10章 

 ジャンの国の王サタムは夢を見た。夢の中に祖先神でもある守護神が出てきた。

 ナムテ・カルポ・ラカルキャは、さまざまな色の雲のテントのなかで、赤褐色の馬にまたがっている。彼は雲の、月の色の経帷子をまとい、輝く兜をかぶっている。彼は刀を振り回す。その柄(つか)は三叉だった。

 神は説得力のある声で言った。

「サタムよ、目を覚ませ! 起きるのだ! サタムよ、行くのだ! 生きるものに生命力を与える極上の食べ物があるぞ。サタムよ!」

 蛇を編んで造った誇り高い城の中、いつのまにか夜が明けた道上を黒いヤクに乗って進むのはサテ・ナズクポだった。その目は三日月のようだった。彼は鉄の鎧兜を着て、蛇の投げ縄をターバンとして頭に巻いていた。そして「いのちを断ち切る剣」を装飾として脇に差していた。

 神は力強い声で言った。

「サタムよ、目覚めよ! 起きるのだ! サタムよ、行くのだ! 生きるものに生命力を与える極上の食べ物があるぞ、起きるのだ!」

 霧の幕の向こうに暗い嵐の雲で造られた宮殿があった。怒ったバルテは山羊にまたがった。彼の鎧は雷のように光り、鋭い剣は赤く輝いた。

 神は恐ろしい声で言った。

「サタムよ! 目覚めよ! 起きるのだ! サタムよ! 行くのだ! 生きるものに生命力を与える極上の食べ物があるぞ、起きるのだ!」

「ジャンの王よ」と神はつづけた。「おまえはなぜ何もしないのだ? おまえが触れる最前線は豊かな土地だ。肥えた土地がだれのものであろうと、所有する人々には福をもたらすものである。そこはマルカムの国である。その向こうにはケサル王の影響が及んでおり、近いうちに彼が支配者となるだろう。おまえが先んずるなら、このときまで待つ必要はない。でなければケサルはマルカムを自分のものとし、おまえの領域にまで軍を進めてくるだろう」

 そして3人の神は順繰りに現れては繰り返した。

「起きろ、サタム! 行け! マルカムの肥えた土地を征服しろ! サタムよ!」

 起きるやいなや、王は大臣ペトゥルに夢の話をした。そして祖先神の命令にしたがって軍を動かしたいと表明した。

 ペトゥルは王の言葉を聞いて熱狂的に支持するどころか、不賛成だった。少し前、サタムの性格に悲しむべき変化があった。以前の王は明るく、思慮深く、慎重だったが、現在は過度に落ち着かず、そのため気が変わりやすく、不条理な行動を取ってしまう。大臣は率直に彼が観察したことを王に述べた。そして国の評議会でも討論した。そこで話し合われたのは、ジャンの軍隊を推し進めた場合、リンの軍隊との衝突は避けられないだろうということだった。

「国王さま、ケサルは神の種族に属します」とペトゥルは繰り返した。「ケサルは無敵の強さを誇ります。ケサルにジャンを攻撃する口実を与えるということは、ジャンの破滅を意味します。昔のように、攻撃は思いとどまってください。平和のなかでこの国は栄えることができるでしょう」

国王と王妃アシとのあいだに生まれた王女ペマチョデンは大臣の意見に賛成し、ケサルを挑発するのは愚策であると主張した。

 数人の将軍もおなじ意見を持っていたが、大半はサタムの意見に同調した。国王の長男ユラはそのなかでも、もっとも過激に戦闘を主張した。

「なぜ」とユラは言った。「臆病風に吹かれてじっとしていなければならないのか。それは戦士のとるべき行為ではない。そもそも王と神々が戦えと命じているのだ。神の命令は論議するものではなく、従うものなのだ」

 サタムは、彼の意思に疑義を呈する者たちを厳しくののしり、服従を強いた。話し終えると彼は口を閉ざし、歯ぎしりしてやかましい音を立てた。彼の目は怒りに燃え、きらきら光る銅の玉のように眼窩のなかでくるくると動いた。

 王はそれから異なる軍隊の強化、実践配備、前線で指揮する将軍の選抜を命じた。

 

 サタム王がマルカムの地への侵攻を準備している間、鷹に乗ったマネネは、ある夜、数人の神に守られながら、リン国の宮殿にいるケサルのもとに現れた。

「目覚めなさい、高貴なる英雄よ!」と女神はケサルに呼びかけた。「休んでいる場合ではありません。あなたが滅ぼす使命を持っているサタム・ギャルポ、西方(ママ)の王が、あなたと戦う準備を着々と進めています。

