ダライラマ六世、その愛と死
宮本神酒男翻訳
20 デシの食土精神
瞬く間に季節は早春、ポタラ宮の後ろの竜王潭園林はいつもの年以上に新緑があざやかだった。
ツァンヤン・ギャツォの例の側門の鍵をあえて没収しようという人はいなかった。トプテンの権限が有名無実にすぎなくなっていたのはあきらかだった。黄色い老いた犬だけがこれまでどおりダライラマ六世になついているかのように、いままでどおりそこの地べたに寝そべっていた。
昼間、ツァンヤン・ギャツォは華麗な一般民の服装に着替え、振り切る必要のない随従を連れて、竜王潭に建てた華麗なる丸テントでユドン・ドルカルやタルゲネとともに酒を飲み、歌い踊った。明月が山の端から出てきたときは面白みが尽きず、リンカの中でユドン・ドルカルと夜を明かすことになった。
夜、彼がひとりで酒店に行くときは、声を張り上げる必要はなく、タルゲネだけが送り迎えをした。トプテンは片方の目をみはり、もう片方の目を閉じていた。すなわち敵意を抱きながら、ディパに対して功を立てたい切迫した気持ちを抱きつつ、デシの命令を待っていた。
デシ・サンギェ・ギャツォは正確な情報を得ていた。すなわちダライラマ六世に女性を紹介したのはタルゲネであることを、そして側門の鍵を用意したのもタルゲネであることを知っていた。またツァンヤン・ギャツォが新たに詩を作ったことを聞いていた。
口のうまいオウムさん
どうかその口を閉じておくれ
柳林のホオジロ姉さん
心を動かす曲を歌っておくれ
つぎの一首も聞いていた。
この月も過ぎていった
つぎの月も来るだろう
縁起のいい明月の上旬
われらはつどい、一つになるだろう
そしてもう一首。
柳の木は小鳥が愛しくてたまらない
小鳥も柳の木に夢中
両者とも心はひとつ
ハイタカにつけいる隙を与えない
ディパは詩が書き写された手稿をかかえながら、しばらくの間大きなため息をついた。
柳の木がユドン・ドルカルであり、小鳥がダライラマ六世であることは明白だった。ハイタカを演じているのが自分であることも認めざるを得なかった。
宵の明星が輝き、黒夜の命は尽きた。タルゲネはツァンヤン・ギャツォをポタラ宮まで送り、彼が側門から入っていくのを見届けると、ホッとして身を翻し、坂道を下って戻っていった。ポタラ宮の後ろの坂道は前の大通りとはまったく違っていた。巨大な岩から切り出した石で作った階段もなく、坂道の湾曲部もなかった。そこには警備棟へと通じる馬道がいくつかあった。それらは北面の擁璧や南面の宮璧を通った。そしてダライラマ専用の通路があった。体力さえあれば上下の移動は簡単だった。タルゲネは妻のツァンムジェのことを思い浮かべた。数日のうちにいつ子供がうまれてもおかしくなかった。ポタラ宮の鍵がかかっている間に夫としての義務を果たしたかった。また父親としての喜びを享受したかった。彼は速足で、飛び跳ねながら坂を下りていった。
突然宮璧の排水口から黒い影がサッと飛び出してきた。一瞬それが人なのか亡霊なのかわからなかった。黒い影はチベット歌劇で使用する仮面をつけていた。彼が腰の刀を抜いたときには、すでに黒い影はすぐそばまで近づいていた。五臓六腑が氷結したかのように感じた。頭の中にドドーンという音が響き渡った。まるで神山の雪がなだれ落ち、そのなか深くに埋もれてしまったかのようだった。彼はかすれゆく意識の中で自分の叫び声を聞いた。そのあとすべては永遠の静寂に帰した。
ダライラマ六世が側門の鍵を閉め寝宮へ向かう途中、突然坂道のほうからすさまじい金切り声が聞こえてきた。彼は足を止め、かすかな音までとらえようと耳を傾けたが、かえって何も聞こえなかった。何か不幸なことが発生したと彼は敏感に悟り、急いで側門に戻り、ふたたび銅の鎖を開けて星の光のもと、坂道を目を凝らして見た。
タルゲネは寝仏のように地面に横たわっていた。しかし体からは鮮血が流れ出て坂道を下っていた。ツァンヤン・ギャツォは気心知れた大好きな友人が成り果てているさまに衝撃を受け、悲痛に感じた。彼はタルゲネの体に近寄り、ぬくもりの残った頭を持ち上げた。タルゲネのあいたままの両目はまだ強い光を放っていた。十数年、光を放つ両目はモンユルからラサまで、田畑から土の家屋まで、肉屋から酒店まで、リンカからポタラ宮まで見てきた。どれだけの熱情、誠実さが輝きを放ったことか。それだけそれは爽やかであったことか。それは仏前の灯明の百倍明るかっただろう。それは雨がやんだあとの陽光であり、暗黒の夜の星の光であり、十五夜の月の光だった。ツァンヤン・ギャツォの人生の天空に出現し、彼を照らしたのである。それなのに今、それは永遠に燃え尽きてしまった。深い友情の海にどっぷりと沈んでしまった。ただわずかに黒いさざなみが残るだけだった……。
