ダライラマ六世、その愛と死 

宮本神酒男翻訳 

 


25 収まらない余波 


 青海湖に激突して起きた波紋は四方にゆらゆらと広がっていった。

 タムディン・スルン、席柱、舒蘭経らは覆面男の報告を受け取って、ツァンヤン・ギャツォがすでに青海湖の奥底に沈んだことを知った。秘密の会議が開かれ、彼らはツァンヤン・ギャツォが「北京へ向かう途上、激しい病を得て亡くなった」と発表することに決定した。タムディン・スルンは最後に付け加えて言った。「もし誰かが何の病を得たのかと問うならば、水腫病と答えるべし」。

 しばらくして朝廷は西寧から来た使者の報告を受け取った。理藩院に預けられた奏文にはこう書かれている。「西寧駐在のラマ、ソナム・ドルジェの報告によれば、『ラザン汗が護送していた偽ダライラマは行程の途中、西寧郊外で病没した』という。偽ダライラマは乱行を起こしたが、途上にてすでに病没した。それゆえ公文書にはソナム・ドルジェがその死骸を放棄した旨を記したい」。康熙帝はこの建議に批准した。

 当初康熙帝はディパ(摂政)サンギェ・ギャツォが探し出したツァンヤン・ギャツォをダライラマ五世の転生として承認し、かつ自らチャンギャ・ホトクト(呼図克図)をチベットに送り、ダライラマ六世の座床式典に参加させているのである。

 しかし今このようになり、ツァンヤン・ギャツォは偽ダライラマであるという公案が認められる運びとなった。

 ツァンヤン・ギャツォは偽ダライラマであり、すでに病を得て死亡し、奉旨によってその死骸は「放棄」されたのだから、当然本物のダライラマ六世が必要となってくる。

 翌年の康煕四十六年(1707年、チベット暦火豚年)、ラザン汗はボクダ山医学僧院からガワン・イェシェ・ギャツォという若い僧を見つけ出し、ダライラマ六世であるとした。

 ある人によれば(証明済み)この新ダライラマ六世はラザン汗自身の息子だという。皇帝の息子が皇帝の座を継ぐのは当然である。伝え聞くところによれば、「偉大なるダライラマ五世」は自分の私生児をディパ(摂政)に据えたという。そのディパもまた自分の息子をディパの後継者に指名した。ラザン汗が自分の息子をダライラマにすることがそんなにおかしなことであろうか。

 この新ダライラマ六世は、二年後、康熙帝から冊封を受ける。チベット人であろうとモンゴル人であろうと、みな彼を承認したが、それは表面上のみのことだった。人々のツァンヤン・ギャツォに対する思いと同情は増えることはあっても、減ることはなかった。人がツァンヤン・ギャツォについて語るときは、彼は一切智者(タムジェ・キェンパ thams jad mkhyen pa)と呼ばれた。一方新ダライラマ六世イェシェ・ギャツォは単にゲシェ(dge bshes)と呼ばれた。人々の心の目から見れば、偽者が本物であり、本物が逆に偽者だった。

 当時のチベット上層の人々は、自分の利益を得るためにこの種の民意を利用した。「あなたも一人探して。わたしも一人探すから」といったふうに。何年もじっくりと下準備を進め、ネチュン護法神を通じて、東方のカム地方のリタンにダライラマ七世が見つかったことを公表した。ダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォの転生である。転生の名はゲサン・ギャツォで、チベット暦土鼠年(1708年)の生まれだった。彼らはツァンヤン・ギャツォの詩を一首発表した。これがこの児童が転生であることの鉄壁な証だった。

 この詩はつぎのようなものだった。

 

白い野鶴よ 

おまえの羽を貸しておくれ 

遠い北方へは行かないから 

リタン(Ri thang)へ行くぐらいのものだから 

 

 発表された詩は巧妙に改変されていた。 

 

白い野鶴よ 

おまえの羽を貸しておくれ 

遠い北方へは行かないから 

ただ一度リタン(Li thang)へ行くだけだから 

 

 改変は最後の一行だけであり、リタン(Ri thang 日当)とリタン(Li thang 理塘)は音が近く、人が受け入れるのは容易だった。ツァンヤン・ギャツォはリタン(理塘)へ飛んでいきたい、そして戻ってきたいと予言めいたことをすでに述べていたのである。彼の転生がリタン(理塘)に生まれるのは疑いなかった。

 僧侶も俗人も、民衆みなが満足し、欣喜雀躍した。ダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォの転生がリタンで見つかったという知らせはモンゴル、チベット各地に瞬く間に広がった。人々はリタンのゲサン・ギャツォをダライラマ七世として認め、彼をギャルワと呼んだ。

