第4章    アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 宮本神酒男訳 

 ケサルが完全にこもって修行している間に、数か月がすぎた。そしてある日、サンドペリからケサルの部屋に光が射し、パドマサンバヴァが現れた。

「ケサルよ、15年目の年が近づいている。おまえの役目を今一度思い出さなければならない。これ以上取りかかるのを延ばすわけにはいかない。明日にもルツェンの王国めざして出発せよ」

 しかし英雄ケサルはこたえた。

「燃え盛る炎の舌を持つ巨人であるルツェンを、どうやって倒すというのでしょうか? この魔物は名うての呪術師でもあるのです。家来たちもみな悪魔の種族に属し、信じがたいほどの力の持ち主です。そんなバケモノを退治するなど、考えるだけで無駄というものです」

「ルツェンは手ごわい敵である」とパドマサンバヴァは認める。「しかしおまえは使命を果たさねばならぬ。この魔物を調伏するためには人間世界に転生する必要がある。神々はおまえを助けると約束したのだ。神々はおまえを見捨てることはない。私自身も人に見えない姿でおまえのそばにいる。さあ、はじめるのだ」

 パドマサンバヴァは光に包まれたまま姿を消した。太陽は依然として光り輝いていたが、部屋の中には影が落とされたかのようだった。

 ケサルはすぐに妻に使者を送り、いましがた受けた命令について知らせた。

「長い間、北の魔王を討伐する使命があることを、ぼくは知っていました。いま、それを実行に移すときがやってきたようです。日に日に力を増しているこの悪しき魔物を地上から駆逐せねばならなりません。

 すぐに出発するべきです。これ以上遅れを出さないように、近隣の族長たちには知らせないで宮殿を出発しようと考えています。すみやかに愛馬キャンゴ・カルカルのところへ行って、トルコ石で飾られた金の鞍と鐙(あぶみ)を装着してください。さあ急いでください」

 セチャン・ドゥクモは、夫がまた危険に満ちた遠征に出ようとしていることを知って、心を痛めた。しかしそれでも夫の意思を尊重することにした。

 馬の準備を終えると、ドゥクモは仏間(ラカン)で祭壇の灯明をともし、お香を焚いた。ケサルが乗って出発する前に、彼女は駿馬の輝く鞍に手を置き、夫の成功を願って夫の守護神すべてを呼び出した。そして彼女が宮殿の庭の重い扉をあけると、英雄ケサルはほかのだれにも見られることなく、駆け出した。

 翌日、ケサル王が単独で出発したという噂が駆け巡った。ケサルの母やリンの族長たちは、彼がキャンゴ・カルカルに乗り、宮殿から出て行ったことに気がついた。おぞましい魔王ルツェンを退治するために、ひとりで向かったことはすぐにわかった。

 すぐに彼らはケサル王のあとを追った。それは遠征をやめるよう説得するためだった。しかし彼らのどの馬もキャンゴ・カルカルにはかなわなかったので、追いつくまでに13日も要してしまった。追いついたのは、ケサルが瞑想して計画を立てようと、止まったためだった。

 ケサル王に追いついた彼らは王を取り囲み、彼らの懸念を伝え、無謀な計画を断念するよう説得を試みた。

「王様のお年を考えてください。まだ15にもなっておられませぬ」

「ルツェンはとんでもない巨人であります。足が地上に着いているとき、その頭は天に達するといいますぞ」

「こやつの舌は燃え盛る炎の蛇にして雷ですぞ。こやつが王様を舐めれば、たちどころに王様は燃えて、呑みこまれてしまうでしょう」

 彼らは必死で思いとどまるよう、そしていっしょにリンへ戻るよう嘆願した。

 ケサルは彼らを黙らせ、刃向うことは許さないとばかり、威厳を持って言った。

「私は神々の地から仏法の敵を倒すためにやってきたのだ。パドマサンバヴァの命を受けているので、その使命から逃げることはできない。私を止めようなんて、無駄な行為だよ」

 そこでルモ・ゼデン(ケサルの母であるナーギー)が口をはさんだ。

「おお、ケサルよ。黄金の神よ。おまえの言うことは真実です。尊いグルが御みずからナーガの国にいらっしゃった。そしておまえの母となるために、私はナーガの国を離れたのです。

