9章 

 セチャン・ドゥクモは宮殿の中に隠れて残った。あえて勝利者であるケサルの前に出ようとはしなかった。ケサルは彼女とのトラブルを避けるように出ていった。 彼が去ったあと、鍛冶師の娘ガルザは、不貞の妻に、いっしょにリンの国へ行って許しを請うことを促した。ドゥクモは説得され、ディクチェン・シェンパやトンソ・ユンドゥプとともにリンへ向けて出発した。

 リン国に到着し、ふたりの男は、宮殿の庭のひとつのなかにある、離れて目立たない小さな小屋を宿泊場所として見つけた。ふたりの女は贈り物を持ち、ケサル王の足元でひれ伏した。

 ケサルはディクチェンとユンドゥプが来るのは知っていた。そして彼らがその夜、ひそかに王のもとへ来るように命じていた。彼らは、どんな運命が待っているかわからず、不安でいっぱいだったが、カタ(スカーフ)と贈り物を持ってケサル王のもとをたずねた。

「あなたがたは前世の記憶を持っていますか」とケサルはふたりの男にたずねた。

 ふたりが押し黙っていると、サンドク・ペルリと向かう天国(浄土)においてパドマサンバヴァの支配下で神々と面会した記憶を呼び覚まさせた。かつての仲間であった彼らふたりが、人間の世界で彼の使命をいかに助けたかについて、またおなじ母から生まれたこと、すなわち現世の兄弟であることについて、ケサルは語った。

「トドンが川に投げ込めと命じた麻袋のなかから、3人の子供が発見されました」とケサルは言って、記憶を呼び覚まそうとした。「そのうちのひとり、黒い肌のトプチェン・トゥゴは完全に前世のこと、また人間世界に生まれて果たすべき役目を忘れてしまいました。ホルの側で戦い、彼は私の幼なじみであるギャツァを殺し、その罪を受けて死んでしまいました。あなたたちふたりだけが生き残りなのです。炎の色の顔のディクチェンと青い顔のユンドゥプ、あなたたちだけなのです。

 注意深く私の言葉を聞いてください。あなたたちはすぐにホルへ引き返してください。ただしドゥクモとガルザを連れて。ドゥクモは、クルセルとクルナクのふたりに妻として与えてください。そしてあなたがたは彼らのために奉仕し、彼らの信頼を勝ち取ってください。私のことは秘密にしてください。とくにわれわれが近親であることは伏せておいてください。のちに私の使命が終わったら、われわれは西方浄土でふたたび結合することになるでしょう」

 それからケサルの魔術的な力で4人とも瞬時にホルに戻ることができた。彼らの不在はだれにも気づかれなかった。

 彼らはすぐにクルセルの宮殿に行った。この要塞からほど近いのに、クルセルは兄弟の死と戦闘を知らなかった。彼はこの予期せぬ訪問客に驚いたが、事情を聞いて丁重に受け入れた。

 彼らが7人の神々のダンスやクルカル王の殺害について話すと、クルセル王は絶望のあまり声を荒げた。

「疑う余地はない! これらはすべてケサルの仕業だ! クルナクに使者を送っていますぐ戦士を招集しなければならない! 私も戦士を集めよう。10万の兵をリンに送ってケサル王の行方をつきとめなければならない」

 特使がすぐに送られた。クルセルはディクチェンに、ケサルを攻略するための方法について諮問した。クルカルの元大臣であるディクチェンは、グル・リンポチェの前で約束したことを思い出していた。ホルの悪魔の王たちとの関係は切ることに決めていた。それゆえケサルに有利になるようにクルセルを導こうとした。

「私の考えは王と違っております」と彼は言った。「これらの災難はケサルが起こしたものではありません。ナムティク神、バルティク神、サティク神によって引き起こされたのです。人々は大きな祭典を催すことを、神々に約束しました。ラマを呼び、その提言にしたがって神々に捧げものをしたとき、クルカルはあまり熱心ではありませんでした。おそらく神々への信仰が足りなかったのでしょう。おそらく捧げものが守護神を満足させるほどなかったのでしょう。神々をなだめるのはむつかしいのです。われわれのわずかな間違いでも神々は気を悪くします。そしてすぐに罰しようとします。もし私の意見を聞いてくださるなら、ラマをたくさん集めてナムティク神、バルティク神、サティク神をなだめる儀礼を行うことを提案します。ケサルに関して言えば、彼はリン国にはいません」

