ガンダーラからチベットへ
弥勒を中心とした形象をめぐる旅 宮本神酒男    ⇒ 改訂版へ

 磨崖仏の多くはなぜ弥勒なのだろうか。五来重氏は『石の宗教』の中で、二上山や奈良の東山、笠置山など、古代に彫られた石窟の磨崖仏は、弥陀三尊説など諸説あるが、弥勒如来ではないかと指摘している。それは「日本の山岳宗教ないし修験道の原始形態」であり、「巨石巨岩に宗教性をみとめ、その中に神や仏の実在を信ずる自然宗教としての修験道の所産でなければならない」と述べている。

 私はたまたまこの文庫本を読みながら、インド西北のザンスカールやラダックでいくつもの磨崖仏や石仏を調べていた。その多くがマイトレーヤ(チベット語でチャンパ)すなわち弥勒だった。日本に弥勒の磨崖仏がたくさんあるとき、その謎を解く鍵は中国にあるかもしれない。しかしチベットの西に弥勒の磨崖仏があるのなら、ガンダーラでその答えを探さなければならないだろう。またガンダーラに隣接し、ともに仏教の中心地として栄えたスワートへも行くべきだろう。チベットに密教をもたらした「第二のブッダ」パドマサンバヴァ(蓮華生、グル・リンポチェなどとも)はスワート(古名ウッディヤーナ)の出身なのである。


 というわけで私はラホール博物館のガンダーラ展示室を訪ね、それからイスラマバード西北のタキシラに足を運んだ。デリーの国立博物館やカルカッタ博物館、いやそれ以前に上野の国立博物館などでたびたび見ているので、ガンダーラの仏像にはいまさら驚かない。しかしあらためて見ると、ブッダの像以外で目に付くのは、マイトレーヤ像なのである。(写真)われわれのイメージする弥勒とは似ても似つかぬ姿がそこにあった。日本の布袋様だってじつは弥勒である。この精悍な青年(付け髭のような口髭がトレードマ−クのようだ)がどうやったら中年太りのおっさんのような神様になってしまうのだろうか。(中国唐末五代の契此という実在の和尚がモデルらしい)

 ガンダーラやマトゥラで突然、同時発生的に仏像が作られるようになるのは2世紀頃のことである。これらの仏像や菩薩像はあきらかにヘレニズムの影響を受けていて、ギリシア彫刻を連想させる。しかしギリシアのバクトリアがこの地域を支配した前3世紀から前1世紀の時期に作られないで、もともと甘粛にいた月氏の血を引くクシャーナ朝のもとで大量生産されるようになったのはなぜだろうか。

 考えられるのは、大乗仏教の興隆である。個人の解脱をめざしたテラヴァーダ(小乗仏教は蔑称)にかわって菩薩救済思想がさかんになり、それとともに仏像、念仏、大乗仏典などが現れた。バクトリアのあと、2世紀頃までの百数十年、サカ人やパルティア人がこの地域を支配するが、アケメネス朝ペルシアの一部となることで、ローマ帝国との交流がさかんになった。おそらくガンダーラ美術は、ギリシア風という以上にローマ風なのである。

 224年(一説には228年)から651年にかけてはササン朝ペルシアの支配下に入る。イスラム教が入る前、ペルシアは仏教に関しては比較的寛容だったのではないかと思われる。ただしササン朝期に何度も中央アジアからエフタル(白フン)の来襲があり、ストゥーパや寺院、仏像を破壊し、ガンダーラやウッディヤーナを支配した。エフテルの最後の王ユディシュティラ(Yudhishtira)がカシミールのカルコタ朝に敗北したのは670年(一説には657年)とされる。しかしこの時期については文献も考古学的発見も少ないため、詳細はわかっていない。

 貴重な証言者となるのは中国から来た巡礼僧たちである。とくに法顕(399−414年頃)や宋雲(519年)、玄奘(629−630年)の報告は歴史の闇に光を当てている。法顕は仏教がさかんであることを伝えているが、宋雲は黄金の仏像が多いものの、エフテル(白フン)によって仏教施設が破壊されたと記述し、玄奘は1400の寺院が荒廃しているさまを述べている。エフテルが滅びるまであと数十年待たねばならないのだ。ちなみに玄奘が見たブッダの足跡(写真下左 ブッダの身長は10mくらい?)はスワート博物館に展示され、ジャハナバードの仏像(写真)やウッタラセーナ(Uttarasena)のストゥーパ(写真下右)は現在もその地にそのまま残っている。

