6章 

 リン国とホル国の境目の目印となっていたのは、ホル・コンカルタオ峠にあるラツェ(石積みのケルン)である。ケサル王と彼の兵隊が斜面を登ると、目の前に現れて行く手をはばんだのは巨大なドン(野生のヤク)だった。獣は彼らが来るのを待ち、じっとそちらを見ていた。その巨躯は山ほどもあった。角は銅でできていて、周囲に炎を放っていた。その尾は屹立して怒りを表わし、暗い雷雲のように天空に掛かっていた。

 ケサルはこの特異な生き物が魔物であることを悟り、人間の武器で戦うのは無意味であると思った。彼は自分の小隊に止まるよう命じた。

「ここにいてくれ」とケサルは彼らに言った。「こんな怪物と戦うのはおまえたちの仕事ではない。パドマサンバヴァの代理である私こそが神々の助けを借りてこの怪物と戦い、わが魔法の武器で殺すべきだろう」

 兵士たちは馬から下りて、馬をつなぎ、地面に坐りこんだ。ケサルは愛馬ギャンゴ・カルカルに乗って天高く舞い、守護神に聞こえるよう鬨の声を発した。

 すぐにトゥン・チュン・カルポ、ミタル・マルポ、ルトゥグ・ウーセルの3神が現れた。彼らは母であるナーギー(竜女)の頭や両肩から生まれたケサルの兄弟だった。ラ・ツァンパ・ギャルジンも彼らといっしょだった。それぞれが投げ縄を持っていた。

 トゥン・チュンは獣の右側に、ミタルは左側に、ルトゥグは前方に、ケサルは後方に構えた。ラ・ツァンパは角の上の空中にとどまった。彼らはみな各自の投げ縄を抛った。ラ・ツァンパは怪物の頭を取り押さえ、トゥン・チュンは右前足を、ルトゥグは左前足を、ケサルは右後足を、ミタルは左後足を取り押さえた。それから彼らは一斉に縄で引っ張った。動物は半狂乱になって抜け出そうとしたが、一歩も動くことができなかった。

獣の上に、大きな岩があらゆる方向からふりかかってきた。大地が揺れ、内なる雷が解き放たれたかのように轟いた。最後には体中の骨が砕け、山が沈み込んだかのように魔物は崩れ落ちた。

 100の馬に乗った男たちは峠のほうを見ていた。彼らは獣が崩れ落ちる姿を見ていた。ケサルが彼らを呼ぶのを見ていた。彼らはケサルのもとに馳せ参じた。彼らは剣と槍を持っておぞましい獣ドンにとどめを刺した。それから彼らは皮をはぎとり、肉を一同に分け与えた。

 彼らは峠を越え、向こう側の坂を下り、小川がくねり流れる麓の赤い岩の近くの草が生い茂る谷間にテントを張った。

「火をつけるな」とケサルは言った。「こちらの意図に関係なく煙が流れて、われわれの到来をホルに知らせることになってしまうからな。食べるのもつつしむように。もし食べたら、今度は喉が渇いて、水が欲しくなってしまうだろう。渇きをいやすために小川に行くことだろう。そうすると赤い岩にいる悪霊がおまえの上に降りかかってきて、おまえを食べてしまうだろう」

 翌日の夜明け前、ケサルと4人の族長は他の者を残して偵察に出た。

 峠に着いた彼らの前に、ドルジェ・ツェグ山(9峰の金剛杵)があらわれた。何年か前、リン国が戦いに敗れたあと、セチャン・ドゥクモはホル王クルカルに連れ去られた。そのとき彼女は聖水を入れた水瓶をいくつか持ち出し、岩の割れ目にそれらをひそかに隠したのだった。ケサルはきっとこの水瓶を見つけるだろう。それは吉兆であり、つまりケサルはクルカル王のホルを征服し、自分もリン国に戻ることができるだろうと彼女は考えたのである。

