5章    アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 宮本神酒男訳 

 ケサルは彼の使命をすべて成し遂げたわけではなかったので、慈愛の菩薩チェンレシグ(観音)がふたたび現れ、ワンクル(イニシエーション)儀礼によって彼の心を曇らせていたまじないを解かねばならなかった。

 英雄は長い夢から醒めた。まわりの人々の懇願に耳を貸さず、魔女メサの歎きもかえりみず、ケサルはリンへ向けて長い旅に出発した。

 サムリン峠に着いたとき、たくさんのチョルテン(ストゥーパ)が建てられているのを見てケサルは驚いた。6年前北の魔国へ行くときにはほとんど見られなかったからだ。これら記念塔は族長や高僧、高位の者が亡くなったときに、ツァツァを中に入れて作られるものだ。[註:ツァツァとは、粘土製のチョルテンのミニチュア。死者の骨の粉が混ぜられることもある] 

 どうしてこんなにたくさんのチョルテンが建てられたのだろうか。リン国でだれが死んだのだろうか。

 ケサルがこうしたことを考えている間、頭のない鷹がチョルテンの頂から飛んできて、彼の頭上に一瞬止まり、それから所定の位置に戻っていった。

 なんという厚かましい奇妙な鳥だろう、とケサルは思った。そして弓を引く構えを見せた。

「あなたは私を認識できないのか」と鷹はいった。

 ケサルはひどく驚いた。彼の感覚を麻痺させたまじないはまだ切れていなくて、ぼんやりとしていたのだ。チェンレシグからワンクル儀礼を受けたにもかかわらず、それがだれなのか認識できなかった。

 地べたにしゃがみこんでいた彼の聖なる駿馬もまた悲しそうに言った。

「おお、ケサルよ。われらは卓越した知性が必要とされる使命を帯びて、神々によって地上に送られたようだ。だがなんたることか! おまえは頭のない鷹のなかにシンレンの息子、ギャツァの魂を認識できないとは! リンでは、ギャツァとおまえは特別な絆で結ばれていたのに。これでは英雄どころか、おまえは普通の人間だ。

 頭のない鷹が止まったチョルテンはギャツァを弔うために建てられた記念塔である。ギャツァの頭はホルに運ばれたのだ。生きている者であるおまえには、親愛なる友を識別できないのか。死んでいる者はおまえを識別できるというのに。おまえはただのひとことも、友情の言葉を与えなかった。それどころかおまえは彼を殺そうとしたのだ。彼を呼んで聞くがいい。おまえが長く北の国にとどまっている間に、リンで起こった災難について教えてくれるだろう」

 ケサルはあわてて鳥を呼びに行き、白いカタ(スカーフ)を献上しながらだれかわからなかったことを詫びた。そして悪魔の国で呪術によってとどめおかれたことをケサルは説明した。

 鷹はただちにやってきて、キャンゴ・カルカルの鞍の上にとまった。ケサルは話をつづけた。

「ギャツァよ、あなたはもうこの世の者ではないのか。しかしどうしてバルドにさまよっているのか。どうしてあなたの魂は浄土に導かれないのか。またもし神の体を得ないなら、どうして人間の姿で転生しないのか。鳥に生まれ変わるにしても、羽根の美しい優雅な鳥がたくさんいるのに、なぜ鷹、しかも頭部のない鷹なのか?」

「兄弟よ、おれのことでそんなに嘆かないでほしい。人間の姿でないのは、そんなものはおれには無用だからだ。西方浄土へ直接行けなかったのはたしかだが、その第一の理由はケサル、おまえの帰りを待っていたからだ。そしておまえがホルパ(ホルの人々)によって殺されたリンの人々の仇を取ってくれるところを見たかったからである。戦争の間、ホルに属する人々からもたくさんの犠牲者が出た。彼らはその生前の行いによってネズミに生まれ変わったのだ。鷹は彼らの天敵だからね。生まれ変わったホルパを大量に殺したのさ。それはともかく、おまえに話したいのはつぎのことだ。

 おまえがリンを出発したあと、すぐにホルの王クルカルが強力な軍隊を率いてわれらの国に侵攻してきた。おまえの部下たちは勇敢に戦い、敵の兵隊を大量に虐殺することができた。しかし兵力で圧倒され、最終的には屈せざるを得なかったのだ。おれ自身も家の敷居で殺された。クルカルはおれの首をはね、持ち去った。いま、宮殿の壁に戦利品として掛けられている。だからこのようにおれは頭のない鳥なのだ。