 しかしこのジャハナバードのおだやかな顔をした仏像はいま危機に瀕している。2007年9月に私はこの山の中腹の巨岩に彫られた磨崖仏を見に行ったのだが、案内してくれた少年が不気味なことを言っていたのだ。

「あんたがつぎに来たときは、どこかの(大仏の)ように、木っ端微塵に爆破されてなくなっているよ」と。(写真下)



 どこかとはもちろんバーミヤンのことである。私はぞっとしながらも、そんなことはありえない、悪い冗談だろう、と自分に言い聞かせた。しかし帰国後調べたところ、驚くべきことがわかった。この直後、あるいは私が訪ねた数日前に、親タリバン民兵がこの大仏を破壊しようとしたというのだ。民兵たちが大仏に弾丸を撃ち込んだものの、破壊するにはいたらなかった。彼らの宗教指導者がこの大仏を悪の象徴とみなし、爆破命令を出したので、このままでは千数百年生き延びた大仏の命も風前の灯である。

 彼らはパフトゥーン人(Pakhtun)であり、パシュトゥーン人(Pashutun)とおなじ民族である。パシュトゥーン人はアフガニスタンの主体民族で、イスラム原理主義組織タリバンを作ったのも彼らだ。宗教指導者がアフガニスタンで捕えられたあと、娘婿のマウラナ・ファズルッラー師が権力を継承し、シャリア(イスラム法)を掲げ、その民兵組織は軍治安部隊と戦闘を繰り広げてきた。2007年11月下旬から12月中旬の戦闘で300人以上の犠牲者を出すにいたっている。(12月9日には自爆テロがあり7名の死者が出た)

 私がなぜ危険地帯と化したスワートを訪ね、この大仏を見たかといえば、パドマサンバヴァもこの大仏を見たかもしれないと思ったからである。

 製作年代は7世紀か8世紀とされる。パドマサンバヴァがチベットにやってきたのは8世紀後半なので、この大仏を見たり触ったりしたとしても不思議ではない。チベットで私は「パドマサンバヴァが経典を隠した」というような場所をいくつも見てきたが、肝心の生地にそういう話はないのだろうか。大仏の彫られた巨岩には体を通すのがやっとの穴があいていて、それは岩の上に通じていた。チベットであればパドマサンバヴァ伝説が生じてもおかしくない秘密めいた場所だった。

 第二のブッダと言われるわりには、パドマサンバヴァに関してはわからないことだらけである。パドマサンバヴァはチベットに三ヶ月しか逗留しなかった、という説も根強くあるほどである。しかしとくにニンマ派にとって、パドマサンバヴァは開祖であり、ゾクチェンの教えを説いた成就者なのである。ある意味でその実在性などどうでもいい問題なのだ。しかし「ウッディヤーナから来たタントラ僧」と何気なくいうとき、われわれはインド人を脳裏に浮かべるが、ほんとうにそうなのか、検証してみる必要があるだろう。

 パフトゥーン人(パシュトゥーン人)はインド・ヨーロッパ語族イラン語系パシュトー語を話す。ガンダーラやウッディヤーナは数百年にもわたってアケメネス朝やササン朝などペルシア人の王朝の支配下にあった。8世紀から10世紀にかけてヒンドゥー・シャヒ(ヒンドゥー教の王)の時代があり、そのあとイスラム教勢力がアフガニスタンのほうから押し寄せてきたとき、パシュトゥーン人も現在のパキスタン領に移住してきたのかもしれない。しかしもともとパシュトゥーン人が住んでいた可能性もけっして少なくない。ダリウスの石碑やヘロドトスの記述によって、すでに前6世紀、スワートの南ペシャワール谷のガダラ(ガンダーラ)にはパクトゥイケ(パシュトゥーン人)がいたことはほぼ確定的なのである。もしパドマサンバヴァがゾロアスター教やマニ教を信仰するペルシア系の出身だったら……。パドマサンバヴァ観ががらりと変わってしまうだろう。

 私はチラースをへて、ギルギットへ向かった。チラースはギルギット盆地とちがって狭くて長い峡谷なのだが、北方からインド平原に降りるとき、かならず通らなければならない交通の要なのである。しかも峡谷を流れるのはインダス川なのである。

