7章 

 翌日の明け方、麦酒(チャン)の入った瓶を運ぶ多数の女たちをしたがえて、ドゥクモは宮殿を出た。クルカル王の御殿が立つ丘陵と異邦人が野営する平原とのあいだには、白い霧が出て、くすんだカーテンが降りたかのようだった。ドゥクモと付き添いの女たちが野営地に着く頃には、霧は上がろうとしていた。房飾りがついたスカーフのような雲はゆっくりと山の斜面を上っていった。そこに現れた光景を見て、女たちは呆然として立ち尽くした。広大な緑の谷は、いま、からっぽで、荒涼としていたのだ。

 テントも、たくさんいた旅行者も、動物も、すべて何の痕跡も残さず消え去っていた。草の葉一本にいたるまで、前日踏みしだかれていたようには見えなかった。隊商がそこにいたことをうかがわせるものは何もなかった。

「つい昨日のことなのに」とドゥクモは苦々しく思った。「自分からここにやって来たのは。ここにあったものすべてがケサルの魔術が作り出したものだったのね。ケサルは私をもてあそんだだけなのだわ」

 心を痛め、不安になった彼女が物思いにふけっているあいだ、女たちは各方角に散って隊商の痕跡を探したり、そこを去ってどこへ行ったかを探ろうとしたりした。そんななか、茶葉のかたまりを発見したのはガルザ・チューデン(Gartza Chosden)という名の少女だった。男たちが去るとき、鍋に入っていた茶葉を捨てたものと思われた。少女は山となった茶葉の塊に一発、二発と蹴りを入れた。

「こんなにたくさんのお茶の葉を使うなんて、よほどのお金持ちにちがいないわ」

 少女が蹴りを入れたため、茶葉が飛び散り、そこに小さな少年の姿があらわれた。少年は茶葉の山に埋もれていたのである。

 少年の体は虫だらけで、とくに束ねた髪の上でぴょんぴょん跳ねているありさまで、言語に絶するほど汚かった。鼻からは鼻水が垂れ、目をこすりながら唸り声をあげていた。

「あんただれよ」と少女はたずねた。「そこで何してるのよ」

「ぼくのご主人様はお金持ちの商人なんだ。お父さんみたいなもんだよ」と小さな少年はこたえた。「昨日、おとなたちは、クルカル国王が兵を集めて攻撃しようとしているって聞いて、急いで出発することに決めたんだ。みんなが商品を整頓しているあいだに、召使いたちが旅に必要な燃料を探してくるようぼくに言いつけたんだ。それで燃料を集めてもどってきたら、だれもいなかった。みんなぼくのこと、忘れたみたいだ。

 で、あんたはぼくに何をしようとしているの? 殺そうとしているの? それとも何か食べ物くれるの?」

 少年は茶葉の山から出てきて、ガルザの前に立った。そのときドゥクモが近づき、少年をじっと見つめ、それからガルザの袖を引っ張って少し離れてから言った。

「ケサルが子供の頃、こんな感じだったわ。この子は殺すべきよ。石をぶつけて殺しましょう」

「ああ、なんてことを」と少女は叫んだ。「こんなことはよくないです。女が男を殺すだなんて。この子は寒くておなかが減っているのに、あわれでなりません」

 少女は男の子のところにもどり、言った。

「泣かないで、坊や。お父さんにたずねてみるわ。お父さんは鍛冶屋のチュタ・ギャルポ。あんたを養子にしてって頼んでみる」

 少女は着ていた黄色い絹の着物を脱いで、少年の小さな体を包むように着せた。そして少年を町に連れていった。少女は自分の家に着くと、少年を玄関で待たせて中に入り、父親に近づいてその日に起きた不思議なできごとについて話した。ドゥクモが少年を殺したがっていることについても話し、彼を鍛冶屋の見習いとして置いてくれないかと頼んだ。

