1章       アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 宮本神酒男訳 

 ケサルの冒険物語のなかで重要な役割を演じるトドン、ギャツァ、デマサムドンの3人が誕生したあと、パドマサンバヴァはケサルの母となるナーギー(竜女)を地上に転生させることを考え始めた。これには多くの困難が伴ったが、グル・リンポチェ(尊い大師。パドマサンバヴァ)はすべてのことに精通していて、比類のない賢者だったので問題はなかった。

 彼は魔術に使うすべての材料を毒に変え、それを川に流した。それは大海に流れ込み、ナーガ(竜族)が支配する世界に浸透した。奇妙な疫病がナーガの世界に広がった。病んだナーガの皮膚は乾燥し、ただれ、低い熱が出て彼らの活力を奪った。国中に荒廃が蔓延した。

 凶事がつづいたので、ナーガ王は大臣らを招集し、モと呼ばれる占いを行って、この災難を取り除くにはどのラマや神に相談すべきかを問うた。占いの結果は、いかなるラマも神もこの災難を終わらすことができない、というものだった。

 災難を終結させる能力を持っているのは、パドマサンバヴァだけだった。モの占いに従って、ツクナ・リンチェンというナーガが助けを求めて、特使としてパドマサンバヴァのもとへ送られることになった。

 選ばれたナーガ、ツクナ・リンチェンは青い馬に乗り(実際は灰色)、出発した。彼はヤムドク湖(リンからははるかに遠く、ラサの南方)の近くのルンセル・ゴコンマル湖から人間の世界に現れた。

 人間世界に着いたものの、特使は途方に暮れてしまった。というのも、彼はパドマサンバヴァがどこに住んでいるか知らなかったし、どの方角へ向かえばいいのかさえわからなかったからだ。

 そこで彼は岸辺に着くと、パドマサンバヴァの名を唱えながら、五体投地をし、使命を果たすために協力してほしいと祈った。

 すべてを見通しているパドマサンバヴァは、ふたりのダーキニー(仙女)、つまり白いゲチョンと茶色のシダクに、白い虹を渡って、彼をサンドペリへ導くよう命じた。

 彼らは命令に従い、湖の境界線にやってきて、ナーガと会った。一見しただけで彼がナーガであることがわかったが、彼らは男がどこから来たのか、旅の目的は何か聞いた。(チベット人当局者はかならず旅人を尋問する。それは時間がかかり、退屈で、細かい。それからようやく旅人に最低限の便を図る)

 彼の答えに満足して、ダーキニーらは案内として送られたこと、輝く道を通って連れて行くことなどを伝えた。

 ものの1分も経たぬうちに、彼はパドマサンバヴァの玉座の前に立っていた。

 彼は地面に身体を投げ出してお祈りし、彼が持ってきた贈り物を献じ、それからナーガの世界が未知の疫病に襲われたこと、パドマサンバヴァならそれを除くことができるだろうと考えていることなど、状況について説明した。

 パドマサンバヴァはもちろん、他の誰よりもこのことをよく知っていた。彼自身は病気をもたらして貧しいナーガたちを苦しめるつもりはなかった。しかし計画の遂行中であるため、注意深くツクナ・リンチェンが話すことを聞くふりをし、悲しいニュースを聞いて驚いた顔をした。

「心の底から、災難に遭われているあなたの友人がたに同情を申し上げる」とパドマサンバヴァはナーガに言った。「あなたがたの要望にこたえて、長い旅に出るのは、すこぶるむつかしいのだ。私はこのとおり老いぼれで、しかも忙しい。あなたに薬を差し上げよう。この薬が病人によく効くのはまちがいなかろう。私がそちらに行くのよりも、効果があるというものだ」

「個人的に医者に診てもらうのと、遠くから薬が送られてくるのとでは、違いは大きいと思われます。あなたの聖なる存在そのものに、薬効があるのです」

 このように説得力のある言葉で、また信仰心を示すことによって、彼はなんとかパドマサンバヴァに彼らの要望にこたえてもらおうとした。

 ナーガの国に行くのは、パドマサンバヴァの計画と一致していた。彼はもともと彼らから招待されることを望んでいた。それでより必死の請願を期待していたのである。こう考えて彼は川を汚染し、疫病を蔓延させたのだった。

狙い通り彼らはパドマサンバヴァにたいし、救いに来るよう嘆願したのだった。パドマサンバヴァは断るふりをしながら、最終的にナーガの特使の懸命なアピールに根負けしたように装った。

「そこまで望まれるなら、私自身があなたがたの病気を診るとしよう。私への贈り物などは必要ない。私が欲しているものはたったひとつだけだ。しかもそれほど重要なものではない」

 パドマサンバヴァが話し終える前から、特使は神に誓って、半神である竜族の名において、師が望まれることが何であれ、そのために尽力すると力強く述べた。

 パドマサンバヴァは満足の意を示し、ツクナ・リンチェンに、国に戻って七日以内に彼本人がやってくることを伝えるよう命じた。

 ダーキニーらはツクナ・リンチェンを湖の境界線まで送り届けた。彼は水に飛び込み、急いでナーガの領域に戻った。人間はこのなかに入ることはできなかった。

 ナーガたちは、特使が持ち帰った吉報を聞いて歓喜に沸いた。ツクナ・リンチェンはみなから祝福された。そしてすぐにパドマサンバヴァをもてなす準備に取りかかった。豪華な絨毯、美しい刺繍が施されたつづれ織り、金銀のテーブルと椅子、ラピスラズリが散りばめられた白檀でできたさまざまなもの、宝石で飾られた壺、その他千もの高価なものが国外から集められた。パドマサンバヴァが滞在する宮殿の飾りつけが完了すると、そこから太陽と月が合わさったような輝きが放たれた。

 ツクナ・リンチェンがナーガの国に戻ってから七日後、パドマサンバヴァは数百人のラマ、ダーキニー、女神を伴ってやってきた。彼らはさまざまな楽器を奏で、天蓋、花飾り、お香を焚いた壺などを携えていた。この豪勢な行列が、パドマサンバヴァの到着を待っていた人々の前にあらわれた。この光景を見ただけで、病人の心に希望が蘇り、彼らの苦悩は緩和した。

 パドマサンバヴァは3か月、ナーガたちの間に残り、薬を調合しては患者に与えた。滞在期間の終わりには、ほとんどの病人が回復していた。悲しみは喜びに変わった。

 それからパドマサンバヴァがサンドペリへ戻ることを発表すると、国王や族長は王国の財宝すべてを持ってくるよう命じた。宝石、真珠、珊瑚、トルコ石、水晶、琥珀、ルビー、象牙、マカラ(ワニに似た想像上の動物)の口である白い貝、毒蛇の皮膚、虎皮、青竜の卵、その他厖大な珍奇な物が集められ、山のように堆くなった。これらは感謝のしるしとしてパドマサンバヴァにささげられたものだった。国王や族長は大師にたずねた。

「尊敬する大師よ、これらの宝物は受け取るに値するでしょうか。喜んでいただけるでしょうか」

「あなたがたの贈り物はすばらしいものだ」とパドマサンバヴァはやさしく答えた。「私はあなたがたが献じたものを喜んでいる。しかしそれらは必要ない。私が欲しているのはもっと小さなものだ。ここでは見かけないのだが、どこにあるのだろうか」

 国王はおおいに驚いて、たずねた。

「大師さま、恐れ多いのですが、それはどういうものなのでしょうか。想像すらできかねますが。いずれにしても、すべてのものは大師さまのものです」

「それはすばらしい」とパドマサンバヴァは言った。「了解した。では言おう、私が欲しているのは、ナーガメンケンを父とし、ドゥルワを叔父とするひとりの娘である」

 この宣言のあと、沈黙が流れた。ナーガたちは驚いて互いを見合った。

「何て言ったんだ?」とメンケンは聞き間違えたかと思ってつぶやいた。

「ゼデンが欲しいんだとよ」と兄弟のドゥルワがこたえた。

 ドゥルワは激昂しやすい性格の持ち主で、しばしば自分を抑えることができなくなることがあった。彼はゼデンを娘のように思っていた。姪ではあるが、妻の娘のように、つまり本当の娘のように扱い、父たる意識を兄弟と共有して持っていたのだ。彼の心に怒りがこみあげてきた。この老いたグルは、合法的にふたりの貴族の女を妻としているという。そして数々の「婚外の」の冒険でも知られている。この大師がいま、娘同然のゼデンをじっと見ているのだ。