 しばらくの間、クルカルはリンにとどまった。そしておまえの居住していた部屋で勝利の美酒に酔いしれていた。

 おまえの妻は必死に抵抗したよ。だがクルカルは王妃も戦利品の一部だとぬかしやがった。表立っては拒否できないので、王妃は策略を練った。

 彼女はクルカルに言った。あなたのものになる前に、誓いを立てるために、リマ(羊や山羊の糞)でチョルテンを造りたいと。しかし彼女は仕事を終えることができなかった。積んでも、積んでも、リマは乾燥するとボロボロとはがれてしまうからだ。彼女はそうやって引き延ばしているうちに、おまえが帰ってくると考えていた。しかそそうはならなかったわけだ。

 そのとき、おまえはルツェンに食べられたにちがいないと思ったトドンは、クルカルにへつらって、ケサルは戻って来ないでしょう、だからあなたさまの思う通りにできますと言ったのだ。

 わからないですか、この女はあなたさまを騙そうとしています、とトドンはわざわざクルカルに言いつけた。そして蝋を流し込んでリマを固めるよう王妃に忠告することをすすめたのだ。

 そのときちょうど王妃が作った数々の仕掛けが完成しようとしていた。トドンはひとつひとつ、仕掛けを破る方法を教え、王妃の計略をしくじらせた。

 最終的に、クルカルは戦利品としておまえの妻を連れて、国に帰った。そしてトドンは全面的に降伏したあと、クルカルの代理人かつ総督として、リンの王となっているのだ。

 老いた身体を鞭打ってわが父シンレンはホルパと勇敢に戦い、おまえが帰ってくるまでがんばれと、人々を鼓舞した。そんな行為は、しかしトドンを怒らせるだけだった。トドンにとっては、クルカル統治下のほうが、かえって都合がよかったのだ。トドンの兄弟(シンレン)、つまりわれらの父に対する扱いは屈辱的なものだった。信じられるか、おまえの母さんの召使いにしてしまったんだよ」

 リンの悲惨な現状を聞いて、ケサルは悲しみに圧倒されそうになった。しかし彼はすぐに自信を取り戻し、愛情をこめて言った。

「ギャザよ、もうこれ以上悲嘆に暮れることはないぞ。勇猛なるリンの戦士たちが、仇を討つことになるだろうから。それは誓ってもいい。クルカルは自らの無謀な行いを悔いることになるだろう。彼と家臣である軍隊の将軍たちを滅ぼすまで、私が休むことはないだろう。

 さ、兄弟よ、もうその惨めな鳥の体から抜け出すときだろう。そして好きな喜びの浄土を選んでそこへ行ってほしい」

 ケサルがいままさに立てた誓約によって、確信を得たギャツァの魂は鳥の体から抜け出した(鳥は地上に落ちた)。そしてただちに大いなる至福の浄土に転生した。

 この出会いのあと、ケサルはリンへの道を急いだ。アチェンチュンルンという場所に到達したとき、彼は遠くから、殺したばかりの山羊の皮をはいでいる少年の姿を認めた。その姿を見ただけで彼は楽しくなってきた。子供はとてもかわいらしく、一生懸命に楽しそうに働いていた。

この少年は見たことないな、とケサルは思った。国を6年も離れていたのだから、仕方がないだろう。6年前、この若い狩人はまだ幼かっただろう。そういえばギャツァには子供が一人いたはずだ。年頃もこのぐらいだろう。この少年がそうだろうか。ぜひ確かめてみよう。

 ケサルは死んだ妖魔ルツェンの姿をとった。その山のような巨体、世にも恐ろしい顔、炎を発する舌をもつでっかい口、それらはルツェンそのものだった。この姿に変身してケサルは少年に近づいた。

 そのおぞましい姿を見ても、少年は恐がる様子は一切なく、手を休めなかった。少年はバケモノに聞いた。

「あんたはどこから来たんだい?」

「おれは北の魔国から来た」

「あなたのお名前は?」

「ルツェンである」

「われらの王子はずっと昔あんたを殺すために長い旅に出たんだ。この王子と会ったかい?」

「会ったよ。そして食った」

「いまどこへ行こうとしているんだい?」

「リンへ向かっているのさ。そこで住人を食うつもりだ」

 そのときはじめて少年は手を止めた。静かなる勇気を持って彼は弓を手に取り、矢を引いた。

「あんたはぼくたちの国王を食べたんだな。そして今度はリンの国民を食べようとしている。あんたを生かしておくわけにはいかない」

 少年が放った矢は、正確にバケモノの口に入りそうになった。

 ルツェンの巨体は幻影にすぎなかったが、絹の糸一本分の差でなんとかよけるようなありさまで、ケサルはあわてて本来の姿にもどった。かすった程度ですんだのは、幸運だった。彼は幻影を消し、透明人間になった。