 ある夜、トヤン・チャムチェマの近くで、天界からひとりの神が降臨し、魔法の霊薬を私に飲ませました。私は奇跡的に何人かの神の母とまりました。それらの神々はうまれるとすぐ姿を消しました。そしてある朝、台地を覆う色とりどりの雪の中に黄金の花が咲いたとき、おまえがこの世にあらわれたのです。人々は何度もおまえを殺そうとしました。深い穴に落とされて、生き埋めになったこともありましたが、かならずあなたは生きて戻ってきました。

 私たちふたりには、果たすべき運命の役割があるのです。さあ、行って勝利を得てきなさい」

 その手を息子の馬の鞍に置き、ナーギーは静かに、真剣な面持ちで、成功を祈った。それから他の者たちとともにリンへ戻り、ケサルはひとりで北へ向かった。

 馬を急がせ、ケサルは翌日にはハチョン・チグ山の近くに着いた。そこからはるか遠くにルツェン王の姿を捉えることができた。王は餌食となるものを探してひとりうろついていた。

 その姿を目にするのははじめてだし、あわてて今日殺すこともあるまい、いまはじっくりと観察しよう、とケサルは考えた。

 彼も、また彼の愛馬もケルン(石積みのオボ)に変身した。山の道にケルンは珍しくなかった。ルツェンはこの2つのケルンの前を通っても、気に留めることはなかった。

 ルツェンが通り過ぎると、ケルンと愛馬はもとの姿に戻り、彼らは疾駆してルツェンの城に着いた。

 王妃ドゥモ(魔女)メサ・ブムキは、そのときひとりきりだった。中庭の大きな扉が半開きに開いていたので、ケサルはなかを見ることができた。通路越しにケサルは声をかけた。

 彼女は中庭を囲うバルコニーを伝って、道を見渡せる窓に近づいた。そこからならだれが呼んでいるかわかるからだ。

 見たことのない戦士の姿に驚き、彼女は問いただした。

「おまえは何者? その輝く兜(かぶと)は首領の兜でしょう? いずこの国から何を携えて来たの? 王がおまえを食わなかったのはどうして? 空を飛ぶ鳥も、虫も、いわんや人も、この城に無傷で近づけた者はいないというのに、おまえはどうやってここに来ることができたの?」

「だれも知らない謎があります。私はそれを大きな声で説明することはできません。ここに降りてきて、私の説明を聞いてください」

 好奇心を抑えきれず、王妃はこの見知らぬ者と話をするためバルコニーを伝い、それから階段を下りて、中庭に出た。

 彼の大胆さに驚き、その見知らぬ戦士の静かな威厳と高貴な面持ちの前に、魔女メサ一言も発することができなかった。

「私はケサル、リン国の王にして世界の統治者である。コルロ・デンチョクとドルジ・パクモの息子である。超能力をもつ修行者トゥパガワとして住んでいた神々の国を出て、パドマサンバヴァの命を受けて、仏法の敵を倒すために人間の世界に転生した。ルツェンはわが手によって葬り去らねばならぬ。この魔物の時は終わりに近づいているのであり、だれも救ってくれないだろう。王妃よ、私を導いてこの魔物に死を与えたまえ。一撃で仕留めるために何をなすべきか教えてくれ」

 魔女はふるえながら答えた。

「ケサルによってルツェンが殺されるという古代の予言については聞いたことがあります。ルツェンもそのことは知っています。それでも私はあなたにルツェンの命を奪ってほしくないのです。ルツェンは私の夫であり、保護者なのです。夫が死んだら、だれが私の面倒を見てくれるというのでしょうか。さあ、あきらめてどこかへ行ってください。魔王もまた、強靭な守護神を持っています。それに神託の予言が当たるとはかぎらないのでう。もしあなたがここに残ったら、帰ってきた夫に食べられてしまうでしょう」

 ケサルは彼女ににじり寄った。

「ドゥモ(魔女)よ」とケサルはあてこするような言い方をした。「私は無尽の富を持っています。私は神の種族に属するのですから。私自身神なのです。そして真の仏法に通暁しているのです。