「深遠な教義からまずわかるのは」と彼は言った。「この世界は遊戯のようなもの、あるいは幻影のようなものということだ。グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)のおこないは超越的な思惟によってなされるというではないか。それはわれわれ俗人の理解の外にあるだろう。しかしわが姪のことをそんなに知っているとも思えぬ。この白髭といっしょになるというのは、いったい遊戯なのか、夢なのか、現実なのか。それは彼女に不幸をもたらすだけだろう。彼女が疫病にかからずにすむためには、医者が彼女を害さなければならないということだろうか」

 ドゥルワの近くにいた人々は、これらの大胆な言葉を聞くとぶるぶる震えはじめた。わずかな不信心な人をのぞくと、グル・リンポチェの怒りが恐ろしくて、心から同調などできなかった。

 パドマサンバヴァの近くにいる族長たちに関して言えば、大師を全面的に崇拝していたので、その考えを論議するまでもなく、若い娘を差し出すことにだれも異議をはさまなかった。

 この決定を聞いたとき、ドゥルワの怒りは頂点に達した。彼はひとりのナーガが、パドマサンバヴァに献じられるナーギー(竜女。姪のこと)の首に巻くカタ(儀礼用スカーフ)を広げていたとき、それをひったくった。そしてそれを手の中で広げながら、大股でパドマサンバヴァのもとへ歩いていった。

「われらはすべてのものをあんたに捧げたんだ」と彼はずけずけと言った。「財宝を収めた倉庫はからっぽだ。そりゃ全部、あんたの足元に置いたからだ。もしこれでも不十分だとしても、ほかの場所からいくらでも調達することもできる。だが娘は違うぞ。娘を簡単に手に入れられるなどと思いなさんな。あんたは力が強く、賢いかもしれんが、そうやすやすとはいかんからな」

 

天に輝く太陽と月

その光はこの世界を照らす 

ああ讃嘆すべきかな 

ときに天を滅ぼする凶星あり 

しかして暗闇が宇宙を覆う 

ああ悲しむべきことなり 

種がまかれ、トウモロコシが育つ 

ああ讃嘆ずべきかな 

嵐が起こり、作物を根絶やしにする 

ああ悲しむべきことなり 

聖なる法の衣をまとうラマが 

尊い仏法を教え、厳しい修行に勤める 

ああ讃嘆すべきかな 

そのラマが情欲に負けるならば 

ああ悲しむべきことなり 

 

「かく申したとおりだ。これより真実というものはござらん。わが姪を差し出すわけにはいかぬ」

 パドマサンバヴァの気質は穏やかなものではなかった。彼を苛立たせるのは危険なことだった。怒りで顔を赤くし、目を輝かせ、彼は椅子から立ち上がった。すべてのナーガが狼狽してあとずさった。

「そなたは格言をよく学んでいるようだな。こちらへ来い」とパドマサンバヴァは横柄に命じた。「それならば格言でもって答えようではないか」

 

村の交易市でみじめな男が裁かれていた。通りかかった人がかわいそうに思い、割って入って、許しを乞うた。それによって自由を得た男は、しかし、助けられた瞬間、仲裁者の親切を忘れてしまった。

 ある男が犯した罪によって罰を受け、地獄で塗炭の苦しみを味わっていた。慈悲深いボーディサットヴァ(菩薩)は彼を救い出し、浄土へ送った。彼は至福の場所に転生すると、彼を拷問から救った人のことは忘れてしまった。

 

「そなたたちの多くは病気にかかると、私の知識を頼みの綱とする。そなたもほかのナーガと同様、私が助けたぶんのお返しを約束する。だが疫病にかかっていたそなたも、回復したとたんに約束したことを忘れているではないか。卑しむべきならず者よ、そなたはあわれな存在である。私はそなたの姪をもう欲してはいない。私はすぐ立ち去るだろう。しかしすぐに病気が戻ってくることになるだろう。以前のように嘆き悲しむことになるのだ。こんどは私に助けを求めても、その願いは届かないだろう」

 恐ろしい雰囲気がみなぎるなか、パドマサンバヴァが前に出ると、ラマやダーキニー、女神らは豪華な行列を形成した。するとパドマサンバヴァが移動に使う白い虹が天空にあらわれ、その端は宮殿の屋根に接していた。ナーガたちは恐れおののき、この偉大な大師の怒りを収めるいかなる言葉も思いつかなかった。

 メンケンは手に白いカタを持ち、よろけながらも前に出て、パドマサンバヴァの足元に置いた。彼は三度、身を投げ出して祈り、そしておびえた声で言った。

「おお、尊い宝(グル・リンポチェ)よ、どうか気をお静めください。お頼み申し上げます。わが弟は礼儀をわきまえず、ものを申してしまいました。どうかお許しを。ゼデンはあなたさまのものでございます。わたくしは娘の父親でございます。娘は扶養しているのはこのわたくしなのでございます。そのわたくしがグル・リンポチェさまに差し上げると申しているのです。どうかわたくしどもの好意を受け入れてください」

「おい、年上ってだけで、どうやっておまえが父親だなんていえるのだ?」

 ドゥルワがそう難癖をつけはじめると、20人ほどのナーガたちが彼にとびかかり、彼が手に持っていたカタ(スカーフ)を彼の口に押し込んで、宮殿からひきずりだした。

どうにか宮殿内は静かになった。しかしパドマサンバヴァはいかめしい表情を変えず言い放った。

「よかろう。娘をもらい受けよう。七日以内にゼデンをルンセン・ゴコンマ湖の岸辺に送りと届けてくれ。そこで娘は庇護者を見つけるだろう」(庇護者はダクポ、すなわち主人という意味)

 そう話す頃には、彼はナーガたちの頭上を上昇していた。華やかな宮廷人を伴って彼は天空に輝く道を進み、雲間に消えていった。

 

 七日後、パドマサンバヴァの指示のとおり、700のナーガに伴われてゼデンは湖まで送り届けられた。

「娘よ」とメンケンは言った。「わしが付き添えるのはここまでだ。グル・リンポチェがおっしゃるとおり、人間の世界に入っていきなさい。いつもグル・リンポチェを頼みにし、信じなさい。このお方は生きるものに何が必要かよく知っておられる。そなたをけっして見捨てないだろう。わしはおまえに雌馬、牛、雌羊、雌山羊、雌犬を分け与えよう。これらの動物はおまえがどこへ行こうとも役に立つだろう」

 あわれなナーギー(竜女)は激しく泣きじゃくった。国からはるかに離れた荒涼とした場所に、たったひとり取り残されるのは、なんと恐ろしいことだろう。

「お父さん」と彼女はなお泣いている。「行きなさいとおっしゃるけど、どこへ行けばいいのですか。この見も知らぬ土地でどうしたらいいか、私にはまったくわかりません。見上げても、そこにあるのは大きくて何もない空ばかり。下を見ても、そこには大地が広がるばかり。どの方角に第一歩を踏み出せばいいのでしょうか。そこに赤い道があります。向こうに白い道があります。こちら側に黄色の道があります。ほかの道もまた遠くに見えます。どれを選ぶべきなのでしょうか? 憐みの心があるなら、どうか私を国に帰らせてください。私を見捨てないでください。お父さん、私をひとりきりにしないで」

 娘の願いをかなえさせることはできないと知っていたメンケンは、役に立つ助言を与えて別れの苦しみを和らげようとした。

「娘よ。谷を下りていく青い道をご覧なさい。それは鱗(うろこ)がトルコ石でできた巨大な蛇のように見えるだろう。その道を歩いていけば、雲のない天空の青色を反射する無数の湖が連なる国に到達するだろう。その方角へ向かってはだめだ。そこは飢えと喉の渇きの国だからだ。湖水は塩水で、湖岸はテントを建てるのに適さない。

 あの曲がりくねる細い白い道をご覧なさい。それはあまりに白くて、山の崖に垂れ下がった、マニのマントラ(オーム・マニ・ぺメ・フーム)を何千回も唱えるための貝でできた数珠のように見える。この道を進むと、荒涼とした、強風が吹きすさぶ永遠に融けない雪を被った台地に到達するだろう。そこは悪魔が住みついた土地である。