 そのときセチャン・ドゥクモは夫のことを深く愛していたし、一日も早く帰国することを望んでいた。しかし長い年月がたつにしたがい、そうした彼女の感情にも変化があらわれるようになった。彼女は誘拐者であるホルの強き王を好きになってしまったのだ。そして王とのあいだに男の子をもうけた。ケサルの帰還を望むどころか、ルツェンとの戦いのなかで死んでしまえばいいのにとさえ考えるようになった。そうすれば心は休まり、いま享受している平安をケサルに乱されることもないだろう……。ドルジェ・ツェグ山に隠した水瓶のことは、彼女は覚えてさえいなかった。 

 山が近づくにしたがい、ケサルはその千里眼によって、水瓶の存在を知ることができた。彼は馬から下り、兵士たちに命令して水瓶を取りに行かせた。

「見るがいい」とケサルは遠い地点を指差した。「白い岩の近くに青味がかった岩があるだろう。そのあいだにボムパ(水瓶)があるはずだ。私はここで待っているので、わが馬を使ってそこまで行き、水瓶を馬の鞍に結び付けて戻ってきてくれ」

 4人の族長は指示されたとおりの場所へ行き、水瓶を見つけると、それらを馬の鞍に載せ、来た道をたどって戻ってきた。しかし彼らが戻るとき、クルカルは宮殿にいながらもそれを感じ取ることができた。クルカル王はそのことを指摘しながら近くにいる者たちに言った。

「赤褐色の馬を走らせながらやってくる者どもはだれなのか」

 すべての家来たちは窓から外を見た。ディクチェン・シェンパはその馬がケサルの馬であり、ほかの男たちがリン国の族長たちであることがわかったが、じっと黙っていた。

 ディクチェン・シェンパの仲間である大臣トーナチグもまた、同様に旅人たちがだれであるかわかった。

「彼らはリン国の族長たちです」と彼は宣した。「それに馬を引いている者をわたくしは個人的にも知っています」

 セチャン・ドゥクモも窓際に近寄り、山のほうを見ながら、叫んだ。

「ああ、あれはケサルの馬よ! ケサルが戻ってきたのだわ!」

 突然彼女は恐くなって口をつぐんだ。なぜなら彼女は夫の並外れたパワーと復讐をおそれたからだ。

「馬が何を運んでいるのか、わかるかね」とクルカル王は彼女に聞いた。

 ドゥグモは彼らが来た方向から、彼らがドルジェ・ツェグ山を越えてきたにちがいないと考えた。そこにボムパを隠したことを彼女は思い出した。そのことについては述べたが、なぜそうしたかについてはいっさい触れなかった。

 クルカルは悩ましいことだと考えた。

「どうしておまえはこの水瓶のことを言わなかったのだ?」と彼は彼女に問い詰めた。「知っていればここに運び入れただろうに。おそらくケサルがおれにたいして狙いを定めるような魔術でも仕込んでいるにちがいない」

 大臣らは国王にすぐ兵を出し、周囲の高みすべてに警護を置くよう進言した。というのも、まもなくリン国の軍隊が姿をあらわすだろうと予測したからだ。しかしクルカル王はそんな拙速な行動は慎むべきだと考えた。

「リンの人々全員がわれわれを攻撃すべきだとかんがえているわけでもあるまい。おそらく方法はともあれ、山に置かれていたボムパを取りに来ただけなのだ。ひそかに彼らのあとを追うだけでいいだろう」

 彼らがそうやって話し合っているあいだに4人の族長たちは視界から姿を消し、ケサルに追いつこうとしていた。

 ケサルがいないあいだ、兵士たちは24時間以上も何も食べていなかったので、不快な状態に置かれていた。彼らの胃は火の上に置かれているかのように燃えていた。それにもかかわらず彼らはケサルの命令に違おうとはしなかった。

 トドンとカダル・チョグニエという男だけが英雄のテントに残り、彼らの仲間たちと同様にひもじい思いをしていた。ふたりとも自分たちの不運を嘆き、神を呼んでその窮状を目撃するよう祈った。太って欲深いトドンはもう耐えきれないと思った。