 この特別な力を持った少年はギャツァの子供にちがいない、とケサルは思った。この勇猛さはリンのあらゆる戦士を上回っているだろう。そして実際、数々の神々や悪魔と遭遇してきたのだろう。このような勇気に恵まれた者は、世界で役に立つ慈愛の心を持っているはずだ。親切な心を持っているかどうか、ひとつ見てみようじゃないか。

 ケサルは見えない姿のままで、少し離れたところへ行き、谷の曲がり角で姿をあらわし、貧しい巡礼僧に扮した。

 少年はルツェンが消えたからと言って、とくに驚いたわけではなかった。この悪魔は魔術師だったのだろう。人間がこの悪魔を殺すのは不可能なことにちがいない、と彼は思った。

 巡礼僧が近づいてきたとき、少年はそれがケサルの別の姿とは思いもよらなかった。この僧は完全にナルジョルパ(隠者、すなわちヨーガ行者)のいでたちだった。彼は108か所の墓地やその他恐ろしい場所で瞑想をし、チュー(断)の儀礼を行いながら旅をしていた。彼は三叉鉾がついた杖によりかかりながら、人間の大腿骨から作ったトランペットを腰ひもにぶらさげ、背中には小さなテントと揺太鼓と、儀礼で使う道具が入った袋を背中に負っていた。

「わしの食料は尽きてしまった。だからすこし食べるものを分けてもらえないかのう。それから聖なる経典を読みたいのじゃが」

「ぼくの父はホルの人々に殺されました。国王であるおじさんは悪魔に食べられました。ぼくはこの山羊の手提げ袋を差し上げます。どうか死者のための祈りをささげて、その魂を西方浄土へ導いてください」

 少年が利他的な慈愛の精神を持っていることがわかったので、ケサルは喜んだ。彼は肉を受け取ると、うなずき、旅をつづけた。

 

 ギャツァの魂が正確に述べたように、トドンはリンの諸部落を統治していた。同胞に勝利したあと、彼は征服者であるクルカル王の好みのものを集めることを主な仕事としていた。トドンが奴隷のように仕えてくれた見返りに、ケサルの登場によって失っていた特権をクルカル王は彼に返してやった。

 トドンは失ってしまった最高権力をもう一度取り戻そうとしているわけではなかった。ケサルにたいして抱いた苦しい思いがあるゆえ、彼は自分の地位を族長程度におさえて、むしろ敵に近づいたのである。遠く離れた統治者の代理人となるということは、実質的に独立した首領ということであり、統治者が要求する年貢を納めてさえいれば身分が保証された。彼はこの地位に満足していた。ただこの状態がつづくためにはケサルが戻って来ないというのが条件だった。

 ケサルが戻ってくるかもしれないという恐れは次第に薄れていった。おぞましい悪魔のルツェン征伐に向ってから6年もの時間が過ぎていた。ケサルに関する消息はまったく聞こえてこなかった。すべては彼が殺されたことを示していた。この裏切り者の平安の日々は永遠につづくかと思われた。

 ケサルは、今度は托鉢僧に化けてリンにやってきた。彼はシンレンが山の上の牧草地で馬の世話をしているのを、また母がトゥマス(食べられる根)を集めているのを見かけた。

 正体を知らせずにケサルは母親に近づき、聖なる経典の言葉を誦するかわりにいくらかトゥマスをいただけないかとたずねた。母ルモ・ゼデンは托鉢僧に旅の目的は何かと聞いた。そして互いに挨拶の言葉を交わすと、彼女は言った。

「わが息子ケサルがこの国を出てからもう何年も過ぎてしまいました。息子は戻ってくるのでしょうか。どうかモ(占い)で占ってみてください。そうすればいくらかトゥマスをお分けしましょう」

「いいでしょう、やってみましょう」

 インチキ儀礼をおこなったあと、ケサルは言った。

「答えが出ました。トゥマスが入った袋を空中に投げてください。その落ちた場所にあなたの息子さんがあらわれるでしょう」

 ナーギー(竜女)はすぐにこの見知らぬ僧は自分の息子にちがいないと思った。彼女は息子が有能な魔術師で、何かに化けるのは彼にとって児戯に等しいことをよく知っていた。彼女が袋を空中に投げると、それは当然のことながら、その下にいた托鉢僧の足元に落ちた。

