第3章       アレクサンドル・ダヴィッド=ネール 宮本神酒男訳 

 ある明け方、ほの暗かった王の部屋に、突然まばゆいばかりの光があふれ、光の中に女神マネネがあらわれた。

「ケサルよ。あなたは十分に休みを取りました。しかしやるべきことがたくさんあります。いまそれに着手すべき時がやってきたのです。15年目のこの年、北の黒い悪魔、ルツェンの額を矢で射抜かなければなりません。そしてこの悪魔の数多の手下どもを調伏しなければなりません。しかしその前に、北の魔国についての知識と攻撃をするときの危険性について学ぶ必要があります。

 ルツェンの王国は、太陽が訪れることのない陰鬱な国です。むきだしの岩だらけの暗澹とした山々は漆黒の空までつづき、空からは血の重い雨が果てしなく降ってきます。細菌性の霧が荒涼とした谷間の底を埋め尽くし、急斜面を這い上がって死をもたらすのです。よほどの強力な解毒薬でないかぎり、その致死力に抗(あらが)うことはできません。肝に命じておかなければならないのは、境界線を越えたところへも、ルツェンはこの毒霧を噴射することができる点です。隣接する地域の人や家畜をその呪術で自在に毒殺することができるのです。

 しかしチベットには岩から抽出した薬しかありません。一方インドには、美しい虹のように、さまざまな色の薬用植物の花が地面を覆うほど咲き誇っているのです。木々もまたその幹は小さな滝ほどに(原文ママ)大きく、薬となる樹液をあふれ出るほど含み、薬用の葉は立派な屋根を形成するほどみっちりと茂っています。

 ムテグパ(外道。バラモン教徒やジャイナ教徒)が擁する薬には、薬王と呼ばれるアルラ(ミロバランの実)、その大臣と称せられるパルラ(ミロバランの一種、毛訶子)とキュルラ(余甘子)、その他、グルグム(サフラン)、ガブル(氷片、竜脳)、ザティ(ナツメグ)、リチ(クローブ)、ツェンデン(白檀)などがあります。それらはひとつの大家族のようなものです。すなわち処女、若者、医者、聖職者、人生を表わしているのです。

 さらにこれに付け加えて、千以上の薬を彼らは持っています。そのすべてがすばらしく薬効があり、黄金以上にそれらは価値があるのです。しかし、これらの薬はムテグパが外部に出るのを禁止しています。

 ルンジャク・ナクポとその弟子たちがいるかぎり、この薬の独占状態はつづくでしょう。彼らの繁栄はこの奇跡的な薬を保有することに拠っているのです。ムテグパの「命の宝」は、白檀の箱のなかに入っています。そのトルコ石の鍵を持っているのはルンジャクの娘です。

 ルンジャクの娘は、イェシェ・カンドマ(智慧のダーキニー)の化身です。このことは覚えておいたほうがいいでしょう。箱の中身を入手するとき、計略を立てるのに役に立つはずです。それが寺院のなかにあるかぎり、ルンジャクと弟子たちは無敵なのです。

 さらに、ムテグパの首領(ルンジャク)とカシミール人やネパール人の弟子たちは、みな間違った教義を教え、悪魔の宗教を広めているのです。彼らは9つの頭を持つブラフマーを崇拝し、太陽と月を呼び出し、それらに血の生贄をささげているのです。彼らの精神はご都合主義です。順繰りに「4つの極端な教え」のうちのひとつを取り上げ、瞑想のテーマとしているのです。[註:四項判断(mu bzhi)、すなわち生滅、常断、有無、現空の極端な4項目のこと] 

 彼らは呪術の専門家です。彼らは狡猾にチベット人をだまします。彼らのやり口は巧妙で、こうして人を地獄へと導くのです。もしあなたがこれらの誤った大師たちを止めなければ、彼らのほうが仏法を堕落させてしまうでしょう。

 また扉のない青銅製の要塞をムテグパたちは建てました。彼らはこのなかに聖典を隠し持っています。そのなかには経典(カンギュル)、とくにプラジュニャー・パーラミター(般若波羅蜜多)、そして聖なる僧による論説・注釈(テンギュル)も含まれます。あなたはこれらの尊い教えを守り、インドやチベット全体に広めなければなりません。

 城壁の壁を突破するために、魔法の矢を放ってください。そこに至る道は長く、数々の危険が待ち伏せています。とくに細い峡谷を抜けることになりますが、ここには虎や豹、そしてもっとも手ごわい人食い悪魔が身を潜めています。人間の身体では、ここを無事に通り抜けることはできないでしょう。

それゆえ聖なる駿馬の姿をハゲワシに変え、それに乗って、鳥の飛行ルートをたどってください。そうすればあっという間にインドに着いていることでしょう。

 まずムテグパの守護神を調伏しなければなりません。ルンジャク・ナクポの命の本質(魂、ラ)は、恐ろしい9頭の蛇のなかにあることを覚えていてください。その蛇の怪物は白檀の木を棲家としています。弟子たちの命の本質は、塔ほどに高い9頭の亀のなかにあります。この亀の怪物は、9層の鉄の洞窟を棲家としています。天から来た鉄(隕石)でできた儀礼用短剣を投げつければ、その怪物を粉砕することができるでしょう。