 心やさしいチュタ・ギャルポはこたえた。

「われわれは困っている人を見たら助けねばならぬ。おまえはよくぞこの子を連れてきた。しかし巨大な隊商が蜃気楼のごとく消失したのはまことに不思議なことよ」

 ガルザは急いで少年のもとに駆け寄った。

「父はあなたがここにいて、食べるのを許してくれました」と彼女は言った。「明日、あたしがあんたの服を作ってあげるからね。いまは何か食べておなかを満たして」

 彼女は少年の前に大きなお茶のポットとツァンパとバターがのった皿を置いた。そしてゆでた羊の肩肉を出した。

 すると小さな男の子は満足したのか、笑い始めた。

「食べるものをもらって、ほんとうにうれしいよ」と少年は言った。「でもはじめにミルクの入ってない黒いお茶、赤い肉、白いツァンパを神に捧げなければならないんだ」

 少年は立ち上がり、羊の肩肉から足の形を切り出した。彼はしばらくじっと考えてから言った。

「これは羊の足ではありません。神様の足です。ぼくにとっては杭として使えるのでとても便利です。これに馬をつなぐことができます」

 少年はそれを腰帯の内側に入れた。

「この肩は、肩ではありません」と少年はつづけた。「それは命、クルカル王の命です。この肉を切ったように、足を切ってもいいですか」

 彼は肩肉をめった切りにした。

「これは肩ではありません」と彼は繰り返した。「それは敵の群衆です。ぼくがやつらを征服して、粉砕してもいいですか」

 そして少年は骨をいくつかに砕いた。

「このお茶のポットは銅製ではありません。それは乞食の土製の器です。ホルの土地は荒廃するでしょう。それはぼくにとってよい徴(しるし)です。ちょうどこの脆弱な器が簡単に壊せるように、ぼくはクルカルをすぐに破壊することができるでしょう」

 少年がお茶のポットをひっくり返すと、それは粉々になった。

 ガルザは少年の言葉に驚き、震え上がり、階上の父親のもとに駆けあがった。

「この子を置いておくことはできないわ」と息を切らせながら彼女は言った。少女はいま見たことをすべて父親に話した。

 老人は立腹した。

「卑しくて邪道に陥った心を持つ者は、自分とそっくりの者に出会うものだ」と彼は言った。

「下劣なやつはクソ犬と会う。クソ犬は死肉を見つける。それは死んだカラスの頭だ。クソ犬はカラスの頭を村まで引っ張っていく。そして村の多くの住人が伝染病にかかって死ぬのだ。

 徳があり、高貴な者はトルコ石の角を持ったライオンと出会う。その角の上には9柱の神が座しておられる。哀れな乙女よ、わしをその最悪のならず者のところへ連れて行ってくれ」

 怒り心頭に発した老人はハンマーを手に持ち、小さな乞食をひっぱたくために階段を駆け下りた。

 老人がいたく驚いたことには、そこにあるものは何も壊れていなかった。肉は手つかずの状態で残っていた。少年は地面に坐り、静かにお茶を飲んでいた。少年は鍛冶屋を見て、おずおずと膝をそろえ、頭を下げた。

 老人は考えた。わが娘はうそつきなのか。娘が自分で連れてきた子供を追い出させようとしているのだろうか。少年は娘に対して気分を害しているだろう。娘は少年になんとひどい仕打ちをしているのだろうか。

「さあお茶でも飲んで。少し食べるといい、坊や」と老人は少年に言った。「恐れることはないよ。だれもおまえを傷つけることはないから」

 部屋に戻った父親は、ガルザが言ったうそをとがめて、厳しく叱った。もしまたおなじようなうそをついたら、厳しい罰を受けなければならないと脅した。

 哀れな娘はひとことも言い返すことができなかった。自分は夢を見ていたのだろうかと自らに問うた。彼女が一階に戻ると、床には粉々になったお茶のポットの破片が散らばり、羊の肩肉はお茶の水たまりにぷかぷかと浮かんでいた。突然成長したかのような少年は、その手を腰帯から短剣のようにぶら下げた羊の脚にのせ、からかうような顔つきで彼女を見ていた。

 彼は神なのか悪魔なのか、と少女は自問した。しかし何も言わなかった。

 この奇妙な少年はその後9か月間、常軌を逸した行為を示さず、鍛冶屋とともにすごした。彼は一生懸命に働き、技術を身につけた。師匠は少年が作ったものをいくつか選び、宮殿で売ることにした。

「このすばらしいものを作ったのはだれかね?」とクルカルはたずねた。「チュタ・ギャルポ、そなたの作品ではないだろう。わしはそなたが作ったものはすぐわかるからな。これは似ても似つかぬ」

 鍛冶師は王に、娘のガルザが見習いの少年を発見したいきさつについて話をした。彼は彼の賢さを自慢し、ここにもってきた作品は少年が作ったものだと明かした。

「そんな賢い職人がいるなら、ぜひ見てみたいものじゃ。そうだ、その少年とやらを雇ってみようと思うぞ」と王は高らかに言った。「炭を載せた18頭のヤクといっしょにその少年を連れて来い。それならすぐ仕事を始められるからな。その少年にはいろいろなものを作ってもらうつもりだ」

 鍛冶師は帰宅し、見習いの少年に国王の命令を伝えた。彼は、まず少年が森へ行き、木を切ってそれから炭を作り、18頭のヤクに載せて宮殿へ行かなければならないと説明した。これで宮殿でも鉄を鍛錬することができるだろう。