彼の熱い涙は滴り落ちて熱い血に混じり、ポタラ宮の下に流れ落ちていった。わなわなと震えながら彼はゆっくりと体を起こしてそそり立ち、両手を空へ向けて挙げ、叫んだ。「だれか来てくれ!」
しばらくしてトプテンが寝ぼけ眼をこすりながらやってきて、遺体を何度も見て、驚愕して言った。「こ、これはタルゲネさんではありませんか。なんという不幸なことでしょう」そして両手を合わせながら言った。「天と地に感謝しないといけません。法王さまがご無事でなによりです」
空はしだいに明るくなった。僧侶たちがつぎつぎと現場に駆けつけた。彼らは声を抑えて論議した。しかしだれも使われた凶器の手がかりを提供できる者はいなかった。ツァンヤン・ギャツォはすぐに命令を下した。すなわち三日間読経をおこない、死者の魂を送ること、そしてダライラマの親族としての格式の葬送をおこなうようにと言った。そして多くの人に守られながら、よろよろとポタラ宮のほうへと歩いていった。
夫が殺されるという悪い知らせを受け取って以来ツァンムジェは泣き暮らした。目を覚ますと彼女は狂った母ライオンのようになり、肉屋の包丁を取って自殺を図ろうとした。友人らは彼女の肩を抱き、あるいは腕を押さえ、包丁が奪われないようにした。彼らは説得を試みたが、無駄だった。こうなったら彼らが敬服している、信任しているあてになる人はひとりしかいなかった。酒店の主人ヤンツォンである。
ヤンツォンはツァンムジェのおなかを触りながら言った。「この生まれてくる子供のために生きないとだめさ! この子がお父さんのかわりに生きていくんだよ」
ツァンムジェは突然悟った。ヤンツォンを抱きかかえながら言った。「そのとおりだわ。大きなことばかりに気を取られて小さい者のことを忘れるとこだった。ヤンツォンさん、あなたのおかげで目を覚まさせてもらったわ。でなければわたしはくじけてしまうところだった。死んでから地獄に落ちるところだった。タルゲネの魂ももうすこしで完全消滅してしまうところだった」
「わたしたちは姉妹になりましょう」ヤンツォンは提案をした。「姉妹として女主人同士でお互いに助け合いましょう」
翌日、ツァンヤン・ギャツォは目に涙を浮かべながら友人の未亡人を見つめ、たくさんの銀貨を渡した。そして彼女に告げた。「わたしはディパに犯人を探し出すようかならず要求します。そしてタルゲネの仇を取ります」
ツァンムジェは言った。「これからはすべてあなたさまやヤンツォンさま、またそのお仲間に頼るしかありません」。彼女は敷物の上で足腰が重く立ち上がれなかった。そのさまは骨のない魚あるいはお椀一杯の溶けたバターを連想させた。このような人を不快にさせたり恐怖を与えたりするしぐさは、タルゲネが生きている間、けっして見せなかった姿だった。彼女の夫への愛は、いわばマゾヒズムに近い愛情表現だった。
「タンサン・ワンポさん、わたしにはどうしても理解することができません。タルチンネは温厚篤実な人間でした。人の気持ちを害することはありませんでした。友人にたいしては義理堅いところがありました。だれかと言い争ったり、喧嘩をしたりしたところを見たことがありません。そんな夫が罪を犯すことがあるでしょうか。だれかの邪魔をすることがあったでしょうか」ツァンムジェは涙ながらに訴え、相手をじっと見て答えを求めた。
「そうだ、たしかにそのとおりだ。わたしにもわからない」ツァンヤン・ギャツォは眉をひそめ、沈思黙考した。
「もうひとつどうしても理解できないのは、夫がどうしてこともあろうにあんなところで死んでいたかです。夫は俗人です。僧侶ひとりも知りません。夜更けにどうしてあんなところにいたのでしょうか。夫とポタラ宮の間には何か関係があったのでしょうか」
「わたしも……わからない。でも安心してください。かならず仇はとってみせますから」
ツァンヤン・ギャツォはこの「兄嫁」にたいして後ろめたい気持ちを覚えながら歩いて戻った。実際、タルチンネに護衛を要求したわけではなかった。むしろ何度も断っていた。また彼がもうひとつすまないと考えていたのは、ツァンムジェに対して風刺的な詩を書いていたことだった。これはつぎのようなものだった。
虎のような犬だろうと豹のような犬だろうと