 チベット人とモンゴル人の一部は、転生誕生の知らせが引き金となってラザン汗がこの子供の暗殺を企てるのではないかと恐れた。そこで転生の子供の父親を説得し、子供をリタンから金沙江東岸のデルゲにひそかに移した。危険度が増したことからのちには青海のどこかに移した。そして宗教訓練を施すためにクンブム僧院(タール寺)に最終的に落ち着いた。


その後 1 

 チベット暦火鶏の年(1717年)、ツェワン・アラブタンの弟ツェリン・ドンドプ率いるモンゴル・ジュンガル部の大軍が、ダライラマ五世、ダライラマ六世、ディパ・サンギェにかわって報復し、偽ダライラマ六世を駆逐し、権力をチベット人に戻すという大義名分を掲げ、十月二十九日にラサに侵攻した。ラザン汗はポタラ宮にこもって必死にこらえた。しかし十二月三日、ラザン汗はポタラ宮から出て囲んでいた相手の軍隊を突破しようとして激しい戦闘が始まった。ラザン汗は相手方の兵士11名を殺したが、最後にはポタラ宮の前で切り殺された。彼の妻子と年老いたパンチェンラマは俘虜となった。

 

その後 2 

 ラザン汗が擁立したダライラマ六世イェシェ・ギャツォは廃位となり、ポタラ宮の近くの薬王山(チャクポリ)に護送された。康煕五十九年(1720年、チベット暦鉄鼠年)に「帰京」させられた。その後中国内地で死亡したという。 

 

その後 3 

 康煕五十九年(1720年)、康熙帝はクンブム(タール寺)に住むゲサン・ギャツォを「実系のダライラマの後身」「詔加封宏法覚衆ダライラマ六世」として承認し、満、蒙、チベット文字が刻まれた金印を贈った。金印の表面には二人の六世の真贋という問題を避けるため、「ダライラマ六世の印」と書かれていた。しかしその結果、ダライラマ六世が三人いることになってしまった。しかしチベット人はゲサン・ギャツォをツァンヤン・ギャツォの転生とみなし、彼をダライラマ七世としたのである。

 ダライラマ七世(あるいは三番目の六世)は康熙帝が派遣した兵馬に守られて護送され、同年の九月十五日にラサに到達した。そしてポタラ宮で正式の座床儀礼がおこなわれた。

 この12歳の少年はクンブムからラサへ送られる途上、茫々と広がる青海湖を過ぎるとき、前世について考えただろうか。ツァンヤン・ギャツォに関してどれだけのことを知っていただろうか。



<追記> 

 ツァンヤン・ギャツォがこの世を去ってからしばらくのち、ガワン・ルンドゥプ・ダルギェという僧侶が『ツァンヤン・ギャツォ秘伝』という本(デポン・チェトン・ジグメ・ギャツォ刊印)を書いている。この書いわく、ツァンヤン・ギャツォは青海で死なず、名を隠して逃走、甘粛、青海、カム、四川、ウー(中央チベット)、ツァン、ネパール、インド、モンゴルなどを遍歴し、いたるところで仏法を広げ、神通をあらわにしている。内容は至極荒唐無稽で奇異に満ちている。主人公がもともと持っていた思想や性格はなく、詩の新作もない。ツァンヤン・ギャツォと共通するものは何も見当たらず、論評するにも値しない。皮肉にも、作者がたどった運命が教訓的である。

 作者ガワン・ルンドゥブ・ダルギェはアラシャン旗のモンゴル人貴族の家庭に生まれた。アラシャン旗でもっとも大きい寺院、広宗寺の一代目ラマタン(喇嘛坦)。チベットで仏典を学んだあとアラシャン旗に戻り、大ラマを兼任した。彼はモンゴルにチベットの法を当てはめ、政教合一をでっちあげようと夢想した。それによって宗教的権威と政治的リーダーという二つの光の輪を頭上に輝かせようとしたのである。彼は世間のツァンヤン・ギャツォに対する尊敬と崇拝の情を利用し、人々の「よい人は最終的に報われる」という心理に迎合し、ツァンヤン・ギャツォが各地を遊行するという神話を編み出した。自称ツァンヤン・ギャツォの愛弟子である彼は『秘伝』を世に送り出し、その政治的野心を実現させるための世間の空気と基盤を作り出そうとした。しかしその結果、モンゴルの王たちから反発を食らうことになってしまった。モンゴルの王たちは『秘伝』の類がありえて、政教合一がなされることを受け入れるわけにはいかなかった。そうしてガワン・ルンドゥブ・ダルギェは殺害され、彼の頭部はバヤンホト(定遠営)南門の石積みの下に埋められた。これ以降、広宗寺の僧侶たちは城門を出入りするとき、あえて石積みをまたがず、両側を回るようになったという。

 

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