 私はあなたを国に連れて帰るでしょう。そこであなたは富に恵まれ、しあわせに暮らすことができるでしょう。そしてこの世に別れを告げたあと、私とともに西方浄土へ行き、至福の喜びを享受することになるでしょう。

 ここにいてどれだけの危難が待っているか、わかったものではありません。ルツェンのあなたへの愛も冷めるかもしれません。あなたの夫は残忍で暴力的です。ひとたび愛がなくなったら、彼にとってあなたは無意味な存在になるということです。ということは、人食い悪魔である夫があなたを食べるということも起こり得るのではないでしょうか」

 魔女は心を動かされた。ケサルが賢くも示したような、神に選ばれた、無尽蔵の富をもつ国王と安心して過ごすこと、そして死後西方浄土で至福を享受すること、こういったことはとても魅力的ではあったのだが、同時に夫への貞節を捨てる行為になるのではないかと恐れた。

「ケサルさま、あなたがおっしゃることは本当の事なのでしょうか。もしそれが本当のことなら、私はあなたのお役に立つはずです。魔王を殺す方法があり、それをあなたに教えることもできます」

「ドゥモ(魔女)よ」とケサルはおだてるような口調になる。「あなたは自分が美しいことをご存じないようだ。あなたを一目見た者は、愛せずにはいられないだろう。私もあなたを見てしまったので、愛さずにはいられないのだ。私は豊かで、力があり、あなたの夫の百倍もいい男である。現世においてあなたは私の妻となるべきである。祝福された浄土の蓮の庭で、何世紀も私の伴侶であるべきである」

 愛すべき神のような英雄、富、権力、浄土の至福……あわれなことに、魔女はこういったことを夢にも見たことがなかった。彼女はケサルのほうを見た。ケサルも魅力的な笑みを浮かべ、その大きな黒い瞳で彼女を見つめた。王妃は征服された。

「こっちに来て休んでいって」

 国王の間にケサルが座したとき、ドゥモはお茶、ツァンパ(麦焦がし)、乾燥肉を出しでもてなし、親密に話をした。客がごちそうを食べ終えると、王妃は言った。

「あなたをうまくどこかに隠さなければなりません。ルツェンはモ(占い)を得意としているので、あなたをすぐ発見するかもしれませんし、発見すれば即座にあなたを食べてしまうでしょうから」

 彼女は台所の隅に穴を掘り、そこにケサルを入れた。彼の頭の上に銅製の大鍋を置き、小石を積み上げ、柴をからませ、穴を隠そうとした。

 台所の隣に暗い小部屋があった。それは鉄の扉がついた馬小屋だった。彼女はケサルの愛馬キャンゴ・カルカルをそこに入れて隠した。

 ルツェンが戻ってきたとき、魔女は作業を終えていた。外で馬の蹄の音が聞こえると、彼女は中庭に降りていき、それがいつものことであるかのように、馬の轡(くつわ)を取って中に誘導した。

「おかえりなさいませ、王さま。お疲れでしょう。狩りはいかがでございましたか」

 王はたいそう不機嫌だった。狩りがまったく不調だったからである。小動物さえ射止めることができず、何も食べられなかったので、死ぬほど腹が減っていた。彼は座布団にどさりと坐って、ドゥモに話しかけた。

「ひどい一日だったよ。何も見つけられなかったんだからな。憂鬱になったせいか悪い夢を見てしまった。

 リンのケサルとやらの力がどのくらい増加しているか、占ってみたい。サイコロが入っている箱とモ(占い)について書かれた書をこちらへもってきてくれ」

「もしそのケサルが王様より力があったらどうなさいますか。そして王国に侵入してきたらどうされますか」

 魔女はそう言って夫がモ(占い)をするという考えをやめさせようと試みた。

「予言があるのさ。ケサルとやらがここにやってきて、犬の年、おれはそのケサルにやられてしまうというのだ。今年は犬年だろう! しかし予言には、そう述べられているだけだ。犬年は12年ごとにやってくるのだ。だから予言は24年後のことかもしれんだろう。あるいはもっと先のことかもしれん。ともかく、モによっておれの運命がわかるだろうからな」