 おまえの後ろには、花が咲き乱れるエメラルドの道がある。しかしその魅力的な見かけの下には罠が仕掛けられている。その道は地平線で草の多い沼地に沈むのだ。旅人は湿地に入ると、暗闇が下りてきて、道を失うだろう。彼は滑り、転倒し、泥の海に沈んでしまう。あえてこの道を選ぶべきではない。

 丘の麓に今、日がさして黄金色に輝く黄色の道がある。女神が不注意に落とした首飾りのような、琥珀の糸のようなか細い道である。それは洞窟を通っている。そこには白と黒の熊が棲んでいるので、ひとりの旅行者が選択するには危険である。この道も避けなければならない。

 しかし平原の果て、はるかかなたに珊瑚色のリボンのような道が見えるだろう。その道は峠につづいていて、その向こうには雲が群がっている。この道を選びなさい。この道をたどれば、平和で幸福の国、リンに到達するだろう。そこでパドマサンバヴァが約束した保護者と会えるはずだ」

 若いナーギー(竜女)は感謝の気持ちを抱くとともに、パドマサンバヴァにさからう恐怖があることを理解した。父もまた納得していなかったのだ。彼女は押し黙ったままだった。彼女は涙の向こう側に赤い道を見た。それは峠に向って上っていき、雲はカーテンを形作っていた。それは謎めいた問題を隠しているかのようだった。彼女が物思いに耽っていると、父親とその他のナーガたちはそっと離れていった。ふと気づくと、彼女はひとりきりで立っていた。国に帰る希望は捨て、彼女は動物たちとともに珊瑚の道をめざして歩き始めた。

 薄闇に包まれる頃、彼女は一軒家にたどりつき、一夜の宿を乞うた。そこに住む人々は彼女を歓待し、結局そこに3か月滞在することになった。出発する前、彼女はリンにつながる道についてたずねた。彼女は必要な情報を受け取った。

 

 タムディン(ハヤグリーヴァ、馬頭明王)の化身であるトドンは、そのとき族長のひとりとしてリン国に住んでいた。ある夜、彼は奇妙な夢を見た。それが強烈な夢だったので、明け方、彼は兄弟である国王や近くのテントに住む戦士たちに使者を送り、彼のところに集まって夢について論じるよう伝達した。その夢がこれから起こる、部落にとって重要なできごとの前兆かもしれないと考えたのである。

 彼らが集まってくると、トドンはお茶やツァンパとバターをこねて作った食べ物などを出してもてなした。みながパー(各自がツァンパとお茶をこねて作る球状の食べ物)を食べはじめる頃、彼は夢について語り始めた。

「おれはトヤン・シャムチェマ峠の草が風に飛ばされるのを見ていた。それはリンまで運ばれてきた。それはここに来てふたたび根付いた。草の葉は一枚一枚が宝石になった。知られざる宝石だが、麦酒の色をしていた。おれはそれを取って玉座の上に置いた。それはだれかすぐれたリーダーか、あるいは聖なるラマが、国をよくするために、こちらにやってこようとしているのだろう。それがだれなのか知らねばならぬ。わが兄弟、シンレンよ、モ(占い)で占ってくれ。

 シンレン王は、下僕を自分のテントに行かせ、占いの本を取ってこさせた。下僕はすみやかに本と2つのサイコロが入ったカバンを持ってきた。

 まずシンレンは三宝(仏、法、僧)を呼び出し、それからサイコロを投げた。彼はサイコロの目とそれに相当する本の箇所を比べ、結果を読み取った。

 王のまわりの人々は何もしゃべらず、占いの間ずっと神経を集中し、王の動作を注意深く見ていた。ついに王は高らかに言った。

「こちらへやってくるのは、高僧ラマでもなければ族長でもないぞ、若い娘だ。いま峠を越えて、坂を下りてくるところだ。娘とともに雌馬、雌羊、雌山羊、役立たずの雌犬もやってきている。今日にも娘はここに着くだろう」

 男たちは爆笑した。トドンは失望を隠さなかった。彼は自分の夢の前兆に自信があり、自慢にしていたのだが、どうやら自分が重要な役割を担う驚くべきことは、起こりそうにもなかった。彼は占いを許可したことを悔いはじめていた。

「わしは、夢の中で見た宝石が、若い娘や動物のこととは思わんわ」と兄弟である王に言った。「おそらくおまえもモの結果を理解することができんのだろう。ともかくすぐ答えはわかるというものだ。どんな場合にも備えようではないか。もし偉大なる人物が来るのなら、それにふさわしいもてなしをする必要がある。もし乞食が来るなら、何かを恵んでやればいい」

 そして、それぞれ一碗ずつお茶を飲むと、みな各自のテントに戻っていった。シンレン王もまた自分のテントに戻ると、妻(王妃)のギャサに、いましがた起きたことを、とくにうぬぼれの強いトドンががっかりして、機嫌を悪くしたことを、面白おかしく話して聞かせた。

 少したって、ギャサが川へ水を汲みに行くと、動物を連れた、到着したばかりのゼデンを見かけた。

モの予言のことを夫から聞いていたので、この奇妙な旅人を見てもひどく驚きはしなかった。それで彼女は若い娘に近づき、どこから来たのかたずねた。

「私はゴン・ユル(夜の国の意)から来ました」とナーギー(竜女)は答えた。

「あなたはその国の生まれなの?」とギャサはふたたび聞いた。

「そうです」とゼデン。

 こうして彼女はゴンモ(夜の国の女の意)と名付けられた。彼女は自分の正体をあらわにしなかったので、ケサルの登場までリン国において彼女はそう呼ばれたのである。

 ギャサはこの新しい客を招待し、数日間彼女のテントに泊まっていくようにと誘った。若い娘は招待を快く受け入れ、ここに泊まることにした。

 ナーガたちはどんな形態でも装うことができる力を持っていた。とくに人間の姿を取ることを得意としていた。ゼデンの外見は、その出自をにおわせる要素をまったく見せなかった。ドクパたち(遊牧民)は彼女がおなじ種族であると信じて疑わなかった。

 ゼデンが滞在して一週間がたったとき、彼女が好きになったギャサは、夫に、彼女を召使いとしてそばに置く許可を求めた。王は同意し、ゼデンと動物たちはこのまま彼らのもとにとどまることになった。

 

 ゼデンがリン国に着いてから3年がたった。この間、彼女は意識的にまじめに働いた。すなわち、山に家畜を連れいていって放牧し、乳を撹拌してバターを作り、ヤクの糞を乾燥させて燃料をこしらえるなど、自分が役に立つことを示した。

 はじめ、シンレン国王は彼女にそれほどの注意を払っていなかった。しかし徐々に、彼女の心がやさしくて、身体つきがよく、見た目も美しいことに気づくようになり、とくに笑顔が魅力的であることがわかってきた。この発見は、彼の情熱に火をつけた若くてぴちぴちした娘を自分のものにしたいと欲する第一歩だった。シンレンは、齢五十とはいえ、心の内は若者のようにときめいていた。そして、この気持ちをかわいい召使いにわかってほしいと思った。

 ナーギーはいま、控えめなゴンモとなっていたが、主人にたいして尊敬と感謝の念以上に、愛情を感じ始めていた。彼女は喜んでシンレンの第二夫人になりそうだった。というのも彼はすばらしい人であり、とても親切だったからである。しかしギャサはライバルの出現を好んでいなかった。国の習慣として、一夫多妻は一妻多夫と同様に認められていたが、彼女はすでに息子をひとり生んでいるので、第二夫人をもついかなる理由もない、というのがギャサの主張だった。

 そのとき以来、調和が取れていた国王のテントのなかは、不協和音が目立つようになった。女主人と召使いの間にも喧嘩が絶えなくなった。シンレンは、事態が悪化していることに心を痛め、もはや自分も若くないこともあり、家の中の平和は妥協しないほうがいいと考え、情欲を控えることにしたのである。

 しかし嫉妬深い妻は、彼の犠牲的精神をちっとも評価しなかった。夫を信用せず、召使いをも嫌いになったギャサは、もうこうなったら彼女を殺すしかない、とまで思い詰めるにいたった。実際、野営地の近くで殺害するのは不可能なので、策略を使って外におびきだして、悪魔の餌食にするのが最善の策なのだった。