 しかし少年はにべもなく森へ行くのを拒んだ。鍛冶師は少年にあらゆる援助を約束したが、無駄だった。少年はひたすら拒み続けた。しかし最後の最後になって、少年は妥協することにしたようである。

「行きましょう」と少年は言った。「もしあなたの娘ガルザを助手として同行させてくれるならですが。ガルザなら、十分に役に立ちます。ほかはだれも必要ありません」

 鍛冶師はあわてて少年の要求に応じた。これでクルカル王の怒りの矢面に立つことがなくなりほっとした。王が少しの違反があっただけでも耐えきれない性格の持ち主であることを知っていたのだ。

 翌日、若いふたりはさっそく出発した。森に着くと、ガルザは火を起こし、その上でお茶を用意した。そのあいだ少年は木を切る斧を研いだ。それから少年は木を見定めながら、彼女に、十分お茶を煮込むことができたら持ってくるよう頼んだ。

 まもなくしてお茶ができあがった。彼女はポットを持って少年を探しに出た。すこし歩いたところで彼女は思いがけない、おぞましい光景と出会った。木を切るかわりに、なんと少年は、木炭を載せるはずの18頭のヤクの頭部を切り落としていたのである。

 彼はヤクの皮を剥ぎ、残骸を切り刻んでいた。血まみれの巨大な皮や肉のかたまりは乾かすために木の枝にぶら下げていた。

「きゃあ」とガルザは叫んだ。「どうしてあなたはお父さんのヤクを殺したの! いったい何を考えているの? お父さんにどんな申し開きができるというのよ!」

「ぼくはヤク、あるいはお父さんについての非難は気にしないよ」と若い屠殺人は反駁した。「ぼくは自分の家を持っていないからね。この場所が気に入ったんだ。ここにとどまりたいんだよ。食べ物はどうにかなると思う。毛皮があるから寒さはしのげるしね。お父さんに告げ口したけりゃすればいい。お父さんが何を考えようと、そんなには困らない」

 前回の経験から少年が有能であることを知っていたはずなのに、ガルザはそのことをすっかり忘れ、父親のもとに走り、少年が父親のヤクをすべて殺してしまったことを知らせた。

 はじめ父親は娘が言うことを信じようとしなかった。しかし娘が懸命に言い張り、そのリアリティのある表現に煽られ、説得され、ついにはその凄惨な現場に向かった。

 その現場から少し離れたところから見ても、木炭が載せられた18頭のヤクがゆっくりと道を進んでいるのがわかった。見習いの少年は、重い背負い袋を背中に担いでいたので背中を曲げたまま、ヤクの一団の後ろを歩いていた。彼は身体を起こすと師匠のほうを見て、笑顔を浮かべ、丁寧にたずねた。

「お師匠さま、どちらへ行かれるので?」

 正直者の老鍛冶師は、娘が話した内容を伝え、またしても娘にかつがれてしまったと怒りをぶちまけた。今度ばかりは罰しないといけないと、彼は決然と言った。

 聞きながら少年は背中の荷物を下ろしたが、彼も怒りを抑えきれない様子である。

「なんてひどいうそつきなんだ!」と鍛冶師は強い語調で言った。

「お父さん、このヤクの一団はあなたが引いていってください。ぼくはもうあなたの家には戻りません。この国を去るつもりです。あんな性悪な女の子の近くにいりのは耐えきれないのです。つぎに何をやらかすかわかりませんからね。これ以上ぼくに災難をふりかけないでほしいのです。だからお師匠さまのところには戻らないのです」

 老鍛冶師は賢い見習い弟子を失うことは耐えきれないことだと思った。彼は少年を翻意させようと必死だった。ガルザを厳しく罰し、二度とつくり話をさせないようにすると約束した。

これを聞いて少年はすこし軟化し、師匠のあとに従った。老鍛冶師は家に戻ると、ハンマーを持って娘のところへ行き、それで何度も殴りかかった。ハンマーの一撃で彼女の骨は折れてしまいそうだった。かわいそうなガルザは、痛みがあまりにもひどく、このまま死ぬのではないかと考えた。彼女はヤクがみな無事なのを見て、またも見習い少年にたぶらかされたことを知り、今後、彼のすることがどんなに驚愕させるものであろうとも、惑わされないようにしようと心の中で誓った。

 

 いま、ケサルは彼女が女神のトゥルク(化身)であることを知っていた。彼女が自身誓いを立てたとき、ケサルはもし彼女が彼の真の姿を知っても裏切ることはないという確信を持った。ケサルが彼女を欺くために創り出した幻影の目的は、彼女に誓いをたてさせるということだった。