サタムはあなどりがたい敵です。彼の指揮下には真の勇者というべき将軍たちがいます。あなたはすぐに遠征しなければなりません。しかし不用意に、強靭な将軍が率いる敵の軍隊に攻撃を仕掛けるべきではありません。

とくに注意すべきは挑発的な王の息子、ユラです。彼もまた神の種族に属し、あなたとおなじように強く、だれも彼を負かしたことがないのです。

前世において、あなたたちふたりは友情で結ばれていました。彼はこの結びつきを忘れ、彼の犯したあやまちのため、悪魔の種族の父親から生まれました。このことはよく覚えていてください。

のちに彼は得難い仲間であることを証明するでしょう。ですから深く考えて彼を待遇してください。そして計略を練って彼を戦いから遠ざけてください。このように策略を駆使して、戦闘に入る前にジャンの力を弱めてください。

そして明日、ディクチェンに使者を送りなさい。彼なら戦士らとともに駆けつけてくれるでしょう。あなたにとってディクチェンはかけがえのない戦力となるはずです」

 女神の声を聞いたケサルは、急いで香を焚き、祭壇の灯明をともして敬意を表した。彼は両手をあわせ、ルツェンやホルの3王を倒す役目を果たしたように、サタムを倒すことを誓った。彼は、勝利をたしかなものとするために、最適な手段を講じてくれるよう女神に祈った。そのときが来れば他の神々と同様に助けてあげられるだろうと彼女はうけあった。

「私の言うことをよく聞いてください」とマネネはこたえた。「あなたが何をすべきか教えてあげましょう。

 サタム王朝の初代王のとき、馬で表わされた貝殻製の像が作られました。強力な呪術によって、知識のある呪術師はその像に、特別な守護神が王統の王子を代々守護するように仕組んだのです。

この像は敵の存在を知らせるために、しゃべることもできます。しかしその声を聞くことができるのは王子だけなのです。サタムの力をそぐためにも、あなたはこの像を破壊しなければなりません。あなたの軍隊が近づいているという情報がもたらされる前に、できるだけ早く遠征に出発すべきです」

 このように述べて、女神マネネは消えていった。

 夜が明けると、ケサルは大臣や評議員に使者を送った。ケサルは彼らに女神マネネから受け取った命令を伝え、リンの戦士を動員すること、ディクチェンに使者を送り、彼の指揮と彼の部隊参加を求めることを命じた。この最後の命令は強烈な反発を招いた。

 リンの将軍たちはかつての敵軍の協力に猛烈に反対し、外部からの助けなしには勝利がもたらされないと王が判断したこと自体、屈辱的だと感じたのである。彼らは騒ぎ立てて、ケサルは間違っている、ディクチェンを呼ぶというかが絵は捨てるべきだと懇願した。ジャンへの侵攻の準備はできている、彼らを征服するのはわれわれだけで十分だと声高に叫んだのである。

 英雄ケサルは権威をもって彼らを説得し、意思を理解させる必要があった。使者はホルに向って出発した。ケサルは飛翔する馬に乗り、天空へ昇り、あっという間に視界から消えた。

 貝殻製の馬はユムドゥン・ジクゾンにある大テントのなかにいた。この大テントは、扉のない青銅の壁に囲まれた黄色の花咲く庭のなかに立っていた。ケサルはキャン(野生のロバ)に変身し、もう2頭のキャンを作り出し、このキャン3頭が庭の花をかじりはじめた。宮殿の召使いが窓からこれら3頭のキャンを発見し、国王に知らせた。扉がないのに中に入ったのは、奇跡のように思えたのである。

 王は古代の予言を思い出した。それはルツェンとクルカルを倒したあと、ジャンに攻撃を仕掛けてくるというものだった。しかしサタムは聖なる大テントのまわりで草花を食む動物の本性に関しては、見誤った。彼は考えたのである。「これらは貝殻製の馬のトゥルク(転生ラマ)にちがいない」と。「それは遠征に出ようとしている私を保護するために作られたものだろう。リンの国王が先んじて攻撃を仕掛け、わが領域を侵略するのを妨げるということだ。まずこの動物を見て、それからモパ・ラマ(占い僧)に相談し、このことの意味をあきらかにしよう」

 扉のない壁の中の囲い込みに入ることは不可能なため、サタムは、愛妃と廷臣を伴って宮殿の屋根のテラスへ上がり、下の貝殻馬寺院を見下ろした。召使いは急いで主人たちのために虎や豹の絨毯を広げようとした。

 しかし王や愛妃、廷臣らが着席する暇(いとま)もなく、突然ひどい嵐がやってきて屋根を吹き飛ばし、絨毯を巻き上げ、人間も突き落とした。大混乱のなか、屋根から王妃が投げ飛ばされた。彼女の体は秘密の庭に落下した。彼女の頭蓋骨は割れ、骨は折れ、横たわって動かなかった。それと同時に3人のトゥルクが白い虹のなかに消えていった。