 ディクチェンが説得力のある話しぶりで語ったので、クルセルはまたすべてをケサルのせいにするのは疑わしいと思うようになった。彼は戦士を招集するかわりにラマたちを呼び、もうひとりの使者を兄弟のクルナクに送って、ホルの神々を讃える荘厳な儀礼を神々の山で行うので、将軍たちとともに助けてくれるよう頼んだ。

 翌日の朝、旗、幟、槍、さまざまな色の飾りがついた矛、飾り弓などが山の頂上のホルの神々に捧げられた祭祀場(ラツェ)近くに置かれた。トルマやさまざまな献上物のなかでお香が焚かれた。(ボン教の)ラマたちは、太鼓や鈴、ギャリン(チャルメラ)、ラクドン(黄銅角笛)、シンバルなどが演奏されるなか、大きな声で呪文を唱えた。

 儀式が行われている間も、クルセルは壮麗なテントのなかで、辛抱強く兄弟が到着するのを待っていた。クルナクの宮殿は、ホルの神々の儀式が行われている場所からはかなり遠かった。しかしながら、儀式の参加者は、クルナクと7人の馬に乗った男たちが近づいているのを見て、クルセル王に知らせた。

 ケサルはディクチェンがクルセルをだましていることを知っていた。そしてこの時点において、クルセル王、ラマたち、主要な廷臣は山の上にいて、神々を崇拝していた。ケサルは愛馬キャンゴ・カルカルに乗って空高く飛翔し、天上の友人や親類を呼んだ。ケサルを囲んだ彼らはおびただしく、手には雷電、すなわちヴァジュラ(金剛杵)を持っていた。彼らは雲としてやってきたので、太陽が暗くなったほどだった。

 神々はクルセル王や人々が立っている場所の真上に到着した。そして持っているヴァジュラを落とすと、山の上にいた人々は一瞬にして灰と化した。

 ディクチェン、ユンドゥプ、セチャン・ドゥクモは宮殿の中にいたので無傷だった。祭典に行かなかった人々も助かった。ケサルが3神を破壊したとき、人々は巨大なテントの形をした光が山に降りるのを見た。神々がホルに祝福を与えているのだと思って、人々は光に向って五体投地をした。駿馬に乗ったケサルが、空を飛翔し、クルセルの宮殿の前に着いたとき、そんな彼らを見つけたのである。

 宮殿の扉が開かれ、ドゥクモ、ディクチェン、ユンドゥプが、宮殿のほかの人々をしたがえて、ケサルに近づいた。彼らはともされた灯明、華美なカタ(スカーフ)、燃えるお香を持っていた。

 ケサルと神々は、ホルの人々に善の法を説いた。聴き手の階級に応じて、あるいは知性の度合いによって、さまざまな方法で、適宜に教えた。このように仏法の教えはすべての人に利益があった。

英雄ケサルはこのあと人々にイニシエーションを与えた。そしてホルの国全体に仏法を広め、確立することができた。ケサルはクルセルの宮殿におよそ一か月とどまった。

 ホルの3番目の王クルナクは、7人の将軍を伴って、兄および崇拝者の死後しばらくして山の頂上に着いた。彼は炭化した遺体を見て、ぞっとした。

「これはケサルの仕業だ!」と彼は叫んだ。「ケサルと戦うのは無意味である。急いで立ち去ろう。逃げるに越したことはない」

 大臣のリパタルブムは悲しげに首を振った。

「インドへ行こうと、中国へ行こうと」と彼は言った。「絶対に安全だという場所はこの地上にはありません悪魔ガラが書いた予言的な本によると、ケサルは多くの国を征服し、正義の法を解きながら、地球を走破します。しかしわれわれは、とても離れた、人が住まない地域をめざしましょう。おそらくケサルは軽蔑して、そこまでは追ってこないでしょう」