 翌日、チュタ・ギャルポは見習い少年を宮殿へ連れて行った。

「あなたはぼくに何をしてほしいのですか」と少年はクルカル王にたずねた。

 王は何のプランも持っていなかった。まわりの家臣たちにも相談した。ある大臣は兵士のための剣を作ってみてはどうかと提案した。ある者はドゥクモのための装身具がいいのではないかと提案した。ほかの者たちはまた違う意見を持っていた。彼らはいっせいに話し始め、いっせいに反対した。しまいには、王は笑い始めた。

「この少年に好きなように作らせればいいではないか」と王は言った。「意外なものができあがったとしても、それはそれで楽しみではないか」

 そして若い鍛冶師のほうを見て、言った。

「そなたがもっともよいと思うものを作ってくれ。どんなものを作るか、選ぶ自由を授けよう」

「それはありがたい」と少年は簡潔にこたえた。「それではぼくに金、銀、鉄、銅を与えてください。そしたらすぐに製作をはじめましょう」

 要求したすべてのメタルを受け取ると、彼は王室精錬所の全扉をボルトで締めてなかに閉じこもり、仕事をはじめた。だれも建物に近づくことが許されなかった。

 3日が経過し、彼は王に仕事が完成したこと、また召使いをよこしてそれを持っていくことができることを伝えた。クルカル王は興味津々で、すぐにそれを彼の住居に持ってくるよう命じた。召使いがその仕事を終えるのに丸一日かかってしまった。

 黄金でもって、見習い鍛冶師は千の小さな僧(タパ)に囲まれた等身大のラマの像を造った。ラマは仏法を教え、僧(タパ)はそれに耳を傾けている。

 青銅からは国王の像と700の官吏と廷臣の像を造った。王は法について述べ、官吏は司法の学問について王に問うた。

 銀は旋律のいい歌をうたう100人の若い娘の装飾の役に立った。

 銅は将軍と1万人の兵士の像を造るために使われた。将軍は好戦的なスピーチを行い、英雄主義に兵士らを駆り立てた。

 加えて、見習い鍛冶師は法螺貝から、リーダー格の名士の人形が乗る3000の馬を作り出した。

 国王が魔法の人形を目の前に見る頃には、それらは本物の人間のように動き出していた。それらは宮殿から外に出ていき、城壁の前の平原へ広がっていくと、さまざまな戦術的な位置についた。

 国王や廷臣の幹部らは丸一日、食べることも飲むことも忘れてバルコニーからその様子を眺めていた。

 彼らがこうして見学に没頭しているとき、だれからも注意を払われなくなっていたケサルは、クルカル王を守り、つねに勝利をもたらした四大神と戦う好機が到来したのだと考えた。

 このときとばかり彼は愛馬を呼んだ。師匠が彼の少年の姿に疑問を抱くことがないように、天のひとつに隠していたのである。鞍にまたがった英雄は、だれの目にも見られることなく飛翔した。するとたくさんの神々や「雷電」(ヴァジュラ)を持った数限りない精霊が加わってきた。雷光の速さで瞬時にホルの神々が住む岩山に着くと、彼らは「雷電」をつぎつぎと投げ込んだ。ホルの神々の住居は木端微塵になった。

 ケサルの仲間が、自分たちを見せる義務がある四大神に銛(もり)を打ち込み、戦っているとき、英雄ケサルは剣を手に取り、それで四大神を刺してとどめた。戦闘はこうしてあっという間に終わった。

 ケサルはクルカルの宮殿近くに戻り、信頼の厚い駿馬キャンゴ・カルカルを元の隠し場所に返し、またもとの見習い少年の姿になって師匠のもとへ戻った。この戦闘のあいだも、国王や廷臣、その他すべての人々はずっと驚嘆すべき人形の行進に見とれていた。

 夜が近づくと、人形たちは宮殿に戻り、もとの配置についた。銅の兵士たちは、法螺貝でできた馬たちを王室の馬小屋に入れてつなぎ、すべての魔法の人形たちは人間さながらに眠りについた。

 おなじ夜、国王は夢を見た。夢の中で守護神のひとりであるリ神が現れ、彼に言った。

「若い鍛冶師が作った金属の人形が逃げないように気をつけろ。あとでそいつらはおれのようになるだろうから」

 クルカルはこの夢の啓示を吉兆とみなした。厖大な守護神が彼の幸福を守っているのである。彼はドゥクモに人形の監視を怠らないように、また人形が宮殿から逃げないように、そして人形をだれにも見せないようにと、注意を促した。この命令を受けてドゥクモは宮殿のすべての扉をボルトで締めた。

 しかしながら国王のふたりの兄弟、クルナクとクルセルは、たくさんの廷臣をつれてやってきて、また日中に人形たちの行進を見たいと言い出した。ドゥクモはそういったことはもうできないこと、また拒否する理由を述べて説得した。

