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若い母親が呪詛の言葉を口にしていた頃、パドマサンバヴァはサンドペリ(銅色山)の浄土に住んでいた。彼はそのことを知っていたが、彼女と息子たちが死んだことを聞くと、急いでふたりの妻、イェシェ・ツォギェルとマンダラのもとへ使者を送って、状況を説明した。
「機先を制しなければ、この女の悪しき願望はかなってしまうだろう」とパドマサンバヴァは言った。「4つの遺体の一部を適切な場所に置く魔術をおこなえば、仏法を脅かす危機を避けることができる。おまえたちは鷹に姿を変え、すみやかに遺体が残っている山へ飛ぶのだ。そこで目や心臓をえぐり出し、爪や皮膚の一部、また髪一房を取って私のところへ持ってきてくれ」
まばたきをする間に、ふたりのダーキニー(空行母)は巨大な翼を持った大きなハゲワシとなり、サンドペリを飛び立った。超人的な力を得た彼らは、ほんの数秒ではるか遠い国に到着した。そこには荒涼とした山があり、そこに4つの遺体があった。
数多くのハゲワシが餌食の上空を舞っていた。ほかのハゲワシも地平線の向こうから最大の速度でやってこようとしていた。しかしそのとき魔術的な不思議な力が働いてバリアとなり、貪欲なハゲワシどもは遺体に近づくことができなかった。
こうして2羽の霊妙なハゲワシは指示されたとおりに遺体の一部を取り、血が滴るそれらを爪でつかんだまま、サンドペリに戻っていった。
突然強烈な風が起こった。その強靭な翼にもかかわらず、2羽のハゲワシは嵐によって押し流され、川面の藁のように錐もみ状態になりながら、パドマサンバヴァに要求された遺体の一部は必死に守り抜こうとした。しかし嵐はゆるむことがなかった。ゆるむどころか、もっと激しい風が吹き、彼らはついにつかんでいたものを放してしまった。それらは村の近くに落下し、犬の群れが食い尽くしてしまった。
嵐はおさまり、不幸なふたりのダーキニーはなんとかパドマサンバヴァの浄土に帰り着いた。
つぎのような格言がある。
「種が大地に蒔かれると木が生え、果実が成るように、行為や思考が種となって蒔かれ、そこからあらたな行為や思考が生まれる。原因によって結果があるのは、歩行者によって影があるのとおなじである」
強力な力を持つパドマサンバヴァでさえ、死んだ女が発した呪詛のパワーを中和することはできなかった。残されたすべきことは、執念深く破壊しようとする4つの敵による仏法への脅威を除くことだけだった。
60年もの間、死んだ女と息子たちの魂は成仏して浄土に行くこともなければ、地獄に堕ちることもなく、バルド(中有)のなかをさまよいつづけた。それから4つの魂は地上に転生した。
母親は同時に3つの転生を果たし、ホル3部族の国王3兄弟、すなわちクルカル王、クルナク王、クルセル王に生まれ変わった。3人の息子の長男は北の魔王、ルツェンに転生した。二男は西方のサタム王、三男は南方のシンティ王に転生した。
パドマサンバヴァは、4大悪魔が地上で人間に転生し、仏法に攻撃を仕掛けることを知っていたので、サンドペリの浄土へ行き、神々を集めて問題を諮問した。
1010人のドゥプトプ(魔術をマスターした成道者)、1028柱の神々、数多のダーキニー(空行母)らが集まり、仏法を脅かす魔王が存在するに至ったこれまでの詳しい経過について説明を受けた。
超越したその千里眼でもって、パドマサンバヴァは悪魔どもを倒すことができるのは、この宇宙にたったひとりの英雄しかいないことを知っていた。そしてそのひとりは、目前の1010人のドゥプトプのなかにいた。しかしそれがだれなのか、彼は知らなかった。そのドゥプトプが自らの能力に気づいているかどうかについてもわからなかった。
そこで神々やダーキニー、ドゥプトプらは、とくにモ(占い)を使って、知られざる英雄を探し始めた。
コルロ・デムチョク(勝楽ヘールカ)とドルジェ・パクモ(金剛亥母)両神の息子トゥパガワが満場一致で英雄として承認された。このモの結果は他者のモによっても確認された。
パドマサンバヴァはトゥパガワに言った。「神々の子よ、モはおまえが英雄であると示した。それゆえおまえは仏法と慈愛の敵を征服しなければならない。地上に降臨して悪魔の王どもと戦わなければならない」
責任の重大さに押しつぶされそうになりながら、トゥパガワはこたえた。「私がこの幸福の場所を離れるなどと期待しないでいただきたい。インドで私は清らかな生活を送ってきました。すべての徳を実践してきました。ひたすら瞑想に勤めてきました。その努力の甲斐あって、この喜びの場所に生まれ変わることができたのです。ここで至福を感じながら、サンガ(僧伽)の一員として黄色の僧服を着ているのです。それなのにそれらを捨て、昔のように平服を着て、また苦悩を味わなければならないのでしょうか。私を選ばないでください。人間世界に戻ろうとは思いません」
このように述べて、偉大なるグル(パドマサンバヴァ)の要求に応じないことを決めたトゥパガワは、黙したまま座っていた。彼の顔は純金のように輝き、輝く黄色のはずの僧衣は、それとは対照的に鈍い枯れ花のような色に見えた。
彼を説得するために、パドマサンバヴァはよき女の物語を繰り返し丁寧に話した。女がブッダの教えを聞くために艱難を乗り越えてやってきたこと、不信心者の娘が息子たちとともに不幸な死を遂げ、人間に呪詛をかけようとしていることなどを話した。そして彼のために使命を受け入れるよう頼んだ。
「あなたのほかに、これらの悪魔を倒すことのできる者はいないだろう。彼らの破壊力は日に日に増している。彼らは仏法とこの世界の敵である。黄金の神よ、この栄誉ある使命を拒まないでくれ。あなたの奇跡的な力で、真の仏法を守ってくれ。悪魔どもが苦しめようとしている生きる者たちを守護してくれ。彼らの苦悩を取り除き、あなたの力によって彼らを幸福に導いてくれ」
パドマサンバヴァの弁舌を聞いて断るのはむつかしいことだった。たしかにそれは必要なことであり、賞賛に値することなのだ。それにもかかわらず、彼はすぐに軍門に降ることはなかった。
「軽々しくお約束をする前に、知りたいことが山ほどあるのです。ここ、神々の場所では、私の父はコルロ・デムチョクで、母はドルジェ・パクモ。私の名はトゥパガワです。もし人間社会に転生するなら、私はどのように生まれるのでしょうか。父は、母は、だれなのでしょうか。どんな名前をもらうのでしょうか?