 これだけさまざまな種類の岩絵が描かれるエリアは、世界でも類を見ないだろう。(→「チラースの岩絵」)絵だけでなく、文字も多岐に渡る。ブラーフミー文字、カローシュティー文字、さらにはソグド文字やヘブライ文字さえもが見出されるのだ。

 フンジュラブ峠を越えて南下してくるサカ人やテュルク人ばかりがチラースを通過するのではない。当然、北上する人々、文化もあったはずだ。チラースの岩の上に描かれたたくさんの仏画はガンダーラやウッディヤーナから遡上してきたのだと思われる。

 仏教文化圏は北へ向かって広がり、大きな盆地で土地の肥えたギルギットは仏教の重要な拠点となった。しかしもし1931年に郊外のナプル村で大量の白樺の皮にシャラダ文字(Sharada)で書かれた経典、いわゆるギルギット文書が発見されなかったら、ギルギットの重要性は見過ごされていたかもしれない。だれもが目にすることのできる唯一の仏教遺跡は、カルガーの大仏(写真下と左上)だけだっただろう。

カルガーの大仏は崖のかなり上にある

 しかしジョン・ビッドゥルフによると、現地の伝承では、カルガーの大仏はブッダどころか魔女ということになっていたのである。昔、峡谷に旅人を喰らう魔女がいた。魔女は一日にふたりの旅人を捕らえると、ひとりだけ喰い、ひとり捕まえた場合、体の半分を喰った。あるときひとりの聖人が村人を救おうと立ち上がった。いつものように人間を喰おうと聖人に襲いかかると、逆に聖人のパワーによって石に閉じ込められてしまったのである。その後聖人は村を去ることになり、その際、「岩に閉じ込めた魔女を復活させないため、もし私が死んだら、どこで死んだとしても遺体をもちかえって、岩の下に埋めてほしい」と言い残した。ところがいざ聖人が死んでその遺体を運び、埋めるという段になって、一箇所に決めることができなかった。隙間から魔女が逃げ出しそうに思えたのである。そのため村人は聖人の遺体をばらばらにして、岩のまわりに埋めたという。

 まことにもって奇妙な伝承である。ある時期から仏教徒が消え、ヒンドゥー教徒の時期をへて、イスラム教徒ばかりになったとはいえ、仏像であることぐらいはわかりそうなものである。もしかすると股間に性別を示すものがないため、ヒンドゥー教徒からすれば女としか思えなかったのかもしれない。

 また大仏が崖のはるか上のほうに彫られていて、人間業とは思えないことも、伝承が生じた要因のひとつといえる。ビッドゥルフはかつて崖の下の地面が大仏のあたりまで迫っていたが、浸食作用によって地面が下がったのだろうと推測している。千数百年の時間はそこまで地形を変化させるものなのだろうか。この大仏は7世紀頃に彫られたのだろうと言われている。顔のやわらかい雰囲気、やや粗いタッチは、ラダックの石仏を彷彿とさせるものがある。また私自身目で見ていないのだが、ギルギットの奥の谷、プニヤルの石仏(8世紀頃)もなんとなく似ている。あとで述べるバルチスタン、スカルドゥ郊外のマンタルの大仏も同類である。これらはチベット人によって彫られたと考えられる。

 ギルギット文書はそれらより少し前、5世紀か6世紀頃に書かれたのだという。この時期、ガンダーラやウッディヤーナは白フン(エフテル)の支配下にあったと考えられるが、ギルギットにはどういう人がいたのだろうか。

 中国の史書、唐書に登場する勃律(Palola, Patola, or Balol)の小勃律がギルギットを指すのはまちがいない。彼らは唐やカシミール(はじめは白フン、のちカルコタ朝)と友好関係を保っていたが、それはチベットに対抗するためだった。722年には唐・小勃律軍が吐蕃を撃破している。しかし737年、ついに小勃律はチベットに屈してしまう。

 小勃律の人々がどういう人種であったかはわからない。碑文などから七人の王の名前が知られているが、たとえばPatoladeva Shahi Vajradityanandiのように、サンスクリット名である。早計に決め付けるわけにはいかないが、ダルド人(インド・アーリア系)説が有力である。いっぽう白フンはおそらくトルコ系だろう。