餌を十分にやっていれば噛まれることはない
家の中のまだら模様の母虎は
餌をやればやるほど凶暴になる
ツァンムジェのどこが母虎と似ているというのだろうか。タルチンネが妻から責め立てられてばかりいると聞いて作った詩だが、ツァンヤン・ギャツォはこの詩を作ったことを後悔していた。友本人から不平を言われたのである。人の家のことはほとんどの場合、かまうべきではなかった。笑い種にすべきではなかった。後悔先に立たずとはこのことである。
ツァンヤン・ギャツォは聡明だが、人間の醜悪で残虐な面に関しては疎かった。
タルゲネの死に関し、彼は考えに考え、デシ・サンギェ・ギャツォにも疑いを抱くようになった。彼は思った。小鳥と柳の木は、すなわち彼とユドン・ドルカルは別れ別れになり、ハイタカ、すなわちディパだけが残った。このハイタカは直接小鳥を捕らえることはできなかった。なぜならツァンヤン・ギャツォはたんなる小鳥ではなく、デシもハイタカになりきれず、風雨の中の雄鶏ににすぎなかったのではないか。まさにそのとおりで、彼は小鳥の周辺にいたにすぎなかった。あるいは柳の木の上で力量を見せつけただけだった。
詩人ツァンヤン・ギャツォであることは、政治家サンギェ・ギャツォのライバルになることではないことを彼はわきまえていた。ところで、他者は彼のことよく見ていたので、彼が規則を破っている証拠をつかむことができた。しかし彼は他者のことをよく見ていなかったので、だれかが陰謀を図っている証拠を掌握することができなかった。
彼はデシと争う気などないのに、どうしてわざわざデシと正面衝突するだろうか。もし衝突が発生したとしても、デシはダライラマの地位を揺るがしたくないので、当然のことながら彼に害を加えることはないだろう。しかし部下に新しい手先や旧来の耳目、暇で手持無沙汰の人々を登用し、活躍の場を与えることになるだろう。ペテン師や人殺しを楽しみとする無頼漢どもにひそひそ話をさせたり、陰謀を図って私利を得させたり、人の功を横取りして恩賞を願い出たりさせるのだ。しかしデシは恩賞を提供したくはなかった。濁水を提供しないのは、水中で魚を取る者への最大の懲罰だった。
つまるところ、ツァンヤン・ギャツォはダライラマだった。死者は彼の友人であり、彼をポタラ宮に送り届けたあと、血を流して倒れていたのである。かわいそうな兄嫁のツァンムジェはこれから生まれてくる甥に仇を取ってもらうことを願っていた。しかしツァンヤン・ギャツォが犯人を探し出すのは不可能ではなかった。彼はダライラマ専用の占い師に犯人探しを手伝うよう命じた。
占い師はすぐに答えを出した。驚いたことに、犯人は夜間にポタラ宮の壁の排水口から抜け出て戻ってきたトプテンだった。デシ・サンギェ・ギャツォがトプテンの逮捕を命じた頃、タルチンネを背後から刺した刀でもって彼の舌は切られていた。なぜならダライラマに対して不遜な言葉の数々を吐いていたからである。この日、トプテンは法によって裁かれた。この件はこれで落着した。
デシの豪華な応接間に遠来の太った客が招かれていた。彼はデシに対してコンポ地区の最近の社会情勢や農業の収穫、財政の収支などのついての報告を行った。デシはすべてについて細かく聞き、ところどころでうなずいて満足を示した。最後に彼は情熱的に語った。
「ロンシャ先生、あなたはほんとうにすばらしい能力の持ち主だ。わたしはここにいるだけで十分なのだ。あなたの力によってガンデン・ポタン政府の支持と保護が得られるのです。ほかに私事はすまされたでしょうか。すべてが終わったなら、お戻りになってけっこうです」
ロンシャは能力をデシからここまで賞賛されるとは思ってもみなかった。腰を九十度曲げて舌を出しながら語った。「雄ライオンは雪山の保護が必要です。猛虎は姿を隠すため森林を頼りにします。川が小さくとも波が大きいのは、高い雪山のおかげです。官が低くても勢いがあるのは、上司が支えてくれるからです。わたしロンシャはかならずデシに忠義を捧げます。わたしを用いてくだされば、九頭のヤクほどの力を発揮してみせます」
「ありがとう。ではお元気で!」デシは中腰になって見送った。
ロンシャが応接間を出たところで謎めいた人物が壁の向こうの部屋から現れた。彼はロンシャを引っ張って部屋の隅に行き、小声で話しかけた。「ロンシャさん、今回ラサに来るのに何人の侍従を連れてきましたか」
「三人ですな。ひとりは学問関係、ふたりは武道関係。そなたはなにゆえこんなことを聞かれるのか」
