ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男 翻訳

14 愛する人はお嫁に行った

「あなたさまの仇はわたくしが替わりに取りました」

 摂政サンギェ・ギャツォは六世にそう奏上した。

「モンユル地方からの上申書に記された、無実の罪で亡くなられたナセンさんの件は、先月二十八日、正されました」

 六世ツァンヤン・ギャツォは感情を面に出さなかったが、かえって不憫に感じていた。彼は摂政を責める気にはなれなかったものの、やんわりと言った。

「私は罰を与えるべきだと言ったまでで、処刑せよとは言わなかったぞ」

「この案件に関しまして、法典に照らしまして、命でもって罪を償うしかございません。死に至った者は賎民といえども、ダライラマ法王に近しい人であることをお忘れなく」と鉄に釘を打つように奏上した。

 貴族だってどれだけの奴隷を打ち殺したかわかったもんじゃない、とツァンヤン・ギャツォは心の中で思った。命で償うなどといったら、きりがないだろう。おそらく自分がダライラマであるがゆえ、ご機嫌取りで、たいした罪を犯したわけでもない地方官を処刑することになったのだ。

 ツァンヤン・ギャツォはじつのところ、なぜ摂政サンギェ・ギャツォがゾンポンを処刑したか、わかっていなかった。そのことをすこし遠回りに説明しよう。

 ダライラマ五世が逝去してから数年、ごく少数の人々のあいだである噂が広まっていた。すなわち五世はすでに亡くなり、転生霊童はウギェンリンにいると。この噂がどこから漏れたかはっきりせず、たしかめるすべもなかった。当時は、調べることができず、調べようとすればするほど核心は遠ざかってしまうのだった。そして、証拠が出てきたときには、調べる必要はなくなっていた。

 当時ツォナ・ゾンのゾンポン(首長)だったギャヤパはその噂が気になっていた。ギャヤパの父親はラサでダライラマ四世、五世に仕えていた。貴族の家庭に育つと、政治や宗教に熱狂したり、敏感になったりするもの。いわんや転生霊童が自分の所管内に生まれたとなれば、放っておくことなどできない。真相を究明すべきと感じ、さっそく摂政宛てに極秘の書簡を送り、単刀直入に問うた。

「近頃、水と猪の年に生まれたウギェンリンの僧タシ・テンジンが、ダライラマの転生霊童であるという噂が飛びかっております。モンユルの人々の口にその話題がのぼり、人心が揺らいでおります。ここは厳しく情報の流出を抑えていただきたい」

 摂政サンギェ・ギャツォはこの書簡を読み、悩ましく思った。考えに考えて、ギャヤパにつぎのような返書を送った。

「いわゆる転生霊童に関することはまったくの戯言にすぎませぬ。とはいえ衆生のために仏は調伏なさるもの。貴賎を問わずさまざまな異変や兆候があらわれるものです。ダライラマ五世にその件を奏上すると、つぎのように仰せられた。朕はまさに生命の狭い道を歩いている、と。それゆえ外に向かっては、五世は関閉修行に励んでいるといい、内に向かっては法に則って事をなしていると説明しているのだ。中国の人々と北方のモンゴルの人々には、ダライラマ五世との接見を許している。だれかがその流言を広めているとすれば、ただちに捕まえて罰するべきであろうが、いまは追求しないとしよう。ただ、流言飛語を最小限に食い止めるよう努めねばならない」

 ブータン地区のふたりの高僧は噂を深く信じて疑わず、霊童をなんとしても手に入れたいと考えた。ナンツォンパが霊童の叔父ということを聞き、彼らは馬や銀の碗、黄金などの賄賂をナンツォンパに贈った。ナンツォンパはそれをまたギャヤパに贈ったのである。摂政が得た情報によれば、ギャヤパはガワン・ギャツォ一家がブータンへ逃げるように画策したが、失敗に終わったとのことである。