 さらに必要なことは、あなた自身が考えなければなりません。私が話したことをしっかり理解したなら、難問も砂糖のように甘く解けるでしょう。もし理解していないなら、私がしゃべったことはすべて無駄になってしまいます。このことをよく心に刻んでおいてください」

 これらの言葉を残して、女神マネネは空に昇り、消えていった。

 おなじ日、ケサルは集まったリンの人々にマネネが言ったことを述べた。

「すでに私はあなたがたに武器を渡した。それによって敵からの攻撃にたいし、身を守らねばならない。われらの女神は、いま、薬を分配しようとしている。この薬があればいかなる病気からも守られるだろう。わが遠征は3か月で終結するはずである。このたびの遠征に仲間はいらない。そして出発が延期されることはない」

 ケサルが話し終えると、臣民や戦士は口々に不満を言い始めた。彼らは平和を享受しているのだが、そんなおりに、リーダーである王がひとりで遠い国に行って危険な任務を遂行するという考えに納得がいかなかった。なかでもセチャン・ドゥクモは夫の計画に猛反対した。涙を目に浮かべて、彼女は自分を見捨てるのはあまりに残酷だと言い張った。彼女を守るのに、父親は年を取りすぎていたのだ。

 人々が嘆いている間に、老いたチプン・ギャルポ(侍従筆頭)が立ち上がり、ケサル王に向って話し始めた。

「尊い甥よ、おまえが言うたことはたしかに古代の予言と合致しておる。それは賢者といわれるラマも申しているし、予言書にも書かれておる。その書によれば、おまえはムテグパの薬をチベットに導入することになっておるのじゃ。だからわれらはおまえの企てに反対せぬ。ただおまえが出発するまえにリンに幸福をもたらすことを保証してくれればいいだけのこと。わしらは辛抱強くおまえの帰りを待つとしよう」

 人々は、ケサルがひとりでインドへ行くのがパドマサンバヴァと神々の命令であったことを知り、文句を言うのをやめた。彼らはケサルの勇気ある決断に感謝した。ケサルも人々の幸福と繁栄を祈った。こうして人々はそれぞれのテントに戻っていった。

 二日後、ケサルは愛馬を巨大なハゲワシに変身させた。それから彼は出発前最後の食事を取り、それから聖なる姿に変身し、翼が生えた乗り物に乗り、神々やダーキニーに囲まれて、空高く飛翔した。

 まばたきする間にケサルはメンリン・ゴンマという地域に着いた。そこはカシミール、ネパール、チベットが接するところだった。

 彼が降り立ったのは、「輝く太陽の洞窟」と呼ばれる水晶の洞窟の近くだった。太鼓の昔、トンパ・シェンラブ(ボン教祖師)が、ついでブッダがやってきて、ここで瞑想修行をおこなった。のちにパドマサンバヴァもここで8種類の修行法を実践した。それによって洞窟は「解放された幻影の洞窟」という名を会得した。

 ケサルはここに隠れて2か月を過ごした。その間、彼は神々や人々、悪魔からも気づかれなかった。彼の愛馬は鳥の姿をやめ、人間の姿を取り、下僕としてケサルに仕えた。

 こもりの生活をしている間に、ケサルはヴァジュラ・キーラと三界の主、シンジェ(ヤマ王)を調伏した。そして彼らの助けを借りて、「集中した思考の投げ縄」と「慈悲の鉤(かぎ)」によって、ムテグパの二大神、ワンチュク・チェンポ(シヴァのこと)とトゥグリ・ナクバル(燃える毒の黒山の意。山神)を捕えた。

 これらの神々を支配下に置き、解き放ったとき、ケサルは彼らに仏法のチューキョン(護法神)となる誓いを立てさせた。彼らの新しい役目は、ブッダの教えとその信徒を守るということである。それまでは、ムテグパを守っていたのだが、いまはケサルのために尽くしているのである。

 ケサルがつぎに戦うのは、9つの頭を持つ亀と毒蛇だった。彼らが隠れている場所はこの洞窟からそんなに遠くなかった。亀の怪物が住んでいる場所は、まさにケサルがいる山の麓だった。彼は守護神を呼び、空から落ちてきた鉄で作った呪術的な短剣を9層の洞窟に向って投げつけた。亀の怪物はその洞窟もろとも粉砕された。その頭蓋骨のなかにあった恐ろしげにチカチカと光る宝石だけが、残骸のなかに残った。ケサルはそれを自分のものとした。

 二日後、ケサルと彼の聖なる駿馬はそれぞれ幻影(トゥルク)を作り出した。本物と完璧といってもいいほど、そっくりだった。この2体の魔法の産物は、インドとネパールの間の最前線に到達した。そこには鬱蒼と茂る森に覆われた山があった。山の上には8層の影(原文ママ)が伸びていた。

 そこに立派な白檀の木があり、その中央に巨大な蛇がはまりこんでいた。その恐ろしい唸り声(原文ママ)はまるで天国と地上が衝突しているかのようだった。

 守護神を呼び出しながら、ケサルの幻影は怪物の額めがけて魔法の矢を放った。矢が命中すると、怪物は即座に息絶えた。勝利者となったケサルは輝く角を切り、目玉をえぐり、そして鉄でできた瞳の部分を抜き取り、燃える心臓を切り取った。これらはみな魔法の宝石だった。