 たしかにクルカルの夢は吉兆に違いない、と兄弟たちは考えた。実際、宮殿の前の平原でおこなわれるスポーツの祭典は面白かった。

 国王は結局、抗しきれずに計画を是認した。テントはかつて幻の隊商が野営地を置いたところに張られた。そしてゲームに参加するすべての人が招集された。

 ほかの人と同様、見習い鍛冶師もまた何が準備されているか知っていた。彼は師匠に、祭典をいっしょに見に行きませんかと誘った。

「おお、息子よ、それはだめじゃよ」と善良な老鍛冶師は言った。「家にいるべきだ。そこにいるたくさんのホルの兵士らは悪いやつばかりだからな。あいつらはケチな手を使っておまえをだまそうとするだろう。おまえをボールのようにみなして、あっちやこっちに投げて、いろんなやりかたでおまえをいじめて楽しむだろうよ。腕や足をへし折られないで帰ってくることができたら幸運といえるだろう」

「もしいっしょに行ってくれるなら」と少年は食い下がった。「ぼくの人生すべてを捧げます。もし拒むのなら、ぼくはこの国から出ていきます」

 老鍛冶師はおおいに弱ってしまった。この見習い少年はとても役に立っていて、もしいなくなってしまったら、不便なことかぎりなくなるだろう。

「行ってもいいさ」と老鍛冶師は言った。「だがだれにも見られないようにおまえを隠すことになる。とくに兵士には気をつけんとな。でなければあいつらはおまえに危害を加えるだろう。まあわしがなんとかしよう」

 祭典の日当日がやってきた。師匠は少年を袋のなかに押し込み、馬に乗った彼の後ろに袋をしばりつけ、上から羊毛の絨毯を押しかぶせて隠した。

「おまえの手の近くにはツァンパ(麦焦がし)の袋と一塊のバターがある」と彼は見習い少年に言った。「食べたいときは食べればいい。到着したらわしはおまえの入った頭陀袋を地面に下ろす。だが姿は見せるな。一言もしゃべるな。袋に穴をあけて、そこから外を見るだけだぞ」

 彼らは出発した。老鍛冶師は到着すると、約束通りに見習い少年が入った頭陀袋を地上に置き、その上に絨毯を敷いた。彼自身は絨毯の隅に腰を下ろした。

そこでは廷臣や宮中の人々も参加して、さまざまなゲームが催されていた。それからシェチェン・リウォ・パンクルという勇者(パウォ)が平原の片方にある山を持ち上げ、それを平原の反対側まで持って行った。この驚くべき力技を見た観衆からの賞賛の拍手はいつまでもやまなかった。

「ぼくだったらもっとうまくやれるよ」と袋の中の少年は言った。

「しっ! しゃべるんじゃない!」

 しかしその警告は遅すぎた。国王が聞いていたのである。

「だれがしゃべったのだ?」と国王は詰問口調で言った。「だれが自慢したのかね?」

「ぼくです」と袋の中から声が聞こえた。

 声はしても姿が見えないことに驚き、クルカル王はさらに言った。

「しゃべった者はいますぐここに出て来なさい」

 鍛冶師チュタは体中が震え上がった。彼は国王の前に進み出て、自分の弟子の非礼をわびようとした。

「国王さま」と老鍛冶師は言った。「しゃべったのはわが見習いであります。金属の人形を作って国王にも喜んでいただいたあの小僧であります。こいつはいつも散漫なことばかりやらかしているやつで、今度もばかなことを言ってしまって……」

「気にすることはないぞ」と国王は止めた。「小僧をここに連れてきて、戦士のあいだに坐らせよ」

 国王の命令とあらば、従うしかなかった。少年は麻袋から出てきて、国王のほうへ向かった。少年は殺されるかもしれないと思って鍛冶師はところはばからず泣いていた。

「おお、おまえであったか、自慢屋は。山をも動かせると言っていたな。どうしたらそんなことができるか、言うてみよ」

「国王さま」と少年は静かに言った。「わたくしにそんなことができないのはたしかです。人並みならぬ強靭さは戦士に与えられるものです。わたくしは子供にすぎませんから」

「おまえは自慢するべきではなかったようだな」とクルカル王は厳しい言葉をはさんだ。「おまえにとってはよろしからぬことだな。だが、戦士よりうまくできると申したからには、戦士と戦うほかはない」

「わたくしにどうしろとおっしゃるのですか」と少年は嘆願する。「わたくしにはそれだけの強さがありません。しかし国王さまのご命令ですから逃げることはできません。ただこれだけは言っておきたいのです。もしわたくしが殺された場合、敵手は慰謝料を払う必要はありません。逆にもしわたくしが敵手を殺した場合、わが父の鍛冶師に慰謝料を払わずにすむようにしていただきたいのです」