 このことから摂政サンギェ・ギャツォは心底からこのゾンポンを憎み、殺そうと考え、その口実もできた。しかし六世に対し、このことをこれ以上打ち明ける必要は一切ないと考えた。

「あなたのおっしゃるとおりだと思いますが、どうか寛大になさってください」と六世は摂政に言った。「最近の五世に関する文書を読みますと、心打たれることがあります。たとえばチベットのモンゴル兵がギェルタン(雲南中甸、いまのシャングリラ県)を占領したあと、現地の反乱者の頭目20名に処刑が言い渡されました。しかし五世はすぐ処刑を終身刑に減じています」

「五世は偉大なるお方。その決定はつねに正しいのです」と摂政サンギェ・ギャツォは意図的に話題を転じようとした。「われらは従来、人を殺すなどということはいたしません。昔のモンゴル人とは違うのです。彼らはチベット人を数多く殺してきました。殺されたなかには、傑出した人物も含まれるのです。パスパの件は、驚くべき例です。パスパは侍従によって毒殺されました。しかしこの侍従はフビライ汗に、ポンチェンがパスパに対し不忠を働いたと訴えたのです。ポンチェンは現在のデシ(摂政)にあたり、十三万戸を管轄し、全チベットの政務を担っていました。ポンチェンの名はクンガ・サンポ。モンゴルの将軍は軍隊を率いてチベットに入り、パスパを殺したのはポンチェンだとして審理を開くよう要求したのです。ポンチェンは白い衣を着、黒い帽子を被り、モンゴル人の将軍の前でパスパに対する不忠を一切否定し、身の潔白を訴えました。そして、こう言いました。もしあなたがたが私を殺すなら、白い血を流して無実を証明いたしましょう、と。モンゴル人は聞き流し、刑を執行しました。はたして、頭が切断されたあと、白い血が流れてきたのです」

 摂政サンギェ・ギャツォはこれ以上しゃべらなかった。

 ツァンヤン・ギャツォはこの話を聞いたことがあったが、あえて摂政の話をさえぎろうとはしなかった。摂政が一段落話し終えると、彼は付け加えた。

「フビライ汗は正しいでしょう。この状況をよく理解していたので、ポンチェンが白い衣を着るのは彼が無実であることを示しておる、黒い帽子を被るのは濡れ衣であることを暗示している、と述べられたのです」

「そのとおりだ。私に他意はない。ただわれらの赤い喉から白い血が流れるかどうか、われらの白い体に黒い帽子を載せられるかどうか、それが心配なだけだ」

 そう言って摂政はツァンヤン・ギャツォの顔をうかがった。

 ツァンヤン・ギャツォは摂政のことばのなかに、モンゴルの王たちへの敵意を感じ取った。また何かよからぬ予兆のようなものがあった。同時にまた自分が政治に関心があるというふうに思われないように警戒しなければならなかった。そのため、話題をそらした。

「先生、あなたは早くから私がダライラマの転生であることをご存知でした。当然私の私生活のこともよく知っておいででしょう。ひとつ伺いたいことがあるのですが」

「もちろんですとも。知っていることのすべてを申し上げましょう」

 摂政は六世が先生と呼んでくれたことがうれしく、ますます態度がうやうやしくなった。先生とは、ダライラマの先生ということである。ツァンヤン・ギャツォはふだん人を先生と呼ぶことはなく、ただ「あなた」と呼んだ。

「じゃあ、私の親戚のことをよくご存知でしょう」ツァンヤン・ギャツォは強行突破してでも彼に会おうとした男女のことを思い出していた。

「ああ……」摂政は次第に思い出した。「あなたがたがウギェンリンに移ったとき、叔父さんがおられましたね、たしか、ナンツォンパという。叔母さんもたしか……。はっきりと申し上げますが、あのかたたちはお金にうるさかったと記憶しています。閣下のご父母はその夫婦に追い出されたのでした」