 おなじ日、ムテグパの僧院要塞で、悪の前兆が姿を現した。聖水を入れる黄金の壺の白い法螺貝の首の部分から血が流れ出た。風が、神聖な場所(寺院)の前に立てられた、人の皮膚でできた旗を引き裂いた。集まった僧侶のためにお茶を作る大鍋の底が抜けてしまった。雨が降っていないのに、厨房が水浸しになった。

 警告を受けて、ムテグパは寺院の大講堂に集まった。そしてこれらの前兆が意味するのは何か、長い時間をかけて考えたが、結局何ひとつ意味を見いだせなかった。彼らは最終的に、その究明を神々に委ねた。つまり夢占いである。彼らは寝床で休めばよかった。

 夜、ケサルのもとにマネネがやってきた。

「英雄ケサルよ、気をつけて! ムテグパの呪術力は健在です。一刻も早く彼らの母方の先祖(モラ)の神に変身しなさい。それはキュン(ガルダ)に乗る若い予言者です。馬はこの鳥に変身しなさい。このようにしてルンジャク・ナクポに近づくのです。そしてあなたの予言によって彼を間違った道に導きなさい。もしこの方法で彼を欺くことができないなら、彼を打ち負かすことはできません。この私の言葉をかみしめてください。そうして幸(さち)ありますように」

 こう語ったあと、女神は消えた。

 ケサルはすぐに聖なるトゥンカル(白い法螺貝)に変身し、未来を予言した。彼は8歳の少年に見えた。彼は豪華な服装をし、輝くばかりの宝石で身を飾り、鳥の王に乗った。

 ルンジャク・ナクポのもとを訪ねると、彼はまだ寝ていた。ケサルは9首のブラフマーとウマ女神を呼び出す賛歌をうたって彼を起こした。そして彼に語りかけた。

「われは神々の偉大な予言者の息子である。安眠をむさぼるのはやめ、目を覚ませ。おお、力強き呪術師よ、われの言うことを聞け。そうすれば恐れはなくなるだろう。

 昨日、予兆があらわれたとき、おまえの弟子たちの心は混乱した。そしていまもっともばかげた考えが渦巻いている。おまえの500人ほどの弟子が参加し、神々に嘆願した。そして夢の中で予兆n意味があきらかにされた。それは彼らの祈りにたいするわれの返答である。

 おまえは予兆というものの本質に疑いを持ってはならない。それらは危険なものではない。むしろ反対に、それは吉兆なのである。その意味をおまえに教えてあげよう。

 聖水の壺から流れる血は、天上の母ウマがおまえを好んでいるということである。その結末がどうなろうと、おまえはそれを手に入れることができるだろう。

皮膚の旗が風によって裂けてしまうのは、おまえの支配下で神をもたらすということである。その神は手に投げ縄を持ち、それによって風を制御する。

 お茶を作る大鍋の底が抜けるのは、仏法が衰え、チベットから消えてなくなることを意味している。

 厨房が水浸しになるのは、ブラフマーがおまえたちに満足していることを表す。もしおまえがこの水の中に沈んだら、それは欲望が満たされることを意味する。

 ムテグパの繁栄と栄光は、おまえを困らせてきたが、前兆によって示されてきた。落胆することはない、偉大なる賢人よ。神託の意味を破り捨てることはない。真実は時間が裁いてくれるだろう。モ(占い)を実施する必要もないだろう。9首神の大臣がまもなくしてやってきて、物事をはっきりさせ、おまえに助言を与えるだろう。わが言葉を疑うなかれ。これを受け入れる心の準備をせよ。そしていま聞いたことを覚えておくがいい」

 そう述べたあと、幻影は消えた。

 恐怖心が取り除かれたルンジャクは、喜びに包まれた。彼は急いで鐘を鳴らし、弟子を一堂に集めた。みなが集まるや、若い神が語ったばかりの元気づける言葉を繰り返した。場は明るく闊達になり、時間がもったいないので、すぐに9頭のブラフマーの特使を歓迎する準備に取りかかった。

 ケサルはまたも姿形を変え、昼間にムテグパの要塞に到着した。今度の姿は、来ることが期待されていた大臣の神であり、9つの頭の象に乗っていた。象の鞍は血が滴る人間の皮膚だった。

 斥候から彼の到着が報告されると、ムテグパの人々は彼を一目見ようと、人間の首がかかげられ、人間の皮膚の旗がはためく、おそろしげな要塞寺院の城壁に押し寄せた。

 彼のために開かれた扉を一顧だにせず、ケサルの乗った象は城壁を軽々と飛び越えて、要塞寺院の中庭に入った。

 このときムテグパの人々は、中庭で、さまざまな楽器を奏で、旗や天蓋を持って行進し、歓喜の叫び声をあげ、聖なる訪問者を口々にほめたたえた。

 ケサルは象を建物の扉にくくりつけた。するとすぐに象のための選ばれた食事が差し出された。彼はルンジャクに導かれ、弟子たちに付き添われて、大広間に入っていった。

 自称9頭のブラフマーの大臣は、彼のために特別に用意された玉座に着席すると、ムテグパの上役たちは、彼らが目撃したさまざまな前兆について事細かく説明し、大臣にその解釈を求めた。