 彼らはンガリ(阿里)のアチュン・バブ・ゾンというところまで逃げた。

 ケサルは彼らの逃走を知っていた。そして沈思黙考した。クルナクと彼の家来たちをどうすべきだろうか? クルセルとナムティク神の崇拝者たちを葬り去ったように、彼らを葬り去るのは簡単だ。しかし、彼らの中にはリパタルブムというトンソ・ユンドゥプの養父もいるのだ。彼はいつもよき父だった。そんな彼を殺すのはあまりにも非情すぎるだろう。7人は無害である。彼らは生かしておくべきだろう。そう考えてケサルは彼らを殺さなかった。

 この7人のホルパ(ホル人)はンガリの山の中で今も隠れている。彼らは巨人なので、われわれがノミを指の間でもてあそぶように、人間を手の平の上で転がした。彼らはそこで暮らすうちに数が増え、いまでは相当の集団に膨らんだという。

 地球の現在の時代の終わりに、彼らは出てきて、仏教徒を滅ぼすという。

 サキャ・パンチェンの精神的後裔であるサキャ派の大ラマは、これら巨人を制御し、彼らの居住区から出てこないように目を光らせているという。

 にもかかわらず、7人の巨人のひとりが、時が熟したかどうか知りたくて、大ラマの監視をかいくぐって外に出てきた。彼はサキャ寺の寺領までやってきた。しかし大ラマは巨人が近くまでやってきたことを感じ取り、巨人を見つけるとそれに向って指をはじいた。すると巨人は倒れて死んだ。大ラマは弟子たちに巨人の首を切断するよう命じた。そして巨人の首を居住する建物の屋根の上に掛けた。それは今日まで残っているという。

 

 ケサルはホルの宮殿に滞在していたが、ドゥクモは永遠の恐怖の中で生きていた。というのも、クルカルとのあいだにもうけた息子がケサルにみつかるのではないかとびくびくしていたからである。ケサルはこの子を嫌うだろうとドゥクモは確信していた。クルカルの子ということは、悪魔の種ということであり、ケサルはこの子を殺さないわけにはいかないだろう。それゆえ彼女はガルザに、秘密を打ち明けないようにと懇願した。

「あなたは幻想に苦しめられているわ」とギャツァは言う。「ケサルがこの子の存在を知ってしまったら、とあなたは言う。でもケサルは全知全能です。ケサルに隠し立てなどできないのです。この子はあなたに何の役にも立ちません。この子から得られるものは何もないのです」

「ともあれ」とドゥクモは言う。「この子は私の体から生まれました。のちにこの子が仏法と仏教徒を滅ぼすかもしれないということは、私にはどうでもいいのです。私はただケサルにこの子を殺させたくないのです」

「どうしたらあなたはそんなことが言えるの?」とガルザは厳しく言った。「あなたはご自身がドルマ・カルポ(白いターラー女神)の化身であることをお忘れになったのですか。何がいま起こっているか、よく見ていきましょう。その間、沈黙を守ることをお約束いたします」

 クルセルの宮殿で一か月を過ごしたあと、ケサルはリンに戻ることを考え始めた。しかしクルカルの子が生きているということを知り、そのことが頭から離れなくなった。彼はその子を殺す決心がついたが、母親の胸からむりやり引き離すのは、彼女の苦しみを思うと、躊躇せざるをえなかった。そこで子供を母親から引き離す策略を彼は練った。

「あす」とケサルはトンソ・ユンドゥプに言った。「ドゥクモを私の前に連れてきてくれ。私はリンに戻ろうと考えている。いっしょにリンに戻るかどうか、ドゥクモの考えを聞きたいと思っているのだ」

 ユンドゥプはケサルの伝言をドゥクモのもとへ持って行った。彼女は「母国をふたたび見ることができるのはこのうえない喜びです」と返答した。

 ドゥクモは身につけたい宝石を箱に詰めるなど、すぐに出発の準備をはじめた。これらの荷物を運ぶには非常に多くの動物が必要だった。

 息子に関していえば、彼女は絹の織物にくるみ、白檀の櫃に坐らせ、信頼のおける召使いの女に世話を頼んだ。

「私はあなたを置いてリンへ行こうとしているのよ」と彼女は赤子に向ってささやいた。「そんなに長くはあちらにいないから、戻ってきて、また会えるからね。それからは別れることもなく、ずっといっしょにいられるからね。あなたは大きくなったら、ホルの王様になるのよ」