「この二人が本当にポタラ宮に来たのだろうか」とツァンヤン・ギャツォは後悔した。ゲタンに彼らを追い返させてしまったのだろうか。叔父と叔母がどんな人なのか、知りたかった。会ったなら、憐れんで、もしかすると銀貨でも与えただろうか。

「ご父母はウギェンリンに引っ越されたあと、叔父叔母夫婦とは一切の関係を絶たれました。彼らの話題に触れることすらなかったかもしれません。それゆえ、閣下は彼らのことはご存知ないでしょう」

 摂政は溜息をつき、慰めるように六世に語った。

「恨む必要はありません。同情する必要もありません。何も考えることはありません。偉大なる人物には大きな不幸がつきものです。家族や親戚によって迫害を受けることは、歴史上まれではないのです。たとえばシャカムニは足の親指を兄弟によって切られました。チベットでも、ラルパチェンは兄弟のランダルマによって殺されました。ミラレパは財産や土地を叔父・叔母にとられてしまいました。ダライラマ五世も家の財産を叔母に騙し取られ、それらはツァンパ汗のもとにいってしまいました。このことに関しては五世が『雲裳』に書いておられます。恩知らずの親戚のことなど、相手にしないのがよいかと思われます」

 宰相はこのように説明すると、その場を辞した。出口まで行ったところで彼は戻ってきて、付け足した。

「そのような連中を私が罰したかどうか、気にする必要はありません」

 ツァンヤン・ギャツォは坐ったままぽかんとしていた。あたかも抵抗することができず、渦巻のなかであちこち突かれながら、旋回しているようだった。しかし彼はその圧力になんとか持ちこたえよう、なんとか身を避けよう、泳いで自分の岸に渡ろう、と考えた。

 

 ツァンヤン・ギャツォは毎日ポタラ宮の裏へ行き、無心に弓矢に励んだ、あるいは座禅を組み無心に読経した。あるいは宮中をそぞろ歩きし、ときには窓から青い空を眺めた。彼はときには焦りを感じ、ときには奮い立った。彼はリンチェン・ワンモが来るのではないかと期待していたし、かならず来ると信じていた。ふたりは愛を誓い合ったのだ。別れは予期せぬもので、強制されたものだった。

 現在ダライラマという身分にあり、結婚することは不可能だったが、彼女を保護することは可能で、養うこともできた。いや、結婚することもできるのではないか。愛し合っているのだから。もし公に愛し合えないなら、ひそかに愛し合えばいいではないか。

 ツォナから護送されたとき、彼はリンチェン・ワンモとの縁が完全に切れてしまったと思い、絶望的な気分になった。しかし気持ちを断ち切ることはできなかった。遠くなればなるほど、思いは強くなるのだ。タギェンネの出現は天意だったのではなかろうか。自分に替わってリンチェン・ワンモを探す人はそう簡単に得られるものではない。タギェンネならばリンチェン・ワンモをラサに連れてくることができるだろう。彼らの縁は切れたわけではなかった。これから新しい生活がはじまるのだ。

 一日、また一日と時間が過ぎたが、タルチンことガンツは戻ってこなかった。ツァンヤン・ギャツォはまた思いを巡らした。彼がダライラマになってから、友だちのタルゲネが彼を探しにやってきた。交わりのなかった叔父・叔母さえもが探しにやってきた。それなのにリンチェン・ワンモがやってこないというのはどういうことなのだろうか。もし心変わりしたのでなければ、なぜやってこないのだろうか。……そうか、心変わりしたのかもしれない。しかしそうなら、どういうふうに? だれが彼女を心変わりさせたのか。ああ、リンチェン・ワンモ……」

 

永遠の愛を誓いあったのに

心変わりしたのでしょうか

黒髪を飾る碧玉も

おしゃべりをやめてしまった

 

 タルゲネが戻ってきた!