 このなかでただひとり、年老いたグル・ノパはほかの人たちの輪に加わらなかった。彼にとっては、降り立った神が疑わしかったのである。それは仏教徒の呪術師による幻覚のように思えた。老人の心に疑いが巣食いはじめていた。

 心の底から尊敬しているようなふりをして、また学びたがっている率直な男を装って、グル・ノパは、ケサルに近づき、ムテグパの教義とその起源に関するいくつかの質問をした。ケサルのまわりにいる他人には見えない守護神の助けによって、質問に答えることができた。彼はグル・ノパの疑いを完全に晴らしただけでなく、質問以外のさまざまな点、とくに師匠が完全に知らない点においても、詳しく説明した。

 このように圧倒的な知識を見せられ、ノパは学識のあるムテグパたちの賛歌の合唱に加わるほかなかった。彼らもまた、この神の輝かしい知性に驚愕し、合唱に参加していたのである。

 弟子の一部はモによって運命を占うための小道具を持ってきていた。それを自分の前に置いて坐り、運勢を占うのである。

 ブラフマーの偽大臣は、やさしく同意を示すかのように微笑みかけた。

「これよりよりよい方法などありません。これが、あなたの恐怖を除き、どんな未来が待っているかを知る本当の方法です。私はブラフマーのモパ(占い師)です。重要な仕事を請け負うときや前兆が現れたときなど、私に相談していただければ、しくじることはありません。私は、すべての神々から尊敬される占星術師の大師から、占いの技術を学びました。例外なく、それが本物であることは証明されています。私のモに誤りはありません。数百回、モを行って、一度もはずしたことがありません。

 さらに言うなら、私は自発的にここに来たのではありません。ブラフマーが命じたのです。その偉大なる寛容さから、あなたがた下僕のために、私に来るようおっしゃったのです。それゆえ遅らせる理由がありません。いますぐはじめましょう」

 この話はムテグパたちをおおいに喜ばせた。彼らは急いでケサル扮する大臣の前になめし皮を敷いた。その上には、いくつかの住居やさまざまな位置を表わす模様が描かれていた。3つの部分に色分けされた小石が入った容器が置かれた。モパ(占い師)は容器を、ひとつ、あるいは数個の小石が飛び出るまで振った。そのときの模様から彼は未来の秘密を探ることができた。

 まず、白い小石が「神々の家」から落ちてきた。

「これはブラフマーがあなたをひきつづき強力に守護するということを意味しています」とケサル扮する大臣は高らかに言った。

 分析はうまくはじまったようだ、という安堵の囁きが、大広間全体に波のように広がった。そしてモパは解釈をつづけた。

2つの斑(まだら)の小石が「ひどい場所」に落ちた。

「農業地帯の人々はより力を持つでしょう」

 3つの異なる小石がナーガの家に落ちた。

「学識のあるムテグパの大師が長寿を楽しむでしょう」

 4つの黒い小石が図の中央に落ちた。

「仏教は衰退し、チベットから消えるでしょう」

 小さな石がなめし皮の上ではじけて、そのなかに沈んだ。

「グル・ノパは数分前私に質問してきたが、どうやら私の人格と使命に疑いを持っておられるようだ。彼はあやまらなければならない」

 6つの小石が落ちて散らばり、図の四隅に触れた。

「危険があなたがたに迫っている。それはチベットとシャンシュンからやってくる」

 ケサルは話すのを、一瞬止めた。図形が何を意味するのか、考えあぐねているふりをした。ムテグパはつぎの言葉に耳を傾けた。

「危険、とても大きな危険です。それは何としてでも、避けなければなりません」

 彼はもう一度考え込んだ。

「あなたがたの宝庫から、薬用植物や薬が抽出される木をできるだけたくさん運んできてください。それらを城壁のなかに、移動できる余地を除くすべてが埋まるほど集めてください。それらを城塁の高さになるまで積んでください。4つの城門のうち3つはそのようにして、残りのひとつの門のところは低くして、ひとりの人間が通れるようにしてください。

あなたがた自身は、敵と出会わないよう、要塞のなかに残ってください。水を運ぶ係の人だけは必要に応じて外に出るようにしてください。

 あなたがたの身は、あなたがたご自身で守ってください。ブラフマーはインドの薬の宝をあなたがたにもたらしました。けっしてそれらを他の者たちに分け与えないでください。チベット人がそれらを手に入れられないようにしてください。

 あなたがたは、宗教儀礼を無期限におこない、神々を慰撫してください。強靭な首領はチベットからやってきます。もしあなたがたがこの首領を止めなければ、彼は薬の宝をやい払うでしょう。そうすればあなたがたの宗教は衰退し、あなたがたの存在そのものが存亡の危機を迎えるのです」

 彼がまた容器を振ると、9つの黒い小石が一方向に向かって落ちてきた。

「ムテグパのみなさんは神託の意味が理解できないようです。こうした理由から、邪悪なるものを避けるための儀礼は意味がありません。それどころか悪魔を呼び寄せ、その力のもとで悪魔のために儀礼をおこなっているのです。あなたがた師匠と弟子が正しい教えを受けるために、私のようなモパから、占いの起源の知識が伝授されるべきなのです。この秘密の儀式を通じて、あなたがたは仏法に庇護されることになるのです」