 予期せぬ状況がこの悪しき計画に味方した。深い憐みの気持ちから、あるいは情欲から解放されたいという思いから、シンレン王は遠くの聖地巡礼に出発したのである。

 ゼデンに疑念を抱かれないように、ギャサは数か月の間じっとこらえて、表面上は関係を修復したように見せかけた。ある日彼女はゼデンに言った。

「ゴンモ、私の息子ギャツァの馬に馬勒(ばろく)をつけて、トヤン・シャムチェマ峠近くの山で放牧してくださるかしら。予言書に書いてあったの、この地域で馬がトルコ石のような青色の草の葉を食べたら、シダク南部で宝物を発見するだろうって。この宝物、人間は見つけることができないっていうのだから、たぶん馬が蹄で地面を掘り起こすのだわ。馬が宝物を発見したら、当然その権利は馬の所有者にあるはず。もしうまくいったら、こんなにすばらしいことはないわ」

 ナーギー(竜女)は何も言わなかった。といっても女主人に気圧されるばかりではなかった。宝物なんてあるはずがないわ、と彼女は考えた。トルコ石色の草の葉についても書かれているはずがないと思った。

<この女が予言書を読んだなんてウソよ。嫉妬心のあまり、シンレンが留守の間に、私をなきものにしようとしているだけだわ。あいつが私を送り出そうとしている峠のあたりは、悪魔が棲みついていることで有名だもの。私を悪魔の餌食にしようという魂胆が見え見えだわ>

 彼女は絶望感に打ちひしがれそうだった。しかしそれでもあえてギャサに抗(あらが)わないことにした。彼女は出発し、長い綱で馬を牽きながらゆっくりと歩いていった。

 峠につづく登り道に達すると、ゴンモには、遠く峠あたりに恐ろしい姿をした数多くの悪霊がたむろしているのが見えた。彼女は恐ろしくてそれ以上進めず、馬を灌木につないで岩の下に避難して座った。彼女はそこで疲れるまで泣き、それから眠りに落ちた。

 将来ケサルの父になることが予定されているケンゾは、天界から彼女の様子を見ていて、いまこそ使命を果たすいい機会だと考えた。彼は灰色の駿馬にまたがり、黄金の虹の上をさっそうと駆け下りた。そのとき旗や天蓋を持った600柱の神々を従えていた。きらめく光の中をこの豪勢な行列が移動した。

 この超常的な光によって目を覚ました娘は、自分を取り巻くまばゆいばかりの神々の姿を見て恐れおののいた。

 ケンゾは馬から下りて彼女に近づいた。彼はドゥツィ(聖水)が満たされた黄金の壺を運んだ。壺には一房の孔雀の羽根が浸されていた。将来ケサルとなるドゥプトプ(成道者)トゥパガワは、彼自身の像を聖水にうつし込みながら、水面に自身の姿を見ていた。

「妹よ、ナーギーよ」とケンゾは言った。「恐れを抱くではない。私を知らないかもしれないが、パドマサンバヴァが送ったケンゾ神とは私のことである。この聖なる壺を満たしているのは奇跡の成分の水であり、110柱のドゥプトブ(成道者)の神々を含んでいるのだ。さあ、飲みなさい。この行いによって王国が建てられ、悪魔は調伏されるだろう。そうしておまえはすばらしい仏法の果を得ることができるだろう。そして望みはすべて実現されるのだ」

 ケンゾは八吉祥のしるしで装飾された玉の碗に聖水をそそぎ、それをゴンモに渡した。彼女はそれをぐいと飲んだ。するとケンゾは何も言わず、600柱の神々とともに、黄金の虹を渡って天界に帰っていった。しばらくの間彼らの楽器の音と聖なる行列を包む光が空中に残っていたが、そのうちすべて消え、また山は静けさを取り戻した。ナーギーは、私は夢でも見ていたのかしら、と思った。

 明け方、彼女は家に戻り、馬を女主人に返した。ギャサは召使の女が無事に帰り、健康そうなのを見て、あわててしまった。しかしなんとか取り繕って、がっかりしていることを隠し通した。彼女は馬について聞いた。

「馬は草を食べたかい?」

 しかしそれ以上のことはたずねず、ゴンモにお茶をすすめた。

 その日の夜、ナーギーはずっと激しい頭痛に苦しんだ。そして三日間、病に臥した。四日目、症状はそれほどよくなっていなかったが、女主人は彼女にもっと注意を払うべきだと思った。というのも、もしそうしなかったら、隣人は彼女が愛情に欠けていると悪口を言うかもしれないと思ったからだ。

 彼女はラマと医者を呼んだ。ラマはいくつもの宗教儀礼をおこない、医者は薬を処方した。ゴンモはよくも悪くもならなかった。

 ギャサは召使が病気になると、彼女が死ねばいいのにと思った。しかし病状がはっきりせず、そのことが彼女を苛立たせた。そして時間が過ぎるにしたがい、怒りが増してきたのである。

 ある夜、ギャサは自分を抑えることができなくなり、ついにゴンモが寝ているテントを訪ねた。

「おい、この死にぞこない!」と、冷酷に病人を攻め立てた。「いったい何に執着して生きているんだい! さっさとこの世をあきらめて、あの世にいっちまいな! それとも悪魔がおまえのなかに巣食っていて、治る病気も治らないのかい?」

「ご主人さま」と彼女はかぼそい声で言った。「そのようなことはございません。もし私の体の具合がよくならなかったら、それは病気によるものです。もし私が死ななかったら、それは私の体が強いということなのでしょうか」

 そう言って彼女はしくしくと泣き始めた。

ギャサは、病人である若い娘に向ってこのような態度を取ったことを、恥ずかしく思った。そして何も言わずに自分のテントに戻った。

 ギャサが立ち去ったあとしばらくして、彼女は白い虹の端が自分の頭に届いていることに気がついた。それと同時に、身体の中から光が浮かび出てきて、虹と結合し、法螺貝のように白い男の子が彼女の頭の頂からあらわれた。男の子は彼女をつねに右側にして、彼女の周囲を3回まわった。

「お母さん、あなたがぼくを産むときに示してくれた善意に、人は報いるでしょう」

 男の子は飛び去り、チェンレシグ(観音)が住む浄土へと到達した。

 翌日、空に赤い光があらわれ、ゴンマの右肩にとどまった。するとそこから炎のように赤い男の子が飛び出してきた。そして彼女の周囲をまわり、彼の兄弟とおなじことを言った。そして赤い光を通って赤い浄土へ向かって上昇した。

 翌日、彼女の左肩に触れたのは青い光だった。そこから飛び出してきたのはトルコ石のように青い男の子だった。彼女の周囲をまわり、ほかの兄弟ふたりとおなじ言葉を述べた。そして馬に乗り、青い光の道を通って至上の喜びの浄土へと向かった。

 四日目の朝、太陽の光が彼女の心臓に射してきた。それと同時に極度に美しい小さな女の子が現れた。彼女がかぶった冠は5つのディヤーニ・ブッダ(五仏)が表わされ、人間の骨でできたネックレスなどの装飾品を身につけていた。彼女は母親の前で身を投げ出して三度、礼拝した。そして兄弟たちとおなじ言葉を述べ、光の道を通ってドルマ(ターラー女神)の浄土へと昇っていった。

 五日目、かすかな光が彼女のへそに当ると、袋が飛び出てきた。

 つぎつぎと理解不能のできごとが起こるので、ゴンモの恐怖心は増すばかりだった。動きのない袋をみて彼女は狼狽した。これはいったい何なのか? と彼女は自問した。このようにして人間は生まれないだろう。それとも私の種族の子を生んでしまったのだろうか?