もし人間の姿を取ることに同意するなら、18の要望を提出します。それを約束していただきたいのです。
私の父は神、母はナーギー(竜女)であってほしいのです。
私は死を乗り越えた馬を要望します。それは天空を飛翔し、世界の四大陸をあっという間に飛び回ることができます。それは人間の言葉も動物の言葉も理解し、会話をするときは互いの言葉を話せば相手に伝わります。
私は宝石が散りばめられたすばらしい鞍を欲します。
人間の手によって鋳造されたのではない兜(かぶと)、胸当て、剣を欲します。
完璧に適合した矢をそろえた弓を欲します。これもまた人間の手によるものではありません。それは奇跡的に自ら生まれ出るものなのです。矢は木から作られるものでも、動物の角から作られるものでもありません。
私は腕の中の仲間、ふたりの英雄を欲します。彼は若くもなく、年を取りすぎることもなく、元気があって雄々しい、ラマイン(半神、阿修羅)のように強靭です。
私は精力的で、賢明な戦略家である叔父を欲します。
私はこの地上で比べようがないほどの美しい妻を欲します。彼女の美しさは世の男の情熱をかきたて、互いに戦わせることになります。
何人かの神やダーキニーには、私を助けるため地上に転生してほしいのです。ほかの神々も必要なとき、私の問いかけにこたえてほしいのです。そして私を助けてほしいのです。
神々の息子である尊敬すべきグル・リンポチェさま、どうかお約束してください、これらの条件をかなえてくださると」
こう言うと、トゥパガワは、トルコ石や珊瑚で飾った美しい椅子に坐ったまま押し黙った。執着のない、平静な心でもって、どんな解答にも無頓着で、この世界で起きていることは幻影にすぎないことを、すなわち、無知と欲望と空という不変の背景の前で繰り広げられる影絵芝居にすぎないことを、彼は知っていた。
その間、パドマサンバヴァと神々は、どうやってトゥパガワの要望に答えるか、その方法について熱い論議を交えていた。彼らは喜んでトゥパガワを助けることを約束した。しかし彼が列挙したさまざまなとんでもない物を調達するとは言明できなかった。
パドマサンバヴァは、金や宝石が散りばめられた、値段がつけられないほどの立派な絨毯で覆われた(神々の座よりも)高い玉座から立ち上がった。彼の智慧と賢明さがどれほど人々に尊敬の念を抱かせていたかは、よく知られていた。とはいえ、トゥパガワが要求することにこたえるのは容易ではなかった。どこを探せばいいのかも、よくわからなかった。
「トゥパガワよ」とパドマサンバヴァは言った。「あなたにもはや躊躇というものはないはずだ。悪魔の王たちと戦うのはあなたの義務である。そのほか生きる者に恩恵を与えるのもあなたの仕事である。あなたの要望は受け入れられるだろう。それがどう実行されるか、私から説明することになるだろう。
タムディン(馬頭明王)はトゥルク(化身)を生み出し、あなたの叔父となるだろう。白いドルマ(ターラー女神)はあなたの妻として転生するだろう。チャグナ・ドルジェ(金剛手)とジェ・サラ・アルパは両腕の仲間となるだろう。あなたの父は神聖なるケンゾ神である」
それから他の神々を見回してから言った。「あなたがたすべての名が挙げられた。必要なときのために準備を進めておいてもらいたい」
パドマサンバヴァはもう一度トゥパガワのほうを見て言った。「あなたの母親となる人はここにはいない。なぜなら彼女はナーガの種族に属するからだ。ナーガの宮殿は海の底にある。私は彼女を地上に送り届けよう。
武器(武具)に関して言えば、兜(かぶと)や胸当てはあなたが望んだとおりのものがある。それらはジダク・マギャル・ポムラという場所にある。ずっと昔、私自身が護符とともにそこに隠したのだ。この護符をつけた者は不死身になると言われる。これはあなたのためのものなのだ。
あと、あなたのために私が用意するのは駿馬だ。ナンワ・タイェスはあなたのためにトゥルクを生み出すだろうが、それは馬の身体を持っている。それは形も色も、最上のものなのだ。それはさまざまな尋常ならざる質の良さを持っている。この馬があなたの愛馬となるだろう。
もし助けが必要になったとき、ここにいる神々の息子やダーキニーやドゥプトプがあなたを支えるだろう。私に関して言えば、あなたの使命がつづくかぎり、いつまでも導き手であり、相談役でありつづけるだろう」
パドマサンバヴァの話が終わり、トゥパガワが使命を果たすと宣言すると、集まっていた神々は一斉に消えた。
しばらくすると、タムディンの化身がリンの国に生まれた。その子はトドンと名付けられた。