「三人ですか。十分ですね。ところで何年か前、あなたはユドン・ドルカルという名の奴隷を連れてきたのではないですか」
「そうそう、逃げられちゃってね。いまどこにいるのやら」
「ここにいるんですよ」謎めいた人物はそう言った。
「ほう、そなたは彼女を連れて帰れとおっしゃっているのかな」
「奴隷の逃亡は規則違反ですからね。あなたは彼女を捕まえて連れ帰る権利を持っているのです」
「そうそう、たしかに。じつのところ彼女を手元に置きたいのです。だが逃げられたら、どうしようもない。この広いチベット、どうやって探すんです? 馬に乗って蟻を探すようなものです。見つかるとしたら、思いがけず高く飛び上がった魚がまた網の中に戻るようなものですな。そなたがご存じなら、彼女がどこにいるか教えてください」
「遠くないですよ。ポタラ宮の下のヤンツォン酒店の中にいます」
「あなたさまのお名前をお教えください。なんと感謝したらいいか」
「もし感謝の意を表したいなら、わが名を知ろうとなさらないでください。こんな話をしたことも永遠に人にしゃべらないでください。ただ……」謎めいた人物の両眉が合わさりそうになった。
「わかってますよ、わかってます。安心してください」ロンシャはお辞儀をしたまま階段の降り口まであとずさりし、ほとんど落下するかのように勢いよく降りていった。彼は体の向きを変え、100キロ以上の贅肉がはいた革靴が地上の階までリズミカルな音を立てた。
タルチンネが殺されてから、ツァンヤン・ギャツォは背後から重い一撃を食らったかのように感じ、治療のしようのない痛みを抱えていた。まるで亡き友の遺言に忠実であるかのように、彼はさらに頻繁に、大胆に、昼夜を分かたず側門をひとりで抜け、ユドン・ドルカルのもとに通った。おそらく袈裟を着た人によって友があやめられたためか、彼はいかなる場合でも袈裟を着ないようになった。彼は二首の詩を詠み、寝宮の壁の上に堂々とそれを貼った。
大河のなかの金色の亀
水と乳を分けるのはこの亀だ
わたしと愛する人の体と心
だれが分けることができようか
背後に潜む凶悪なる竜魔
なにを恐れる必要があろう
前には香ばしく甘いリンゴ
それをもぐのも命がけ
彼はユドン・ドルカルに自分の本当の身分を話すことに決めた。こうして彼の素性についての疑いが晴れ、問い詰める必要もなくなったので、ユドン・ドルカルは彼をより尊重し、信じるようになった。このことだけでも彼は感激してやまず、感動はおさまらなかった。
彼はユドン・ドルカルの家からポタラ宮に戻る間、思いをめぐらしながら、またさまざまなことを考慮しながらゆっくりと歩いた。もしダライラマであることを隠し、偽名を用いていたと明らかにしたら、ユドン・ドルカルはどういう反応を示すだろうか。もし卒倒するくらい驚くとしたら、もし仏法に違反しているとして会いたがらなくなったら、もし結婚は絶望的だとして心が離れてしまったら、もしすべてが信じられなくなり冗談半分だと思われたら……。どうであれ、すべてをあきらかにする時期が来たのだ。愛情のはすでに熟していた。ふたりの名はすでに運命の帳簿に記されていた。どんな困難が待っているにせよ、ふたりで立ち向かわなければならなかった。縁は尽きたのか、あるいは終身の伴侶となるのか、両面の皮太鼓のようになることはできなかった。彼女を愛する以上、真実を知って以降の彼女の選択を尊重せずにいられるだろうか。いや、彼女はもう選択しているのだ。天が崩れてもほかの選択をすることはないだろう……。
ツァンヤン・ギャツォにとって、すでにあらたな考えを示したり判断を下したりする必要はなかった。ただ適切なことを話すだけだった。
ユドン・ドルカルの目は彼の動きを細かく追っていたが、ついに我慢できなくなり、言葉を発した。
「ねえ、あなた。何を言っているの? 何を聞いているの? わたしはみな聞いているし、みな答えることもできる。わたしたちがはじめて会ったときもそうだった。さあ、こちらに座ってお話ししましょ」
ツァンヤン・ギャツォは座らず、窓の外を眺めながら言った。「ユドン……あなたはわたしがだれか知っていたのか?」
「知っていたわ」彼女は冷静に答えた。
「知っていた?」ツァンヤン・ギャツォは驚き、振り返って彼女をじっと見た。「そんな、まさか。どうやって知ったのだ?」
「外ではあなたが聞いていること以上の噂が流れているのよ。わたしの心だって、あなた以上に聡明なのよ。そうでしょ?」
「じゃあ結局のところわたしはだれなのだ?」