 ケサルはもう一度容器を振った。いくつかの小石が落ちてきて、なめし皮の伸ばした部分の中央に落ち着いた。

「あなたがたのなかで、ひとりだけ仏教の神々を信じる女性がいます。それはパドマ・チューツォ(仏法の蓮華の海)です。彼女だけが仏教の呪術の影響を受け、今夜、悪い夢を見ることになるのです。もし悪夢に捉われてしまったら、あなたがたは敵に屈したということです。[註:パドマ・チューツォはルンジャク・ナクポの娘] 

 私の言葉を覚えておいてください。いま、私はここを去ります。モパ(占い師)が長くとどまるべきではないでしょうから。そのようなことをしていると、互いを尊重することができなくなってしまいます。[註:チベットの諺「ふたりの占い師は、笑わずに互いの顔を見ることができない」をふまえている] 

 すべてのムテグパはブラフマーの大臣の知恵に驚いた。そして彼が差し迫る危険について述べたにもかかわらず、彼らはそれを疑わず、その忠告にしたがえば危険を避けることができると考えた。「ありがとうございます」と彼らは唱和し、この偽モパに高価な贈り物をあげた。モパはそれを9つの頭の象に載せ、ただちに出発した。

 ムテグパたちは偽モパを見送りしようとしたが、しばらくするとその巨大な動物の歩行速度についていけなくなった。気がついたときには、象と偽モパはとっくに視界から消え去っていた。

 瞬時のうちにケサルは滞在先に選んだ洞窟に戻っていた。ムテグパを欺くために扮していた姿からもとの姿に戻り、彼は瞑想修行に入った。

 天上の指導者[ケサルのこと]が去ると、ムテグパたちは薬草を置き始め、寺院の通路に沿って巨大な薬草の山ができあがった。薬木の枝や幹も、外部から寺院の本堂に運び入れられた。その間に儀礼に熟達した人々は、ブラフマーの大臣に言われたとおりに、神々に犠牲を捧げ、適切な賛歌をうたい、さまざまな宗教儀礼をおこなった。

 大広間に、ルンジャクと500人の知識を持った祭司が座り、そのまわりをムテグパの大衆が囲んだ。彼らは鈴と小さな太鼓を振り、その合間にシンバルと大きな太鼓で祈祷のリズムをつけた。彼らが大きな声で「ハッハッ! ホッホッ!」と儀礼的な叫び声を入れると、それは雷鳴のように天井をゴロゴロと激しく震わせた。生贄の動物は殺され、その血は銀の壺に入れられ、4頭のブラフマーと9頭のブラフマーの像、また五芒星の図の前に捧げられた。

 夜の間、祭司がこのように集まってくる頃、ルンジャク・ナクポの娘、パドマ・チューツォは不吉な夢を見た。目が覚めると彼女はすぐ大広間に行き、神々のための儀礼を続行している父親やその他のムテグパに夢のことを告げた。

「お父さま、それから知恵のある高僧のみなさん、ダーキニーの化身である私の言葉を聞いてください。

 昨晩、夢の中で、邪悪な前兆をたくさん見ました。それがどんなものであったか、お話します。

 あなたがたはこの場所で、銅の帽子をかぶって座っていました。そのとき大広間は火に包まれ、みな灰燼に帰してしまいました。城塁の四方にたつ要塞の塔の屋根がつぶれ、崩れた壁の石が山の麓まで押し寄せました。寺院の後ろの山の頂上に冠していた雪が、太陽のもと、融けてなくなりました。山麓で、虎が吼えている緑の森の谷を矢が飛んでいきます。しかし谷は荒涼とした地に変わりました。あなたがたは、木綿の衣を着ています。私はひとり、絹の衣を着ています。赤い風が雷を運び、ムテグパの広大な王国を破壊しました。

 私のひどく不吉な夢についてお話しました。あなたがたは、これをどういうふうに解釈なさいますか」

 パドマ・チューツォが話している間、ルンジャク・ナクポと弟子たちはみなうなずき、互いに顔を見合わせて笑みを交わした。話し終えると、彼女の父親は尊大な物言いでこたえた。

「娘よ、そんなに多くを語る必要はない。いったいだれが、理由もなくわれわれを傷つけるというのか? 原因なくして敵が突然飛び出してくるわけもあるまいが」

 パドマ・チューツォはふたたび話し始めた。

「私は夢の中でモパを見ました。昨日ここに来ていたブラフミーの大臣です。彼は手に投げ縄を持ち、城壁に掲げられた勝利の旗(ギャルツェン)に縄を投げました。それを引っかけて取ると、どこかへ投げ捨ててしまったのです。このモパは恐るべき呪術師です。私の夢を吟味して、よく考えてみてください」

 苛立ちを抑えたような声でルンジャク・ナクポはこたえた。

「わが娘よ、このモパは何も隠し立てしないで、おまえが悪い夢を見るだろうと警告したのだ。これらはチベットの仏教徒やシャンシュンのボン教徒の影響があるのだろう。洞察力のあるブラフマーの大臣がそれらに注意を払わないよう強く言ってくれた。しかしおまえはこの人が言ったことを聞いていなかったのだ。

 さあ、この大広間から出ていきなさい。自分の住まいに戻るがいい。おめかしして、柔らかい絹の衣を着て、甘い食べ物を、好みのものを食べて、気ままに楽しむがいい。だが夢のことは二度と言うな。おまえは仏教の神を崇拝したのだろう。だから居心地の悪い夢を見たのだ」