「よかろう」と国王は言った。「おまえが申したとおりにしよう。すべての将軍の前で約束いたそう。ではこれから戦いをはじめよ」

 

 パンクルは巨体の持ち主だった。ちっぽけな小僧と戦わなければならないことを恥じていた。小僧が彼の前に立つ姿は、象の前の蟻のようだった。瞬時に殺してしまおうと彼は考えた。

 「はじめ」の合図が鳴ると、少年ははずむようにパンクルの前に出て、一発なぐって巨体を投げ飛ばし、その上に坐った。

「いったい何が起きたんだ?」と頭を打ってぼっとしたパンクルは考えた。「やせっぽちがなんでこんなに力があるんだ?いましがた運んだ山よりも重く感じたのはどうしてだ? こんな子供になぜおれさまは粉砕されたのだ?」

 そのあいだも勝者は彼を挑発しようとしていた。

「おい勇者さんよ、強さとやらはどこにいってしまったんだい。立ち上がることもできないのかい? ぐずぐずしてるんじゃないよ」

 パンクルは動くことさえできなかった。

「おまえ自身が動けばいい」と彼は見習い少年に言った。時間を稼いでそのあいだに足の回復を図ろうとしたのだ。

 少年は立ち上がり、敵手が動き出す前にその足を取り、ふたたび投げ飛ばした。パンクルの巨体は吹っ飛んで国王の玉座の前に達し、ホルパの「生命」である黒い岩にぶつかった。巨兵の頭蓋骨は割れ、脳みそが飛び出て、まもなくして息絶えた。

 国王は失望した。戦いがこのように終わるとは想像していなかったのだ。巨兵はこの僭越な小僧に罰を与えようとしたのかもしれないと考えた。それはむしろ笑いを取ろうとしたものだろう。結果はこの通りだが。

 この闘いはそもそも国王が命じたものであり、見習い小僧を罰することはないと、みなの前で約束したばかりである。それゆえ国王はつぎのように言うほかなかった。

「なんと悲しいことであろう! この少年がわが勇敢なる兵士を殺したのは嘆かわしいことではある……」

 そして国王は鍛冶師のチュタを呼んだ。

「そなたは血の賠償を払う必要はないぞ」と国王は言った。「その要求はしないとわしは約束した。しかし小僧が殺した男のかわりとして、おまえはこの小僧をわしにくれないといけないのだ」

 鍛冶師は必死で懇願した。自分はおいぼれなので、助手がどうしても必要である、しかしこの小僧のかわりを見つけることができない、と訴えた。クルカル王は動じなかった。鍛冶師の言葉も涙も、国王の決定を覆すことはできなかった。

 祭典のゲームに関する質問はなかった。国王、その兄弟、廷臣たちは宮殿に戻り、聴衆もまた平原を去り、彼らのあとを追った。だれもが楽しい祭典をだいなしにした、異常な悲しいできごとについて口にせずにはいられなかった。えもいわれぬ不安感が人々の心を覆った。ホルの人々は巨兵の死に、来たる災難の予兆を見た。楽しく始まった一日は、悲しみのなかに終わった。

 クルカル王はすぐに王の部屋に戻り、急いでドゥクモにその日起きたことを話した。彼女は恐怖におびえた。

「疑う余地はまったくないわ」と彼女は語気を強めた。「この男の子はケサルにちがいない。絶対に殺さなければならないのよ。ケサルが生きているかぎり、おちおちと寝ることもできない」

「たしかにそうだ」とクルカル王。「もしこの子がケサルなら、われわれはいまたいへん危険な状況に置かれているということになる。その頭のよさ、並外れた強さは、こいつがリン国の王であることを示しているだろう。それならば、殺すのみ。しかしどうやって殺すのだ?」

「私は方法を知っています。かならず成功してみせます」と王妃は言った。「それはこういうことです。山の向こう側に広がる森へ行って、王室につないでおくための虎を一頭捕まえて来い、と小僧に命令を下すのです。この深い森にいるのは人食い虎です。これで我が国の敵は除去されることになります」

 この王妃の助言を採用し、国王は使者を見習い鍛冶師のところへ送った。

「おまえは強くて巧みなやつだ」と国王は少年に言った。「そのことがわかったから、山に入って虎を一頭生け捕りにしてほしい。わが王室の扉に虎をつないでおきたいのだ。どうやって捕まえるかは自分自身で考えろ。おまえは頭がいいから、見事やってのけるだろう。だがつぎにわしの前に現れるとき、虎がいっしょでなかったら……どうなるかはわかっているだろうな」

「国王さま、虎があなたさまの何の役に立つというのでしょうか」と謙虚に少年はたずねた。「あなたさまはすでに3頭の熊と2頭の猿を宮廷につないでいます。中庭には、豹が檻に入れられ、鸚鵡が止まり木にいます。虎を持ってくるようわたくしに命じて、わたくしを殺そうとしているのですか」