「あなたはあなたよ。わたしが愛するのはあなた本人なのよ。あなたが乞食だろうが、国王だろうが関係ない。タンサン・ワンポだろうが、ツァーン、ヤーン、ギャー、ツォーだろうとも」。彼女は故意に名前を長く発音した。そして子供のように微笑んだ。
「私がダライラマであると知っていたのか」
「あなたの本当の名前を口に出すことはできないわ」
「なぜそのことを私に言わなかったのだ?」
「あなたも言わなかったじゃない」
「私の地位が高すぎるのがいやではないのか」
「わたしはただあなたが普通の人とちがうのが恐かった」
「隠し立てしていたのを恨みに思っていないか」
「あなたが隠していたのは身分だけ。心は隠してなかったわ」
「私は結婚できないんだ。本当にすまないと思う。嫁に迎えることができないなんて……」
「何も言わないで。愛がなければ、結婚なんて意味ないでしょう。愛があれば、結婚しなくてもしあわせよ」
「ユドン! おまえは……」ツァンヤン・ギャツォは声を上げると、ひしと彼女を抱き寄せた。涙がしたたって彼女のおさげの上に落ち、それはきらめく真珠のように見えた。ユドン・ドルカルの涙もしたたり落ち、彼の手の上で真珠の首飾りのようにきらめいた。
翌日の午後、ツァンヤン・ギャツォは酒店に向かった。遠くにポタラ宮が見えるところに方形の石碑があり、その前に人だかりができていた。好奇心から彼はそこに近づき、何をしているか探ろうとした。六弦琴が鳴り響き、それに合わせて渋みのある歌声が発せられた。耳を傾けてよく聞くと、それは彼の初期の詩だった。彼はツェタン・トゥグのことを思い出した。ツェタンは流浪してラサにたどりついたのだろうか。群衆をかき分けて中に入ると、歌っている人は見知らぬ人だった。背中も曲がっていなかった。あきらかにツェタン・トゥグではない。群衆からはヒューヒューと口笛が鳴り、賞賛の声が上がった。詩を口すさぶ人もいた。歌手は一段落落ち着くと、群衆の中を回ってお金を集め始めた。ツァンヤン・ギャツォは懐から銀貨を取り出し、彼が近づいてくるのを待った。ひとりの中年の女がお金を渡しながら歌手に聞いた。
「なんてすばらしいの! これだれが作った詩なの?」
「多くはわたしが作ったものだ。集団で作られたものもある」歌手は謙虚そうに腰を曲げながら答えた。
ツァンヤン・ギャツォは銀貨を懐の中に戻し、振り向きざまに立ち去った。
はるか遠くからヤンツォンの姿が見えた。女主人は早くから門の前で彼が来るのを待っていたようだ。こんなことは、めったにあることではなかった。さらに驚いたことに、ヤンツォンは彼の姿を認めるや、腰をかがめて彼に近づき、足元にひざまずくと、激しく泣き出したのである。
「ああ、法王さま。わたしの罪をどうか許してください」
ツァンヤン・ギャツォは彼女が立ち上がるのを助けながら言った。「中に入って話を聞かせてくれ」
酒店の門は閉ざされていて、今日営業していないのはあきらかだった。木のテーブル、チベット絨毯の敷物、それらはみな深山幽谷の石のように静まり返っていた。何か不幸なことが起きたのはまちがいないだろうとツァンヤン・ギャツォは推測した。なぜヤンツォンは罪を許しれくれと嘆願するのだろうか。ヤンツォンをじっと見て彼ははじめて気がついた。乱れた髪が貼りついた顔の上の額から耳の根本にかけて赤く腫れあがっていたのである。鞭の痕だった。
ツァンヤン・ギャツォは心を痛めた。彼女の顔にふりかかった髪を上げながら言った。「ヤンツォンどの、座ってください。そしてゆっくりと落ち着いて話してください。だれがこんなことをしたのですか」
ヤンツォンは座ろうとはせず、身をかがめたまま答えた。
「ええ、ええ。昨日の夜、わたくしはユドン・ドルカルの部屋でよもやま話をしていました。ユドンが教えてくれました。あなたさまはタンサン・ワンポではない、ダライラマであると。わたくしは怖くもあり、うれしくもあったのです。怖れたのは、あなたさまに対してきちんとしたことができなかったのではないかということ、そして法王さまに対して不敬という大罪を犯したのではないかということです。喜ばしいことはあなたさまがつねにわたくしどもの小さな酒店に福をもたらしてくださったことです。しかもわたくしの養女をひいきになさりました。これはわたくしどもの命にも代えられぬ名誉であります。われら母と娘、夜中まで話し合いました。すると突然だれかが門をたたいたのです。わたくしはあなたさまがいらっしゃったと思いました。外に立たせたままではいけないと思い、急いで門を開けに行ったのです。すると、ああ、なんということか、彼らが……」