 ひどく取り乱した彼女は、ひとりでは耐えきれなくなり、女主人のギャサにたいして何も感じなくなっていたので、テントをあけて彼女を呼んだ。やってきたギャサは隅に置いてある袋を見てぞっとした。

「何これ?」と彼女は恐れにふるえながら叫んだ。「こんなもの見たことないわ! これは神か悪魔が送りつけたものに違いないわ。この袋はアク(叔父を意味するが、実際は義兄弟)のトドンに見せるべきね。叔父ならいい助言をしてくれるわ」

「そんなことしたくないわ」とゴンモはふるえながら言った。

「あなたが話さないっていうのなら、私が話すわ」とシンレンの妻は言い返した。

 急いで彼女はトドンのところへ行き、いま見てきたことを話した。

 トドンは黙ったまま聞いていた。いろいろと考えて、この奇妙なできごとの意味を探った。彼はこのことを古代の予言と関連づけた。それはシャロツァンタンに滞在していた頃、そこにある家族の書庫で読んだものである。経典にはこう書いてあった。若い少女が5種の動物とともにやってくる。彼女はさまざまな神の母となるであろう。そして男の子を生むが、生まれたその子はリンの国王になるであろう。王はのちにさまざまな国を征服することになる。

 トドンは気づいていなかったが、この義理の姉妹であるナーギー(竜女)から3人の神とひとりの女神が生まれていた。しかし彼は彼女が来たことと、5種の動物のことをよく記憶していた。おそらく、この尋常ならざる袋は、予言の残りの部分と関係があるのだろう。

 勝者である王になる者の誕生は、リンにとってもこの上ない幸せなことである。しかし先入観を持つべきではないだろう。わが兄弟シンレンがリンの王でありつづけるかぎり、自分も族長のひとりでいられるではないか。実際、兄に劣らぬ権威を持っているではないか。だがほかの王のもとでは、自分の権威はおおいに失墜してしまうだろう。

 力を失うということは、それと結びついた利益も失うということだ。家畜、羊毛、バター、その他さまざまな贈り物が、だれか他人のところへ行くということだ。

ああ、これはまずいぞ! 手遅れになる前に善処しなければならぬ。

 トドンは瞑想をやめて出てきて、威厳たっぷりに、重々しい空気を作り出した。

「ゴンモのところへ行ってその袋とやらを見てやろう。しかし思うに、この奇妙なものはよい兆しではないだろう」

 ギャサがいなくなると、トドンは馬に鞍を着け、兜をかぶり、数本の剣を腰に差して、不機嫌そうにゴンモのテントへ向かった。

 テントに着くとすぐ、袋のことをたずねた。袋が目の前に差し出されると、心の底からいやそうな顔をして、悲痛な表情を示した。それから胸を叩きながら言った。

「ああ、なんということだろう! 中国でもチベットでも、こんなものが生まれたなんて聞いたことがない! おまえは悪い娘にちがいない。だからこんなものが生まれたのだ。もしこの袋がこのままここにあったら、リン国に災難がもたらされるだろう。それは早く川に投げ捨てられるべきだ」

 トドンの命によって、3人のラマ、3人の家族長、3人の既婚の女性が袋をもって川辺に行き、夕暮れ時、それを川に投げ込んだ。

 その夜、ホルの国王は川の中で宝石が閃く夢を見た。目が覚めると国王は、漁師でもある大臣のリクパタルブムに、網にかかったものをすべて持ってこいと命じた。

 その日リクパタルブムは、上流から流れてきた袋を網にひっかけた。それは国王に見せられたが、国王も宮廷にいた人々も、この奇妙なものが何であるかわからなかった。ホル国王はラマ・ティロンに使者を送り、宮廷にやってきてそれが何であるか調べるよう依頼した。数秘学に通じているラマは、この袋を見るや、こう言った。

「これは人間の子宮です。なかに何があるか見てみましょう」と言って、小刀を借りて袋を裂いて開けた。

 彼が最初に取り出したのは、燃えるように真っ赤な赤ん坊だった。

 クルカル王は言った。

「その子をわしに渡してくれ。この子はなかなか魅力的だ。この子を赤い絹の布に包んで持って行こう」

 ラマはつぎにトルコ石のように青い赤ん坊を取り上げた。国王の兄弟であるクルセル王子はこの赤ん坊を欲しがり、青い絹の布に包んで持ち去った。

 最後に、黒い赤ん坊が袋のなかから見つかった。もうひとりの国王の兄弟、クルナク王子がこの赤ん坊を欲しがり、黒い絹の布に包んで持ち去った。

 この3人の王は、何世紀も前にブッダを冒涜し、地上でもっとも力のある者に転生して、仏法とそれを信仰する人々を滅ぼしたいと願った女の3人の化身だった。

 悪魔の化身である3人の王が持ち帰って育てた、袋から取り出された3人の子の起源を知ることはむつかしかったが、彼らは知らず知らずのうちに、敵を育てることになった。なぜならこの3人の子供は、ホルの王たちとの戦闘でケサルを助ける約束をした神々の化身であったからだ。

 赤い子供はディクチェン・シェンパと呼ばれた。青い子供はシェンチェン・ユンドゥブと呼ばれた。そして黒い子供はトゥグー・メバルと呼ばれた。

 袋が川に投げ込まれた翌日、ゴンモはまるでそこに押し込められているかのように、心臓の上部から声が聞こえた。

「お母さん」と声は言った。「いま、生まれるときなのでしょうか? あなたの頭のてっぺんから生まれてよろしいでしょうか」

 ゴンモはかわいそうなことにその声を聞いてふるえあがった。

「もしあなたが悪魔なら」と彼女は言った。「あなたの望み通り、頭のてっぺんから出てくるといいわ。私はそれをとめることができないから。でもあなたが神なら、自然に生まれることを願うわ。トドンとギャサは私にたいして怒っているんだもの。あのお奇妙な袋のおかげで、彼らは私を悪魔に属する種族とみなしているの。私の存在によって災難が起きると考えているのです。それで私を殺そうとしていうのだわ」

 声は答えた。

「恐れることはありません。彼らがあなたに危害を加えることはないでしょう。ぼくはあなたの頭から出てきます。それが最も良い方法なのです。けれどもあなたは前兆について学ばなければなりません。

 あなたといっしょに来た動物たちに子供がたくさんできていますか? 白いお米の雨が空から降ってきましたか? 黄金の花が咲きましたか? 大地が黄、赤、青、黒の雪で覆われましたか? 行って、見てください」

 テントを離れて見回すと、まさに声が描いたとおりのことが起きているので、ゴンマは心底驚いた。

 近寄って見てみると、父親のナーガであるメンケンにもらった動物たちがどれも子を産んだところだった。まわりには異なる色の雪、すなわち黄、赤、青の雪が積もっていた。そこからたくさんの黄金の花が伸びて、地面を覆い、妖精の絨毯のようだった。そして空から白い米の雨が降ってきた。それは銀箔のようにきらきら光っていた。

 しばらくの間、彼女は奇跡の光景を眺めていた。しかしその声を聞いたために言いも知れぬ不安を感じていた。もうひとり子供がおなじように奇跡的に生まれてくるのではないかと思い、彼女はテントに戻り、身を隠した。

 すると彼女の頭頂が開き、白い脈管から、三つ目に似た3つの点が入った白い卵があらわれた。

 なんておかしなことが起きるのかしら、とゴンモは考えた。ほんの少し前、内側から男の子の声が聞こえた。そしたら卵が産まれるなんて! 彼女はボロ切れで卵を包み、それを衣のなかに入れた。しばらくすると、卵は自らの力で殻を壊し、なかから黒い肌をもった麦酒の色の子供があらわれた。彼は3つの目を持っていた。

 このとき、新しく生まれた子は兄弟たちのように飛び去ろうとはしなかった。母親は生まれた子の三つ目を悲しそうに見た。この特性がまたトドンとギャサを怒らせるだろうと思ったし、それがまた拷問のような苦しみを彼女に与えるであろう。そのように先を見通すのはつらいことだった。そこで彼女は三つ目のうち真ん中の目を親指でつぶした。それから彼女は子供を抱きかかえ、質問をした。

「おまえはどこから来たの? どうして私から生まれたの? なぜ動物たちは今日いっせいに生まれたの?」

 子供は答えた。

「とても長い間、ぼくは鬱蒼とした森のなかで厳しい修行をするインド人の隠者でした。この修行で徳を積んだおかげで神々の世界に、コルロ・デムチョクとドルジェ・パクモの子として転生することができました。名はトゥパガワといいます。

 この地上に生まれた数多くの悪魔が仏法を破壊しようと目論んでいます。ぼくはそんな悪魔たちと戦うのです。そして、彼らの悪巧みを防ぐのです。使命を果たすには、人間の身体を持つことが必要になってきます。ぼくはあなたの要素をもらって、姿かたちを作るのです。

 動物たちの子供に関していえば、雌馬の子供はナンワタイェ(仏道無辺の意)の化身なのです。その馬はぼくの愛馬になるでしょう。そして無数の戦いでぼくを助けてくれるでしょう。その他のさまざまなことはよい兆しの先駆けとなるでしょう。

 ディ(雌ヤク)の子供は黄金の角を持っています。羊とその子供は神々の家畜の群れから来たものです。神々が言うには、征服することによって私は家畜を増殖させることができ、国中を豊かにすることができるというのです。雌犬は好ましい前兆です。それはぼくの勝利を予言します。敵はぼくが気づかないうちに倒すつもりなのでしょうが、彼らはぼくによって倒されるのです。