「おまえは一度ならずその賢さを示してきた」と国王は嫌味たっぷりな言い方でこたえた。「強さもだ。虎は強いといっても、おまえが頭蓋骨をかち割った勇敢な兵士ほど強くはない。いままでとおなじようにすれば、おまえにとってむつかしいことではないだろう。他言は無用。さあ早く行って仕事に取りかかれ」

「わかりました、国王さま」と少年は言った。「虎を生きたまま捕まえて、国王さまに一頭献じましょう」

 少年は宮殿をあとにして、師匠の家に戻った。 家には娘のガルザひとりがいた。少年は彼女に宮殿で国王と話したことを述べ、虎がよく出没する場所はどこかとたずねた。

 少女は何も言わずにじっと彼を見つめると、質問にはこたえず、顔をぐっと近づけて、ひそひそ声で言った。

「あんたが来てからというもの異常なことばかりがつづくわ。あんたは神種族のケサル王なんでしょう? 恐れずに言えばいいのに。私はあんたのために尽くすからね。だって私、仏法が好きだけど、クルカル王はそれを破壊しようとしてるんでしょ? そうさせないようにするのがあんたの使命なのは知ってるわ。ほんとうのことを言って。そうしたら虎の居場所を教えるから」

「わかった、言うよ。ぼくはケサルだ」と笑いながら少年はこたえた。「でもこのことは内緒だよ。今年のうちにクルカル王を葬り去りたいんだ。だから虎がどこにいるか、知っていることを教えてほしい」

 ガルザはケサルとふたりきりであることを確認して、英雄の前で五体投地をはじめた。そして顔をあげると、そこにいたのはケサルのもとの姿だった。しかしそれがつづいたのはほんの数秒のことで、またすぐに見習い小僧にもどった。彼女は少年に向って言った。

「赤い虎がいるわ」とガルザは教えた。「宮殿の北が麓の山の向こうに森が広がっていて、そこにいるの。虎はディクチェンをよく知っていて、彼が呼ぶと来るらしいわ。あんたがディクチェンの真似をしたら、まちがって寄ってくるでしょう」

「この上ない助言をありがとう」そう少年は言って出発した。

 山に着くと、少年はディクチェン・シェンパに化け、森に入っていった。虎がさっそく近づいてきたので、彼は空から落ちてきた鉄(隕石)で造った剣で殺した。彼は野獣の皮をはぎ、着ている衣のなかに隠した。それから彼は天の兄弟であるミタク・マルポを呼んだ。彼もまた母の肩から生まれたのである。少年はミタク・マルポが変身した虎の首のまわりに重い鎖を巻き、宮殿のほうへ連れて行った。

 村が近づくと、偽虎は鎖から自由になろうと必死にもがくふりをし、吼えた。見習い少年はまた、虎が逃げないようなんとか抑え込むふりをした。恐怖におびえた村人たちは家の中に逃げ込んだ。

このようにして、奇妙な狩人と彼が捕えた獣は、宮殿の中庭に到着した。親しい人々に囲まれていたクルカル王が出てきて、この虎を連れた狩人と会った。国王は与えられた命令に少年がこたえたことに驚いた。しかしそれでも、彼はこの少年がケサルとは信じられなかった。

「これがあなたの虎です」と少年は虎を鎖で引き寄せながら言った。「これを捕えてここに連れてくるのはたいへんでした。いま虎はおなかをすかして、何でも食べたがっています。どうか食べ物を与えてやってください。でなければ怒って暴れ回るかもしれません」

「早く肉を持ってこい!」と国王は召使に向って叫んだ。

「いえいえそうじゃありません!」と見習い少年はとどめた。「ヤクや羊の肉では満足してくれません。この獣は人食い虎だと聞きました。ご存じのように、虎はひとたび人肉の味を覚えたら、ほかのものは食えなくなるといいます。ですから、生きている人間か、死んだばかりの人間を与えてください」

「ど、どうすりゃいいんだ?」とクルカル王はまわりを見回してつぶやいた。「うちにはいま死刑を宣告された罪人もいないし、殺されたばかりの遺体も、事故死した人もいないだろう」

 虎はエサが遅いことにイライラし、激しく吼え始めた。

「仕方ない、リン国の兵士がいるだろう、戦争のとき捕虜になったのが。そいつを連れてこい」と国王は命じた。

 あわれな囚人が独房から出され、虎の前にほうりだされた。しかし虎は囚人をくんくんと嗅いだあと、興味がないとでもいうようにそっぽを向き、また荒々しく唸り声をあげはじめた。