「お母さん」と子供はこたえた。「ぼくはいま3歳だけど、6歳になったらリンへ行って、もしお母さんがさまよっているようなら、連れ帰るよ。そしてケサルを殺して、ケサルが掲げる仏法を破壊するんだ」

ドゥクモは息子が勇猛に話すのを聞いてうれしかったが、もっと謙虚であるよう忠告した。

「あなたが言っていることは正しいわ。でも私以外の人の前でそんな言い方はやめて。ケサルは普通の人間ではありません。力強い魔法使いなのです。彼から攻撃を受けないよう自身を防御してくださいね」

 ドゥクモはケサルのもとへ行った。彼は宮殿を出ようとしているところだった。

 彼に随行するのは800人の兵士と荷役の90頭の騾馬だった。

 かつてドゥクモが銀の瓶を隠したコンカルティスム山の麓に一行が達したとき、ケサルは突然宮殿に忘れ物をしたのを思い出したかのようなふりをした。

「忘れ物を取りに戻らないといけない」とケサルは妻に言った。

 息子のことが心配でならないドゥクモはケサルに行かないよう説得した。

「どうしてわざわざ戻ろうとなさるの?」とドゥクモは言った。「ディクチェンでも、ガルザでも、私でもかわりに行けるのに」

「いや」とケサルはこたえた。「それは神々から賜った空から降ってきた鉄でできた剣である。クルカルを殺したのはこの剣だ。それは白檀の箱のなかに置いていた。私以外にだれが取れるというのか」

 ドゥクモは、ケサルが息子の存在を知っていること、また息子を殺そうとしていることがわかった。

「私に息子がいることをご存じなのね」とドゥクモは泣きながら言った。「息子を殺すのなら、私も殺して。そのほうがいい」

 ケサルは驚いたふりをした。

「息子だって? いまはじめて聞いたぞ。殺すことはないよ。わが剣は子供に触れることもないだろう。傷つけることは絶対にない」

 ドゥクモは彼の言葉を信じることができると思った。英雄ケサルは天馬に乗って飛んで行った。彼は宮殿のバルコニーに降り立ち、隙間からなかを覗くと、小さな男の子が目を覚ましているのがわかった。

 子供はまっすぐ立ったまま、動かず、考え事をしていた。他人の考えを読むことのできるケサルは、子供の考えも読めた。

「ぼくはまだ3歳だけど、大きくなったらお父さんを殺した殺人者に復讐することができるだろうか。ぼくが成功するかどうかは前兆となって示されるはずだ」

 子供は小さな弓を手に持ち、矢を弓に置いて、大きな声で言った。

「もし矢が扉を貫いて庭の端に届いたら、それはぼくがケサルを殺すことができることを表す」

 子供が矢を放つと、それは扉に当ってふたつに割れた。

ケサルは、子供が大きくなったら、強力な敵となり、リンにとってと同様、彼自身や仏法にとっても手ごわい存在になると考えた。彼は子供を殺そうと考えたが、ドゥクモへの約束にたがうことになってしまう。

 このときラ・ツァンパとマネネが現れた。これの神は両肩に現れ、耳元でささやいた。

「躊躇することはない、英雄よ」と彼らは言った。「この悪魔は滅ぼさなければならぬ。いかなる武器も使わずこの子供を取り除くのを助けよう」

 神々が子供の立つ講堂の柱を持ち上げると、ケサルは子供の足をつかみ、柱の下に押し出した。神々が手を離すと、柱はもとあった状態に戻り、犠牲(子供)は柱の重みに押しつぶされた。