「強盗だったのか?」
「三人いました。みな黒い布をかぶっていました。両目だけが見えました。手には馬用の鞭を持っていました。一人は牛毛の縄も持っていたのです。彼らは一言も発さずにわたくしをユドン・ドルカルの寝室に押し込みました。彼らはユドンの口をふさぎ、手足を縛って外に運び出しました。わたくしも必死になってあの子の衣服を離すまいとしました。でも彼らは鞭を振り、それはわたくしの服の袖に当たりました。わたくしは地面に倒れました。こうして……ユドンは連れ去られてしまいました。わたくしは這って外に出て、馬上の身なりのいい政府の老人が三人に馬に乗るよう指揮しているのを見たのです。ユドンは一番前の馬に乗せられていました」
ヤンツォンはそう言うとツァンヤン・ギャツォの足元でひざまずき、泣き崩れた。そしてそのまま彼女は意識を失った。
酒店は古くなって倒壊した寺同様だった。そこに立ったままツァンヤン・ギャツォは動くことができなかった。その姿は倒れた寺の中で唯一残った柱のようだった。
はるか遠くの馬上からユドン・ドルカルの声が聞こえたような気がした。「あなたは至高のダライラマさまでしょ! どうして愛する人すら守ることができないの?」
タルチンネの死に際の目、トプテンのずる賢そうな目、ディパの陰険そうな目、ラザン汗の斜視の目、ドルジェの失明した目、ユドン・ドルカルの愛情のこもった目、釈迦牟尼像のほほえみの目、パンチェンラマの「いかんともしがたい」といった感じの目……これらすべてが彼のまわりを回転した。回転すればするほどそれらは速度を増した……。
「唯一残った柱」もまた地面に倒れた。
発狂せんばかりに激怒したダライラマ六世はデシを召いたが、四、五日待たされた。ようやくポタラ宮に現れたディパ・サンギェ・ギャツォは、ハアハア、ゼイゼイ息を切らしながら謝罪した。彼の説明によれば、外地に出向いていたため、ラサには戻ったばかりで、食事をとる間もなく駆けつけたところ、法王の召集のことを聞いたという。
「ユドン・ドルカルがどこにいるかそなたは知っているだろう」六世はデシを問い詰めた。
「どのユドン・ドルカルで?」ディパは話の糸口が得られないようだった。
「酒店のユドン・ドルカルに決まっているだろ!」
「どの酒店で?」
「ヤンツォンの酒店だ」
「そのあたりには、わたくし、行ったことがありませぬ。何か事件が起こったという報告も受けておりませぬ」
「おまえはディパではないのか」
「は、そうです」
「官僚や貴族の上に立つのではないのか」
「そうです、法王さま」
「彼らが人をつかまえる場合、おまえが管理しているのではないのか」
「もちろん管理しております。しかし捕まえたのが盗賊であるのか、何の犯人か、逃亡奴隷か、借金を抱えているのか、法律を犯しているのか、といったことはわかりません。法王さまは、ユドン・ドルカルが捕まったとお考えのようですが、だれに捕まったかはわかりかねます。どんな理由があったのでしょうか」
「おまえはほんとうに何も知らぬというのか」
「存じません。口はひとつだけ、ツァンパを食べれば笛は吹けない、というではありませんか。わたくしは多忙でした。こういったことは事務方に聞いたほうがいいのではないでしょうか」
「彼らに? ウサギでも車を引くことができる。駿馬が何の役に立つ? というではないか。わたしとユドン・ドルカルの関係は普通ではないのだ。おまえはかならず彼女を探して連れてこなければならない」六世は怒りを抑えられずどなりはじめた。
「法王さま、怒りをお静めください。冷静になってください」デシ・サンギェ・ギャツォは干上がった湖のようだった。つまりいくつ石を投げこんでも波しぶきが上がることはなかった。「現在の情勢はあまりよろしくございません。わたくしどもはみな敷居の上にいるエンドウ豆のようなものです。中に入るか外に出るかわからないのです。外では噂が飛び交っています。牛の角はかわしやすいが、人の舌は防ぎがたい、など。あなたさまは尊敬されるべきダライラマですが、それでもまったく気がねしないというわけにもいきません。あなたさまは、蟻がひとかたまりになれば、獅子をも死に至らしめるということわざをご存じでしょう」
「死?」六世は冷ややかに笑った。「人は死ぬとは思っていないものだ。聡明な者でも愚か者なのだ。死は怖くはないが、怖いとすれば、それは死が不明瞭だからだ。タルチンネもそうだった」そう言うと、彼は準備していた刀と縄を寝床の下から取り出して、デシの目の前で落とした。