 黄金の花が咲き誇るのは、たくさんの賢者がリン国に生まれることを意味しています。黒い雪は、北の魔国の黒い悪魔、ルツェンと関係しています。ぼくは悪魔の両目の間に矢を贈ってあげましょう。黄色い雪は、ホル国の王クルカルへのぼくの勝利を物語っています。ぼくは馬の鞍を王の首に掛け、馬乗りになり、殺すことでしょう。同様に、青や赤の雪はサタムの国やシンティの国の征服を意味します。

 白い虹の端があなたに架かっています。それはぼくと神々との絆の証しです。彼らはぼうの相談役であり、助手なのです」

 その日の午後、雪が激しく降った。ナーギー(竜女)であるゴンモは、息子の誕生とともに起きた数々の奇跡に心を奪われ、召使いとしてすべきことがあるのをすっかり忘れていた。夜が近づくにしたがい、ギャサは、ゴンモがテントの前に積もった雪をどけていないこと、小川に水を汲みに行っていないことに気づき、棒を持ち、彼女の怠慢をとがめ、棒で叩こうとテントのほうへ行った。

 ゴンモはテントの隙間からギャサがやってくるのを見て、恐れおののいた。

「ギャサがこっちに来るわ」と彼女は息子に言った。「手には棒を持っているわ。顔は怒りにふるえている。私を叩いて殺すつもりよ。逃げたほうがいいかもしれないわ」

「恐れないで」と小さな子供は言った。「ぼくが彼女に言うから心配しないで。ぼくは強い悪魔と戦って、倒すために神々から送られたのです。女に負けるわけがありません」

「ああ、わが子よ」とかわいそうなゴンモはふるえながら、泣いた。「そんなにあわてないで。だってあなたは人間の女というものをまだ知らないのだから。どういうふうに愛したり、憎んだりするか、まだ知らないでしょう」

「恐くないよ」と子供は言う。「ぼくを地面に下ろすだけでいいよ」

 ゴンモは言われたとおりにした。ギャサが入ってきて最初に見たのは子供だった。目が大きく、黒髪が長く、きわめて美しい小さな子供が入り口に立っていたのだ。子供はギャサをじっと見つめていた。

 彼女は恐怖のあまり棒を落としたが、何も言えず、しかし魅了されて、その場に立ち尽くした。

「ぼくのことを知らないかい? もしそうなら、ぼくがだれか説明するよ。

 父方はホルの国王、クルカルと血がつながっているよ。つまりハチェン・ホルの血統だ。母は黒い悪魔に属する種族だ。北の魔国のルツェンのいとこなんだ。ぼく自身、ほんとうは9つの頭を持った悪魔で、中国やインドを倒すこともできるよ。あんたもぼくにはさからわないほうがいい。食べてしまうかもしれないからね」

 こう話しながら、子供は大股で行ったり来たりした。

 ギャサは恐怖に青ざめたが、何とか残った力を振り絞り、テントから思いっきり走って逃げた。そして自分のテントには戻らず、トドンのテントに逃げ込んだ。そのときの彼女は、気が触れた女のようだった。話せるようになるまで、何倍もお茶を飲まなければならなかった。彼女は義理の兄弟であるトドンに、何があったかを詳しく話し、悪魔を殺してほしいと頼んだ。

 しばらくトドンは考え込んだ。家族が所有する本の予言は、ひとつひとつのことを詳しく述べていた。疑う余地はないと思われた。強烈な不安がまた戻ってきた。将来の征服者の到来は、リン国にとってはめでたいことかもしれないが、日に日に富を増している彼の族長としての地位が没落することを物語っていた。英雄は厳しく公明正大だという。トドンは物語のなかの聖人を評価していた。これらの物語は炉辺で蒸留酒を飲みながら話されるものである。

 しかしこうした英雄とされる模範的な人々も、遠くの話ならともかく、すぐ近くにいたなら、むしろトラブルメーカーである。彼らは関心もない他人のことに、すぐ首を突っ込みたがる。そして至福の世界(浄土)へ行く前に、この世界の利益となることをしたいと願っている人々の邪魔をする。

 何度も考えを変え、ついに彼は子供を殺そうと決意した。もしいま子供を除去しなかったら、いつあとでそれができるだろうか。

「わしが自分で行って、その怪物とやらを見てみよう」とトドンはギャサに言った。

 トドンは鞍を馬につけ、兜をかぶり、剣を腰に差した。リンの族長であるアク・トドンは、いつも颯爽として、自分が治めている人々から尊敬の念をもって崇められたいと思っていた。

 彼はまっすぐにゴンモのテントへ向かった。彼は馬から下りる前に、すでにどやしつけて、彼女をいびった。

「悪魔の娘め! おまえはどうしてこんな子をこの国で産んだのだ? 意地の悪い生き物め。おまえが来た日、おまえを殺さなかったことを後悔するわい!」

 それからトドンは、母親が衣類の間に隠した子供の髪の毛をつかみ、引っ張り出そうとした。しかしゴンモは子供の足をつかみ、引っ張って戻そうとした。このようにトドンとゴンモは子供を両側から引っ張った。

「お母さん、手を放しても大丈夫だよ」と子供が言った。「お母さんのやさしさと苦しみが痛いほどよくわかるよ。トドンはぼくを傷つけられないから、心配しないで」

 ゴンモは手を放した。トドンは子供の片足を持って、力いっぱい、岩に3度、激しく頭をぶつけた。子供はそのまま地面に崩れ落ちたので、トドンは子供を殺したと思った。しかし子供は自分で起き上がり、いたずらっぽく笑い、恐怖のかけらもない、大きな輝く目を死刑執行人になったつもりのトドンに注いだ。

 驚き、警戒しながらも、トドンは無理にでも勇猛なふりをした。ギャサの助けを借りて、彼は子供の手足を縛った。そしてボロ布で子供の体を包んだ。彼はテントの近くに穴を掘り、子供を埋め、まず荊を上に載せ、土をかけ、最後に平たい大きな石を置いた。

 ゴンモは途中で止めることができなかった。自分の子供は死んだと思い、苦痛は大きくなるばかりだった。トドンとギャサがいなくなると、彼女は自分の子供が埋められた場所に行き、話しかけた。

「かわいそうなわが子よ、恐れないで」とゴンモは言った。「起こったことのすべては前世の因果によるもの。浄土へ行ってちょうだい。ラマを呼んで宗教儀礼をおこなってもらいましょう。聖地巡礼の旅に出ます。そうすれば、おまえの魂も極楽浄土に行けることでしょう」

 そう語りながら、彼女は慟哭した。すると地面の下から声が響いてきた。

「お母さん、泣かないで。ぼくは死んでいません。ぼくに死は存在しないのです。神々の使いなのですから。ぼくはトドンによってひどい扱いを受けたけれど、よい兆候もありました。トドンはぼくを埋めたけれど、それはぼくが横たわった場所をぼくが所有するという意味なのです。置いた大きな石は、ぼくの力が岩ほど強固だということを物語っています。ぼくを包んだボロ切れは、ぼくが着る王室の衣装の紋章を表わしています。

 お母さん、安心して家に戻ってください。ぼくは神々の兄弟のところへ行ってきます。三日のうちにまたこの世界に戻ってきます」

 喜びに満たされたゴンモは、自分自身を通じて転生した者の力に驚きながら、来た道を引き返した。

 夜になると、子供の墓につながる白い光の道にダーキニーたちが降りてきた。彼女らは石をどけ、土を払い、トゥパガワのトゥルク(転生)を彼の家族の神々のもとへ連れ去った。

 残虐な犯罪行為のあと、トドンはシンレンのテントに入った。ギャサがお茶を出し、彼らはお茶を飲み、談笑して楽しんだ。

「ついに悪魔は死んだよ」

 とトドンは言った。そして彼の心をかき乱した予言がはずれたなと思いながら、確信を持った。義理の妹であるギャサに関して言えば、嫉妬心はまだ収まっていなかったが、ゴンモの健常な身体を悲しみが害すると考えて、ひそやかな喜びを感じていた。シンレンが巡礼の旅から帰ってきたとき、彼女はもはや生きていないだろう。