「ケサルのツァンパ袋に乾燥クリームが入っているはずだ」と彼はカダル・チョグニエに言った。「食べようじゃないか」

「なんと恐れ多いことを考えているのだ」と聞かれた側はパニック気味にこたえた。「われらの王はなんでもお見通しだ。われらの不忠実と窃盗はすぐにばれてしまうだろうよ。王があんたの言ってことを知っているのはまちがいねえ」

 そう言って、まるでケサルか神々が現れて罰するのを恐れるかのように、カダルはキョロキョロとあたりを見回しながら、ぶるぶる震えはじめた。

「へえっ!」とトドンはこたえた。「汝は臆病者なり! 王はもはや千里眼など持っておらぬ。おれ以下だね。女房がクルカル王に連れ去られたとき、王がルツェンの国をウロウロしていたことを知っているだろう」

「まあたしかにそうですな、首領さま」とカダル・チョグニエはこたえた。「ケサル王さまは気づいておられないでしょう」

「じゃあテントに行って袋を取ってくるとしよう」

 トドンから無理強いさせられたわけではないが、それ以上に彼は腹ペコを抑えることができなかった。袋はあけられ、乾燥ミルクはむさぼり食われた。ふたりはたらふく食うと、満足し、毛布にくるまって深い眠りに落ちた。

 夜中になって彼らは喉が渇き、目覚めた。

「小川まで行って水を汲んできてくれないかな」とトドンは言った。

「そんな!」とカダルは叫んだ。「赤い岩で待ち構えている魔物のことを忘れてしまったのですか? そこに近づいたら私はペロリと食われてしまうでしょう」

 トドンは戦士として水を汲みに行く勇敢な行為について力説したものの、説得は失敗に終わった。トドンを喜ばせたいのはやまやまだが、命をかけてまで魔物と面と向かい合うほどではないとカダルは考えた。

 トドンは勇敢さを売りにはしていなかった。自分自身が危険な場所へ近づこうとは思わなかった。彼はふたたび毛布をひっかぶり、なんとか眠ろうとした。しかしカダルよりも彼のほうが我慢弱かった。腹が減って気分が悪くなった彼は確信に満ちた声でカダルに言った。

「行こう! おれはタムディン(馬頭明王)の化身だ! 魔物もおれを襲おうなどとは思わないだろう。それにおれ様の魔法の力をもってすれば、やつらなんて一発でたたきのめしてやるぜ」

 上司の主張を鵜呑みにしたカダル・チョグニエは、そのあとをついていった。小川の岸辺に着くと、彼らをずっと見ていた悪魔シェリゴンチェンは投げ縄を投げ、ふたりとも捕えた。悪魔は上方にある洞窟に向って彼らを投げ飛ばしながら、上がっていった。岩の表面を引きずられ、叩きつけられ、跳ね返り、肋骨はバキバキに折れたことだろう。

 絶望的な叫びは遠く野営地まで響いた。だれもが岩の魔物の餌食になった者からの叫びであることがわかった。しかしだれも助けにいこうとしなかった。助けに行けば自分もおなじ運命に陥ることが火よりも明らかだったからであえる。

 そのあいだも、夜ではあったが、満月のふんだんな光の恵みを受けて、ケサルは野営地に向って歩を進めていた。そのときに絶望の叫びが聞こえてきたのである。ケサルにはその声の主がトドンであることがすぐにわかった。トドンは私の乾燥クリームを食べ、小川に水を飲みに行き、そして岩の魔物の餌食になったに違いない、とケサルは考えた。

 電光石火の速さでケサルは彼の3人の兄弟がいる天国へ行き、そこで雷電を得ると、岩の上にそれを落とした。岩は即座に粉砕された。

 シェリゴンチェンとふたりの犠牲者は粉々になった岩の破片のなかに投げ飛ばされた。ケサルは駿馬に乗って天空から下降し、鷲のような威厳さでもって地上に触れた。魔物はケサルに気づくやホルの国のほうへ逃げようとした。英雄は魔法の槍を手に持ち、そのあとを追った。逃げられないと思ったシェリゴンチェンはケサルに向って投げ縄を投げたが、はずれた。ケサルは魔物に向って高らかに笑った。