「もしそなたがユドン・ドルカルを探さなかったら、私はこれで自害するだろう! つまり首をくくるということだ」
サンギェ・ギャツォは驚いて飛びのいた。そしてあわてて刀と縄を取って懐に入れ、身をかがめたまま言った。「捜査します。全力を尽くして捜査します!」
まさにこのときゲタンがやってきて何人かの僧侶がダライラマとの謁見を求めていると奏上した。ツァンヤン・ギャツォはいまだ回答しなかったが、ディパはなんとしても受け入れるよう嘆願した。彼は行き詰った局面を脱しようとして、話題をそらせようとした。彼はあわただしく汗を拭き、敷物の上に座った。そうしてダライラマと議事を進めているふりをした。
レロンキドンという名の来訪者は、ダライラマに謁見を求めた最初の人物となった。六世と相まみえたとき、目の前の人物が彼らの教主とは信じられなかった。というのもツァンヤン・ギャツォは俗人が着る青いサテンの服をまとい、長髪を垂らし、指には宝石の指輪をいくつかはめていたからである。どう見たって僧侶ではなかった。
彼は書簡を進呈したあと、後ろに下がって部屋の隅でダライラマからの質問と命令を待った。
ツァンヤン・ギャツォはただちに書簡を開け、中の文章を見た。
尊きダライラマ法王さま
わたくしはポタラ宮であなたさまとお会いしたく存じてきました。もっとも、年老いたがゆえ体が弱く、心が思うほどには力が出ないのではありますけれど。この生ではもはや仏さまのお顔を拝することはないだろうと暗澹たる思いでした。
わたくしはあなたさまを尊敬しております。あなたさまはダライラマ五世の転生であられるのですから。わたくしは熱烈にあなたさまを愛します。あなたさまは偉大なる詩人なのですから。まさにこの感情があるゆえ、あなたさまご自身にかわってあなたさまのことを心配しております。この黄教(ゲルク派)の宮中において紅教(ニンマ派)の芽が息吹いていることを心配しているのです。教主の玉座の前で平民の歌や踊りが見られることを心配しているのです。
あなたさまの詩歌は足のない風のごとし、翼のない雲のごとし。山川を走り、南北を飛び越え、男女貴賤を分かたず、みな伝え口ずさみます。その人情と道理、文才にはひそかに賛嘆せざるをえません。もっとも唱和したいと思いつつも、できず、しようともしません。
外の世界には、あなたさまに関する言い伝えがたくさんあります。衆生はあなたさまに対して不敬であるわけではありません。ラサで人々の口に上る新しい詩があなたさまのものであることが知れると、人はそれを少し改変してあなたさまへの賛歌とするのです。
ポタラ宮において
彼はリグジン・ツァンヤン・ギャツォ
ラサにおいて、ショルにおいて
彼は喜びを求める若者なり
ことわざにも言います。水面は静かでも、暗礁には気をつけなければいけない、と。また、こうも言います。虎のまだら模様は皮の外にあるが、人のまだら模様は心の中にある、と。聞くところによると、モンゴルの上官があなたさまを侮辱し、ののしるつぎのような詩を編んだといいます。
まわりが黄色く中が黒い暗雲
これこそ霜や雹の原因なり
僧でも俗でもない沙弥
これこそ仏教の敵なり
わたくしが思うに、この詩の表面はあなたさまのことを指しています。しかしその背景はとても複雑なものがあります。あるいはもっと怖いものかもしれません。笛の音が矢の音に変わろうとしている、乳の海が血の海に変わろうとしている不吉な前兆なのではないでしょうか。
どうかいろいろと考えてください。ご自身を大切になさってください。
カタを一枚献上いたします。
あなたさまの弟子より
ツァンヤン・ギャツォは書簡を読み終えるとみじめな笑いを浮かべた。しばらく考えに没入したあと、レロンキドンにたずねた。「これはだれが書いたものなのか」
「書き手は名前をこの書簡に残したくなかったのです」とレロンキドンは答えた。「ただしもし法王がたずねたならば、口頭で答えてもいいとおっしゃいました。書いたのはミンドぅ・リンポチェです」
「わたしはこの高僧をよく知っております」デシは敬意を示しながら割って入った。「ロカ(山南)の高僧です。先代ダライラマのときの詩歌を通した親しい友人でもありました。この方がまだ健在であることを今日知りました」彼は書簡の内容がよくわかったが、深く追及することはなかった。
ツァンヤン・ギャツォは書簡を懐に押し込むと、紙と筆を出し、紙の下のほうに返答の書を書きつづった。