 この僧がケサルであるのは間違いなかった。それを確かめようと、訴えるような声で彼女は言った。

「あなたがケサルであるかどうか、おっしゃってください。息子といつかまた会えるのだろうかと、何年も私は泣きはらしてきました。どうして生きているか、死んでいるか、はっきりさせないまま過ごしてきたのでしょうか」

ケサルは母の悲しみと流す涙を見て心を動かされた。突然彼は、輝く甲冑を着て、天界の武器を携えた姿を現した。

 ナーギー(竜女)の心は喜びに満ちあふれた。しかしすぐに彼が不在の間に起こったことが脳裏によみがえってきた。ケサルはもはや国王ではないのだ。国はホルのクルカル王のものなのである。征服者の名を戴いて偉そうにしているのはトドンだった。

 おそらく息子はこうした悲しいできごとを知らないだろうと思い、彼女はホルパによるリンへの侵攻、ギャツァやほかの13人の将軍の死、クルカルによるセチャン・ドゥクモの連れ去り、ホル兵による略奪行為などについて話した。

 話し終えると、彼女はケサルに聞いた。

「あなたはいま何をしようとしているの? あなたは神の子であり、グル・パドマサンバヴァの使者です。自分で復讐ずるつもり? クルカルが奪ったものをあなたは取り返すつもり? それとも回復しようとせずにあなたもおなじ苦しみを味わうつもり? ああ、あなたが戻ってくるまでに、どうしてそんなに時間がかかったのかしら? 北の国に滞在するのは1年だったはずなのに、6年もいたなんて」

「たしかにその通りです、おかあさん。しかし私がルツェンを殺したとき、王妃である魔女も、将軍たちも、私が残るよう画策したのです。極上の食べ物を出すなど、至れり尽くせりでした。それと同時に悪魔の呪術によって、私の記憶は失われてしまったのです。私は自分がだれかさえ忘れてしまいました。今年、チェンレシグがまじないを解いてくれたおかげで私は記憶を取り戻すことができたのです。

 悲しい過去のことはもう考えないようにしましょう。クルカルは盗んだものをそう長くは保持することができないでしょう。おかあさんはどうか、テントに戻って、食事と寝床の準備を整えてください。私はおかあさんのもとに戻りますが、その前にシンレンと会う必要があります」

 竜女ルモ・ゼデンが行ってしまうとすぐ、ケサルは高貴な生まれの族長に変身した。そして何人かの従者や召使いの幻影を作り出した。こうして彼はシンレンを見かけた草原へ行った。そこに着くと、ケサルや幻影は馬から降り、召使いたちはお茶の準備をした。お湯が沸騰すると、ケサルは少し離れたところからシンレンを呼んだ。

「いやあ、お元気ですか? いっしょにお茶でもどうですか?」

 老人はやってきて、異国の偉い人に見える者に、丁寧にお辞儀をして、感謝の言葉を述べ、自分のためのお椀を持っていないことを詫びた。 [註:旅をするとき、自分の茶碗は携帯するのが習慣] 

「それはたいした問題ではないですよ。ひとつお貸ししますよ」

 彼が木製のお椀を渡すと、召使いが急いでお茶をそれに注いだ。

 シンレンはお茶を飲むかわりにその木椀をじっと見た。それはケサルが使っていたものとよく似ていたからである。彼の心の中に希望が湧き起こったので、自然と笑みがこぼれた。

 それを見ていたケサルはシンレンに聞いた。

「どうしてお茶を飲まないで、木椀を見て笑っておられるのですか」

「いや、あることを思い出したので」

 そしてシンレンは、リンの偉大なる王と呼ぶ者の子供時代の逸話のすべてを語った。英雄本人がその話を聞いているとは夢にも思わずに。

 ケサルがいかにして国王になったか、マギャル・ポムラの財宝の発見、国王の北の国への出発、ホルパの侵攻、およびリンの征服、そうした話を語った。それから彼自身の災難、ルモ・ゼデンの災難、トドンの残虐非道ぶり、そしてトドンが彼らの首領になっていることなどについて語った。そして木椀がケサルの木椀と似ていることは、ケサルの帰還の前兆だと結論づけた。

英雄ケサルは老人の話を興味深そうに聞いているように見えた。しかしシンレンが話し終えると、彼は言った。

「もしケサルが無事であったなら、そんなに長い間留守にすることはなかったでしょう。おじいさん、あなたにできることはマニのマントラをケサルのために唱えるだけです。ケサルがルツェンに食べられたのは間違いないでしょう」