 しかし、ここに集まっていた人々の一部は、ルンジャク・ナクポが結論を出すのに急ぎすぎて、夢の前兆を軽んじていると考えた。彼女はダーキニーの化身であり、呪術に詳しいことを彼らは知っていた。彼女が口にした警告は慎重に扱うべきだと彼らは考えたのである。

 彼らは国王に向って、そのような重大なことにたいし、事を急ぐと、あとで後悔することになると、直訴した。そしてパドマ・チューツォの夢を、数日前から彼ら自身が目撃した予兆と比較しながら吟味し、大師のなかでももっとも優秀な者に研究されるべきだと要求した。

 しかしルンジャク・ナクポは聞く耳を持たなかった。

「ブラフマーが派遣したモパは、すべての前兆を解いてみせた。加えて、わが娘が見るであろう夢についても警告を発した。すべてはこの方がおっしゃったとおりになっている。余計な論議に時間を費やす必要もないだろう。ブラフマーは、その特使をわれわれが疑っている姿を見たら、さぞ腹を立てることだろうよ」

 ムテグパ社会で権威を確立していたルンジャク・ナクポの決定したことに、これ以上異を唱える者はいなかった。儀礼はつづけられ、そしてようやく終わると、彼らはみなそれぞれの庵室に戻っていった。彼らはそこに数日間残り、神像の前に灯明を置き、守護神の名を唱え、呪術的な儀礼を行いながら、こもりの修行をつづけた。

 一方、ケサルは愛馬を水晶のドルジェ(金剛杵)に変身させ、自分自身はパドマサンバヴァの浄土の美しい女神に変身した。この魅力的な女性の姿で、半透明のドルジェに乗って、彼は大気を貫いてムテグパの要塞に飛翔し、パドマ・チューツォの前に現れた。

「妹よ。私はサンドペリからやってきました。われらの精神的父、グル・リンポチェの代理としてあなたにこのドルジェを差し上げます。どうか大事にしまってください。これは雄の駿馬(原文ママ)です。あなたにはこれが必要となるときがあるでしょう。それだけでなくほかにもいろいろと役に立つでしょう。

「パドマサンバヴァの王国では、わが母はデワ・トゥンキョン、あなたの天上の母親の姉妹です。ムテグパのなかに生まれたからといって悲嘆しないでください。あなたには、はたすべき必要な使命があるのです。そしてグル・リンポチェがおっしゃるには、あなたがこの世界にとどまるのはあとわずか数日なのです」

 パドマ・チューツォはこれらの言葉を聞いて涙を流さんばかりに喜んだ。第一に、水晶のドルジェをもつことができてうれしかった。そしてケサルが最後に言ったことを間違えてこの世界ではすぐ死に、前世で生きた浄土にすぐ転生すると思ったのである。

 偽女神はつづけた。

「ムテグパが不死の薬を白檀の箱のなかに秘蔵していることを知っています。そしてそのトルコ石の鍵をあなたが持っているということを。グル・リンポチェがおっしゃるには、だれがその宝箱を守り、敬意を表しようと、彼らは死から解放されるということです。(つまり不死を得る)

 お願いしたいのですが、サンドペリに戻る前に、それらを見せていただきたいのです」

「どうぞ見てください。われわれの母親が姉妹ということは、われわれは姉妹ということです。[註:実際はもちろん従姉妹] それにあなたは精神的父親に派遣されてここにきたのです。これだけでもあなたの要求に応じる十分な理由になるでしょう。でもあなたのためにできるのは、薬が入った箱を開けることだけです。そこにはわが父ルンジャク・ナクポの魂の拠り所が入っているのです。だれもそれらを見ることは許されていません。

 とはいっても、予言書には、いずれチベット人たちがやってきてそれらを奪っていくと書かれています。もっとも、その日ははるか先のことなのですけど。

 さあ、私といっしょに食事でもしましょう。それから白檀の箱がある部屋へ案内しますからね。でも気をつけてください。だれにもあなたがここにいることを悟られないようにしなければ」

 パドマ・チューツォは女神のために、たくさんの、さまざまな種類の甘美な、味のよい食事を供した。そのあと、彼女は偽女神を部屋に案内し、トルコ石の鍵で白檀の箱をあけた。上にかけられていた刺繍の施された薄絹の布をあげると、薬の宝がその姿をあらわした。

 ケサルは魔法の力で、彼女に気づかれることなくそれらをつかみ、かわりに模造の薬を箱の中に置いた。

 パドマ・チューツォが箱の鍵をかけたとき、宝箱はからっぽだったが、彼女はそうとは知らずに、偽女神といっしょに部屋に戻った。そして偽女神の手に至極のトルコ石を置いて、パドマサンバヴァに感謝のしるしとして渡してほしいと頼んだ。

「このトルコ石は9頭のブラフマーの(神像の)装飾品のひとつです。ムテグパが持つ希少な宝のひとつなのです。われらの精神的父の足元にこの宝を捧げてください。そしてパドマ・チューツォが身を投げ出して礼拝し、お祈りをしているとお伝えください」