 ルツェンの主張を聞いて王妃は空恐ろしくなった。彼女は夫が腕の立つモパ(占い師)でもあることを知っていた。疑いなく、夫はケサルがこの城の中に潜んでいることを知るだろう。しかし夫には従わざるをえず、彼女は心がかき乱されていることを悟られないようにして、占いの道具が入った箱を持ってきた。

「その箱を開けよ。そして占いに必要な道具をおれの前に並べろ。おれがモ(占い)をする間、どんな願いも心に浮かべないように気をつけろ。それがいいものであろうと、悪いものであろうとな。そういった考えは占いに影響を与え、結果を変えることもあるのだ」

 恐怖が過剰すぎて怒りに変わり、魔女は苛立たしげに言った。

「どれもありえないわ。あなたは予言のこともモのこともわかっちゃいないのよ」

 そう言いながらも、彼女はケサルの現在の所在地がわからないように祈りながら、箱から占いの本やサイコロ、数珠、その他の道具を取りだして卓の上に並べた。

 占いを何度もやったあと、王は首を振ってつぶやいた。

「占いの結果はひどいもんだ。何度やっても、この屋敷のなかに敵が潜んでいるというふうに出てくる。おまえは家中の穴という穴、隅から隅まで探さなければならぬ。すべての部屋の土の下まで調べるのだ。おれが部屋の片側を掘り返す間、おまえはもう片側を掘るのだ。わかったな?」

 魔女は死んだも同然の心持になった。もしケサルが見つかったら、王は容赦なく私を殺すだろう。彼女は危難を乗り越えるために、別の方法を考えねばならなかった。

「そんな面倒の種を探してどうするっていうの?」と彼女は機嫌が悪いように装ってこたえた。「あなたの敵は地下になんかいないわ。リンでしょう? どこを探したらいいかもう一度モにたずねればいいのよ」

 ルツェンは彼女の助言を受け入れ、もう一度モを試みた。

「こんどの結果はおれに有利なものだった。つまり敵はケサルしかいないとモは示しているので、ほかのことは考えなくてもいいということなのだ。しかし、モの結果は大凶だった。これは由々しきことである」

 もう一度彼はケサルのことを占うために、サイコロを投げた。その結果はまたしても凶だった。

 ケサルは生きているのか、死んでいるのか、と彼は考えた。もし死んでいるなら、今後恐れることは何もない。しかし確かめる必要がある。彼はモをつづけた。

「奇妙だな」と彼はドゥモに言った。「おれにはケサルが暗い場所にいるのが見える。そこは風が吹いていない。頭の上には銅の大鍋があり、足元には大量の蛆が這っている。おれにはケサルが生きているか死んでいるか、なおわからない。おそらく地獄の領域で王から拷問を受けているのだろう」

 魔女は讃嘆するふりをした。

「なんてすばらしいモでしょう! 疑いの余地はありません。ケサルは死んだのです。陰鬱な場所は、暗い地獄のどこかに違いありません。大鍋というのは、邪悪な者が罰せられて煮られる大鍋のことでしょう。蛆虫は彼らの体を食い尽くす地獄の蛆虫でしょう。寺院の壁画に描かれる地獄とおなじです」

 ルツェンはモの解釈に関して異存はなかった。ふたりはこうしてお茶を飲んで一服し、寝床に向った。魔女は眠くなったふりをしたが、目は覚めていた。夜、王が熟睡しているとき、彼女は起き上がってケサルのところにやってきた。彼女はケサルに起きるよう促した。

「ルツェンはどうしてるんだい?」

「眠っているわ」

 ケサルは兜をかぶり、魔法の甲冑を身につけ、魔法の矢を弓に設置した。そして共犯者である王妃のあとをついていった。

「私のいうことをよく聞いて。ルツェンの額には白い丸い印があります。ここが活力のもとになっている場所です。あなたがそこに矢を放てば、ルツェンはたちどころに死んでしまうでしょう」

 ケサルが部屋に入ると、神々の像の前にともされた灯明によってかすかに明るかった。彼が放った第一の矢は不貞の妻が示した白い印に向ってまっすぐ飛んだ。矢は悪魔の額を割り、彼はすぐ絶命した。