「われこそは」とケサルは言った。「リン国の王、宇宙の統率者にして神の一族に属するケサルである。手に持つ槍はこの世界に類するものがないものである。これによって即座にそなたをかき切ることができるだろう」

 そう言い放つやいなや、彼は槍を振りおろし、この怪物を一刀両断した。

 英雄はそれから野営地に戻り、男たちに言った。

「ここはホルからは死角になって見えない。だから火をつけ、お茶を作ろう。あなたたちはもう安全なので、小川まで降りて水を汲んだらいい」

「おお、なんという尊い王様!」とリン国の人々は口々に叫んだ。「なんという偉大なる力をお持ちであることか! あなたがトドンとカダルをお救いになった時宜のなんとすばらしいことか! あなたがいなければ、彼らは死んでいたに違いありません」

「あなたがたに食べないように忠告したのは、喉が渇いて水を飲もうと小川に近づくことがないようにするためではなかったのか」とケサルは厳しく言った。「しかしこの愚か者のふたりは約束に違反し、わが革袋をあけてなかの乾燥クリームを食べた。この悪しき行いにたいする代価はすぐ払うことになったのだ。これからも私の命令に背いた者は厳しい罰を受けることになるだろう」

 それから人々は火のまわりに集まり、お茶を飲み、ツァンパとバターを食べた。トドンとカダルはといえば、テントの片隅に追いやられ、立つこともできず、体中の骨という骨に痛みを感じながら、彼らの貪欲が起こした屈辱をじっと耐えなければならなかった。

 翌日、人々は食べたりくつろいだりしながら一日を過ごした。その夜、ケサルは族長たちをテントに呼んだ。

「われわれはホルの都に向って行進しているわけだが」とケサルは言った。「しかしみながいっしょに出発するわけではない。私が先に行くことになるだろう。峠の向こう側は急な下り坂になっていて、大きな川の岸にいたる。そのあたりには邪悪なものどもがはびこっているのだ。だから私が先に行ってそれらを滅ぼす必要がある。おまえたちの手には余るしろものだからな。

 みな、ここに残れ。出発の準備はしろ。もし空に白い虹を見たら、急いで私のところへ来るのだ。このしるしは、道路に障害物がないことを示している」

 ケサルは翌日の未明に出発した。野営地から見えない地点まで来ると、ケサルは背中に太鼓をつるした巡礼の僧に化けた。彼はまた馬や騾馬、ヤクといった動物の群れを作り出し、商品をそれらに載せ、ケサルはそれらを追い立てながら歩いた。

 川の畔に着くと、彼は渡し場で止まった。そこには皮の舟があり、旅行者を川の向こうへと運んでいた。彼は動物から荷を下ろし、彼自身と商品を渡す許可を求めた。

 そこには小さな村があり、128人の船頭が住んでいた。彼らがひどく驚いたのは、たったひとりの男がそれだけの多くの動物を運んでいる点だった。なかにはこのこと自体があやしいと思い、ケサルがルツェンを退治したあと、ホルをも征服しようとしていると聞き及んだ者もいた。彼らはこう付け加えた。

「この奇妙な坊主が変装したケサルなどでないように」

 数人の男が僧のもとに駆けより、問いただした。

「坊さんよ、あなたはどこから来たのだね? お国はどこかね」

「私はツァンの生まれの者です。尊いラマ、オセル・ギャルツェンの弟子でございます」と僧に扮したケサルはこたえた。「クルカル王さまはとても慈悲深い(ジンタク)お方とうかがっております。わが師は国王さまから贈り物をいただきました。そのお返しのさまざまな贈り物をお届けするのが拙僧の師から与えられた役目でございます」

