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しかしキュンルン・ングルカルの候補地としては、20キロ南西のキュンルンのほうが有力だ。キュンルン・ングルカル(ガルダ谷銀城)という言葉にそちらのほうがぴったり合致するのである。
ナンカイ・ノルブによると、ボン教の伝統では王宮はツォク(lcog)という言葉で表されるという(現代チベット語で積み重なったもの、突起物といった意味)。現代の語法では少し意味が違うが、もともとの意味では王宮を指すのに使われる。キュンルンにあるキュンルン・ングルカルはまさにこのツォクだという。
二階建ての石窟も多い。一階の岩を踏み台にして上に上がる
実際私がここに立ったとき、ローマのコロッセオ(円形コロシアム)にでも立っているような錯覚を覚えた。自然の造形物というより、神によって造られた造形物のような気がしたのである。
静かに目を瞑る。少なからぬ人々が活動しているのが感じられる。ここが宮殿だったとき、人々は何を基準に行動を起こすのだろうか。毎朝朝礼や御前会議を行っていたのだろうか。最上部は国王が住んでいたとして(レンガが積み上げられていて部屋のスペースがあるが、危険すぎて近づけない)水や飲み物、食べ物はどうやって運ばれたのだろうか。すでに述べたように、頂上部に穴があり(つまり国王の居住スペースに穴があり、梯子を上り下りして行き来できるはず)岩壁の下に出入口があったはずだ。実際岩壁に窓のような穴が開いているので、岩壁の向こう側は巨大な蟻の巣のようになっているはずだ。今はふさがれているだろうけど。
また、入口の川の両岸にはたくさん温泉が湧き出ているけれど、これらは国王専用沐浴場だったのか、それとも誰でも利用できたのか。この海抜4000mの地で冬を過ごすのに、温泉はシャンシュン人にとってありがたかったはずだ。
シャンシュンが滅び、グゲの時代になっても、ボン教徒が残り、ミニ寺院として石窟を使用した
7世紀、強大な国になりつつあった吐蕃のソンツェン・ガムポ王はシャンシュン国(羊同国)を破り、支配下に置く。強い国が周辺の弱小国を併呑していくのは珍しいことではない。しかしここにはわれわれの歴史観の盲点があるような気がしてならない。シャンシュン国は千年か二千年、あるいは数千年もの間繁栄した国であり、老朽化した国が新興勢力にとって代わられたということではなかろうか。シャンシュン国の中心地はンガリ(阿里)のカイラス山からプラン、キュンルン、そしてグゲにかけての地域であり、数万人の人が基本的に石窟に住んでいた。この地域には18の小国があり、国王は角のついた王冠をかぶっていたという。ボン教の伝承では、シャンシュン国の版図は、西はギルギット(パキスタン北部)、北は現在の新疆ウイグル自治区のホータン、南はネパールのムスタン、東はナチュである。ムスタンの石窟群は、西チベットの石窟群と基本的によく似ている。ニコライ・リョーリフの報告によれば、ホータンの南方にも石窟群があるという。
そしてもっとも重要なことは、シャンシュン国がペルシア文化(とくにゾロアスター教やマニ教)の影響を強く受けているということである。ボン教のオリジンはタジクのオルモルンリンである。オルモルンリンはボン教版シャンバラであり、タジクは狭義にはペルシアのことを指すが、広義には中央アジアも含めているかもしれない。祖師トンパ・シェンラプも厳密にいえばペルシア系の可能性すらある。仏教なりすまし疑惑があるため、ボン教ペルシア起源説もかなり怪しまれてしまいそうだが、ゾロアスター教徒が大量に現在の新疆ウイグル自治区に移住していること、マニ教が福建省泉州にまでやってきていること(それは現在道教寺院のように見える)などを考慮すると、シャンシュン国がペルシア系の宗教の影響を受けないわけがないのである。
⇒ シャンシュンとペルシア (翻訳)
Mikio Miyamoto
自然の造形を利用した石窟群はまるで現代アート。頂上の居室が国王の間なら、これらは臣下の部屋かもしれないけれど
ある種のクリエイティブなメディテーション・ルームであってほしい (キュンルン・ングルカル)
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