尊敬すべきリンポチェさま
いたるところに広がり伝播される
うんざりさせられる流言飛語
心の中のわが愛する恋人よ
目をみはって見ているのに彼女の姿が消えていく
親愛なるイェシェ・ラモよ
もともと猟師であるわたしが捕らえたもの
それなのに権勢ある官僚人に捕らえられてしまった
ノルサン・ギャルに連れ去られてしまった
クルミはつぶして食べることができる
桃は噛んで食べることができる
今年結ばれた酸っぱい青いリンゴは
じつに食べる方法がない
これがわが思うところの目の前の事情です。ほかのことは私の手に負えません。思うこともできません。
あなたの戒めの言葉に心より感謝します。すべてが平安でありましょう。すべてが手遅れかもしれませんが。
一枚のカタをお返しします。
ツァンヤン・ギャツォ
ツァンヤン・ギャツォは書簡をロンキドンに託した。そして壁の上から弓矢を取ると、ディパとミンドゥ・リンポチェからの使者を残して、多数の随従とともに公園へ向かった。
ディパ・サンギェ・ギャツォは顔に降り積もった苦悩をもはや隠さなかった。レロンキドンはディパの憂鬱な心をさらに重くするつもりはなかった。ただし任務は半分しか成しえていなかった。ディパに話すべき重要な話があった。
「ナンセ・ラマはいかがお過ごしでしょうか」サンギェは二十年前にミンドゥ・リンポチェの使者を務めていた者のことを思い起こした。
「わたくしはナンセ・ラマとは面識がございませぬ。たまたまミンドゥ・リンポチェのもとに立ち寄っただけです」
「リンポチェはどのような話をなさったのかな」
「まさにそれこそあなたさまに伝えなければならないことなのです。リンポチェはチベットの安寧に関心を持っているのと同様、あなたさまの未来に関心を持っておられます。リンポチェは信頼できる情報を得ました」
「どんな情報だ?」サンギェは問いただした。
「ラザン汗は一回ならず北京の皇帝に奏上しました。あなたさまがガルタンと同様に野心家で、あなたさまの父親であるダライ汗を毒によって死に至らしめたと、そしてダライラマ六世の放蕩もあなたさまが導いたものであると、またあなたさまの専横ぶりははなはだしく、チベットの政治宗教をひとりで取り仕切っているとおっしゃっているのです」
バン! サンギェは両手をテーブルの上に置き、立ち上がって仁王立ちしたまま、一言もしゃべらなかった。
「デシさま、冷静になってください」レロンキドンはあきらかに精神的な準備をしてきていた。デシに対して怒ったり慌てたりすることはなかった。彼はつづいて言った。
「ミンドゥ・リンポチェはあなたさまにいかなる軽率な行動を取らないよう、そして清皇帝の採決をすべて聞き入れるよう希望しておられます。それによって衆生に不幸がもたらされることはないでしょう。リンポチェはまたこうおっしゃいました。虎は凶暴で、狐は狡猾、孔雀は見栄っ張り。上に立つ者はみなこれらに当てはまってはいけません。またリンポチェは生前最後の言葉を……」レロンキドンは嗚咽しはじめた。
「私は今、歴史上の人物について学び始めている。それは20歳のときのネトンの万戸長、パクモドゥ王朝創立者チャンチュブ・ギェルツェンだ」サンギェ・ギャツォは冷徹な顔の上に堅固な光を浮かべた。「当時、サキャ王朝の軍隊は彼を俘虜とし、ヤクのしっぽから作った帽子をかぶらせた。そして一両の牛車のあとを歩かせた。そして彼に対し、あらゆる侮辱の言葉を浴びせた」サンギェは冷たく笑い、口をゆがめ、四角い頭を揺らしながらつづけて言った。
「チャンチュブ・ギャルツェンはサキャ近くの町で解き放たれた。たくさんの人が家の窓から顔を出して彼をあざ笑い、土の礫(つぶて)を投げつけた。彼は恐れるどころか、よけもせず、かえって顔を上げ、口を開けて礫(つぶて)を受け止めようとした。彼は笑いながら言った。<そうだ、今、わたしはサキャの土を食べている。近くわたしはサキャの土を食べることになるだろう>と。その後どうなった? 彼は自分が立てた誓願を実現し、264年つづいたチベットのパクモドゥ王朝を建立したのだ。彼はモンゴル王公らを支持した大臣を拘禁し、モンゴル王公たちが用いた規則を改変した。そして元朝恵宗皇帝トゴン・テムルは彼を大司徒に封じたのだ」
サンギェは言い終えると、突然甲高い声で叫び始めた。「ミンドゥ・リンポチェに話してもいいぞ! チベットのすべての人に話してもいいぞ! 必要ならば、わたしはラサの土を食べるだろう! その様子をとくと見るがいい!」