 パトラ・シャヒ(勃律王)の最後を飾るのはSri Deva Chandra Vikramadityaである。750年頃、この最後の勃律王からトラハ(Trakha)すなわちトルコ系の王に替わっている。その後混血が進み、王族でさえ出自がトルコ系であることを忘れてしまったという。実際現在ギルギットで話される言語はインド・アーリア語族シナ語(Shina)である。混血の結果シナ語が形成されたのか、もともと勃律の主体民族がインド・アーリア系だったのか、判然としない。典型的なコーカソイドとしてしられるラダック西北(地理的にはバルチスタンに入る)のダ・ハヌーの人々、通称ブロクパもシナ語を話す。彼らがなぜ飛び地にいるのか、移民したのならなぜ移民したのか、謎は深まるばかりだ。

 チベット人が伝統的に小勃律(ギルギット)をブルシャと呼んできたのも興味深い。チベット人以外だれもギルギットをブルシャと呼ばないのである。しかし歴史上ときおりブルシャという名前はあらわれる。たとえばギルギットの奥のプニアルの王系はブルシェと呼ばれる。これはフシュワクテ家(Khushwakte)から分派したシャー・ブルシェ(Sha Burushe)という王からはじまる系統だったからである。またフンザやナガルに住む人々はブリシュ(Burish)、そのダルド語(インド・ヨーロッパ語族)に属する言語もブリシュキー(Burishki)と呼ばれる。なぜそう呼ばれるのか、由来はわからないが、歴史の闇に埋もれてしまったなにかがあり、それとチベット人は関係があったのである。ちなみにビッドゥルフによると、ダ・ハヌーのブロクパ(自称Rom)はブルシャ人との通婚を避けるとのことである。

 ギルギットのつぎの目的地はバルチスタンだった。中心の町スカルドの街角に私は立ち、雑踏のなかの顔をできるだけたくさん見た。典型的なチベット人の顔を探したのである。彼らはイスラム教徒だが、古代チベット語から変化したチベット語の方言を話す。それだけでも驚きである。19世紀のムーアクロフトの報告を読むと、バルチ人はラダック人とほとんど変わらないという。もしそうであるなら、(私の大雑把な感覚でいえば)半数はチベット人顔をしているはずなのだ。しかしどの顔を見ても彫りの深いコーカサス系や中央アジアのトルコ系の顔ばかり。やっとひとりチベット人顔の男を見つけたと思ったが、雑踏のなかに見失ってしまう……幻だったのか。


唯一チベット顔と思えた男の子。右は茶色の目の男の子。

 どうしてチベット人顔が少ないのか。まず考えられるのが、西欧の白人から見るとチベット人も中央アジアのトルコ系も区別がつかない、ということである。考えてみれば、アレキサンダー大王の子孫、といえば現在はチトラルの近くのカラシャー族ということになっているが、本家本元はバルチスタンなのだ。19世紀頃までスカルドはイスカルド(イスカンデリアが訛ったもの)と呼ばれることが多かった。これはアレクサンドリア(アレキサンダーの都)という意味だと誤解されていたのである。アレキサンダー大王はチトラルにもバルチスタンにも来ていないが、ギリシア人のような顔立ちが多いことからこうした伝説が生まれたのだろう。

 つぎに考えられるのは、チベット系の移民。19世紀のドグラ人支配以降、相当数のバルチ人(イスラム教徒である、念のため)がインドのシムラに移住している。また1947年のパキスタン分離以降、少数派ではあるがシーク教徒、ヒンドゥー教徒がインド側に移住した。残ったイスラム教徒の多くは非チベット人顔だったのかもしれない。

 バルチスタンで私がつぎに訪ねたのは、スカルドの郊外、サトパラ湖の手前にあるマンタルの磨崖仏だった。これもギルギットのカルガー大仏ほどではないが、大きな岩の一面に彫ったものである。その顔はラダックで見かけた石仏の顔とよく似ていた。実際岩の下のほうにはチベット語の碑文が記されているのである。大仏の両側には菩薩像が描かれていた。それらは両者ともマイトレーヤだと考えられている。弥勒はここでは主役ではなく、脇侍なのだった。

バルチスタンのチベット語碑文

 チベットとバルチスタンおよびギルギットとの関係はまだまだわからないことだらけだ。中国の史書はバルチスタンを大勃律、ギルギットを小勃律と呼ぶ。羊同国も大小に分けられるが、羊同も勃律ももともとひとつの国だったと考えるべきだろう。やはり中国の史書によれば、勃律は吐蕃に圧迫され、693年、大小に分離した。