 ケサルはすかさず子供の魂を「大いなる至福の浄土」に送ってやり、それから急いで隊商に戻った。

 ドゥクモは探しに行った剣はあったかどうかたずねた。ケサルは手に取ってそれを見せた。つぎに彼女は息子を見たかどうかたずねた。

「見なかった」とケサルはこたえた。「だが宮殿のまわりにたくさんの神々が集まっているのが見えた。おそらく子供は死んだのでは?」

 ドゥクモは夫が曖昧な約束をして欺いているのだとわかった。ケサルは自分の手で殺しはしなかったが、彼のかわりに神々のなかの友人が殺したにちがいない。彼女の悲しみは大きかったが、彼の慈悲深い習慣によって、犠牲者の魂を祝福された地に転生するよう送ったにちがいない。そう考えることがせめてもの救いで、母としての怒りを幾分でもやわらげることになればよかった。彼女にはどうしようもなかった。彼女はただうなだれ、黙るしかなかった。

 たった一日で、一行は普通の4回分の旅の行程を進んだ。まもなくして彼らははリンのカルマ・チュギ・ヤダ、リンのトゥ・マクギ・ヤンラブ、ドタ・ルンパイ・スムドが交わる地域に達した。彼らはここには野営した。

そのときケサルはディクチェンに言った。

「いままでおまえはどこにも属さないで生きてきた。しかし明日、リンの人々は私に会いに集まり、おまえを見て、侵略軍の将軍であったことを思い出すかもしれない。もしおまえを罰しなかったら、驚き、不平を言うだろう。それゆえおまえは一連の行動を受け入れる必要がある」

 ケサルは、鉄の鎖でディクチェンを杭に縛った。

 翌日、将軍やラマを含むリンの村人たちが、徒歩で、あるいは馬に乗ってやってきた。その数は1万人にも上った。

 アク・チポンが勝利者であるケサル王の歓迎式典を取り仕切った。人々はみなカタ(スカーフ)と贈り物を持って出迎えた。

 最後に到着したのはトドンだった。ディクチェンが鎖につながれているのを見て過度に喜んだ。これが高所から見下ろしていた偉大なる大臣どのか、とトドンは自分自身に言った。受刑者に近づいて彼は話しかけた。

「いやっほう、お元気かな、赤ひげのディクチェンどの。不死身の大臣だったな。もうお忘れになったかな、あんたが12万の兵の長としてリンを侵略し、こちらの将軍をたくさん殺してドゥクモどのを連れ去ったことを。あわれな男よ。タムディン(馬頭明王)の化身であり、リンの将軍であるオレさまがあんたの手足を縛り、耐えられなくなるまで鞭打ってあげよう」

そして待ちきれず、トドンは棒で何度も叩き、足で蹴り、につばを吐きかけて叫んだ。

「五百発、棒でたたいてやろうぞ、この悪魔め!」

「お主、黙ったほうがいいぞ」とディクチェンはやり返した。「おれがリンに着いたとき、すぐに降参したのはお主だろう。強いほうに附こうという魂胆だったように見える。ホルが勝ちそうになると、戦利品に預かろうと、節操もなくホル側に寝返ったのであったな。

 おれはクルカル王の奴婢だった。生まれたときから王はおれの債務者だったのだ。それゆえ王の命令には背けなかった。おまえは何だというのだ。卑劣な売国奴ではないか。もしおれが罰を受けるなら、おまえはオレの10倍の罰をうけるべきだろう」

 こういった言葉を聞いてトドンは怒りを抑えきれなくなった。

「へえっ」とトドンは興奮して言った。「今度はおまえを殺してやる」

 彼が鞘から剣を抜いたとき、騒音を聞きつけたユンドゥプがあらわれた。ディクチェンが目配せすると、ユンドゥプは干渉しようとした。

 クルカルの元大臣は、ケサルに、いま起きている問題について説明し、訴えた。ディクチェンだけが罰を受け、侮辱され、売国奴に好きなようにさせられているのはけしからんと言った。

 しかし英雄ケサルの返事はつれなかった。ただ敵対する者同士は分けよ、と命令するにとどまった。ディクチェンは鎖につながれたままで、トドンは王室テントの近くに退去するよう命じられただけだった。

「何をおっしゃるのですか」とユンドゥプは声を荒げた。「正義を執行する時間がないのですか? 世界にはもっと急を要すること、もっと必要なことがあるというのですか? あなたは公正な統治をするために地上に転生した神々の子だったのではないですか。これらの人々を裁く時間がないから、獣のように喧嘩をして決着つけろということですか?」