トドンはギャサとしばらく過ごしたあと、自分のテントに戻った。しかし家に戻ると恐怖心がふたたび蘇ってきた。

 予言の書に書かれていた予言はゴンモの息子に関することだという確信をトドンは持っていた。彼はゴンモの息子を岩で力いっぱい殴ったその自分の手をじっと見た。その力でなら、ヤクの頭蓋骨をぶち壊すこともできるだろう。なのに、あの小さい子は立ち上がり、こちらに向ってきた。

 しかしあの小僧は土の下で眠っているのだ。重い石も載せた。死んだにきまっているだろう。人類に属する子供なら確実に死んだといえるだろう。しかしあの小僧は……ほんの数時間前に生まれたというのに、話し、歩き、人を脅した! それは神か悪魔の生まれ変わりということだ。それならば、あの子が生きているということもありえるのではなかろうか?」

 確信が持てなくなったトドンは、眠ることも食べることもできず、テントの中で坐っていた。御しやすい王のシンレンにかわって王位に就いた新しい王が彼の族長という地位を剥奪するのではないか、彼の財を見てその出所を怪しむのではないか、財を処分してしまうのではないか、もっと財を得ることを禁じられるのではないか、そういったさまざまな考えがトドンの頭の中に去来した。

 墓から子供を神々のもとおに連れ去ってから三日後、ダーキニーたちは子供を母親のもとに返した。ゴンモは子供を白いスカーフ(カタ)に包み、自分の衣のなかに隠した。

 その間、トドンは不安にさいなまれ、彼のライバルがほんとうに除去されたかどうか知りたいという気持ちを抑えきれなくなり、ギャサのもとを訪ね、子供が生きているかもしれないと打ち明けた。

 最初に墓に行って死体があるかどうか確かめる勇気がなく、ギャサが墓に行ってもらうための口実を考え出そうとした。彼女にはトドンの気持ちがわからなくもなかったし、彼よりも勇敢というわけでもなく、同様に不安でいっぱいになった。

 それでもギャサは気力を振り絞って外に出た。しかしまっすぐ墓に向うことができず、遠くから様子をうかがうことにした。

 ギャサがテントに近づくと、なかから子供が母親に話しかけている声が聞こえた。これ以上詮索する必要はなかった。この小さな悪魔が生存していることは彼女も内心わかっていた。彼女はすぐに戻り、トドンに子供が生きていること、その子が母親に話しかけていたことを伝えた。

 トドンは子供が生きていると聞いてもそれほど驚かなかった。彼は最悪の事態を想定していたのだ。

「わしらはこの怪物を殺すことはできないだろう」と彼はギャサに言った。「可能性があるとするなら、わしらより力のある者を探し出した場合だな。神や悪魔が征服されるのは、魔術がまさった場合のみじゃ。わしはムテクパ(ヒンドゥー教)寺院に行ってゴムチェン(隠者)のラトナと会ってこようと思っておる」

 翌朝、トドンは馬に乗って隠者のいる山へ向かった。毎年春、彼は自分が住持を務める寺院を出て、夏の間中、何年も過ごしてきた洞窟にこもって修行をした。ひとり暗闇のなかで過ごすことにより、彼はすべての人や物事を圧倒する超能力を身につけていたのである。

 庵のある洞窟に着くと、トドンは尊敬の念をもってゴムチェン・ラトナと会った。彼は長くて白いスカーフ(カタ)に包んでふたつの豪華なトルコ石を捧げ、身を投げ出して三度礼拝した。

 ラトナがトドンを招いて絨毯の上に坐らせると、ふたりは丁寧にあいさつの言葉を交わした。隠者は彼に訪問の理由を尋ねた。

「とても重大なことが起こっているのです」とトドンは言った。「心配でおりおり寝ることもできません。もしあなたが力添えをしてくださるなら、わしの全財産の半分をあなたに差し上げましょう」

 隠者は鷹揚に笑った。彼は悪魔を調伏し、彼らを奴隷とするだけの呪術力を会得していた。しかし飽くなき貪欲さはどうしようもなかった。彼はトドンが金持ちであることを知っていた。金銭欲に目覚めた隠者は彼からどうやって金をみしりとるかについて考えをめぐらせはじめた。

「わたしがどんなお役にたてるとおっしゃるのかな?」

 トドンは、細かいことまで一部始終をラトナに説明した。ゴンモの到着、彼女から生まれた袋のこと、そのあと現れた不思議な子供、子供を殺そうと思っても失敗したこと、そういったすべてのことを話したのである。

 トドンが話し終えると、隠者は気取った口ぶりで言った。

「それはたしかに由々しき問題ですな。だがわたしにとってはささいなこと。で、その子供はどのくらいの大きさなのかな」

「ほんの小さな子供です」

「ほほう。まあ、わたしを信じなさい。心配することはない。明日、3羽の黒い鳥を送ろう。それらがその子供を除いてくれるだろう」

 こう言うと、隠者は丁寧に訪問者を送り出した。というのも悪霊に捧げものをして、儀式や呪術的な言葉によって彼らを鎮める時間になったからである。

 その夜、戻ったトドンはギャサに、ラトナと会い、約束してもらったことなどについて語った。こんどばかりは、彼らは確信をもち、翌日が待ち遠しかった。

 しかし少年はトドンが隠者に会いに行ったことを知っていた。そして隠者が彼に攻撃をしかけてくることもわかっていた。彼は母親に言った。

「恐れることはありません。明日、テントの前に開けた谷間から敵がやってくるでしょう。ぼくに何枚かの鳥の羽根と腕二つ分くらいの杉の枝をもってきてください」

 ナーギー(竜女)であるゴンモは息子が神の化身であることを知っていたので、急いでその命に従った。

 木を使って少年は弓と矢を作った。母親の頭の右側から取った3本の毛髪から弓の弦(つる)を作った。羽根は矢の羽根に使われた。

 翌朝、鳥たちがやってきた。鳥の羽根のかわりに鉄の刃が生えていた。身を包んでいたのは銅で、輝く鎧のように見えた。嘴(くちばし)は太陽光を反射してきらきら光る、先のとがった剣だった。トドンとギャサは物陰に隠れてこれから起きようとしているドラマを見ようとしていた。

 鳥の怪物を見るや、少年は弓矢を手に取り、テントの入り口まで歩いて戦闘態勢を整えた。

 ほかの人には見えなかったが、少年を助けようとしたのはパドマサンバヴァであり、彼を取り囲んでいたのは天上の軍隊だった。少年はつづけざまに3度、矢を放った。そして3羽の鳥はどれも地上に落ちて死んだ。そして彼は笑いながらテントのなかに戻った。

トドンとギャサは凍りついたように動かなくなった。驚きと恐怖のあまり呆然自失の状態だったのだ。 

 翌日、動揺からなんとか立ち直ったトドンはラトナをまた訪ねた。

 隠者は洞窟の前に坐っていた。彼はリンの族長が近づいてくるのを見ると、当然、約束の財宝を携えているのだと考えた。たいそう満足していることだろう。

 目の前にトドンが立つと、隠者は挨拶抜きで確信のこもった声でたずねた。

「子供は死んだかね?」

 その瞬間に訪問者の顔に失望の色が見えた。それはどう考えても喜びの知らせを伝えに来たのではない。

「いや、死んでおらぬ」とトドンはぶっきらぼうに答えた。「鳥は3羽とも射抜かれました。ほんの一瞬で終わりました。あの子はわれわれより力があるようです。残された道は、やつから逃げることだけです」

 呪術が思わぬ失敗に終わり、動揺していたが、隠者は族長から重要視されなくなるのを恐れ、なお自信をもっているそぶりをした。

「なんていうことはないさ」と隠者はうそぶいた。「気にすることはないぞ。最初の試練といったところだな。こうなることは、わしにはわかっていた。おまえたちのような黒い人(俗人の意)には行為と言葉の霊妙さを理解することができないだろう。わしが、子供は死んだと言ったとき、それは子供が生きていることを意味していたのだ。生と死は、つまるところ同一である。わしの言わんとするところを理解するためには、イニシエーション儀礼を受けなければならぬ。理解しようと思うな。それは俗人であるおまえにふさわしくない。心を乱すな。明日、その子をここへ連れてきなさい。わしはどうやって彼を除くか、知っているのだ」