 若い妻を愛していた国王の悲嘆ぶりは、見るに堪えないほど痛ましかった。すべての大臣、貴族、奉公人らは、国王とともに嘆き悲しみながら、一夜を過ごした。王妃の遺体を回収することができなかったので、通常の葬式を行うことができず、いっそう悲しみは増した。

 翌朝、3人の巡礼のラマが宮殿の門にやってきた。

「彼らの到着は都合がよい」と悲しみに暮れる国王が言った。「ラマたちをここへお呼びしろ。きっとモ(占い)にも長けていることだろう。3頭の謎めいたキャンについて占ってもらおう。そして王妃の体を持ち上げた方法についてもたずねよう」

 彼らはサタム王の並外れた夢について聞いた。夢の中でサタムは軍を遠征させ、ケサルはジャンを攻撃する。そして悲しい結末が待っていた。ラマたちはモ(占い)を得意にしていたので、王に対し、すべてのことをあきらかにすることができると宣言した。

 夜が近づくにつれ、モ(占い)の内容がわかってきた。

「王と家来は間違いの犠牲者となります」と彼らは言った。「貝殻の馬はサタムの守護神ではありません。それは悪魔であり、敵であり、ケサルの勝利のために長年準備をしてきたのです。王妃を殺したのはこの悪魔なのです。悪魔はいま、国王を殺そうとしています。つぎに大臣、そして将軍の命を狙っているのです。もし急いで像を破壊すれば、王や将軍は長く生きることができ、領地も繁栄するでしょう」

 状況は差し迫っていた。巡礼の僧たちの言葉は、古代から伝わる伝統とは異なっていた。大臣たちは聖なる貝殻の馬に手を置くことを躊躇した。一方国王は悲しみに打ちのめされていたので、理性に耳を傾けるのを拒んだ。

「貝殻の馬はわが愛する妻を殺したので、それはすぐ壊されるべきだ」と王は言った。

 そしてラマたちのほうを向き、彼らがその破壊という行為をすることができるかどうか聞いた。

「できますよ」と彼らはこたえた。

 重い斧で彼らは壁を崩した。そして貝殻の馬を壊した。そして王妃の遺体を持ち上げ、王の部屋に運んだ。

「国王さま」と彼らは国王に言った。「あなたの心を悲しみからそらさないでください。葬式をあきらめないでください。王妃のご遺体を臥所(ふしど)に置き、そのままだれにも近寄らせないでください。そうすればのちに王妃の命は蘇ってくるでしょう」

 その約束を信じて、国王は暗い部屋に王妃の遺体の横に残り、だれも入れないようにした。ラマたちは去り、巡礼の旅をつづけたようだった。

 実際は見えなくなると彼らは消え、トゥルクである彼らのひとり、ケサルは白い光に包まれた愛馬キャンゴ・カルカルに乗り、飛び去った。

 リンの宮殿で待っていたのは将軍たちが招集した戦士たちであり、軍隊を先導しているのはディクチェンだった。

「私の仕事の最初の部分は達成された」とケサルは彼らに語った。「いま、われわれの出撃するときだ。しかしその前に、私は行く手をさえぎる障害を除去しなくてはならない。

 私が住む天界には、友人であるインド人魔術師ラトゥ・オパ・ドゥンナルがいる。彼は国王サタムの長兄、ユラ・トンユルとして地上に転生した。彼は無敵であり、その指揮下で戦う戦士たちと強さにおいて通じ合っているのだ。

 ユラが彼らを率いているかぎり、われわれはジャン国を征服することはできないだろう。しかしわれらの手によってユラが負傷するのも喜ばしいことではない。というのも、彼がわが天界の友人であるだけでなく、将来の同志でもあるからだ。

 ユラが戦闘に参加しないことを私は願っている。私は彼に夢を見させ、湖の近くのツァムツォカに行くように仕向けよう。ディクチェンにはそこに行って待ち伏せしてほしい。そして計略でもって彼を捕えてほしい」

 翌日の夜、サタムの長兄は夢を見た。彼はツァムツォカにいた。そこで彼は赤い馬を放牧する赤い男と出会った。異邦人と彼はいっしょに、お茶を飲みながらなごやかに談笑した。

 朝、目覚めた彼は夢のことを母親に話した。そしてツァムツォカに行きたいと思った。

 母親は行かないよう説得した。

「リンのケサルにちがいないわ」と母親は言った。「ケサルなら魔術に秀でているもの。彼はにせの夢を用いてホルの3王を破滅に導いたのよ。彼がわたしたちを侵略しようと考える根拠もある。だから気をつけて。ツァムツォカには行かないで」