「言いたいことはよくわかった」とケサルはこたえた。「過去の行動をあとでどうのこうのということはできない。善者も悪者もそれ自身によって報いられるものだ。もしディクチェンが鎖を破ることができたなら、私は彼がトドンと戦う許可を与えよう。もしそれができないなら、一生鎖につながれたままとなるであろう」

 ユンドゥプはケサルの言葉をディクチェンに伝えた。一方トドンは少し離れた安全な場所に坐って相変わらず彼を侮辱し、ののしりつづけた。それはディクチェンの怒りに火をつけ、力を倍増させることになった。彼は鎖を断ち切り、身をトドンの前に投げ出した。

 迫ってくるディクチェンの姿を見た臆病者のトドンは、全身総毛立った。逃げようとしたが、小太りの彼は敏速に動けなかった。ディクチェンはトドンの上にのしかかり、乱暴に長い髭をつかむと、何度も身体を地上から宙にあげ、最後には力いっぱい地面にたたきつけた。

 トドンの叫び声が野営地にこだました。何事が起きたのかと、四方から兵士がんだれこんできた。トドンはリンの人々の間で人気はなかったとはいえ、このようにホル人を怒らせれば敵愾心をあおり、そうすれば人々は将軍を守ろうとし、ディクチェンに害を加える可能性もあった。ケサルは従者を送り、ふたりの間に割って入らせ、彼らを連れてこさせた。

「トドン、あなたはなぜ勝手にディクチェンを侮辱したのか」とケサルは厳しく言った。「罰と報償は私の顕現である。ここにいる数日間、すべての人が平和に過ごせることを私は願っているのだ」

 

 ケサル一行が野営を終え、リンに戻るとき、ディクチェンは戦争捕虜として最後尾についた。しかし出発前、女神マネネが、クルカル王の元大臣について、ホルの王につける運命にあることを、そして来たる戦いに有用な人材であると言っていたことを思い出した。また女神は、ディクチェンをやさしく扱うことを願っていた。ケサルもそう心がけていたが、それは彼らの母親がおなじだったからである。

 それゆえリンに着いてから、ケサルはディクチェンに外に出ないように命じていたのである。そしてある一定期間、ホルの魔王と関係を持ったことからくる心のけがれを除去するために、宗教儀礼をいくつか行うことをすすめた。

 償いの帰還を終えたディクチェンは、ケサルとの謁見を強く願い、カタ(スカーフ)と贈り物を持ってケサルのもとへ行った。王の前でひれ伏したあと、ディクチェンは王に心の平静を完全に取り戻すことができたと説明した。それはつねにホルの悪魔によって妨げられてきたのだ。彼は王やリンの人々に対して間違ったことを行ってきたと認識することができるようになっていた。

「私を殺してください」と木偶チェンは言った。「そして魂を浄土へ送ってください。あるいは遠い聖地への巡礼をお許しください。というのも、リンの戦士たちはかつて侵略した私をけっして許そうとせず、私のみじめな死を望んでいるのではないかと、いつもびくびくしながら生きているからです」

 こう話しながら彼は苦悶の表情を見せた。

 神々がディクチェンを気にかけていることを知り、彼が仏教に転向したホルを統治する能力があることを認めたケサルは、望み通りリンを去ることを許した。ただしだれにもそのことを話さないことを条件とした。

 ケサルはまた、前世が神の子であった者にふさわしいさまざまなものを、ディクチェンに授与した。

 翌朝、日が昇る前、キャンゴ・カルカルに乗ったケサルと赤い馬に乗ったディクチェンはだれにも見られずに、リンを去り、ホルの方角へ向かった。

 しかしながら、出発前に、ケサルは自分と似せた影武者を作ることを忘れなかった。この影武者は彼の習慣的な行動はすべてこなし、まわりの人々すらもだますことができた。セチャン・ドゥクモや召使いが、絨毯に坐って聖なる経典を読む王のかたわらに朝のお茶を運びこんでも、本物の王がじつは出発していることに気づかなかった。

