第13章
「われわれの事業は成し遂げられた」とケサルは信奉者らに語った。「当分の間、われわれは静かに休むことになるだろう。しかし生きものを食らい、苦悩を広げる者どもを滅ぼしたあと、西方で善き法を教えるためにこの世界へ戻ってこなければならないだろう。
われわれが取りかかった戦いは、小さな戦いが多かったが、来たる戦いは大いなる戦争である。一本の剣ではなく、二本の剣を持ち、両手で敵を刈り取らねばならぬ。
いま退いて、3年間の独居と瞑想に身を置くのはよいことだろう。東にマルゲ・ポンリ山(Margye
Pongri)というその頂が空に達する白い岩山がある。その斜面には無数の岩屋や洞窟があった。これらは瞑想修行のために使われるだろう」
ケサルに導かれて、彼らはみなマルゲ・ポンリへ向かった。そこに着くと、ケサルはそれぞれに二重の、つまり「法と世間のため」の灌頂を施した。そしてそれぞれに洞窟を割り当てた。 [註:Chos tang rjigs stan dbang skurすなわち仏法と世界の灌頂]
英雄ケサルは、山の斜面の東方を見下ろす位置に居を構えた。セチャン・ドゥクモとほかの20人の女たちは南側の斜面に陣取った。25人の将軍とシンレンを含む18人の親族は西側と北側の斜面の洞窟で過ごした。
彼らは3年以上、そのほとんどを瞑想に費やし、脈風修行(rtsa rlung
sgom)を実践してその成果を得ることができた。
修行の4年目の5番目の月、ケサルは隠棲者全員を招集した。
「誓いを守る以上のことをしている。というのも、修行すべき3年は5か月前に到達しているからだ。
われわれは自分たち自身を清めてきた。犯した悪いおこないの影響を知識で消そうとしてきた。肉体においても、心においても、苦悩をもたらすもとの種を滅ぼそうとしてきた。いま、われわれは浄土へ入る準備を整えつつある。あなたがたのなかで、隠者として生き続けたい人は、そのままつづければよい。世界を変えたいと願う人は、そのようにすればよい。
完全なる教義(すなわちゾクチェン)ほどすばらしいものはないことを忘れてはならない。それを適切に持ち、人に授けるのは容易ではないが、必要な努力をした者はそれを得ることができるのだ。
あなたがたのなかで、髪を切り、宗教的衣服を着るものは、5つの感覚を観察しなければならない。彼らはすべてのやりとり、貪欲から離れなければならない。すべての情熱を拒絶しなければならない。
俗人であるがため、この教義はあまりにも広大で壁が高く、実践するのはむつかしいかもしれない。しかしそれでも努力せよ。すべての生きる者の幸福を願い、身を粉にして働き、救済に向って突き進みなさい」
人々は英雄ケサルの賢明な教えを賞賛し、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。そして彼らは死ぬまで隠者として生きることを表明し、それぞれの洞窟に戻っていった。
ケサルはセチャン・ドゥクモとほかの3人をしばらく引き留め、翌日の明け方に戻ってくるよう命じた。
翌日、彼らがやってくると、ケサルは彼らが彼と同様に、なすべきことをなすために転生した神々のトゥルク(化身)であることを思い起こさせた。そのなすべきことは、いまや完了したのである。そしてケサルは彼らに、仮の姿をやめ、本来の姿を回復して浄土へ戻ることを促した。
「すべての生きる者のために、熱烈なモンラム(誓願)を立てましょう。そして3日のうちにいまの姿を捨て去りましょう」
この5人は3日間、食べることも飲むこともせず、思考に集中し、雑念を排除し、上は至高の存在から、下は昆虫にいたるまで、生きる者すべての幸福を願った。彼らが瞑想状態から出てくると、ケサルは大きな声で願いの言葉を口にした。
「山々のなかにおいて、高すぎず、低すぎない者であれ。
人々のなかにおいて、強すぎず、かよわすぎない者であれ。
富を持ちすぎず、貧しすぎない者であれ。
起伏する高地であるな(高地でも谷間でもない者であれ)。
一様に平坦な平原であるな。
すべてのものに幸あれ!」
ドゥクモはこたえた。
「もし高地にいるなら、山も谷もありません。家畜の群れは避難所を探すのがむつかしいでしょう。
もし平原が完全に平坦でなかったら、耕すのは容易ではないでしょう。
もし人がすべて等しいなら、全員が首領であるなら、物事はうまくいかないでしょう。(そうはならないでしょう)
チベット中に幸福が行きわたりますように!」
「私の言葉をよく理解していないようだ」とケサルは重々しげに言った。「言葉があまりに速く述べられてしまったからだろう。もう一度繰り返したほうがいいだろう」
ドゥクモと仲間たちは絹の衣を着て、並んで立ち、吉祥(タシ)の歌をうたった。
チェンレシグ(観音菩薩)はチベットを見守ってください
チャナ・ドルジェ(金剛手菩薩)は中国を守ってください
ドルジェ・セムパ(金剛菩薩)はリンを守ってください
仏法を花開かせてください
あまたの僧院を建てさせてください
繁栄に統治をさせてください
季節にしたがって雨を降らせ、太陽を輝かせ、すべての生きもののたべものがふんだんにありますように!」
ケサルは彼らをじっと見つめた。
「この肉体のままでわれわれは浄土へ入ることはできない。明日、ポラン(pho lang)の儀礼を行い、魂は肉体から離されるだろう」
完全な思考集中のなかで、5人の動きは止まった。翌日の夜明け前、さまざまな楽器を奏でながら、そして花の雨を降らせながら、白い虹の上にたくさんの神々が現れた。
最初の光の矢が遠い山々に射した。ぴたりと止まったまま、閉じられたまぶたを開けることもなく、ケサルと仲間たちは「ヒッ」という言葉を発した。そして「パッ」という音を発した。そして白い山の岩の高台の上に、5つの光に包まれた、からっぽの衣だけが取り残されていた。