 しかしユラは母親の願いを聞き入れなかった。

「夢の中身は驚くべきものでした」と彼はこたえた。「ぼくはそのつづきをどうしても見てみたいのです」

 そしてユラは鞍を置き、馬に乗って出発した。

ディクチェンは夜明け前に湖畔に着いていた。彼はお茶を作り、乾燥肉とツァンパを食事のために出した。待っている間に自分が言うこと、することにつて熟考した。そうしてユラをつかまえ、彼とともにリンに戻るつもりである。

 太陽が地平線の上に姿を現した頃、ユラが馬に乗って駆けてきた。

「なんという驚き!」と、ディクチェンと馬を見た彼は心の中で叫んだ。「ここにぼくが夢の中で見た男と馬がいる!」

 彼はディクチェンのほうに近づいた。

「あなたはどなたであるか? どこから来られたのか?」と声が届く範囲に入るとユラはたずねた。

「私はホルのディクチェン・シェンパという者です」とディクチェンは丁寧にこたえた。「私はユラという方に会うためにジャン国へ行こうとしています。その方と私は前世において兄弟だったのです」

「これはまた驚きだ!」と王子は叫んだ。「ぼくはユラです。昨日夢を見ました。夢の中でまさにここであなたと会うのです。それは吉兆ではないでしょうか」

 それからユラは鞍に掛けていた絨毯を下ろして草の上に広げ、彼らはそこに坐って飲んだり食べたりした。

 そうしている間も、ディクチェンはつねに頭の中でどうやって仕事を果たそうかと考えていた。彼は精神的にケサルを呼び出した。ケサルは風のような速さでやってきて、ユラの額に止まった。するとユラは深い眠りに落ちた。

 ケサルの助けに感謝しながら、ディクチェンは若者の手足を縄で縛った。王子は目覚めたとき、体が縛り上げられていることがわかった。裏切り者とディクチェンを激しく非難した。

「そんなに怒らないでください」とホル王は言った。「私はケサルの命令に従っているのです。ケサルはあなたをリンに連れてくるよう命じました。ケサルはあなたにとってよかれと思って命じたのです」

「ぼくはケサルのとこになど行きたくない!」とユラは反駁した。「ケサルなんか、見たくもない!」

 そしてユラがあまりにも激しく暴れて抵抗したので、縄がちぎれるのではないかとディクチェンは恐れた。それでもなんとか馬に乗せてしばり、そのままリンへ連れて行った。

 ユラが近づいていることを知ったケサルは、人々に命じてカタ(スカーフ)をもって歓待させた。こうして恐怖感を和らげ、ケサルのもとへ運ばせた。

 ユラが見える距離まで近づくと、ケサルは彼に言った。

「ユラどの、私を知っておられるか」

 これらの言葉が眠っていた記憶を呼び覚ました。彼は前世において、天界で、ケサルの友人だったのだ。悪魔の国に、貧しい知性を持って生まれたことを知って彼は絶望的な気分になり、泣き始めた。

 縄から自由になり、ユラは「白い獅子の乳」によって沐浴した(一種のイニシエーション)。黄色い絹の衣を着て整列し、小さな旗がついた鉄の兜をかぶり、彼はケサルの前の赤い虎の皮の上に坐った。

 

 翌日、リンの軍隊はジャンに向けて出発した。それぞれ10万の兵からなる軍隊を率いる5人の将軍が先に進んだ。ケサルはセルワ・ニブムやユラをつれて、8千人の護衛兵とともにあとにつづいた。彼らはみなその夜、ツァムツォカに野営した。

 その間サタムは兄弟から、息子のユラが奇妙な夢を見て、ツァムツォカへ行き、そのまま帰ってきていないと聞いた。

「私の考えですが」と兄弟は言った。「ケサルの我が国への遠征に関する予言はいま、現実のものとなりつつあります。ケサルはもう近いはずです。われらはすぐ、4万人のよく訓練された兵士を動員するべきでしょう。すぐに招集をかけましょう。そしてすぐにユラを捜すため人を送り、リンの部隊の動きを探らせるためにスパイを送り込むべきです」

 国王は兄弟の忠言を受け入れ、大臣らもみな遅れることなくそれに従うことに同意した。

 7人の男がツァムツォカへ送られた。ケサルはその千里眼によってこのことを知り、また4万人の部隊が都の近くで出動したことを認識していた。

「この7人は捕虜としなければならない」とケサルは宣言した。このケサルの言葉によって、選ばれた7人の官吏が金で飾られた鞍をそれぞれの馬に置き、投げ縄を持って、敵の斥候(7人の男)が来るのを待ち構えた。