 ツァンヤン・ギャツォは戻ってきたタルチンに凭れかかるほど近寄った。衣服から故郷の香りが漂った。

「あの娘(こ)といっしょじゃないのか」六世は開口一番聞いた。

「遅すぎたよ」タルゲネは座布団を投げ捨てた。「ケサンおばさんの店を探し当てたのだけど、リンチェン・ワンモはもうお嫁に行ってしまってたんだ」

 ツァンヤン・ギャツォは城壁の上に倒れこんだ。ポタラ宮の屋根の一番上で強風に揺れ、引き裂かれた旗のように感じた。

 ああ、嫁にいってしまったなんて。待っていても、彼女が来るはずもない。絶望のなか、これまでの愛情は恨みに変わってしまいそうだった。彼は筆を取り、詩を書きつらねた。

 

幼い頃から好きだったあの人は

狼の血を持っていたのでしょうか

たとえ里に暮らしたとしても

山へ帰りたくなるものなのか

 

娘は母から生まれたのではなく

桃の木に生まれ育ったのでしょうか

どうしてその愛情は

桃の花よりも早く萎んでしまうのでしょう

 

 タルゲネは弁解がましく「どうしようもないよ。あなたはもっと早く手紙を送るべきだったのに」と言った。

「どうしてあの娘(こ)は探しに来なかったのだ? どこへ行ったら手紙を託すことができるの? それにあの娘も、ケサンおばさんも、隣に住むツェタン・トゥグも、だれも字を読めないんだ。ゲルク派の長でチベットの神聖なる王が、公然と愛を伝えることなどできないだろう? ぼくの立場ではいろいろと難しいことを、あの娘は理解できなかったのだろうか」

 タルゲネは反駁した。「彼女の立場だって難しいんだ。あなたにはそれがわからないのかい? あなたはダライラマになった。遠くて、高い存在になってしまった。ごく平凡な娘にすぎない彼女がどうやってダライラマに近づけるのだ? あなたを探す? あなたと結婚する? あなたは神聖なる高木。小さなうさぎには登れないだろう?」

「そのことに思い至らなかったわけじゃないよ。考えに考えて、あの娘をラサに住まわせようと思ったんだ。費用はもちろんこちらの負担。生活はガンツ、おまえに見てもらって……」六世は溜め息をもらした。後悔のあまり恨みの詩を書いてしまったのだ。

「でも遅すぎるんだよ! ケサンおばさんは言ったよ、もっと早く手を回してくれていれば、そのとおりにできたってね。娘ってのは、嫁に行かなければならない。求婚者に断りを入れるのはむつかしいものさ。何年も待つなんてことはできない」

「あの娘はなんて言ってたのだ? リンチェン・ワンモはなんと?」

「リンチェン・ワンモには会えなかった。もうリダンに行ってしまっていたのだ」

 ツァンヤン・ギャツォの心の中の川の水面には怨恨と嫉妬の氷塊が流れていた。それらを心の傷と思いの波が押し流した。

 彼はまたいつものように窓に近寄り、果てのない青空を眺めた。

彼女はだれのもとに嫁いだのだろうか。夫はやさしくしてくれているだろうか。彼女はガワン・ギャツォへの思いを断ち切れないでいるのではなかろうか。もう一度彼女に会うことはないだろうか。彼はそういった気持ちを詩に託した。

 

白い野生の鶴よ

どうかその羽を貸しておくれ

はるか遠くの北へは行かない

ただリダンへ向かって羽ばたくのみ

 