 シンレンはこの言葉を聞いてがっかりした。この旅人はルツェンがケサルを殺すところを見たのだろう。あるいはその場面を目撃した人から話を聞いたのだろう。だから直接ではないが、確信を持って話しているのだろう。

 彼は泣き始め、首領にケサルの死を見たのかどうかたずねた。

「いや見ていません。でも確信しています。何年も彼の消息を聞かないのですから、死んだにちがいありません」

「もしそうなら、望みはありませんな」と言って老人は泣き崩れた。

 ケサルはシンレンの悲嘆に暮れる姿を見ていたたまれなくなった。

「さあ、もう遅い時間になりました。馬を集めてください。馬を厩舎に入れる前に、もうひとつあなたにお話ししたいことがあります」

 老人は諾々としたがった。馬を連れて戻ってくると、見知らぬ男のかわりにそこにいたのはケサルだった。シンレンが知っている姿そのままのケサルだった。

 感極まったシンレンは、同時に泣き、笑い、千もの支離滅裂なことを口走りながら、ケサルの衣にしがみついて離そうとしなかった。

「わが親愛なる父よ。どうかトドンのもとに戻ってください。数日のうちにまたお会いしましょう。しかしそれまでは私と会ったことを他言しないでください」

 シンレンはだれにも話さないと約束した。しかし努力したにもかかわらず、失意のどん底のままでありつづけることはできなかった。トドン自慢の駿馬に乗って、目を輝かせ、頭を高く上げて、静かに笑いながらトドンのもとに戻った。

 屋上のテラスにいたトドンは、戻ってくるシンレンの様子が遠目にもがらりと変わっていることに驚いた。

 シンレンに何が起きたのだろうか、と彼は自問した。あんなに誇らしげで、喜びに満ちた顔をしているとは。唯一考えられるのは、ケサルの帰還だった。ケサルは戻ってきたのだろうか? きっとそうだろう! ああ、もし父親とみなした者をおれが馬の世話係にしていることを知ったら、前の国王は何と思うだろうか? 

 トドンは勇猛さとは無縁の人間だった。どんな悪しき行為をしても、責任を取ろうとしない性格の持ち主だった。ケサルが戻ってきて彼を罰するかもしれないと思うと、恐怖ですくみあがった。逃げることしか彼の頭にはなかった。意を決して彼は階段を駆け下り、兄弟に会いに行った。

 精一杯愛想を作って、トドンはやさしく語りかけた。

「兄貴(アジョ)、この馬どもの世話をさせて本当に心苦しく思うよ。どうか怒らないでくれ。おれはそんなにたくさんの召使いを持っていないし、あいつらは忙しいんだ。でも馬をほったらかしにすることもできんし。でもこれだけの馬の世話をしたらさぞ疲れることであろう。将来は家でゆっくりしてほしいと思っているさ。まあいまはおれの部屋でくつろいで、お茶でも飲んでくれ」

 トドンは兄のシンレンを部屋に入れ、幾重にも積み重ねた座布団に座らせた。そして彼をまっすぐ見ながら言った。

「兄貴(アジョ)、あんたの服は山の上ではいいかもしれないが、家の中ではよくないな。兄貴にはおれとおなじような服を着てほしいものだ。まあなにしろ兄弟だからな。おれと同等の生活を送ってもらいたいんだ」

 彼は妻に命じて絹の服を持ってこさせ、シンレンに着せた。

 三日間、トドンのはからいによって、シンレンは特別扱いを受けた。何から何までシンレンが気に入るような心遣いがなされた。食事時には、とてつもなく大きな煮た肉が出され、お茶にはたっぷりとバターが使われ、好きなだけお酒がつがれた。

 帰ってきたケサルは養父を見て、厚遇されていると思うにちがいない、と狡猾なトドンは考えた。彼はケサルに寛容な処置をとってほしいと願っていた。というのも、彼は敵のホル王と関係が深かったからである。

 しかしながら、ケサルは姿を現さなかった。トドンは困惑した。兄が抑えきれなかった喜びの原因はケサルとは関係なかったのではないか。そう思い、彼は兄シンレンに直接聞いた。

「兄貴(アジョ)、数日前、あんたは馬に乗って戻ってきたとき、とても喜んでいるように見えた。あれは、ケサルが帰ってきたからなのか?」

 シンレンはケサルからしゃべらないようにと命じられたことを思い出した。同情的な口調で彼は言った。

「ああ、わしは何にも知らんぞ。ケサルがいなくなってから何年たつんだろう。もう死んでおるにちがいなかろう。ときどき悲しくてたまらなくなることがある。トドン王よ、あまり気にされますな。わしも知らず知らずのうちに笑ったり、何かをしたりしておるのでな」