 ケサルは神である友人からもらったディプシン(人や物を見えなくする特性を持った小さな棒)を持っていた。彼はこれを野営地のまわりに突き刺した。サタムの7人の男がやってきたとき、湖に境界があり、人が立ち去ったあとを発見した。彼らは国王に報告するものは何もないと考え、そこに坐って食べ始めた。この瞬間、7人の官吏たちは投げ縄を投げ、それぞれつかまえて捕虜とし、リンの野営地に引きずっていった。彼らが近づくと、ケサルはディプシンを引き抜いた。サタムが送った7人は、自分たちが敵の大きな軍隊のまっただなかにいることを知った。

 ユラはカタをケサルに贈り、捕虜となった7人を殺さないようにと懇願した。というのも彼らは悪魔の種族ではなく、ジャンに住む普通の人間にすぎないからだ。

「明日」と彼は付け加えた。「わが父の兄弟が来るでしょう。彼は本当の悪魔です。彼は殺してもかまいません」

 ケサルは7人の男の命を奪わないことに同意した。しかし彼らに足枷をつけ、監視下に置いた。

 ジャンの宮殿では、王の兄弟チュラ・ポンポ・セルバチェンが国王に謁見するためにやってきた。国王は部屋にこもって瞑想をしていたのだ。

 「間違いない」と彼は言った。「ケサルはまちがいなく近くをうろついている。ユラも帰ってこないが、おまえの斥候たちもどこに行ったのだ。わし自身がツァムツォカに行こう。そしてケサルを探し出して血祭りにあげてやる」

 つぎの夜、女神マネネがケサルを起こした。

「気をつけなさい、ケサル」と彼女はささやいた。「明日、チュラ・ポンポがここに来るでしょう。チュラは力強い悪魔です。無理をして自分で戦いを仕掛けないでください。だれも彼には勝てないのですから。

 キャンゴ・カルカルに乗って好きなときに野営地を出発してください。風よりも速いディクチェンの赤い馬、鷲のように速いデマの白い馬とセ・ダブラの青い馬、それらをあわせた4頭の駿馬は超常的な能力を持っています。その力があれば、悪魔など敵ではないはずです」

 女神はそう話し終えると、天界へと帰っていった。

 明け方、ケサルは彼自身が指示されたとおりの命令を下した。チュラ・ポンポがやってきたときは、野営はなく、4頭の馬だけが放たれていた。そのなかに英雄ケサルの馬が含まれていることに彼は気づいた。馬の主人はそれほど遠く離れたところにいるわけではないだろうと彼は推察した。

 4頭の馬に忍び寄り、チュラ・ポンポはそのうちのキャンゴ・カルカルの鬣(たてがみ)をつかみ、縄を首にかけるとそれに飛び乗った。激しく上下に揺られながら、彼は大声で叫んだ。

「やあ、ケサルよ、姿を見せよ、臆病者! 吾輩、チュラはここにいるぞ! おまえの有名な馬に乗っておる。姿を現して、馬を奪い返してはどうだ? 勇気のかけらでも見せてはどうか?」

 彼は騒ぎ立て、英雄を侮辱し、挑発した。

 すると突然キャンゴ・カルカルは空に向って飛翔し、騎手を狼狽させた。高く、より高く真っ青の空を馬は昇っていった。ほかの3頭の馬もあとにつづき、雁の群れのように4頭の馬は飛んで行った。そして湖の中央にさしかかると、キャンゴ・カルカルはでんぐりがえしをし、それから馬が牧草地の上で転がるように、空中で転がった。チュラ・ポンポは振り落とされ、ほかの馬からほかの馬に受け渡され、ついには石が水に落ちるように湖に落下した。

 馬たちは野営地に戻っていった。

 ケサルはすぐに3人の偵察兵をジャンに送り、敵の内情を視察させた。その報告によれば、4万人の兵士が都の守備を固めているという。

 報告を受けたあとケサルは兵士を招集し、最初の攻撃に参加し、身を賭して勇猛に戦い、最後のひとりまで容赦なく敵をかたづける覚悟のある者を選出した。

 大量のさまざまな色の旗を持ち、トランペットを吹き鳴らしながら、騎兵らは馬に乗り、走っていった。

 ギャン(ジャンの領域内)に集まっていた将軍たちの前に、ケサルの兵士らがぞくぞくと到着した。ジャン川の城壁からドス・ジェギャル・トカル将軍が出てきた。

 彼は弓をもって掲げ、決闘に応じるリンの勇猛な兵士はいないかと挑発した。決闘とは、対面したふたりの兵士が互いの顔めがけて弓を射るというものである。デマを戦わせるために、将軍はつづけざまに3発の矢を彼めがけて放った。