 タルゲネは六世を慰めたあと、ポタラ宮を出て、自分の生活の中に戻っていった。

 多感な詩人は熱愛中、詩を作らずにはいられない。失恋したときにも、詩に気持ちを吐露することによって苦痛をやわらげずにはいられない。いま、彼の心はどこに向かって訴えているのだろうか。タルゲネは去り、摂政サンギェは冷酷で厳しく、ゲタンは彼の気持ちを理解することができない。ポタラ宮の中のあらゆる仏、菩薩、金剛神も彼に同情しない。リグジン・ラカン(持明仏殿)の銀のパドマサンバヴァ像も話をすることができない。パドマサンバヴァの両脇にはふたりの妻が控える。もし満ち足りているなら、ポタラ宮の中の僧侶の苦悩を憐れんでいただけるだろうか。チュージェ・ドゥプ(法王洞)のソンツェン・ガムポ王と文成公主及び(ネパールの)ジェツン公主は愛情あふれる生活を送ったのか、傲慢で満足気な様子で、他人のことなどどうでもいいという風である。ただ詩のみが彼の友であり、理解者であり、よすがであり、離れられない影であった。

 何日間も彼は夜、熟睡することができず、昼は食べることができず、ただ紙と筆だけを肌身離さず持っていた。

 彼は壁の上に掛かる弓を見て、詩を詠んだ。

 

去年植えた青い苗

今年、すでに茎となる

青年は突然年老いて

身は弓のごとく折り曲がる

 

 彼はまた窓から外を眺め、幡(はた)にリンチェン・ワンモのことを想う自己の姿を重ね合わせた。

 

手ずから書き留める黒い文字

雨水に濡れて消えかかる

心のこもったものならば

擦れて消えるはずがない

 

 彼は鏡の前で詩を書いた。

 

我を熱愛してくれた人

すでにどこかへ嫁いでいった

心に想うことは山ほどあって

皮膚は枯れ、肉は痩せ落ちる

 

 早くに結婚を申し込まなかったことを悔いてうたった。

 

宝はおのれの手の中にあったのに

それがどんなに稀であるか知らず

宝は別の人のものになる

思うとおりにはいかないもの

 

 絶望的な失恋は高尚なものではあるけど、行き場がなかった。もし自分を許さなければ、半狂乱になってしまう。

 

野生馬は山野を駆けるが

縄を用いれば捉えられる

恋人がいったん心変わりすれば

神の力をもってしても捉えられない

 

 時間の流れに任せれば、心の負った傷も癒えてくるもの。ツァンヤン・ギャツォの失恋の苦しみも次第に小さくなった。

 冷静な時期がやってくると、内容の豊富さと理性の価値について考える余裕ができた。感性を草原にたとえるなら、理性は雪山にたとえることができた。草原がなければ、雪山もありえなかった。雪山に登らなければ、草原を見渡すことはできなかった。

 最近起こった二つの事件はツァンヤン・ギャツォを考えこませた。ナセンを殺害したあのギャヤパについて、一言も罰せよと言わなかったのに、摂政はすばやく動いて彼を捕らえて処罰した。あれほど思いを寄せていたリンチェン・ワンモのことは口にできず、彼女が他人に嫁ぐのを阻止できなかった。自分は恩に報いることもできるが、仇を討つ権利も擁していた。とはいえ取る仇もないので、恩に報いることもないのだが。自分の愛する人を結局は守ることができなかった。ある方面では、自分は巨人だった。しかし愛情に関しては、小鳥にすぎなかった。自分が欲しないのに得たものは、捨てようとしても、捨てることができない。欲しても得られないものは、このように如何ともしがたい。だれもが運命は仏が決めるという。すると仏の運命はだれが決めるというのだろうか。衆生よ、あなたがたはダライラマをうらやましく思うかもしれないが、こちらはあなたがたをうらやましく思っているのだ。

 反抗の一粒の火種が彼の心の中でくすぶっていた。しかしだれに反抗するのか? 摂政か? 摂政は彼に対して悪意を持っているわけではなく、それどころか、愛し、保護してくれていた。モンゴルの王族か? 彼らは転生霊童選びには参加せず、ラサに運んで登位させたのも彼らではない。では中国皇帝か? 皇帝ははるか遠く、北京にいた。 