 偽女神はこの宝を受け取り、盗んだ薬を懐に隠し、空高く舞い上がると、瞬時に「輝く陽射しに照らされた洞窟」に着いた。そこで偽女神はケサルの姿に戻った。

 三日後、英雄ケサルは、彼の心、言葉、身体[註:身口意]、知識、行為から、5つの幻影(トゥルク)を作り出した。

この5つのうちの4つは、ムテグパの要塞の4つの門の前にあらわれた。東の門の前に立ったのは、身体のトゥルク。北の門の前に立ったのは、言葉のトゥルク。西の門の前に立ったのは、心のトゥルク。南の門に立ったのは、知識のトゥルク。

 彼らは大量の白檀の灌木を集め、それらの一部を寺院の壁に積み重ねていった。それ以外の白檀の灌木は、ムテグパの人々が薬と薬木を堆くためておいた囲いのなかに投げ込んだ。その間に、行為のトゥルクはパドマ・チューツォを探した。彼女に警告を与え、退避の準備をさせるためである。

 4つの方角の門で、トゥルクたちは歩哨に立ち、守護神をたたえる歌をうたった。

 

ル・タ・ラ・ラ! ア・ラ・ラ・ラ! タ・ラ・ラ! 

私は父なるラマ、イダム(守護神)、カード(ダーキニー)を呼びます 

私の願いを広い心で聞いてください 

私に祝福をください 

そして永遠のご加護をお願いします 

 

今日私はメンリン・マルチャムでムテグパの要塞を攻略します 

門の前に、24の神将の首領であり、

グル・シェンラブの精神的息子にして 

ムテグパの悪魔どもの敵である 

ティグスム・ゴンポのトゥルクである私が立っています 

キ・キ・キ・ラ! ブ・スワ! キ・キ・キ・ラ! 

私はあなたがた神々を呼びます 

 

私は第十天の神々を呼びます 

そして第十一天の、第十二天の、第十三天の、 

またそれより上の天の神々を呼びます 

 

至高の勝利の宮殿で 

色とりどりの天幕で 

カ・ラ・ラ! 

白い法螺貝の玉座に坐っておられます 

キ・リ・リ! 

頭にかぶっているのは法螺貝の兜(かぶと) 

まとっているのは法螺貝の鎧(よろい) 

背負っているのは法螺貝の盾 

ガ・ラ・ラ! 

右手には法螺貝の矢 

左手には法螺貝の弓 

右手にはダダル(彩矢) 

左手には矛槍 

右手には虎の鬣(たてがみ) 

左手には斑の豹の皮 

そして彼の前には白い法螺貝の馬 

チプ・チプ・チプ! 

 

おお汝よ 

すべての天上の神々に囲まれた者よ 

空をよじ登るムテグパの縄を切れ 

激しい山頂の風をゆるめて彼らを地上へ叩き落とせ 


風と雲が戦う宮殿で 

神々の白い山が右手にそびえ 

ナーガの青い山が左手にそびえる 

そして中央にはラマイン(半神半人)の赤い山 

リラブ(須弥山)の真ん中には数知れない宝石がある 

 

黄金の玉座の上には黄色の絨毯 

彼は黄金の兜をかぶり 

黄金の鎧をまとってそこに坐る 

チ・リ・リ! 

背中には黄金の盾 

グニ・リ・リ! 

右手にダダル(彩矢) 

左手に矛槍 

右手に虎の鬣 

左手に斑の豹の皮 

そして目の前には黄金の馬 

チプ・チプ・チプ! 

おお華々しいドチャ・セルツォクよ! 

敵を混乱させる神を呼んでくれ 

ムテグパへ行く道を遮れ 

ひとりも逃さないために 

あなたの投げ縄で彼らを捕まえろ 

  

ナーガ(竜)の輝く宮殿で 

トルコ石の玉座に坐り 

トルコ石の兜をかぶり 

トルコ石の青い鎧をまとう 

チ・リ・リ! 

背中にはトルコ石の盾 

ギ・リ・リ! 

右手にはトルコ石の矢 

チャ・ラ・ラ! 

左手にはトルコ石の矢 

チ・リ・リ! 

右手には鉤(かぎ)を持ち 

左手には蛇から作った投げ縄を持ち 

右手には虎の鬣を持ち 

左手には斑の豹の皮を持ち 

彼の目の前にはトルコ石の青い馬が立つ 

チプ・チプ・チプ! 

 

おお力強いマトゥよ 

地下から風を送って 

ムテグパを焼き払え 

風で炎を燃え立たせて破壊せよ 

敵を混乱させる神々よ 

十万の兵力を急ぎわれらに与えよ 

ムテグパへ通じる四方の道を閉ざせ 

だれをも逃がすな 

その種族は根絶やしにしなければならない 

シャンシュンの山を燃やすために 

神よ、炎に翼を与えたまえ 

そうすれば炎は天高く燃え上がるだろう 

偉大なる英雄にして炎の破壊者、虎の神よ 

炎の投げ縄を彼らに投げよ 

今日という日、ムテグパを焼き尽くせ 

風の神よ、熱風を吹いて焦熱地獄を作り出せ 

今日という日、ムテグバを焼き尽くせ 

[訳注:シャンシュンという地名が出てくるからには、ここはシャンシュン国であり、信仰するのはボン教なのだろうか] 

  

憎悪の燃える東の塔で 

おお知恵よ、火をつけよ 

誕生の痛みをやわらげよ 

 

憤怒の暗い風の北の塔で 

おお知恵よ、火をつけよ 

老化の痛みをやわらげよ 

 