 そして敷居から退治劇を目撃していた魔女は、死者の魂のために仲裁を申し出た。

「ルツェンはいつも私のためによくしてくれました。王が人間の肉を食べるとき、私には羊の肉を与えてくださったのです。王が血を飲むとき、私には乳を与えてくださったのです。必要なものはすべてそろえてくださいました。とてもすばらしい布、中国の錦織、金の布、そういったものからドレスを作ってくださいました。宝石でできた髪飾りやネックレスを与えてくださいました。あなたは仏法の敵だと宣言されましたが、だからこそルツェンを殺すお手伝いをしたのです。しかし彼の身体を破壊することだけを望んだのではありません。その魂の罪の赦しを乞い、西方浄土へ送っていただきたいのです」

「その魂は西方浄土へと送られるだろう。送るのは私の使命のひとつである。私が調伏した悪魔の魂は解放され、浄化されなければならない。悪は善に変わらなければならないのだ」

 ケサルは動かなくなったルツェンの体に近づき、その魂を呼んだ。そのとき魂は、まさにバルド(中有)に入ろうとしていた。しかしケサルの言葉を認識し、即座にもどってきた。

「よき家の息子よ、注意深く聞いてほしい。そなたは道を誤らせる幻覚にあふれた霧深い地域に近づいている。導き手がなければ、永遠にそこにさまよい、抜け出せなくなる者も少なくないのだ。しかし恐れることはない。導かれるままに身を任せよ。

 生前の悪い行ないを罰する地獄にそなたは親近感を覚え、引きずり込まれそうになるかもしれない。しかしそちらのほうへ進んではいけない。暴力的な性向がそなたを霧の道に行かせるかもしれない。しかし簡単そうに見えるからといって、この道を進んではいけない。それは苦悩の世界へとつづく道である。

 そなたはすでに肉と血(現世の肉体)を離れた。そなたの性格はもはやおなじではない。自身の身体を見よ。それは9つの出入り口を持った壁のようだ。どの扉を選べばよいか、注意せよ。

投げ出された2つの足は、地上に横たわる2本の木のように見え、そのまま素通りしてしまうかもしれない。降りていってはいけない。上昇せよ。

 内臓に引っかからないように注意せよ。腸は沼地にうねる道のように見えるだろう。さあ上昇するのだ。

 2本の手の道を通ろうとするな。それは谷のように見えるだろう。さあ昇るのだ。

 首を昇るな。それは梯子にもたれた壁のようなものだ。さあ昇れ。

 口の中に這って入るな。それは太陽の光に照らされた半開きの扉のように見えるだろう。さあ昇るのだ。

 鼻の領域に無理に入ろうとするな。そこは岩だらけの峡谷だ。さあ昇るのだ。

 耳に入るな。それは2つの洞窟のように見えるだろう。さあ昇るのだ。

 3本の脈管がそなたの目の前にある。間違ってはいけない。ウマ、ローマ、キャンマの3本の脈管は、それぞれ異なる場所へと導く。

ローマはバルドを越えていかないので、この道を選んではいけない。キャンマは大いなる空の魔術的な創造物である。だからその道は避けよ。

ウマはほかの2つとは異なっている。これこそ選ぶべき最善の道である。外側は白く、内側は赤く、山に生える竹のようにまっすぐ伸びている。

そしてそれは3つの結節点をもっている。それぞれに神が座する。

 下に見えるのは恐ろしいマチグである。身体が青い彼女はさまざまな色の絹の衣をまとい、墓場の骨の飾りをまとい、座している。右手には揺太鼓を持ち、左手には甘い音色の鈴を持つ。ルツェンよ、マチグ女神と結合し、上昇して第二の結節点へ向かえ。

 そこには勝利の白いドルマ(ターラー)女神が座する。法螺貝の白よりも白く、きらめくような宝石で飾られ、女神は蓮華座に坐る。右手は大地を指し、大地を降伏させたことを表し、左手は青い蓮華と水晶の数珠を持つ。そなたの魂が彼女と結合し、彼女とともに上昇して第三の結節点に至ることを願う。