 臆することなくデマは言った。

「おお、勇敢なる者よ! 白い駿馬に乗る者よ。われこそはセラ・フル神のトゥルク(化身)でケサルの大臣、デマである。おれはおまえを殺す運命にあるのだ。ただちにそれはなされるであろう」

 将軍の額めがけて、彼は矢を放った。それは将軍の頭蓋を射抜いた。ジェギャルは死んだ。

 その時点でリンの軍隊はすでに1万人の兵士を虐殺していた。一方リン側の死者はわずか100人にすぎなかった。ジャンの軍隊はパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、町の城壁のなかに逃れる者もいた。ケサルの兵士たちは彼らを追いかけたが、城塞の門にはねかえされた。逃亡者が入ったあと、門は固く閉められたのである。兵士たちは仕方なく引き返した。

「われらは勝利を得ました」野営地に戻った兵士たちはケサルに向ってそう宣言した。「しかしジャンの兵士たちは城塞に戻って門を閉めてしまったので、これ以上戦いをつづけることはできません」

「今日のところは十分だろう」とケサルは言った。「明日何をすればいいか、評議会にかけて決めるとしよう」

 自分の国の軍が手痛い敗北を喫しているとき、国王サタムは部屋のなかにいた。宰相は何者も敷居を越えて中に入ってはならぬという命令を無視し、国王の部屋に入って、自軍の敗北、自軍の兵士の大量虐殺、最良の将軍の死などを報告した。そして国王に、こもっていた部屋から出て戦士らの先頭に立ち、リンの軍隊を駆逐するために戦ってほしいと懇願した。

「明日そのようにいたそう」とサタムはこたえた。「しかし神の助力を得るために、まず乳の湖に行き、手を洗うべきである。そこでナーギー(竜女)が不老不死の霊薬をもってきてくれるはずだ。

 わが臣民に、勇気を奮い起こすよう言ってくれ。わしが自軍を指揮するときにはリンの軍隊を全滅してみせよう」

 国王の言葉がジャンの人々に伝えられると、彼らは非常に喜び、もはや勝利を奪還するのは十分可能だと思われた。

 翌日の夜、女神マネネが現れ、ケサルにサタムの策略に気をつけるよう警告をした。そして魔術を使って国王の体内に入るよう促した。それ以外にサタムを殺す方法が見つからないというのだ。

「私はこの世界からサタム・ギャルポを除くために、ひとりで王と会おうと思う」とケサルは夜明けに招集した廷臣らに言った。「だれも私を助けることはできない。ゆえにおまえたちは野営地に残ってほしい」

 廷臣らは心痛く思った。ケサル王を手ごわいジャンの王にひとりで対決させる決心をするのはむつかしかった。

「ああ、なんということでしょう」と廷臣らは嘆いた。「サタムは狡猾で、手ごわい悪魔です。悪魔の手が届く範囲に入ったら、国王さまは食べられてしまうでしょう」

 しかしケサルは神々と親類なので、だれも自分を害することはできないと言って人々を安心させ、愛馬キャンゴ・カルカルに乗って出発した。

 サタム王はといえば、前日の決定にしたがって朝早くから湖の境界まで行った。彼はお香を焚き、ナーギー(竜女)を呼ぶ歌をうたった。彼は手を乳の水に沈め、ナーギーが現れるのを待ったが、いつまでたっても姿を見せなかった。

 時は過ぎていった。国王と家来は押し黙ったままだった。お香から出る煙の最後の一筋が湖岸の石積みの合間から上っていった。見はるかすかぎり、湖上は光り輝くだけで、何もなかった。

 これは国王にとって悪い兆しだろうと家来らは考えた。サタムもまた不安に駆られるようになった。

 このときケサルは湖の外側にまで達していた。彼は存在を見せないために、愛馬を木に、鞍を小さな池に、鎧(よろい)、兜(かぶと)、装飾品を水の回りに生える花々に変身させた。そしてケサルは自身、鋭くとがった羽根を持つ鉄の蜂に変身した。

 この姿でサタムに近寄ることができた。サタムはますます不安になりながら待っていた。

 ケサルの計画を知っていたナーギーは、姿を見せるのを遅らせることによってケサルを助けていた。王が湖に近づくやいなや、彼女は水中から姿を現した。美しい少女の姿をとって、彼女は両手に霊薬が入った水瓶をかかえてやってきた。しかし今回にかぎっては、水瓶に入っているのは聖水ではなかった。いかなる美徳と無縁の液体だった。

 はじめ彼のほうにやってくる少女のやさしい姿を見て、サタムはほっとした。彼は不安でいっぱいになり、あわてて女神に手を伸ばして、むさぼるように霊薬を二口飲んだ。このとき、蜂のケサルは液体といっしょにサタムの胃の中に入ることができた。