欲望のうねりの西の塔で 

おお知恵よ、火をつけよ 

病気の痛みをやわらげよ 

 

高慢の巨大な洞窟の南の塔で 

おお知恵よ、火をつけよ 

死の痛みをやわらげよ 

 

 詩を詠んだあと、ケサルの「現れ」であるトゥルクたちは、ムテグパに施すポワ[訳注:魂を浄土に送ること]に集中した。ムテグパを動かしていたのは、邪悪な力だが、トゥルクらはそれを神秘的な方法で善意の力へと変え、精神的な覚醒へとつながる道にその魂をのせるのである。

 この儀礼が終わったとき、彼の化身であるトゥルクによって、要塞の寺院の四隅から火を放った。瞬く間に火は燎原のごとく広がり、大火は激しい音を立てて、十方向[註:平面の8方向と上下]を満たした。大きな舌のような炎は空をなめ、風によって運ばれた煙は空に広がり、世界は暗くなった。

 ムテグパはだれひとり逃げることができなかった。しかしケサルの強い意思によって、彼らの魂は薬師仏の浄土へ送られた。

 ムテグパの人々は狂ったようにあちらこちらに逃げ惑ったが、炎上する要塞から脱出するにも出口がなかった。ケサルの化身である第5のトゥルクは、パドマ・チューツォを見つけ出し、彼女の安全を確保した。ムテグパたちの絶叫やすさまじい火勢を見ると、助かる希望はほとんどなかった。

パドマ・チューツォは、なぜ水晶のドルジェが贈られたか理解した。それに乗って彼女は炎よりもはるかに高いところへ飛ぶことができたのだ。そして瞬時に彼女はケサルの洞窟にたどり着いた。

 ドルジェはふたたび馬の姿に戻り、5人のトゥルクは合体してひとりのケサルになった。ケサルは馬のそばにいた。

 パドマ・チューツォは驚愕のあまり石のようになった。ケサルは言った。

「あなたは私のことを知らないので、グルのパドマサンバヴァの魔術を使いました。私はケサルです。私はこの世界の王であり、仏法の保護者であり、異教徒を調伏する者なのです。前世において、天上世界ではわれわれは特別な友情で結ばれていました。私はそのことを覚えています。

 私がリン国からここに来たのは、ムテグパがもつ薬を確保するためであり、間違った教えに終わりをもたらすためでした。私はあなたに、銅の宮殿のなかにある聖なる書の守り手になってほしいのです」

 パドマ・チューツォは、さまざまな姿を取った彼が、神々の子、トゥパガワであることに気づかなかったことを詫びた。

 彼女は「輝く太陽の洞窟」に隠れて、英雄ケサルとともに、1週間を過ごした。その間、それぞれが瞑想に没頭した。この期間の終わりに、彼は国の人々に、焼け落ちた要塞寺院のあとにたくさんのチョルテン(ストゥーパ)を建てるよう命じた。それは、ムテグパがふたたび現れないように、またその間違った教義を広めないようにという思いからであった。

 ケサルは女神マネネの命にしたがって、魔法の矢で巨大な銅の壁を破壊した。宮殿のなかで彼は108巻の「大きな言葉」(カンギュル)と無数の「小さな言葉」(テンギュル)を発見した。[訳註:いわゆるチベット大蔵経] 

 ケサルはパンディット(賢人)の姿を取って、25日間、インド人やネパール人、カシミール人のなかで法を説いた。彼はまた、パドマ・チューツォをダルマ・マニ王に嫁がせた。そして、ケサルが発見した聖なる大蔵経の半分を彼らに託した。それに含まれる教えを彼らは広げるだろう。

 またケサルは、膨大な薬を収集するよう命じた。およそ6万種の薬が集められ、千の大箱に分けて梱包した。彼がこれらをどうやってリンへ運んだらいいか、考えあぐねていると、インド人の魔術師やダーキニー(仙女)が提案を持ち寄ってきた。彼らは自分たち自身が500のハゲワシに変身し、彼らの巨大な嘴に結わえて運ぼうというものだった。夜の間に、彼らは薬の入った千の大箱をケサルの宮殿に運んだ。

 英雄ケサルが出発する前、この国の人々や隣接する国の住人が、膨大な贈り物を彼に捧げた。別れ際、ケサルはもう一度駿馬に乗って天空を駆けた。彼がリン国を留守にしていたのは3か月だった。

 ケサルが戻ってきたときのリン国の人々の歓迎ぶりはすさまじく、歓喜に満ちていた。そのときケサル王は何も持っていなかったのだが、彼をみな尊敬していたので、そのことについてだれも咎めることはなかった。

 ケサルは、皆の考えがわかったので、大臣たちを宮殿のテラスに招待した。族長たちはそこに着いていた大量の大箱を見て、思わず感嘆の声をあげた。そして大衆に向って大声でそのことを知らせた。人々はどうやってそれらが届いたのかわからなかったが、ケサル王と神々に向って、薬の贈り物をもたらしたことに、深い感謝と祝福の言葉を口々に唱えた。

 何週間もの間、間断なく、ゲームや祝祭、晩餐などが催された。薬という大きな貢献を果たしたあと、ケサルはふたたび宮殿の裏側の庵室に入り、隠遁生活をはじめた。