、罵られたりすることもなく、心のままにいかないことなどなかった。彼もまた長らく物思いにふけっていた。

 

 腹ペコだったガンツは、おいしそうな食べ物を前にしても一口も口をつけず、敬虔な仏教徒が献じられた食べ物を守っているかのようだった。その実彼は宗教的ではなく、ニンマ派の知識は若干あったが、仏に対し恐れるという気持ちは持っていた。

 ツァンヤン・ギャツォは彼の肩をぽんと叩き、先にバター菓子を口に入れ、大きな陶磁の盆を彼の前に押し出し、「さあ食べて、食べて。故郷にいるときと何ら変わらないよ」と言った。

 ガンツは狼か虎のようにガツガツと食べ始めた。

「最近はいったいどんな生活を送っていたんだ?」とツァンヤン・ギャツォは逆に問いかける。

「物もらいだよ」ガンツは両頬を膨らませ、ぽつりと言った。

「一銭もお金がないのかい」

「いやあるよ、たくさん」ガンツは下唇を触ったあと、胸元からずっしりと重い皮袋を取り出し、卓の上にどさっと置いた。

「一銭も使ったことはない」

「どうして、どうしてお金を使わないで、ひもじい思いをしてるんだい」

「だってこの銀はみなあなたのものだから」

「ぼくの? どういうこと?」

「聞いてくれ」このときガンツから堅苦しさが消えた。ツァンヤン・ギャツォはすでにダライラマではなく、彼の幼なじみだった。「この銀は、半分はあんたのお母さんが死ぬときおれのお父に渡したものなんだ。お父はギャイェルパで税の支払いを迫られているとき、おれに預けた。そもそもこの銀は、あんたが三歳のとき、インドへ巡礼に行くという旅の僧が置いていったものらしい。その僧がインドから帰ってくるとき、返すつもりだったらしいけど……」

「ああ、わかったよ」ツァンヤン・ギャツォは話に割って入った。「それは僧が置いていったものだよ」

 六世の眼前にはあのタツァン・ラマ、ソナム・ドルジェの姿がありありと浮かんできた。はじめ彼は宰相の命を受けてお金を置いていったのだが、その後だれもそのことについて 言う者がいなかった。宰相からすればたいした金額ではなく、普通の農民にすれば驚愕の金額だった。父母は当時自分の子どもが霊童に選ばれたとはつゆほども知らず、何も功をなしていないのに禄を受けるわけにはいかず、何年間もほったらかしにしていた。叔父のナセンといえばよく知る人から頼まれたことを守り、お金を使うことはなかった。お金はガンツに渡り、ひもじい思いをし、物もらいをしながらも、それに手をつけることはなかった。なんと正直で、高徳な人々だろう! 貧しさが彼らを高徳にしたのか、高徳が彼らを貧しくしたのか……。

「それで残りの半分のお金というのは?」

「おれがラサに来る前、お父があんたに代わって家の財産を売却した。その分をあんたにあげることができるのさ」

 ツァンヤン・ギャツォは銀貨の入った皮袋をガンツに渡し、命令口調で言った。「みなおまえのものだ」

「いや、それはだめだ」

「だってふたりのうちどっちがそれを必要としてる? おまえは食べるものがないというのに、ぼくには銀貨があっても何の役にも立たない」

「今日あんたに会って、あんたはいまでもおれを友だちだという。これ以上の宝があるかい? 銀貨なんて水みたいに流れていって消えてしまうもの。でも友情は山のようにずっと長く残るんじゃないかな」

「いいこと言うね。でも銀貨は受け取らなければならない。ぼくがあげたものを、拒絶することはできないんだから!」

 六世は彼に替わって不平がましく言った。「おまえはラサに住み、人間らしい生活をしなければならない。いい馬を買い、いい服を着て、いい家を建てなければならない。できれば商店がいい!」と六世は興奮気味に語る。「いい奥さんをもらうといい。リンカ(公園)に行ってぼくといっしょに弓を楽しむ。お酒を飲んでバターを食べる。おまえはひとりじゃないのかい? だれかいい人がいるのかい?」

「おれには腕があるし、力がある。技もある。屠殺人ならやっていける」

「もう二度と殺生する必要はない」

「わかったよ、そうするよ!」

 そのときゲタンが報告のために入ってきた。

「ダライラマ閣下、本日はたいへんめでたい日であります。閣下のご親戚がいらっしゃってます」

「親戚だって?」六世はいぶかしく思った。親戚なんていただろうか。もしかするとリンチェン・ワンモだろうか。そうだ、彼女以外にだれがいるだろうか。故郷の風が彼女をここに運んできたにちがいない。彼は喜びを抑えきれず、あわてて聞いた。「それはいいことだ。それでだれなのか」