 ナーギーはすぐに水中に姿を消した。鋭い羽根を持った偽蜂は、さっそく活動を開始した。まず国王の胃にひどい傷を作った。サタムはあまりの痛みにこらえきれず、叫びながら地面の上をのたうちまわった。

びっくりした家来たちは急いで王を取り巻いたが、何もすることができず、急病の原因も特定することができなかった。何をすべきかわからなかったので、家来のひとりは大臣のペトゥルに起きたことを報告に行った。大臣は迅速な馬に乗って、すぐに駆けてやってきた。

「ああ、何ということだ!」ペトゥルは国王のひどい状態を見て、また体の内側に傷があるらしいことを聞いて叫んだ。「ああ、ケサルはあらゆる秘密の呪術を知っているにちがいない。ケサルはあなたの体内に侵入したのでしょう。しかし何の確証もないので、ここはやはりモパ(占い師)に聞いてみましょう。モパならどこが問題であるか特定し、その対処法を教えてくれるでしょう」

「ケサルがわしの体の中に入っただって?」とサタムは言った。「そんなのは、ばかげた想像にすぎん」

 大臣は従者に医者を呼びに行かせた。医者を待つ間も、痛みは増すばかりで、次第にサタムもケサルが体内にいるのではないかと信じるようになった。怒りでいっぱいになった彼は、剣をつかみとると、蜂の羽根が体内の肉に傷を与えているあたりを、自ら切り始めたのである。

「ケサルめ、おぬし、どこにおる!」サタムは絶叫した。「出て来い! おれの剣を突き刺してやる! 逃げられんぞ!」

 サタムは自分の体を切りつづけた。血がどくどくと流れ出た。医者が着いた頃には、彼はすでに死んでいた。

 ペトゥルは、殺人者はほかでもない、ケサルその人と確信した。国王を救えなかったことから、彼は国を脅かす難敵を自らの手で破滅させたいと思った。

ケサルはサタムの遺体のなかにいるはずだ、と彼は考えた。ケサルは外に、出るに出られないはずだ。すぐに遺体を焼き払ってしまおう。遺体が焼かれるのと同時に、この殺人者も炎に包まれてしまうだろう。そう考えた彼は遺体の口を縫い、ほかの穴すべてをふさいだ。これでケサルが脱出することはできなくなったはずだ。

 すべての用心は無駄になった。葬式用の積み薪が準備される間、英雄ケサルは蜂の姿を捨て、小さな赤い蝿に変身した。そして小さな黒い蝿を作り出した。そのなかに故人の魂を入れた。

赤い蝿は黒い蝿を導いてウマ(中央の脈道)に入り、頭蓋の頂上まで上昇した。赤い蝿のケサルはそこで「ヒッ! パッ!」と必要な様式で唱えると、天国の方向に頭蓋に割れ目が生じ、そこから二匹の蝿は脱出した。サタムの魂もまた、天界へ向けて送られた。そのあとケサルと愛馬はもとの姿を取り戻し、野営地へと戻っていった。

 ペリトゥグ湖の周囲を進んでいるとき、ペトゥルが追っていていることに気がついた。王室の葬式を見るために宮殿にもどっていた大臣は、サタムが横たわる場所に引き返してきたのである。近づくにつれ、ペトゥルはケサルを認識するようになった。怒りにふるえるペトゥルはケサルの行く手を邪魔した。

「おやおや、おぬしであったか。この恥知らずめ」と彼は叫んだ。「呪術を使ってわれらの国王を殺し、さらにジャン国を破滅させようとたくらんでいる御仁か。おぬしはこれ以上先に行くことはできない。まさにこの場所でおぬしの命を頂戴する。今日、ここで地上最強のペトゥル・カロン(大臣)さまに会ったのが運のつきだ」

 ケサルは自分の弓矢に手を置きながらこたえた。

「ペトゥル・カロンよ、あなたはどうやら私を知らないらしい。サンドク・ペルリに面する天国で私は1万の賢人魔術師の首領であり、神トゥパ・ガワであった。私の現在の名はケサル。数千の黒い髪の人々をよき世界に送った者である。私は私を信じる者たちの保護者であり、パドマサンバヴァの代理人であり、地球全体の神である。私はおまえのような悪魔の種族と戦わねばならぬ」

 ケサルは矢を放ったが、ペトゥルはよけた。両者とも射止めることができず、戦いつづけ、ついには矢筒がからになった。死力を尽くしたが、なお彼らは互いを侮辱することを、またそれぞれの手柄話をやめようとはしなかった。