 ラマ、オセル・ギャルツェンの名はホル人のあいだでもよく知られていた。しかし船頭のひとりが疑問を呈した。

「尊いラマ、オセル・ギャルツェンさまはとても裕福で、権威の高いかたであられるぞ。その使者が従者もなく、ひとりで旅をするのは奇妙ではないか。ただで乗せるわけにはいかないからな。おまえはいくら払ってくれるのだ?」

「わたしはひとりではありません」とケサルは言った。「わたしはほかの者たちより先に着いただけのことなのです。このあと8人の大商人がやってきます。この者たちがすぐにやってきて、それなりの御代を支払うことになるでしょう」

 船頭らはこの回答に満足しているようだった。

「よかろう」と船頭は言った。「頭(かしら)に聞いてくるから、待ってろよ」

 船頭はオセル・ギャルツェンが送った隊商が到着したことを継げるため、頭のサンギェス・チャブを探しに行った。

 サンギェス・チャブは、ケサルが地上に降りる前の天界で友人だったドゥブトブ(霊力をもつ聖人)のトゥルク(化身)だった。パドマサンバヴァが主宰する会合でも、ケサルと彼自身の転生の手助けをした。彼はまた英雄によってホルが征服されるという予言を知っていた。しかしこのたくさんの動物を率いているラマが戦略を実行しているケサルその人であるかはわからなかった。

「私自身がこの目で見てみよう」と彼は船頭に言った。彼は渡しの人々を連れて川岸まで歩いていった。

 丁寧なあいさつを交わしたあと、ケサルはすでに船頭たちに話したのとおなじ話を繰り返した。サンギェス・チャブは注意深く聞くふりをしながら、話し手の様子をしっかりと観察した。眉間に小さな白い輪があり、そこからお香のような一本の毛が生えていた。それはケサルが生まれたとき、母親が親指でつけた第三の眼のかすかな痕跡にちがいなかった。この徴(しるし)は魔物に属する船頭たちには見えなかった。しかしドゥブトブにはその明澄な目でもってはっきりと見分けられたのである。そして目の前にいるのがケサルであることがわかり、彼は内心うれしくてしかたなかった。

「問題ないですね」と表に感情を一切出さずに彼は言った。「あなたも荷物や動物も、すべて船頭たちが川の向こう側に運んでくれるでしょう」

 男たちが荷物を舟に忙しく載せているあいだ、ケサルは食べ物を求めた。サンギェス・チャブはケサルを自宅に招き、お茶や麦酒、煮た肉、バター、ツァンパでもてなした。サンギェスは船頭たちがみな魔物であることを知っていることに気づいていた。だがケサルがどうやって目的を達するかについては皆目見当がつかなかった。

 このあいだにも128の船頭たちが128の舟に荷物を載せていた。積み終えると、彼らは舟を漕いで岸を離れた。ところが川の中央にさしかかると突然強風にあおられ、舟はひっくり返り、船頭たちは川に投げ出された。強い流れに引きずりこまれ、魔物たちは溺れ死んだ。

 その瞬間リンの野営地に白い虹がかかった。

 ケサルとともにいたサンギェス・チャブは、ケサルが食事をすましたあと、惨状を目の当たりにした。

「個人的にはあなたが神であり、ケサルであると信じています。しかしどうして船頭たちを殺したのでしょうか」

 この言葉を受けて本来の姿にもどったケサルはこたえた。

「私にはホルを滅ぼすという使命があるのです。私は今日の来た道を進んでいきます。だれも私を止めることはできません」

 そして動物を含むすべての幻影が消え、川のほとりに残っているのはケサルとその愛馬だけだった。

 それからまもなくして、リンの男たちは族長と再合流した。そしてサンギェス・チャブはケサルが多くの勇敢な馬上の男たちに囲まれているのを見て喜びに満たされた。

「リンの勇者たちよ」とケサル王は男たちに言った。

「わたしはいま、この川のほとりに住む悪しき者どもを滅ぼした。道は完全に自由である。とはいえ千里眼をもつ者たちによればホルパ(ホルの人々)は厳戒態勢に入り、われわれを攻撃する準備を整えているという。