 そこに座するのは宇宙母である。その身体は赤く、髪もまた赤い。それは4つに分かれ、背中、両肩、顔の上にそれぞれ下がっている。彼女の頭の頂には赤い炎が燃えている。右手には血に染まった人間の皮を持ち、左手にはカンリン(人間の骨でできたラッパ)を持ち、口に当てている。そこから彼女はすさまじい音を奏でた。彼女の腰巻は虎皮でできていて、衣は赤い絹でできていた。象の上で彼女は一心不乱に踊った。そなたの魂が彼女と結合することを願う。

彼女がいる場所を出発点として、その道は赤いアミターバが統治する西方浄土へとつながっている。この道を進め」

 ルツェンの魂は、その都度その都度、ケサルの指示に従った。こうして彼は、導き手によって着実に、さまざまな段階に達した。悪しき生きものは恩恵を施す生きものに徐々に変わっていった。そしてついに大いなる至福の浄土へたどりついた。

 そのときケサルは王妃(魔女)に言った。

「見よ! おまえの夫はいまや西方浄土の祝福された住人のなかにいるぞ」

 ケサルはその神通力によって彼女にルツェンの姿を見せることができた。

 魔女は英雄ケサルの足元でひれ伏して、懇願した。

「ああ、なんていう奇跡でしょう! あなたの力はなんと偉大でしょう。どうかのちに、私も至福の浄土へ行けると言ってくださった、あなたのお約束の言葉を思い出してください」

「おまえの時はまだ来ていない。のちに、おまえが至福の浄土へ至る道をたどれるかどうか、考えることになるだろう。その時には、私は数日間ここに滞在するつもりである」

 魔女はがっかりして立ち上がった。彼はリンの国王として、あるいは師として、高みから冷淡に言い放ったのである。その厳しい黒い瞳には、好色な炎は微塵も浮かんでいなかった。

 翌日、ルツェンが殺されたことを知った無数の家来の戦士たちが、主君にたいする復讐を遂げようと集まってきた。

 膨れ上がる群衆を見て不安になったドゥモは、ケサルに何をしようとしているのかと聞いてみた。

「わが馬に鞍をつけよ。そして魔法の武器を持ってきてくれ。私はつねに征服する者である」

 彼はたちまち馬上の人となり、聖なる駿馬は彼を乗せて天高く飛翔した。そして驚愕する戦士たちをはるか上から見下ろした。

 このような奇跡的な力を持つ者を殺せるわけがない、と彼らは絶望的に考えた。しかし死んだ主人に忠誠を誓った彼らは、毒矢を放ってケサルを殺そうとした。しかしそのどれも彼に届くことはなかった。怒りをつのらせたケサルは鞘から炎の剣をひいた。

 この超常的な武器に恐れおののいた戦士たちは、ひれふして恭順を表わし、臣下に降ることを決め、仏法を受け入れた。

 ケサルは、彼らの命は助けた。翌日、彼は聖なる水をそそぎ、彼らに灌頂を施した。

 いまやすべての人々が、リンの英雄にこの北の国にとどまり、彼らの新しい王になってほしいと願った。家臣たち以上にそう願ったのは、ほかでもないケサルに恋をした王妃の魔女だった。一方、勝利者であるケサルはといえば、魔女を妻とする約束はしたくなかった。

 しかしケサルが宮殿のなかでぐずぐずしていると、戦士たちは機会を見つけては枕の下に彼らが腰を下ろしたり、足を置いたりした座布団や、靴に詰めていた藁などを、滑りこませた。 [註:他人が使ったものは不浄とみなされた。一種の呪術] 

さまざまな不浄のものがケサルのお茶のなかに入れられなどして、次第にケサルの心はどんよりと曇ってきた。彼はリンの国のこと、彼に託された使命、彼自身の人間性を忘れていった。彼は毎晩、自分とそっくりな幻影を作り出した。それらは王妃と寝床をともにした。彼女はケサルの愛を独り占めにしていると思い、幸せだった。

 そうして6年が過ぎ去った。こうした呪術によって魔女と戦士たちはケサルの心をぼんやりとした状態に保ち、結局は囚われの身としていたのである。