 それから彼は声の調子を変え、話をつづけた。

「供え物は絨毯の上に置けばいいぞ」

 トドンは狼狽し、また不安が大きかったために、贈り物を持ってくることを忘れてしまったと正直に言った。

 隠者は手厳しく叱った。

「取るに足りないことだ」と冷たく言って付け加えた。「三世について考えている者にとって、地上の宝などどうでもいいのだ」

 さらに攻めたれられることを恐れて、トドンは落ち着いていられなくなり、言い訳がましいことを言い続け、約束までした。しかし隠者ラトナは何もこたえず、もう戻っていいぞ、と仕草で示し、威厳たっぷりの足取りで洞窟に向って歩いていった。

 トドンは村に戻るとすぐゴンモを呼び、「隠者ラトナ様が会いたがっている」という理由で、息子を洞窟へ送るよう命じた。

「だれなのか存じているだろう」とトドンは言った。「ラトナさまの力はすばらしいものだ。もし従わなかったら、たいへんなことになるぞ」

 ゴンモはトドンの命令を息子に伝えた。

「このムテクパ(外道)はあなたを殺そうとしています。それはたしかなことです。中国でもインドでもいいから、とにかく早く逃げるべきです」

 子供は笑った。

「お母さんは物事がわかってらっしゃらない」と彼はやさしく答えた。「なぜぼくたちが逃げるのですか? 恐れるものは何一つないですよ。ぼくたちの場所はここだと決まっているのです。ここにいてください。あすひとりでゴムチェン(隠者)に会いに行ってきますから」

翌日、彼はひとりで、裸で隠者の洞窟を訪ねた。

 隠者ラトナは流れるような長い衣をまとって「盛装」していた。人間の骨でできた前掛けを掛け、死者の頭を描いた象牙の彫り物で飾った黒い大きな帽子をかぶり、人間の頭蓋骨を切って作った数珠を指の間にはさんでいた。

 洞窟の入り口には巨大なトルマ(儀礼用の土偶)が置かれていた。少年が洞窟に入ってきたとき、ゴムチェン(隠者)はトルマの背後に隠れていた。そして前口上なしに隠者は言い放った。

「悪魔の子よ、おぬしはどこから来たのだ?」

「ラマ、お体の調子はいかがですか」と子供は慇懃に言った。

「調子はいいさ。で、おぬしの前世はどういったものだったのだ?」

「覚えていません」と子供は冷静にこたえた。「でも、あなたは偉大な魔術師です。そうしたことはあなたがご存じでしょう。あなたこそおっしゃってください。どんな前世だったのですか」

 隠者ラトナはこのような問いが返されるとは思いもよらなかった。答えたくない、というより、答える準備ができていなかった。

「知らんよ」とラトナは思わず吐露してしまった。

「ほんとうにご存じないのですか? そりゃおかしなことですね」と子供は言った。「あなたは人生の半分を瞑想に費やしたという有名な修行者です。3年以上もこの洞窟に閉じこもって、暗闇のなかで、一言も発せず、だれとも会わず、あなたに食べ物を運ぶ召使いもなく、生きてこられました。それなのに答えられないという。それなのに数日前に生まれたばかりの子供に知識を求めるとは。深い思索をもっていながら、あなたは何を会得したというのですか?」

「なんと図太いやつだ!」と隠者は怒って言った。「この長い修行生活で、わしがいかに衆生のために善なることをしてきたか知らんのか!」

「ええ、知っていますよ」と裸の子供は隠者を見据えながら冷静に言った。「あなたは他人のために修行してきたわけではない。あなたは信じやすい人々をだまして、お金や宝をかすめとってきました。そのような詐欺行為の技術を高めるために、洞窟に閉じこもっていたのです」

 隠者はもはや怒りを押しとどめることができなくなった。指をはじいただけで飛ばせそうな赤ん坊とやりあっていること自体、ばかばかしく、考えれば考えるほど憤怒は増していった。しかしトドンから聞いたことと合わせると、目の前にいる幼児は、人間以外の何者かであるかもしれないと彼は思うようになった。

「なんだと!」と隠者は叫んだ。「わしが善行をおこなっていないと申すか」

「ぼくは若いんだ」とこの尋常でない子供は笑いながら言った。「ぼくのような年齢では、年や月でなく、日数で数えるんだ。でも知ってるよ。アラハン(阿羅漢)が人々に、浄土への道や解放(ニルヴァーナ)について教えているということを。でもあなたは徳ではなく、富を寺院にためているだけだ」

「そうやってわしを攻撃するんだな、悪魔め」とラトナは言い返した。「わしはそうやっておまえの種族と論争してきたのだ。どっちが力を持っているか、見てみようではないか。おまえはおまえの守護神を呼び出すがよい。わしはわしの守護神を呼ぶ。この闘いでどちらかは死ぬことになるだろう」

 それから彼は素っ頓狂な声を発して守護神を呼んだ。

「武器としての雷を持つ者たちよ、はやく来たれ! はやく来たれ!」

 ラトナは呪文のようなものを唱えたが、呼び出したのは聖なるトゥパガワの前では埃のようなものにすぎなかった。

 それから彼はトルマが置いてあるテーブルへ向かって歩いた。そのひとつは惑星に捧げられたもので[註:曜神、ザ神のこと]血が撒かれ、人間の内臓が捧げられていた。別のトルマにはさまざまな生き物が練り込まれていた。3つめのトルマは、3年のこもりの修行中ずっとそばに置いていたもので、神秘的な力が宿っていた。

 ラトナはこれらのトルマを少年に向ってつぎつぎと投げつけた。しかし子供はそれをキャッチし、投げ返した。まるでふたりでボール遊びをしているかのようだった。

 ムテクパ(外道)である隠者の額からは恐怖の汗がにじみでていた。身を守るため、本能的に、彼は洞窟の入り口まであとずさった。

 子供は投げつけられたトルマのひとつを地面から取り上げ、手に持ったまま敗戦が濃くなった隠者に言った。

「あなたは呪術が使える偉大なる大師を装っているけど、そうじゃない。むしろいま、あなたは力の限界を宣伝しているようなものだ。生後五日の子供に何ができるか、見ていてごらん」

 そう言ってトルマを投げつけると、それは巨大な岩となり、洞窟の入り口にぶつかり、完全にふさいだ。隠者は自分の棲家でもあった洞窟のなかに閉じ込められてしまったのである。

 この勝利のあと、子供は母のもとに戻った。

 トドンは、子供が無傷で、元気そうに戻ってきたのを見て、彼を亡き者にするのは絶望的だと考えた。隠者でさえ、二度も失敗したのだ。もはや打つ手はないように思われた。しかし子供がどうやって危難を避けることができたのか、知りたかった。彼は洞窟に行ってみた。トドンが洞窟に近づくと、何羽かのカラスが羽ばたきながら飛び去るのが見えた。その他のカラスは地面に飛び散ったトルマの残りを食べ終わったところだった。ラトナがいつも坐っていた座布団は、洞窟の入り口近くに堕ちていた。その入り口は巨大な岩でふさがれていた。隠者の運命を調べる必要もなかった。

 トドンは困惑したまま家路についた。彼はもはや自分自身で呪術を使って、嘲笑的にチョリスと呼んでいる子供を倒せるとは思えなかった。[註:チョリス(Cho rigs)は家系という意味だが、ここでは神の種族といった意味] 

 そこで彼は、子供と母親をはるか遠くの荒涼とした地域に追放することに決めた。飢餓に苦しめるほうが、ラトナの魔術よりもよっぽど効果があるだろう。

 彼の命令によって、9人のラマ、9人の家族長、9人の女たちによって、ゴンモと息子はマメサダルンゴまで送られた。何日間か歩いてこの地に着くと、彼らは母子を捨てて村に戻った。

 そこは人が住まない地域だった。キャン(野生のロバ)の群れと数頭の熊が見られるだけだった。ゴンモは、息子とふたりきりで、まわりにだれもいないことがわかると、涙を抑えることができなかった。

「ここにいることはできないわ」と母は息子に言った。「村人が残してくれた食べ物がなくなる前に、中国かインドにでも向かって出発しなければならないわ。どこかの村に着けば、食べ物を得られるでしょう」

 少年は母にたいし、こう言った。

「この国は神々の国です。ここで幸せに暮らしましょう。お母さんはトゥマスを掘ってください。ぼくはネズミを捕ります。こうすれば飢えるということはないでしょう」

 このようにして3年間、彼らはマメサダルンゴで耐久生活を送ることになった。彼らは5頭のメスの動物を持っていたが、それらから2頭のオスが生まれた。[動物はおそらくヤク]