 それでは誰? ツァンヤン・ギャツォという人物を存在しづらくしているのは何なのか? その力は彼を渦巻の中に放り込んだ力である。その力はだれか特定の人間から生まれたものではなく、形のないものだった。それだけに強力だった。光から逃れることはできない。逃れること自体が一種の武器だった。勇士を作ることはできないのだった。避けることがどうしてもできないとき、反撃する好機なのである。

袈裟を着たならば、土でできた塑像を動かすことができるだろうか。壮麗なるポタラ宮は結局愛の断頭台なのか。恋人への愛と衆生への愛は水と火の関係なのか。来世の幸福は現世の孤独や苦しみと交換することができるのか。悟りを開きたい心と人の欲望は敵対するものなのか。考えれば考えるほど彼は錯乱し、疑問点は増える一方だった。

 

 彼は鈴を鳴らし、ゲタンを呼んだ。

「おまえに尋ねたいことがある」と六世は言った。「忌憚なく申してくれ」

「はい、ギャルワ・リンポチェ閣下。ありのままにお話します」とゲタンは緊張気味にこたえた。

「坐ってくれ」と六世は溜め息まじりに命じた。「この宮殿は仏寺でもあり、灯明をともし香を焚く人は数え切れないが、気軽に腹を割って話す人はほとんどいない。わかるよな? 私はこういうのは好きではないのだ」

「それはいかがなものでしょうか」ゲタンはどこかのんびりとしていた。「高山は拝まれるもの。大人物も求められるもの、と諺に言います。あなたさまは人に福をお与えになるのであって、人に何かを求めるべきではありません。あなたさまは高いところにおられるのです」

 六世は頭を振った。「鳥も羽一枚では大空を飛ぶことはできないと言うではないか。このような生活にはあきあきしたよ」

「閣下、けっしてあきあきしたなどと、おっしゃらないでください」ゲタンは恐ろしくなった。

「いや」と六世は苦笑し、自らに言い聞かせるように言った。「この世がうとましいってわけじゃない。この世は大好きさ!」

「それならばよろしゅうございます。われらにとって福でございます」とゲタンはほっとした。「いましがたお話されかけたのは……」

「気軽にこたえてほしいのだが」六世は少しためらっていた。このような身分にあって問いただすのは好きではなかった。だから重ねて「気軽に」と言ってしまったのだった。

「ポタラ宮の中で恋愛沙汰はないのか」

 ゲタンの心境は複雑だった。あえて何も言わなかったが、彼は知っていた。外の世界には堕落した女や無辜の女を鬼女にしてしまう非道の連中など腐敗した人間にあふれていたのだ。もちろんこうしたことと恋愛とは、まったく別の次元のことだった。仏教徒にとっては由々しき事態だった。もしこのことを話さなければ、あとでダライラマが知ったとき、かえって隠し事をしたとして非難されるだろう。もし話したなら、ダライラマはさらに問い詰め、恋愛沙汰に絡んだ人物の名を知りたがるだろう。このような人物を罰することはできず、ふしだらな女こそ獣であり、人間性に欠ける場合が多い。彼らは刃物を持って報復しようとするかもしれない。そう考えながら、ゲタンはこたえた。

「たぶん愛にはまる人もいるでしょう。ただ私は……見たことがありません」

「聞いたこともないのか」あきらかに六世は不満そうだった。

 頭にふといい考えが浮かび、ゲタンは言った。

「いまはありませんが、かつて聞いたことがあります」

「それなら話してみよ」と六世は興味深そうな顔をして、促した。

「はい、ダライラマ閣下」

 ゲタンはこのとき、ダライラマ六世の策略にひっかかったように感じた。話さないわけにはいかなくなった。謎めいたできごとを話しているかのようだ。

「位の高い人の話です」

「それは誰だ?」

「はい、第三代デシ(摂政)ロサン・トゥドゥであります」

「それはサンギェ・ギャツォの叔父の後を継いだ者だな」

「左様です。もともとダライラマ五世の宗教大臣でしたが、康煕8年に摂政に任命されました。五世はロサン・トゥドゥを重宝し、ゲルク派の高僧に任命しましたが、じつはひとりの女人を養っていたのです」