「おふたりです」とゲタンはふたりを強調した。

 六世は思った、もうひとりはケサンだろう。当然ケサンもいっしょに来たはずだ。彼は待ちきれずに責めた。「どうして早く彼らを入れさせないのだ?」

「状況がわからずに軽率に入れるわけにはいきません。彼らは宮門の外にいますが、どこか不遜なところがあるのです。もしダライラマ閣下の先輩だとか言わなければ、とっくに追い払っていたでしょう」

「おれだっておなじようなもんだよ」とガンツが口をはさみ、そのあと後悔した。卑しい身分の者は高貴なダライラマに近づくことすらできないのだ。

「そのふたりがどんな人物か、もうすこし詳しく説明してくれ」と六世はあせりを隠せなかった。

「は、閣下。彼らは一男一女です。年のころは五十を上回っていますでしょうか。男の名はナンツォンパと言い、閣下の舅(しゅうと)ということです。女のほうも姑(しゅうとめ)と言い張ってます。閣下はお会いするべきではありません」

 ゲタンはガンツの例を教訓とし、ダライラマの親戚や友人の可能性がある者をむげに追い出すようなことはなかった。たとえこの男女が無礼千万な行いをしたとしても、ただじっとこらえただろう。彼らはなぜダライラマの舅、叔母を主張するのだろうか。

 ツァンヤン・ギャツォは失望した。この件に関し、嫌悪感を覚え、また笑える話でもあった。なにが舅だ、なにが姑だ。父母以外に特別な人はいない。それに父母は舅・姑の話など一度もしたことがなかった。もしそういう親戚がいたとしても関係はあまりよくなかったということだし、はるかに遠くて行き来がなかったのだろう。しかしこれでは半分しか説明がされていなかった。ナンツォンパとは何か。自分と何か関係があるのだろうか。偽りもまた一種の知恵である。偽りをなす者にも、勇敢な者と卑怯な者、愛し敬うべき者と恨み、悪をなす者などがあり、一概には言えない。しかし権力者の親戚になりすます者は、後者(卑怯な者、悪をなす者)に属するだろう。

 六世は推理を中断し、慎重を期すために、ガンツに向かってたずねた。「おまえは舅や姑の話を聞いたことがあるかい?」

「ないよ」ガンツはこたえる。

 ツァンヤン・ギャツォは、フフンと鼻を鳴らし、ゲタンに命じた。

「聞いただろう。舅や姑など絶対にありえない。彼らを追い払ってくれ」

「はっ! ダライラマ閣下!」

 ゲタンはこの男女のために意味もなく二回も行かされ、癇癪を起こした。

 六世は諭すように言った。「彼らはそのまま行かせなさい。罵る必要もなければ、罰する必要もありません」

「は! 閣下、ほかになにかございましょうか」

「警護の者たちに言ってくれ。このわが友は、いついかなるときでも、自由に来ることができる。だれも邪魔することはできぬ」とガンツを指差した。

 ゲタンは応答した。しかししばらく呆然として、それから息を呑みながら言った。「貴兄の名前だが……変えることはできないだろうか。そのう……名を告げるときもうすこしいい名前のほうが……」

「何だったらいいんだ? ガンツってのは足から先に落ちるって意味だからな。そんなに悪くはないんだけどな……」

「まあ、粋ではないな」と六世が割って入る。「そうだな、タルチンではどうだろう」

「それならすごくいいです」ゲタンはタルチンに礼をした。「たいへん喜ばしいことですぞ。閣下がそなたの名を考えあそばせた」

 タルチンは礼を返した。ゲタンは退出した。

「おれも行くよ」とタルチンは立ち上がり、帽子を取った。

「ちょっと待って」と六世。「ひとつお願いがあるんだ」

「言わないでくれ。死ねと言われたら死ぬんだから」

 六世は笑った。「どうして死ぬなんて言うんだ」

 彼はタルチンの肩を抱き、心をこめて語った。

「大変だとは思うが、ツォナにもう一度行ってくれないか。街に小さな店がある。ケサンという女性の店だ。ケサンの姪がリンチェン・ワンモ。ぼくの友だちだ。ガワン・ギャツォがあなたたちにラサに来て欲しいと願っていると伝えてくれ。生活のことならぼくがなんとかするから」

「わかった」とタルチンは舌を出した。鬼のような形相になり、「任せとけよ。あす、いや今日、出発するから」と言った。