 これはありうることだと、トドンは考えた。大きな悲しみに遭ったとき、人は半ば狂人のようになってしまうものである。この馬鹿者もそうなのだろう。おれもばかなことをしたものだ。ケサルがすぐにでも帰ってくると信じ、こいつに国王のためのようなごちそうを食わせ、わが豪華な部屋でもてなし、もっとも美しい着物を着せてしまった。

 怒りがふつふつと、こみあげてきた。自分がまぬけだったことに気づいたトドンは、もはや抑えきれず、シンレンが着ていた服をびりびりと破り、座布団から蹴っ飛ばし、激しくののしった。

「乞食め! この愚か者め! おれの許可なくおれの愛馬に乗りおったな! おれの犬といっしょに門に縛りつけてやるわ! 犬のエサでも食ってろ!」

 彼はみじめな兄をたたきだし、門の横の番犬の隣の杭にくくりつけた。

 ケサルはこの瞬間を待っていた。シンレンが鎖につながれて1時間ほどたった頃、光り輝く甲冑を身にまとい、すべての神聖な武器を持った英雄がこのクルカル王の家来の家の前に現れた。

 トドンの妻カルツォク・セルトクは、このことを知らせるために急いで家の中に駆け込んだ。

「ああ、これで破滅だ!」とトドンは叫んだ。「おれの推測は正しかったのだ。シンレンはケサルの帰還を知っていたのだ。それなのにケサルに養父が犬の近くにつながれている姿を見せることになるとは」

 彼は一瞬、逃げ出そうと考えた。しかし、遅すぎた。英雄ケサルの馬はちょうど家の前に止まったところだった。みじめな臆病者にできることといえば、どこかに隠れることだけだった。妻に、主人は留守だと言え、と命じて、急いで服を脱ぎ、部屋の隅に持っているすべての衣類を投げ、素っ裸のまま這ってもぐりこんで、小麦粉や穀物を入れる大きな皮袋のなかに身をひそめた。

 その間にトドンの娘はつながれていたシンレンを解き放った。ケサルはシンレンがそこにいるのを気づかないふりをした。妻カルツォク・セルトクは夫が隠れている袋の口をゆるやかに閉めて、あわてて階段を降りて、玄関に出て、ケサルに白いカタ(スカーフ)を渡しながら歓迎した。

「どうぞ二階に上がってくださいまし」

 部屋に入ると、ケサルはトドンは在宅かとたずねた。

「どうぞ座布団にお座りください。クショー(主人)はいまホルのほうに行ってまして、留守です。さあ、お茶でも飲んでくつろいでください」

「それはどうも」

 ケサルはそれ以上何も言わずに、卓の上に出されたものをもくもくと食べ、飲んだ。そしてつけくわえた。

「私は遠くからやってきたので、とても疲れています。ですから隣接している平原に面した東屋(あずまや)に泊めさせていただきたいのです。寝床は自分でしつらえます。それは柔らかいほうがいいですからね。よく眠れますから」

「どうして東屋がいいのですか。そこはとても汚いのです。何匹かの山羊をしばらくそこに入れていましたから。どうかこちらの母屋のほうに泊まってください。白檀の寝台の上で眠ってください。それはクショー(主人)の寝台です。あたしが布団の準備をしますから。とても寝心地がいいと思いますわ」

「いえいえ、そんな。どうしたらそんなことができましょう。トドンはタムディン(馬頭明王)の化身です。もし聖なる寝床に足を置くような不敬を働いたら、私はたいへんな災難に見舞われてしまうでしょう。……おや、ごらんなさい。この袋なんかちょうどいいではないですか、敷布団に」

 人の意見を聞く様子はなく、ケサルはいくつかの袋を床に敷き始めた。

「その(袋の)口がしまっているかどうか、注意せねばなりませんね。あいていたら、なかのものが逃げてしまいますから」

 そう言いながらケサルはトドンがなかに入っている袋の口をきつくしめた。それから彼は袋をつかむと、左右にぶつけながら階段をひきずって下まで降ろした。そして中庭に召使いを見かけると呼び、ほかの袋を運ぶよう命じた。

 小さな東屋に着くと、ケサルはまず床を掃除した。そして袋をのばして寝台のような形にした。とくにトドンが入っている袋は丁寧にのばした。寝床ができあがると、彼はその上に横たわり、手足をのばしながら敷布団を叩いた。