 8世紀に入ると吐蕃は西域にたびたび侵攻し、大小勃律もおびやかした。そして734年、ついに大勃律、すなわちバルチスタンを併呑する。

 そのあとの歴史はあまりはっきりしない。本国チベットはランダルマ暗殺(842年頃)のあと分裂し、急速に衰退していく。9世紀半ば以降、敦煌やホータンといった前線の拠点も失うので、バルチスタンも手放したとみるべきだろう。しかしたとえばホータンがチベットの支配下から逃れたあとも、あたらしい政権のもと、チベット人は重用され、重要な任務を与えられていた。バルチスタンでも同様のことがあったのではなかろうか。近世にいたるまでバルチスタンの王(諸侯)はラジャでもギャルポでもなく、チベット語のマクポン、すなわち司令官と呼ばれていた。これは本国が滅びたあと、植民地がそのまま独立したことを示しているのではなかろうか。バルチ人がチベット語を話すのもこういう背景、歴史があったのである。いっぽう本国チベットのほうはバルチスタンのことをすっかり忘れてしまった。ギルギットがチベット語でブルシャと呼ばれるのに対し、バルチスタン(中国語で勃律、アラブ語でボロール)を指すチベット語がないのもそのためだ。

 さて、話を7世紀以前にもどそう。吐蕃以前に古代シャンシュン国(中国の史書では羊同)が勃律とどういう関係をもっていたか、考えるべきだろう。吐蕃はもともとヤルルン地方に根を張った小国だったが、7世紀はじめ、ソンツェンガンボ王の時代にラサに遷都し、急速に版図を拡大していった。当時、シガツェのあるツァン地方やチャンタン高原はシャンシュンの領土だった。現在のチベット自治区の半分以上はシャンシュンの領土だったのである。シャンシュンの中心が現在の阿里であることははっきりしているが、西の境界がどこだったかはわかっていない。

 勃律までシャンシュンの領土だったという可能性も十分にあるだろう。吐蕃はスムパを破り、シャンシュンも打破し、つぎの目標は現在の甘粛・青海あたりに大国を築いていた吐谷渾だった。敦煌文書によると、吐蕃の吐谷渾征伐軍に敗北したシャンシュンの兵士が参加しているのである。勝者が歴史を改竄することはままあることなので、実際は吐蕃・シャンシュンの連合軍であり、分け前は対等だったかもしれないが。それはともかく、勃律がもともとシャンシュンの一部であったか、連合を組んでいたので、吐蕃の侵攻は比較的容易であったとも考えられる。

 これまでガンダーラ・ウッディヤーナからバルチスタンまでさまざまな仏像や菩薩像を俎上にあげてきたが、唯一扱いに窮してしまうのがムルベク(Mulbek)のマイトレーヤの磨崖仏(写真)である。スネルグローブも「ほかの浅くて一般的な彫像とまったく違う」と類型的でないだけでなく、芸術的にも優れていることを強調している。フランケによれば、インド西北チャムバー(Chamba)のブラフマー像(700年頃製作)との共通性が感じられるという。ブラフマーならヒンドゥー教である。

 ムルベクの立地をみると、ラダックの中心都市レーからははるかに遠く、カシミールの入り口であるカルギル(旧名プリグ)のほうがはるかに近い。ガンダーラ様式ではないのでクシャーナ朝によって作られたのではないとすると、消去法で、カシミールの傑出した王ラリターディティヤ・ムクターピーダ(Lalitaditya Muktapida 725-756)の存在が浮かび上がってくる。当時吐蕃はラダックからバルチスタン、ギルギットへと侵攻しようとしていた。しかしプリグからバルチスタンへ進もうとした吐蕃兵はこの弥勒仏を見て、仏教を保護する法王の存在とカシミールの大国を肌で感じ取っただろう。吐蕃軍が南路をあきらめ、ヌプラからシャヨク川へ抜ける北路を取ったかどうかは記録に残っていないのでわからない。

<参考文献>
Sir Olaf Caroe "The Pathans"
Ahmad Hasan Dani "History of Northern Areas of Pakistan"
Banat Gul Afridi "Baltistan in History"
John Biddlph "Tribes of the Hindoo Koosh"
Snellgrove & Skorupski "The Cultural Heritage of Ladakh"
Ahmad HasanDani "The Historc City of Taxila"
Badshah Sardar "Buddhist Rock Carvings in the Swat Valley"
Snellgrove & Skorupski "The Cultural Heritage of Ladakh"
A. H. Francke "Antiquities of Indian Tibet"



