チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

 竜女メトラツェが選ばれる 

 パドマサンバヴァは竜宮から要請があることを予知し、神通力によって、マチュ(黄河上流)近くの水晶洞窟(rMa shel brag)に瞬時に移動した。

 竜の子イェルワ・ジェンガはパドマサンバヴァの力を求めて水晶洞窟を訪ね、本人に謁見することができた。パドマサンバヴァはとぼけて何も知らないふりをしてたずねた。

「身には綾衣をまとい、頭上に右旋の法螺を載せ、青い頭巾を巻き、羚羊に乗り、手に宝物と宝瓶を持つそなたは神、竜、夜叉(gNod sbyin)、いずれであろうか? ここに来られたのはいかなる目的によるのか」

 竜の子はガラスの如意宝瓶と清涼克火宝をパドマサンバヴァの前に差し出し、深々と礼をしながら言った。

「この世界において、また来世において唯一の救世主さま。私は地下世界の竜族の王ツクナ・リンチェンの使者であります。事情がありましてぜひ話を聞いていただきたい」

 竜の子イェルワ・ジェンガは竜の世界で起こったことの一切合財、そして占い神の卜占について話し、竜族の衆生を苦悩の海から救うよう懇願した。

 パドマサンバヴァは内心すぐにでも竜宮へ飛んで行きたかったが、表面上は冷静を装って言った。


我に竜の国へ行き

物事をあきらかにせよと言う。

それは山を客として招くのに

砂浜を作るようなもの。

それでは山は動かないだろう。

峡谷を穿って水を通すのに

川の道に黄金を敷くようなもの。

しかし水は流れないだろう。


 竜王の子は出発間際に父竜王が、パドマサンバヴァのおっしゃることはためらうことなくすべて受け入れなさい、と言っていたことを思い出した。
 パドマサンバヴァは竜の子が率直で責任感もあるとみて、言った。

「先に行ってください。私はあなたのあとをついていきますよ」

 少し遅れてパドマサンバヴァは湖の竜宮に着いた。竜宮の内や外は病気の竜であふれていた。よじれているのもいれば、角が背でぐにゃぐにゃ揺れている者、尾がしなだれている者もいた。うめき声は雷鳴のようにとどろき、苦悶の叫びは耳にこびりついた。
 ガラスの宮殿の屋上では王子のレクパ・チャベがやはり病気にかかり、鍋のなかの魚のように不安げにくるくると回っていた。パドマサンバヴァはそれを見て耐え難く思った。竜宮の金の玉座から竜王ツクナ・リンチェンが降りてきて、珍宝の皿と甘露の茶を献上しながらパドマサンバヴァに言った。

「現世と来世の救世主であられるグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)よ、降臨して来られたことに感謝しております。どうかわれわれ竜族衆生をお救いください」

「ことわざにも言う、天は高くとも梯子をかけることができる、地は低くとも道を掘ることができる、硬い崖もうがつことができる、流れる水の上にも船を造り、橋をかけることができる、と。病も治すことができよう。それで贈り物はどんなものを考えておられるのか」

「グル・リンポチェさま、あなたにご教示いただきたい」

「それならば、甘露、木材、浄水をお願いしたい。黄色の金、白色の銀、赤色の銅緑色のトルコ石、透明色の水晶をいただこうか。勇ましい獅子、おとなしい牛、獰猛なヤク、白色の綿羊、頑健な山羊がいいですな。純白の衣、右旋の白色法螺、花弁がたくさんの白い蓮華、三本の白色の神矢を望みますな。これらを用意してください。明日の朝、病気の竜はみな草の浜に集まってください。そうしたら治療をはじめましょう」

 翌朝早く、緑草の浜に足萎えの竜が背負われ、盲目の竜が手を引かれて、不治の病に冒された竜がかかえられて、激痛に苛まれた竜は勇気づけられながら、友ある者は肩をだかれて、友なき者は這うようにして、浜辺にやってきた。

 パドマサンバヴァは「聖者獅子咆哮」と称される祭壇を設えた。五種の宝の瓶にダラニによって加持した物を入れ、五種の動物の乳を満たし、植物薬水をしぼり、果物の木の煙でいぶし、仙草を浸した五種の浄水を用い、供え物にしたたらせ、穢れを除く経文を念じた。
 しばらくすると竜たちはみな解脱することができた。足萎えは舞い踊り、聾唖者は歌い、聞くことができ、盲人は仏像を見ることができた。喜んだ竜王ツクナ・リンチェンは喜び、祝しながら言った。