「女人だと?」

「私は直接見たわけではありませんが、その女人は山南のネドンの王の末裔で、まことに美しく、女性の魅力、すなわち色香もそなわっていたと聞いております。このことはだれもが知っていたので、城内はたいへんな騒ぎとなりました。考えてもみてください。摂政自らが法を破ったのです。しかもだれも文句をつけることはできません。しかし最後にはダライラマの耳に入ったのです」

「で、どうなったんだ?」

「五世は摂政におっしゃいました。女人を追い出すか、摂政の職を辞するか、いずれかにせよ、と」

「それで?」

「摂政はこたえました。この女を愛せないなら、私は仕事ができない。もし職を辞すなら、それでもいいでしょう、と。五世は摂政が辞するのを許可しました」

 ゲタンは声色をつけてしゃべり、五世や摂政ロサン・ドゥトゥを賛嘆した。

「そのあとどうなったのだ?」六世は愛の物語のつづきを知りたかった。

「ロサン・トゥドゥは摂政という名誉ある位を捨て、愛人を連れて山南のサンリ荘園に隠居しました」

「ほう、すばらしい」六世は褒めずにはいられなかった。

 

 何日かすぎて、タルゲネがまたやってきた。

 摂政サンギェ・ギャツォはゲタンからこのタルゲネが頻繁に六世に会いに来るということを聞いていたが、気にかけなかった。というのは彼は皇帝の密使でもなく、モンゴル王室の政客でもなく、六世の幼なじみにすぎなかったからだ。調査をしたところ、危険人物でないことがわかったので、サンギェは干渉しないことにした。

 タルゲネはポタラ宮に入ると、六世に会い、安らぎの場所を見つけたことを伝えた。例の六世が彼に与えたお金で肉屋を開いたのだった。これで生活を維持していくには十分だ。

 ツァンヤン・ギャツォは笑いながら言った。「おい、家畜を殺すのはやめて、肉を売るだけにしてはどうだい」。

「慣れないことはわからないし、手が出せないよ。損をするのが怖いんじゃない。罪の意識があるってわけでもない」とタルチンは率直に言った。

「そうかい。罪というのなら、私も犯したことになるね」と六世は感傷的に言った。

「ダライラマ閣下」タルゲネは近寄って奏上した。「あなたは俗装に着替えて外出し、弓を射るのに、どうして私の店に来られないでしょうか。ラサの市街を見てください。群集を眺めてください。鬱屈した心も晴れるでしょう。あなたはいいものを食べているのに、こんなに痩せていらっしゃいます。どうして宮中に閉じこもっておられるのでしょうか。あなたはダライラマですが、いったいだれがダライラマの風貌を知っているでしょうか」

 ツァンヤン・ギャツォの心の中の火種に火がつき、きらめきはじめた。目の前のタルゲネに風が吹き寄せていた。彼はなにも言わず、ただかすかにうなずいた。

「思うんだけど、リンチェン・ワンモのことはもう考えないほうがいい。ラサにはきれいな娘がたくさんいるんだ。こんな歌もある。

 

漢地から来た茶の山は、ヒマラヤよりもっと高い。

ラサ娘の気の長さは、ヤルツァンポ川よりもっと長い。

 

こんなのもある。

 

ラサのパルコル(八角街)

窓の数は門より多い。

窓の小娘

肉より骨のほうが柔らかい。

 

 きれいな娘がいたら、おれが代わりに口説いてやるさ。いや、その、うっぷん晴らしになるかなと思いまして……。怒らないでください」

 ツァンヤン・ギャツォは怒っていなかった。ラサではタルゲネだけが彼を活仏として崇めるようなことはせず、友だちとして接し、理解し、同情してくれた。ごく普通の活力、誠実さがそこにはあった。

 彼はふたたびうなずき、平服に着替えてラサの町に出ることにした。



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