 無用になった矢を捨て、彼らは剣を持って戦い始めた。彼らの馬は後足で立ち、口のまわりには白い泡をべったりとつけ、その怒りのいななきは馬の主人たちの絶叫とないまぜになった。

 ケサルの一撃を避けるため瞬間的に体をよじったペトゥルは、そのまま鞍から放り出されてしまった。英雄ケサルはすぐさま馬から飛び下り、敵を刺そうと思ったが、彼はすでに起き上がっていた。それからふたりは湖の縁で格闘を繰り広げた。

 ペトゥルは尋常でない強靭さを身につけていた。はじめケサルは自身の弱さを実感した。彼は魔術的なマントラを発し、その効果もあって悪魔大臣が叫んだマントラと対抗することができた。彼もまた魔術を得意としていた。

 悪魔大臣のマントラは実際にケサルをつき飛ばした。リンの英雄は毒の湖まで押し込まれた。彼の片足は毒の水につかり、腐食性の水は足の皮膚に沁みこもうとしていた。もうそこまでというところで、ケサルはマネネとパドマサンバヴァの助けを呼んだ。

 思考を集中させることによって、ふたりの神は、糸を引っ張られる凧のように、ケサルに引き寄せられた。空から落ちる石のようにものすごい速さで駆け付けたのである。彼らはペトゥルを鷲づかみにすると、湖に放り投げた。湖の毒はすさまじく、皮は骨からはがれ、体は溶けてなくなった。

 ケサルは野営地に戻り、それ以上遅れることなく、部下の兵士をギャンの最前線に送った。そこでは将軍デマが、敵方の将軍チメド・チャグドの額を矢で射ぬいていた。またディクチェン・シェンパは将軍ミクナクに戦闘用斧で致命的な一発を与え、彼の肋骨を破壊した。ミクナクは地面にくずおれて死んだ。

 ジャンの軍隊を支えた3人の強靭な悪魔、ペトゥル、チメド・チャグド、ミクナクが殺されたため、リーダーを失った兵士たちは頭を失ったも同然、右往左往するばかりで混乱のなかにあった。リンの部隊は要塞のなかに入り、悪魔どもを殺しまくった。

 宮殿から、王妃アシがふたりの息子ユティコンとダティミンドゥクを両脇にしたがえて出てきた。彼らはカタ(儀礼用スカーフ)や7種の金貨、高価なトルコ石、7つの丸い瑪瑙(めのう)などを差し出し、ケサルの前で五体投地の礼を尽くし、助命を乞うた。

 ケサルは彼らに身の安全を保証し、ユラが無事であることを告げた。彼は家来たちに、彼女を丁重にもてなすよう命じた。なぜならアシは女神の化身だったからである。王妃アシは残る兵士やまわりの村人たちの助命も懇願した。

 英雄ケサルは宮殿の上位の階に本拠地を置き、兵士たちには要塞や町中に宿営させた。ケサルは3か月ギャンにとどまり、その間民衆に善の教義を説いた。

 ギャンを去る前に、ケサルは死んだ国王の息子ユラ・トンギュルをギャンの王に任命した。

「おまえはいまやジャンの国王である」と去る時にユラに言った。「賢明な大臣らに支えられているので、平和に、正義による統治をおこなうことができるだろう。

 私が征服することが使命とされる4つの敵のうち、3つが滅ぼされた。残るはひとつである。その国を攻略するとき、おまえに兵士の補充をお願いすることがあるだろうが、そのときには協力を頼みたい」

 ジャンから13日の行程のところにマユル・ショキャ・リンモという場所があった。ケサルと兵士たちはそこに3日間滞在した。しこで軍隊は解散し、それぞれの国に帰っていった。何人かはジャンへ戻った。ディクチェン、ふたりの将軍、その他の人々はホルへ向かった。100人の騎馬兵に守られたケサルはリンへの道を進んだ。

 リンの宮殿の門の前で待っていたのはセチャン・ドゥクモと4人の将軍の娘たちだった。彼らは麦酒(チャン)と肉でもてなした。5日間、飲めや食えやの大騒ぎだった。リンの戦士たちはテントのなかで家族と楽しい時を過ごした。

 みなが宴会から去ったあと、ケサルは大臣や身内の者たちに言った。

「ちょうど終わった戦争のなかで、私はたくさんの人を殺すことになってしまった。それよりももっと多くの人が、私の命令やわが戦士たちによって犠牲になってしまった。私はこれら不運な死者の魂を幸福の場所へと送らなければならない。それゆえ俗世を退き、宮殿内の隔離された場所にこもることになるだろう。私はそこで13年間、隠遁生活を送り、役目を果たすことになるのである」

 彼はそうして隠者としてこもることになった。彼はもうしばらくは人目に触れることがないだろう。