「どれほどの感謝をしてもしきれません。グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)さまの恩恵にどうしたら報いることができましょうか」

 竜の王子は金の王座に坐ったパドマサンバヴァを見て、父の竜王に上申した。

「グル・リンポチェのわれらへの恩恵ははかりしれないものがございます。それは珠玉で三千世界が満ちるほどです。しかしグル・リンポチェはわれらの贈り物を受け取らないでしょう。とはいえ、それら献上品はわれらの心意気なのです」

 竜の王子は王妃の意思によってパドマサンバヴァに、13の宝珠、13の闇を除く宝珠、13の暑さを除く宝珠、80袋の瑠璃宝飾品、黄金15升など、珍しく高貴なものばかりを献上した。

 パドマサンバヴァは献上物を見るまでは満面に笑みを浮かべていたが、それを見るや、表情が曇った。

「あなたがた竜族は恩に報いるということを理解されていないようですね」

 一目でパドマサンバヴァが怒っていることがわかり、竜王はあわてて駆け寄った。

「慈悲深いグル・リンポチェさま、贈り物はあまりにも安物でした。どうかお怒りにならないでください。いったいいかなるものでしたら、ご満足いただけるのでしょうか」

「それならそなたの奥方、デガ・ラモを連れてきてくださらないか。我は直接話をしたい」

 竜王や子、竜族の面々は飛び上がらんばかりに驚いた。グル・リンポチェはいったい何がお望みなのか? デガ・ラモの貞節は守られるのだろうか。しかしグル・リンポチェの要望とあれば、断ることもできない。

 竜王が王妃を連れてくると、パドマサンバヴァはみなに部屋から出て行くように命じた。すべての竜、とくに竜王は不安を感じながら出て行った。

 パドマサンバヴァはデガ・ラモに言った。

「竜宮の宝物をみな見たわけではありませんが、我の望むものはひとつしかないのです」

「ええ、宮中にあるものは何をお望みでも差し上げることができます」と言いながらも内心は戦々恐々としていた。

「そなたの何人かの王女はとてもすばらしいと聞いたことがあります。そのうちのひとりを献上してくださらないか」

 このひとことがあまりにも恥ずかしく、王妃はただ「ええ」と答えるのが精一杯で、部屋から出て行った。

 王妃は恥ずかしいだけでなく、パドマサンバヴァの要求には納得できなかった。竜王も暗澹たる気持ちになり、この好色ラマめ、恥というものを知っているのだろうか、と思った。とはいえ、要求を無視することもできなかった。
 三人の王女のなかで、長女のグキョン・ガモは北方のヤクシャ(夜叉)の国のガケン王の王子に嫁ぐことになっていた。次女のカツェ・ルムツォは中国のハミパツァ王のところに嫁ぐことになっていた。ただ三女のメトラツェだけがまだ嫁ぎ先が決まっていなかった。
 もし長じて見栄えが悪くなったらグル・リンポチェは彼女を欲しないだろう。どうしたらよいのか。知恵の働く大臣を集めてさまざまなことが検討された。大臣らは策を献上した。

「このラマはその長い首からすると大鷲のようであります。疑いなく死んだ牛の上に舞い降りてくるでしょう。その長い爪は豹のようであります。それは犬の屍骸を探しているのでしょう。われらはどうして三人の王女にかぎらないといけないでしょうか。竜族のなかには見目麗しい乙女もいれば、肢体絶品の乙女もいます。そのなかから選んではどうでしょうか」

 竜王はそれを聞いて大いに喜んだ。さっそく四人の女を選び、三人の王女とあわせてきれいに着飾らせた。六人の美女は頭上に如意宝珠をのせ、身には綾衣を着け、春の新竹、夏の花、秋の満月を演じた。ただ三女のメトラツェ(Me tog lha mdzes)だけが肌の色も青白く、からだも小さかった。

 七人の女はパドマサンバヴァの面前に連れてこられた。六人の美女は恥ずかしそうにしていたが、しだいに不安になっていった。パドマサンバヴァは左から右へ眺めていき、メトラツェを指しながら竜たちに言った。