→ ガンダーラに見る仏陀の生涯

ガンダーラ美術を代表する大小二体のマイトレーヤ(弥勒)像。左手には水瓶を持っていたはず。

ガンダーラ様式のブッダの頭。どう見ても西洋人……。螺髪でないことに注目。

アニメ・美少女キャラ風のストゥッコ像発見。右は化粧皿。古代のスワスティカ(まんじ)が施されている。

チベット人が「第二のブッダ」と呼び崇めるパドマ・サンバヴァはウッディヤーナ、つまりスワートの出身。もしかしてタリバンの主体民族パシュトゥーン人だったりして。

ギルギット郊外のカルガーの大仏。なんと呪術によって岩に閉じ込められた魔女だと思われていた! 崖の上のほうにあるので、どうやって彫ったか謎。

バルチスタン・サトパラ湖近くのの磨崖仏。画面の右下に(見えないが)チベット語の碑文があることから吐蕃侵攻(8世紀前半)後に彫られたと考えられる。

上の大仏の脇侍はマイトレーヤ。どちらもラダックで見かける石仏の顔や王冠とよく似ている。

ガンダーラ風でもチベット風でもない、あえていえばカシミール風のムルベクのマイトレーヤ。フランケによればチャムバーのブラフマー像(700年頃製作)とよく似ているとのこと。

ラダック・レーのチャンスパの石仏。ムルベクのマイトレーヤと比べると荒削りだが、木喰仏のように人に訴えかけてくる魅力がある。安宿街の近くにあり散歩がてらに会える。

ラダックのシェイ寺の中庭にある多数の石仏のひとつ。彩色されているが、それはあたらしい習慣だろう。

ザンスカール・パドゥムの石の四面に描かれた線刻画のうちの二つ。上のラダックの石仏とよく似ている。

ラダック・シェイ寺近くの公道沿いにあってよく知られた線刻画。五仏は密教と密接な関係がある。

ザンスカール・パドゥムの五仏。整形手術をして(?)低い鼻が高くなっているのは残念。

ザンスカール・カルシャ寺の敷地内の崖に描かれた線刻画。上に見たものととく似ている。寺院の建設よりも前に彫られたとすると相当に古い。

ザンスカール郊外の草むらのなかに立つ三つの線刻石仏。顔はおそらくイスラム教徒によって削られた。別の角度から見ると石仏以前に立てられたメガリス(巨石)ではないかと思えてくる。

チャンスパのもうひとつの石仏。ラダックの典型的な顔立ちをしているが、仁王様のようでもある。

この2体の仏頭は西チベット・グゲのトリン寺の倉庫に収納されているもの。チベット、とくに西チベットはカシミールの影響を強く受けてきた。

ウッディヤーナ王インドラブーティは三宝に世継ぎを祈願した。すると大臣が湖中の島に蓮から生まれた男の子を発見し、養子にする。のちのパドマサンバヴァである。

三宝崇拝。ガンダーラ時代。

中国新疆ホータンのラワク寺遺跡から発見された北朝時代(5、6世紀)の泥塑仏像。ガンダーラとおなじカローシュティー文字がたくさん発見されていることからも、ガンダーラとホータンの間に直接的な交流があったことがわかる。

ホータンから出土した仏頭(左)と壁画の千仏(右)。クチャや敦煌の仏画にかなり近づいている。

ホータンで発掘された三千年前の女性のミイラ。新疆の数十体のミイラはほとんど東地中海型ヨーロッパ人とされる。サカ人(スキタイ人)だろうか。長いまつ毛から想像すると、生前はエキゾチックな美女だったにちがいない。

ザンスカール・サニ寺の円環状の褐色石仏のひとつ。盗難よけのためか最近下半身をコンクリで固められてしまった。

上の2枚はインド西北スピティのタボ寺。おそらく11世紀頃に作られたチベット文化圏で最古の像。すぐ上の写真は大日如来。

これも同様に最古の部類の像。スピティ・ラルン寺。

ガンダーラの弥勒は個性的で多様性に富む。

グゲ版天の邪鬼。まだチベット風の顔つきになっていない。