おまえたちの姿を見せるのは得策ではないだろう。だからリンへ戻るべきだ。このサンギェス・チャブとともに戻り、ホルとの違いを見せてやってほしい。そうすれば私の帰還をはばむこともないだろう。私はひとりでホル征服の事業を成し遂げるつもりである」

 王の命令に従い、馬上の者たちは帰途に着いた。彼らが視界から消えるやいなや、ケサルは愛馬キャンゴ・カルカルに乗り、ひととびで川を越えた。そのまま進んでいくと、クルカル王の宮殿の前に広がる平原に出た。そこは王の馬が草を食むための草場だった。庶民がそこにテントを張るのは禁止されていた。

 平原に入る前に、ケサルは魔術を使って人々、動物、荷駄を創出し、隊商を成した。それには僧侶や貴族、商人と従僕などの姿が見られた。また荷駄には、おびただしいテントも含まれた。馬や騾馬の数は2500を下らなかっただろう。

 この巨大な隊商は谷から湧き出てくるかのようだった。宮殿の前の平原を満たし、山脈の麓にまで広がっていた。

 平原の盛り上がったところを占めていたのはラマたちのテントだった。それらは白く、二重屋根になっていて、青や赤の唐草模様の刺繍が施されていた。

そのやや下には集会用のテントがあった。そのテントには金の宝幡(ギャルツェン)がかぶせられていた。

 その下には貴族のテントが建てられた。それらのなかには厚い座布団が敷かれ、その上に虎や豹の皮の敷物が広げられた。

 従僕たちの区域はその近くの一角を占めていた。

 さらに下って平原を流れる小川の近くの岸辺に近づいたところには、商人たちの大きなテントが並び、それぞれ商品がぎっしりとつまっていた。

 商人の従者たちの区域もその近くにあった。

 小川にもっとも近い区域には、貧しい巡礼者や隊商にくっついてくる乞食たちのための避難用テントがあった。

 それぞれの野営地に、女性のためのテントがかならず設営された。

 クルカルは、宮殿の前に突如出現した尋常ならざる巨大な隊商の野営地が広がる光景を見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。いったいどこからこの人々はやってきたのか、と彼は自問した。私が許可を与えていないのに、宮殿の壁の前に野営地を建てるとはなんと大胆不敵なことだろう。クルカルは家臣のディクチェンを呼び、野営地へ行って問いただしてくるよう命じた。

 大臣はすぐに赤い馬に乗って降りていった。小川を渡ったところで彼は5頭の動物をひいて丘を下り水辺にやってくる従僕と会った。

「おい、そこのターバンを巻いた召使いよ、ちょっとこっちへ来い! おまえの主人はだれなのか、答えよ。いったいどこから来て、どこへ行こうとしているのか。上の美しいテントにいらっしゃる尊いラマはどなたなのか。

 ここは王様のための草地であり、だれも許可なしには立ち入れないことをおぬしは知らないのか。この草一本を引っこ抜くのは、銀の匙を壊すに等しいのだぞ。草二本は金一塊の価値があるのだぞ。草と水の両方の分を払わなければならないからな。

 いますぐここから立ち去り、ほかに野営するのが身のためだぞ。もしどうしてもここに居座るというのなら、国王が兵隊を送っておまえたちを強制的に従わせ、商品をすべて没収することになるだろう」

 従僕はこたえた。

「馬の上の高さから私にお尋ねなさる貴人さま、主人の何人かはインドから来たのでございます。そのひとりはロンポ・ペカルとおっしゃられます。ジャン国から来た方々のひとりはユラ・トンギュルとおっしゃいます。シンド国から来た方々のひとりはクラ・トプギャルとおっしゃいます。美しいテントにいらっしゃるのはペンチェン、すなわち学識のあるラマのオセル・ギャルツェンさまです。