「これはどういうことなんだ?」とクルカル王はいぶかしがった。

「よくわかりません」と少年はこたえた。「この獣はリン国の人のにおいが好きではないようです。ホル人の肉しか食べなれていないのでしょう」

「失せろ!」と国王は囚人に向って叫んだ。「虎はおまえに興味がないようだ。食うにも値しないとよ!」

 囚人は何もしゃべる必要がなかった。看守もいなかったので、彼は全速力で走って逃げていった。

 虎の怒りはますます激しくなっていった。虎は後足で立ち、鎖をはずそうともがき、クルカル王の方へ向かってうなりはじめた。

「静かにしろ!」と少年は虎をなだめた。「国王さま、何か少しでも食べ物をやらないと、虎は鎖を破って国王さまに飛びかかりそうです」

 少年はそう叫んで警告しながら、まるで逃げる準備でもしているかのように、門のほうへと近づいていった。

 虎がつながれている鉄の棒がギシギシと激しく揺れ、巨大な牙がむきだしになるのを見たクルカル王は、恐怖のあまり絶望的になり、思わず隣にいた宰相をつかんで前に押し出した。かわいそうな宰相はゴロンゴロンと転がって虎の前で止まった。

 虎は宰相に飛びかかった。しばらくすると宰相の影はなくなり、いくつかの大きな骨だけが残った。

 王は自分の部屋に逃げ込み、ほかの人たちもみなどこかへ逃げて行った。虎が食事を終えると、少年は虎を控えの間に連れて行き、扉の近くにつなぐと、そのまま宮殿から立ち去った。

 恐怖からすこし立ち直ると、クルカル王は召使にお茶を持ってこさせようと鈴を鳴らした。しかし召使いは現れない。もう一度鈴を鳴らしても、こたえがなかった。ようやく遠くのほうから声が聞こえてきた。

「旦那さま、そちらに近づくことができません。扉のところに虎がいるからです!」

 その言葉を裏付けるかのように、押し殺したかのような鈍い吼え声が聞こえてきた。

「なんてこった」と国王は自問した。「呪術師に扉に虎をつなぐようたのんだのはわし自身だったではないか。あいつはわしの言葉通り、扉にくくりつけたのはいいが、それが宮殿の表玄関ではなく、この部屋だったのか。あの少年はいつ戻ってくるのだろうか。戻ってきたら、虎をすぐに中庭に移動してもらおう」

 何時間かたち、夜がやってきた。召使いたちは建物のどこか遠くの部屋に閉じこもっているようだった。呼び鈴を鳴らしてもだれも応答しなかった。クルカル王は扉の内側に箱を積み重ねて置き、バリケードを作った。そして飲まず食わずのまま寝床に入った。

 翌日も状況はまったく変わらなかった。彼は虎が興奮して扉に虎をつないでいる鎖がガチャガチャと音をたてるのを聞いていた。国王は中庭を歩いている男を見つけ、鍛冶師チュタの見習いを連れてくるよう叫んだ。男はしばらくして戻ってきて、見習い弟子が山にトゥマスを取りに行っていること、師匠も少年がいつ戻ってくるか知らないことなどを知らせた。しかしそのとき虎が吼え、使者はさらなる命令を聞こうともしないで、すたこらさっさと逃げて行った。

 3日が過ぎ去った。国王は空腹のまま、部屋を出ることすらできず、あたりも言いようがないほど汚くなった。虎も腹が減っていたので、扉に爪を立て、絶望的に吼えたてた。

 ようやくクルカル王は遠くの窓にドゥクモを見かけた。国王は彼女に鍛冶師の見習いを連れてくるよう頼んだ。

 ついにトゥマスをいっぱいにつめた袋を背負った少年が戻ってきた。少年が宮殿に到着し、中庭を横切るのが見えると、国王は、虎を森に逃がしてくれればお金はいくらでも払うと約束した。

少年はやってきて虎を引っ張っていった。視界の外まで行くと、ミタク・マルポは本来の姿に戻り、天国へ帰った。ケサルは虎の皮を肩にのせ、国王のもとに戻った。

「国王さま」と彼は言った。「虎はほんとうに恐ろしい獣です。わたくしが近づくと、わたしを殺そうと、襲い掛かってきました。命からがら、逃げました。なんとか殺すことができたので、こうして虎の皮をお持ちしました」

「おお、よくやった」国王はほっとしてほめそやした。「虎皮をなめしてくれたまえ。どうやるか知っているかね」

「いえよく存じません」と少年はこたえた。

「よく見るんだ」と国王はやってみせる。「こうやってよく揉む。最初は頭を使って揉むのだ」

「わかりました。そのようにやってみます」

 彼は虎皮を受け取って考えた。

「これは吉兆というものだ。すぐにおなじようにホルの首領の頭を揉むことになりそうだ」