 夜の間、ときおり寝床に蹴りを入れるたび、トドンは自分が置かれている状況を思い知らされた。うとうとすると、まるで置かれた状況を忘れることができるような気がしたが、動きがとれず、窒息しそうになった。そこで彼は袋の皮を爪でひっかいて裂け目をつくり、なんとか息をすることができた。

 夜が明けるやカルツォクと娘は数人の召使いを従えて、ケサルのもとにお茶、バター、ツァンパ、干し肉、ヨーグルトなどをもってきた。

 このふたりの女は、不安のあまり一睡もできなかった。もしトドンが袋から出てこられなかったら、そしてもしケサルの赦しが得られなかったら、ケサルに早く出発してもらって、最低でも家から出てもらって、はからずも囚われの身となったトドンを救出しなければならないと考えていた。

 しかしケサルは、供されたごちそうを感謝し、ことさらゆっくりと、一口たべてはおしゃべりを楽しんだ。トドンが地獄の苦しみを味わっていることに、気づいていないようだった。

 ようやく朝食を終えると、彼はカルツォク・セルトクへ向かって言った。

「履物に穴があいてしまいました。皮と糸と2本の針をいただけませんか。新しいものを自分でこしらえるつもりです」

「そんな面倒なこと、なさらなくても大丈夫ですよ。しばらくお茶を飲みながら、ごゆっくりしてください。そのあいだにあたしが履物を修理いたしましょう」

「姉御さま(アジ・ラー)、なんということをおっしゃいますか。あなたはトドンどのの奥方ではありませんか。わが汚い履物に触らせるわけにはいきません。絶対に! どうか私が望んだものだけを用意してください」

 もっともなことだったので、彼女は従うしかなかった。

 針を受け取ると、ケサルはその先端が研がれているかどうかたしかめようとした。

「この針、皮をちゃんと貫くでしょうかね」

 そういって彼はトドンが入っている皮の袋に針をぶすぶすと突き刺した。

 トドンは絶叫したかったが、懸命にこらえた。しかし体をこらえることはできなかった。ケサルは驚いて飛び跳ね、皮袋を見つめながら叫んだ。

「なんという驚き! これは奇跡でしょう! 穀物袋が動くなんて! 見てください! これはホルの悪魔にちがいありません!」

 そしてケサルは棒を手に取り、何度も、何度も、皮袋を叩き始めた。

 さすがに今度はケサルも叫び声をあげずにいられなかった。

「ああお許しを、お許しを。どうか、殺さないで……」

 カルツォク・セルトクと娘、召使いらはみなケサルの足元に身を投げ出して、袋の中のみじめな者をこれ以上痛めつけないように懇願した。

 ケサルは坐りなおして、落ち着くと、命令を下した。

「なかの者を袋から引きずり出せ」

 彼らはあわてふためいて命令に従った。監獄のごとき袋のなかから、鬱血して、窒息しかかった、太鼓腹の素っ裸の男がふるえながら引きずり出された。

「みじめな悪党め。うそつき、ペテン師、臆病者の詐欺師め。おまえごとき、生まれ出ないほうがよかったわ。おまえのような人間は純粋な仏法に従順に生きていくことなど不可能だ。畜生と変わらないだろうよ」

 彼は人々に命じた。

「この男を縛り上げよ。そして牢屋に閉じ込めよ」

 国の首領として、トドンは家の中に牢屋の代わりとなる厚い壁の、扉も堅固な独房を持っていた。彼は召使いたちによってその部屋に閉じ込められることとなった。

 ケサルは一夜を過ごした東屋を出て、トドンの家に戻った。今度はトドンの寝台でくつろぐことができた。美しい座布団の上に足を投げ出すこともできた。タムディン(馬頭明王)の化身のことをいっさい気にかける必要がなかった。

 その夜、英雄ケサルは安心してすやすやと寝ていると、突然部屋全体を明るくするほどのまばゆい光によって起こされた。光の中に、宝石で縁取られた、神秘的な5つのブッダの像を戴いた頭飾りをかぶったマネネが立っていた。

「ケサルよ、われはドルマ(ターラー女神)である。われの言葉を注意深く聴け。トドンを牢屋に入れたままにしてはいけない。なぜなら、トドンはタムディンの化身だからです。その力は強大です。彼の扱い方には万全の注意が必要です。彼はあなたのために大いに役立つこともあれば、道を邪魔することもあります。彼を解放するのがもっとも賢いやりかたでしょう。