 旅をするわれわれにとって、この地上に自由でいられない場所などありません。制限される場所などありません。だれもわれわれに草や水のお代を要求したことはございません。われわれはいかなるものにもお金を払うことはないのです。国王が兵を送るのはかまいませんが、われわれはそれを恐れません。われわれは彼らを殺し、町を焼き払うだけのことなのです」

 ケサルは最後の言葉を発すると、赤い馬を突然暴れさせ、人間と馬もろとも草の坂を転がり落ち、川のほとりで止まった。

 傷の痛みを感じながら、ディクチェンはなんとか起き上がり、身体の脇をさすりながら考えた。

 こんな力を持った男、見たことないぞ。こいつ、ケサルにちがいない。ケサルが来てクルカル王にとって喜ばしいことはなにもない。何をなすべきだろうか。この国王は私が小さい頃から面倒をみてくださったのだ。高まりつつある危機について一刻も早くお知らせするのがおれの役目。もし失敗したら、ひどい世界に転生することになるのだ。

 感じたことをクルカル王に知らせるべきだと思い、ディクチェンは即座に宮殿へと向かった。

「とても恐ろしいことが起こりました」とディクチェンはクルカル王に奏上した。「召使いだと思った男が、一蹴りで私が乗っていた馬をひっくり返してしまったのです。このことからして日常的に起こる物事とはちがっています。間違いなく隊商が運んできたのはケサルです。ケサルとともに友人の神々もいっしょに来たはずです。どうか私の諫言を聞き入れて、安全なところにお逃げください。ケサルをさけなければ、とんだ災難にみまわれることになるでしょう」

「ああなんていうことだ」とクルカル王はこぼす。「ケサルが来たのだとしたら、あいつはひとりきりのはずだ。その魔術師としての能力をよく知っているさ。あいつとともに現れる人や動物はみな幻影なのだ。

 おれと兄弟は18万の兵士を招集することができる。恐れることは何もないさ。兄弟のクルセルとクルナクに兵を送ってもらおう。そうすれば偉大なる呪術師ケサルを葬り去るのは簡単だ」

 そこにセチャン・ドゥクモが割って入った。

「わたしが直接行ってみることにします。わたしなら聞き出すことができると思う。ケサルには徴(しるし)があります。それは眉間に生えている一本の白い毛です。もしこの徴が見えたなら、それはケサルであるという証しです」

 彼女は青い馬(実際は灰色だろう)に鞍をつけ、出発した。ディクチェンが男と会った場所の近くに到達すると、白い衣を着てターバンを巻いたインド人風のいでたちをした男が近づいてきた。彼女がいくつか質問を投げかけたが、それはディクチェンが投げかけた質問と大差がなかった。

「わたしどもの大臣ディクチェンが、あなたがたのひとりの厚かましい行為のせいで落馬してしまいました。クルカル王はとても怒っていらっしゃいます。王は18万の兵士を招集し、あなたがたの全員を一人残さず殺すと申しています。

 わたしはドゥクモ。善き仏法のみを信仰する者です。わたしはいま述べたような災難が起きないようにとやってまいりました。あなたは草と水の代金を払わなければなりません。そして贈り物をもってクルカル王のところへ行き、大臣に与えた非礼について謝らなければなりません」

「姉御(アジ)さま」と男は言った。「私は一介の召使いにすぎません。いまおっしゃったことは、なにひとつわかりません。でも、わが国王にそのままお伝えすることくらいはで きそうです」

 彼はそこを離れ、近くのテントに入り、そのなかのだれかと話し合っているかのように装った。そして戻ってきてセチャン・ドゥクモの前に立った。

「姉御さま。わが師であるロンポ・ペカル、ユラ・トンギュル、クラ・トプギャルはドゥクモさまを招待したいと申しております」

 若い女(ドゥクモ)は使者のあとをついて行くと、テントのなかに案内された。彼女がしたことは、まずその場にいる男たちを注意深く見ることだった。しかしクルカル王に話したケサルを見分ける徴を彼らに認めることができなかったので、彼女はここにケサルはいないと結論づけた。