「この娘の目は杏のようで、頬は桃のよう、とてもすばらしい。俗諺に言うように、美しすぎると人から浮いてしまう、食べ過ぎると吐き戻してしまう。この娘はちょうどいいぐあいに美しいのだ」

 グル・リンポチェの話を聞いて、おばあさんは心臓を震わせ、おじいさんは気絶しそうになり、壮年は胃痛になり、若者は目を充血させた。

 グル・リンポチェはどういう反応も意に介さず、ただ竜王にメトラツェを与えるよう迫ったのだった。竜王がうなずくと、パドマサンバヴァはさらに要求してきた。

「さてあなたは娘に三つの嫁入り道具を与えなければいけません。ひとつはタンショ・ゴングルという緑の天幕。二つ目は十六包みの大般若波羅蜜経。三つ目は緑の角の乳牛です」

「私はまた娘に貧窮を除く宝物センザ・マニや旱魃を除く雪静宝物、食品を盛った金の桶も与えます」と竜王は三つの宝物を娘に嫁入り道具として渡し、祝福した。

 竜女メトラツェは父母である国王、王妃、さらに姉妹らと涙の別れを告げると、パドマサンバヴァとともに海の表面のほうへ去っていった。

 パドマサンバヴァは竜女メトラツェを連れてチベットへ戻ってきた。心の中では、まずこの娘を娶わせる男を探さなければならないと考えていた。そこで竜女に考えを聞いてみる。竜女はパドマサンバヴァが夫になると思ったので、何と回答したらいいかわからなかった。グル・リンポチェは私を望んでいないのだろうか、と自問した。

 竜女が不安な面持ちなので、パドマサンバヴァは帽子を脱いで言った。

「おまえが行くべきところを占うとしよう」

 パドマサンバヴァが帽子を空中に投げると、それはゴク・ランロ・ドゥンパ・ギェルツェンの天幕の上で赤い光となり、落ちていった。パドマサンバヴァはそこを指差し、

「ああ、赤い光がきらめいたところ、そこがおまえの夫の家だ。おまえはそこでしばらく暮らすとよい。三年後に迎えにいくことになるだろう」

 そう言い終えるとパドマサンバヴァは一本の白い光となり、西南の方向に飛び去っていった。

 竜女メトラツェは母ヤクに乗り、竜宮の嫁入り道具を携えて、パドマサンバヴァの示した方向へ向かっていった。ゴク・ランロ・ドゥンパ・ギェルツェンはすでに予見していた。竜女がやってきたとき、彼は喜び歓迎した。ふたりは夫婦になった。

すべてがうまくいったあと、パドマサンバヴァは神の子トゥパガワのもとに戻り、訓戒をのべた。


ああ、アミターバよ。

自ら輝く五光の仏土にいらっしゃる。

五位の仏陀よ、よく見てください。

衆生の五毒業障を除いてください。

神聖で智慧のある尊容を拝ませてください。

果報者の好男子よ、よく聞いてほしい。

平和と繁栄、権威と厳格、それらを得て

五濁のまみれる衆生を教化せよ。

土地と民は選ばれた。

生みの親もまた選ばれた。

そなたを守る仏と菩薩、

頼りになる護法のダーキニー、

善事を守る地方神、

そして金剛護法神。

そなたの本分は世界を救済すること。

予言どおりのことをなせ。

チベットの衆生を救え。

好男子よ、慈悲を賜え。

罪悪をなした衆生を教化するのに

好男子よ、遠慮はいらない。



⇒ つぎ 














ゴクモ(竜女メトラツェ) 
パドマサンバヴァによってえらばれた竜女の三女メトラツェ。人間世界に入ってゴク部落のゴク・ランロ・トゥンパ・ギェルツェン(あるいはゴク部落の王テンパ・シェラブ)の妻(あるいは娘)となるが、のちにリン部落に連れ去られ、センロンの妻となる。ケサル(ジョル)の人間世界における父母である。
 チベット人にとって、竜(ル)は富の象徴。(センロンはニェン神の後裔といわれる。ニェン神は権勢の象徴) 
 メトラツェははじめゴク部落にいたことから、ゴク妃ラモ(ゴクサラモ)、略してゴクモ(あるいはゴクサ)と呼ばれるようになる。ラモは神女の意味だが、一般的な名でもある。



これもパドマサンバヴァ像 
すさまじいばかりの眼力
チベット自治区ドンパ(仲巴)のサキャ派の寺