 一刻も早く、あなたはホルへ向けて出発しなさい。クルカルへ通じる道は危険きわまりません。獰猛な悪魔どもによって守られています。ゆっくりと、一歩ずつ進んで行ってください。行く手を遮る者は、ひとりずつ退散させねばなりません。クルカルとふたりの兄弟、クルナクとクルセルは、ホルパの三王ですが、彼らは仏法とそれに従う者を滅ぼす決心をしています。もし彼らがあなたによって殺されなかったら、世界から善き法が消えてしまうことになるでしょう。あなたの使命は仏法を守ることなのです」

 夜が白々と明ける頃には、マネネは消えていた。

 ケサルはトドンの妻を呼び、夫を連れてくるよう命じた。解放されたトドンは手にスカーフ(カタ)を持って現れた。トドンはカタを英雄ケサルの献上し、習慣通りに丁寧にお辞儀をしたものの、とくに悔恨の意を示すというわけではなかった。この老いたならず者は、自信を取り戻していたのだ。

幽閉期間中彼はじっくりと考えた。そして結論を導き出した。リンの王は彼を死刑に処さなかったし、鞭打ち刑すら課さなかった。つまり彼がこれまで経験した困難以上の困難はないだろうと踏んだのだ。

「どうしておまえはあんなひどい仕打ちをして、閉じ込めたんだ、甥っこよ」とたずねて、笑い始めた。

 ケサルは厳しい口調でこたえた。

「悪い行いをしたものは、罰せられるものです。悪しき者は苦痛の地獄に落とされるのです。よく考えてみてください。それにもかかわらず、今日、あなたに自由を取り戻させました。族長や戦士を招集して最高会議を開いてください。私は彼らに話すつもりです。

 トドンは各地に命令を発した。召使いたちは大門の上に立って太鼓を叩いた。そして壁という壁に軍旗を立てた。

 トドンの家を建てるのに人員を要する、という理由もある程度は考えられた。しかしそれだけのために、こんな大掛かりな招集が必要だろうか、とだれもがいぶかしく思った。人々はまだケサルが帰還したことを知らなかった。

 それだけにケサルの姿をはじめて見たとき、彼らは喜びをおさえることができなかった。もはやだれも疑わなかった。復讐の時がやってきたのだ。

 族長たちとともにやってきたのは、500歳ともいわれる最長老のチポン・ギャルポだった。彼は黄色い絹の衣を着て、羽毛とルビーで飾られたモンゴル帽をかぶっていた。歩くときには黄金の杖にもたれかかった。彼は裕福であるとともに、賢い人物でもあった。彼は集まった族長たちが勝手に話すことを理解したので、だれからも尊敬された。

 彼は宝石を集めてケサルに捧げた。そして長い不在の理由を問うた。そしてリンで起こった一連の不幸なできごとについて、またホルの三王の軍隊による虐殺を防げなかった人々の悲しみについて語った。

 チポン・ギャルポの話を聞いたあと、彼らを勇気づけるために、指令を出した。

「マネネが昨夜、私のもとにやってきた。グル・パドマサンバヴァや神々はわれらとともにある。神々がいま、口をそろえてホルへ攻めろとすすめている。おまえたちは囚われの王妃セチャン・ドゥクモを取り返さなければばらない。取り戻すことができれば、それは最上の前兆といえるだろう。

 クルカルをはじめとするホル王三兄弟は、大臣たちや魔物の軍隊とともに、皆殺しにしなければならない。もし彼らがこの世に生き残ったら、仏法やそれを信仰する人々が生きていくことはできないだろう。

 すべての者が、いますぐ準備にとりかかれ。明日の明け方には出発するぞ。

 この族長たちと戦士たちはみな遠征に参加することになる。他の者たちは参加することができない。彼らは家畜や女子供とともに居残ることになる」

 チポン・ギャルポはたずねた。

「族長は例外なく参加しなければならないのか?」

 ケサルはしばらく考えた。

「いや、残ってもらう者もいる。第一にわが父だ。あなたは私とともに遠征するには年を取りすぎているだろう。その他の人々のなかでも、チャイキュ・コンパタギャルとセルワポンポにはいっしょに来てもらう。彼らは100の騎馬兵を連れて行くだろう」

 集会が終わると人々はちりぢりになり、それぞれのテントに戻っていった。一日の残りは、女たちが糧食や必要なものを詰める間、兵士たちは武器、衣類、馬の蹄鉄などを揃えるのに費やした。

 翌朝早く、人と馬から成る小さな軍隊がリンを出発した。同日の夕方には、彼らはホルの最前線に着いた。