 ドゥクモは丁重にスカーフ(カタ)を3人の旅人にかけながら、旅はよかったかとたずね、当たり障りのない挨拶をかわした。

 3人のうちのひとりは青い顔をしていたが、名誉ある場所に坐りながら、クルカル王の健康についてたずねた。そしてつけくわえた。

「あなたが美しい王妃セチャン・ドゥクモさまであられたか。人々があなたについて話すのを聞いたことがありますよ。どうかお茶を飲んで、食べ物も食べてください。戻られたら私のスカーフをクルカル王に贈ってください。そしてここにもう6日ほどいると伝えてください」

「王様にはどんな贈り物をしてくださるのかしら」とドゥクモはきいた。

「あなたにお見せしましょう」と首領はこたえた。

 師の命令を受けた従者はどこかへやられ、いくつかの箱を持って戻ってきた。箱の中に入っていたのは、金の手綱のついた金の鞍、巨大な鉄の鉤(かぎ)がついた2本の鉄の鎖、8個の銅の鉤、天から落ちてきた鉄の剣、金の耳輪などだった。

「耳輪はドゥクモさま、あなたのものです」と青い顔の男は言った。「ほかのものはすべてクルカル王に献上いたします」

 感謝の言葉を述べ、ドゥクモは自分の耳輪を取って腰帯に入れ、受け取ったばかりの金の耳輪を耳にしっかりとつけた。それから数人の従者の男たちとともに宮殿に戻った。男たちは見知らぬ者にもらった贈り物がどっさりとつまった数個の箱を運んだ。

「ケサルはいないわ」とドゥクモはクルカルの姿を見るや言った。「いっしょにいるのはラマ・オセル・ギャルツェン・リンポチェです。どう考えても敵ではありません。彼らの贈り物を持ってきました」

 クルカルは目の前に置かれた贈り物を見て何も恐れるものはないことを知り、安堵の溜息をついた。

「ドゥクモよ」とクルカルは言った。「そなたは従者を連れてもう一度野営地へ行ってみるがいい。彼らを翌日の食事に招待したいと思うぞ」

 この会話を聞いていたディクチェンは、隊商がケサルによって造られた幻影であると確信していたので、心の中で「おお、クルカル王よ! 愚かな王よ! これらの贈り物はケサルが送ったのだぞ。王、汝を打破するための象徴的な物であるぞ」と叫んだ。しかしそのことは胸の奥にしまいこんだ。

 一方もうひとりの大臣トブチェンは驚きをあらわにした。

「なんとすばらしい贈り物でしょうか!」とトブチェンは言った。「王にあられましては、これらの物がいかにすばらしいかをご審査していただきたい。鞍だけではありません。贈り物すべてが至高の品々ばかりでございます」 

「トブチェン、そなたは賢いのう」と王の弟クルナクが同意した。「贈り物は奇妙なものばかりではあるが。それらには隠れた意味があるのだろう。それらは友情のしるしというわけではなく、むしろ脅威を隠しているかのようだ。

もしかすると……これらはケサルからの贈り物かもしれぬ。ケサルはわれらの王の背中に鞍を置き、手綱を締めて王を駆りだそうという意味があるのではなかろうか。それは征服の象徴だからな。鎖は城壁攻撃のとき、はしご登りの補助になるのではないか。鉤(かぎ)は王の大臣の心臓をえぐりだすときに使われるのではないか。耳輪に関していえば、ドゥクモさまがあわてて身につけていらっしゃったが、それはケサルがふたたび自分のものとするという意味ではないか」

「兄弟よ、たわごとを言うではない」とクルカルは苛立って反論した。「おまえのうっとうしい予言は常識はずれであるぞ。未来を占うのはラマに任せればよい。明日、女どもに麦酒を取りに行き、あちらの首領らに捧げるよう命令を下したところだ」

 だれもあえて返答をしようとはしなかった。宮殿の人々は夜の食事を取り、それから床に就いた。