 しかしディクチェンや王の愛馬の影武者はいなかったので、いずれ彼と馬が消えたことは周知のこととなるのだった。長時間人々は蹄のあとを調べ、彼と馬がホルの方へ向かったことはわかった。

 ディクチェンと馬が消えたということは、このホルの元大臣が王の愛馬を盗んでホルのほうへ逃げたのだと結論づけられた。ケサルが慈悲深く、やさしく扱ってきたのに、この裏切り者は神聖なるキャンゴ・カルカルを盗んだのだ。

 馬が盗まれたことを知って興奮した人々は宮殿に押しかけ、犯人を追う命令が下されることを願った。しかしセチャン・ドゥクモが出てきて、ケサルは何日間かこもって瞑想し、だれとも謁見しないと発表した。とはいえ、事件は重大だったので、ドゥクモは瞑想中の夫を呼び、いま聞いたことを話した。敷居にまで押しかけた群衆は、争って前に出て王の命令を聞こうとした。

 偽ケサルは笑みを浮かべていた。

「キャンゴ・カルカルは神の馬である」と王は言った。「だからだれもこの馬を盗むことはできない。みなの者、安心して家に帰るがよい」

 彼らは驚いたがあえて反論しようという者はいなかった。みなすごすごと戻っていったのだった。ドゥクモはといえば、ケサルの魔法の力を知っていたので、ディクチェンと愛馬がいなくなったことには何か狙いがあるのだろうと考えた。

 そのあいだにケサルとディクチェンはホルに着いた。ケサルはすぐに「法の太鼓」を叩かせ、将軍や人々を招集した。人が集まると、ケサルは、神々の命令により、ディクチェンがホルの王につくことを発表した。

 クガル・ヤティイ・チュドで、大きな祝典が催された。ホルは、いまやケサルのリンの同盟国であり、彼の指揮下で戦うこと、またリンからの要請があればともに戦うことが発表された。

 それからケサルはリンへの帰路に就いた。その途中、千里眼によってケサルは、さまよう霊チデ(悪魔の一種)を発見した。それはホルのラマ、グル・アムンの転生する霊だった。アムンは、ボン教と仏教の法に精通した強力な呪術師だった。その呪術によってリンの人々に災難がもたらされたのである。そして最後には人々によって殺された。憎悪の感情を擁きながら、死んでいるのに、魂は悪霊としてよみがえり、新しい形となっても、人々に害を与え続けていた。

 ケサルはこの霊をなだめるべきだと考えた。そのために、故人の友人であるホルのモパ、ラマ・ドゥンゴに変身した。ドゥンゴの姿を見るとアムンは苦しそうな表情を浮かべ、彼はリンの兵士によって殺されたのだと考えた。そしてポワの儀礼が行われていないため、魂が浄土への道を見つけることができないのだと気づいた。

 友情にうながされ、あるいは自分自身が死んでいることに気づかず、正確にはラマ・ドゥンゴがそうした状況にあると考え、その魂を幸福の住む場所(浄土)に行くのを助けようとアムンは近づいてきた。

 ケサルはアムンに、あなたはもうこの世界に属していないと告げた。アムンははじめケサルのいうことを信じなかった。死んだという記憶がなかったのである。そこでケサルは「虚無の投げ縄」でアムンをつかまえた。そしてアムンが学識のあるラマであることを知っていたので、ボン教や仏教の教えにもとづいた因果の法について説明した。

 ようやくアムンは自身が死んでいることを納得し、心が変わっていることを認識し、悪行を反省し、もはやおなじあやまちを犯さないことを願った。その真摯な態度に応じ、ケサルはアムンの魂を祝福の場所、浄土へ送った。悪魔はここに死んだのである。

 だれにも見られることなくリンに戻ったケサルは、はなっておいた影武者を取りおさめた。翌日、人々はキャンゴ・カルカルがもとの場所にいることを知った。彼らは急いで食べ物を運び、愛馬が戻ったことを王に知らせた。

 そのことを聞いたケサルはまたも笑みを浮かべただけだった。

「それはよきこと」と彼は簡潔に述べた。

 ドゥクモはそのとき、本物のケサルが戻ったことを知った。