年を取ったゴクモからジョル(ケサル)は生まれた
(左の本文はゴクモが若くて美しいバージョン) 
*50歳の母からジョル(ケサル)が生まれるというエピソードは、聖書「創世記」の90歳のサラがイサクを生むシーンを思い起こさせる。ただし貴徳分章本バージョン以外では、若い母親として描かれることが多い。




西欧絵本版ケサル王物語では、ごくふつうの(ふつうこそ奇跡)誕生の幸せを強調している 


センロン 
ケサルの人間界における父親。国王



漫画版センロン。兄弟のトトンと比べ、人がよすぎるところがある 



ゴムパ・ラザsGom pa ra dza) 
 ゴムパは修行の意味。ラザはラージャ、すなわちサンスクリット語の王。あえて外来語を入れることからわかるように、この老人は、外道(mu steg)の呪術師(ngan sngags)である。この場合の外道はヒンドゥー教ではなく、ボン教という。
 ゴムパ・ラザとの戦いは呪術合戦の様相を呈する。ジョルは魂石(bla rdo)を並べて、その呪力を使ってゴムパ・ラザを倒す。
 このように、仏法の王となるために、ジョル(ケサル)は外道を征服(dam la btags)しなければならなかった。






チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

7 竜女からジョル(のちのケサル)生まれる 

 部隊がリンに戻るとき、竜女は馬に乗るよう言われたが、肝心の鞍がなかった。ふと、竜女はある不思議な体験を思い出し、総監に語った。

「去年の夏、あちらに見える岩山の麓で遊んでいると、どこからともなく子どもがやってきて、金の鞍とトルコ石の轡(くつわ)をわたしにくれたのです。そして子どもはわたしに小さな声で言うのです、この鞍と轡をほかのところへ持って行ってはいけない、だれにもしゃべってはいけない、時期が来たら、自分でとりに来なさい、と。それでわたしは鞍と轡を岩山の洞窟に隠しました。それがいまもあるかどうかはわかりません」

 総監ロンツァ・タゲンは早速部下に探しに行かせたが、どうしても見つからない。そこで竜女自身に行かせることにした。メトラツェはすぐに金の鞍とトルコ石の轡を見つけて戻ってきた。これによって彼女が竜女であることが証明されたので、みな歓喜し「神に勝利あれ!」と声をあげながらリンの国にもどった。

 センロンは竜女を家に引き入れた。すると家の中が不思議な光でいっぱいになった。正妃のギャサ(漢妃という意味)はそれを見て不愉快に思った。というのもメトラツェは非常に美しく、吉兆のしるしを持ち、自分よりすぐれていると感じたからだ。同じ屋根の下に住むのはいやだと彼女は思った。

 老総監は心の中で思った。グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)の予言によれば、神の子はリンの部落に生まれるという。神の子の母はこの竜女にまちがいない。そうするとギャツァ・シェカルと神の子は異母兄弟ということになる。かわいいギャツァが天寿を全うするかどうかわからないが、このことを話すことはできない。ギャサにもこのことは知らせないほうがいいだろう。

 センロンは本営とは別に小さな、しかしよくできたテントを、ギャサのテントの隣に建てた。メトラツェのために清浄な家庭用品をそろえた。ギャサはラバ、馬、ゾ(牛とヤクの雑種)、乳牛、綿羊などをそろえ、それらを四門福院と名づけた。また竜女に「ゴク妃ラモ」(’Gog bza’ lha mo)、略してゴクモ(’Gog mo)という名を贈った。
 智慧のダーキニーの生まれ変わりであるメトラツェは、どんな境遇にも安んじることができた。つまり竜の乳牛から乳を搾り、乳を得ることができた。いつ乳を搾りに行っても、尽きることがなかった。それで人々は顔を見合わせて言った。「吉祥の白い乳牛に百三十の乳あり。けれど竜女が乳を絞るのでなければ、トルコ石の器はそれを拒む」と。

 このようにして何ヶ月かが過ぎた。ある夜、ゴクモは夢を見た。夢の中でラマが言った。「おまえのテントの下の方角にカエルに似た岩山がある。すぐにその山の前にテントを移動しなければならない。センロンにそのことを言え。ただし口外はするな」

 センロンはそれを聞いて喜び、すぐ実行に移した。ゴクモのテントはカエル山の前に運ばれた。ゴクモの持ち物はすべてギャツァ・シェカルが用意したものだった。ゴクモが何かを欲すれば、彼はその要望にこたえた。彼はまるでゴクモの実の子のようだった。老総監はその様子を見て喜び、安心した。

 ある日ゴクモは食後、湖辺の浜辺を散歩した。水面は清らかで、さざなみの寄せる音だけが聞こえた。水を掬って飲むと、さわやかな心地になった。湖面に映る自分の影を見て、竜宮を出て三年にもなることを思い出した。メトラツェは父母と美しい竜宮のことがなつかしくてたまらなかった。


歌をうたわないでいられようか。

歌をうたわないで感情を抑えられようか。

楽しいとき、歌は人を笑わせる。

苦しいとき、歌は人を慰める。

菩薩よ、本尊よ、三宝よ、

竜女である私を守って。

三女に対等な権利はないのでしょうか。

どうしたら楽土へ行けるのでしょうか。

父王は約束を守らない。

私は三年の月日を失った。

この慣れない人間の世界で

救ってくれる人もなく苦しいことばかり。

竜の声を聞かずにはや三年

金座の父王にこの気持ちが伝わるだろうか。


メトラツェは父母のことを思い、目にいっぱい涙を浮かべた。その涙の滴が湖に落ち、真珠となった。真珠の粒が湖底に沈んだ。

竜王ツクナ・リンチェンは青い顔の男に化身し、青い馬に乗り、娘の前にやってきて言った。

「娘よ、恨まないでくれ。わしとグル・リンポチェはおまえのことを考えているのだ。わしとおまえのお母さんもいつもおまえのことを気にかけている。それぞれの命運が異なっていることを理解してほしい」

 竜王ツクナ・リンチェンは娘の顔に涙のあとがあるのを見て、歌を捧げた。


天上の太陽と月の間に生きて

青空に遊び、それらを操る。

金色の太陽は四洲をめぐり

暗黒の夜は明月を遮る。

これぞ太陽と月の宿命。

大地に形成される草の山で遊び

夏から秋に色が変わる。

石山に冬も夏もなく、永遠に白いまま。

季節に左右されることのない

草山石山の運命。

われツクナ・リンチェンの三女よ

長女と次女は竜の世界にとどまり

グル・リンポチェは年若い娘が人間界へ行くことを望んだ」

これが娘の運命。


 竜王は歌い終えると、如意宝珠を取り出し、メトラツェに語りかけた。

「娘よ、父王を恨まないでくれ。おまえの運命はこのようなものなのだ。ギャツァ・シェカルはおまえを実の母のように慕っているので、おまえは楽しくてしかたがないだろう。だがすぐおまえも自分の子が欲しいと考えるようになるだろう。父王はこの如意宝珠を贈る。欲しいものは何でも手に入るだろう。覚えておくがいい。おまえの子が生まれる前、この宝珠を肌身離さず持っていなければならない」

 そういい終えると、竜王は湖に入り、姿が見えなくなった。

 父王にもらった宝珠を手に持つと、竜女は家の中にいるかのように安らかな気持ちになった。全身が温かく、気持ちよくなり、知らない間に眠りに落ちた。

 西南の方角から白い雲が流れてきた。白雲の上に乗っていたのはパドマサンバヴァだった。メトラツェの前に来ると、パドマサンバヴァは五叉の金剛杵を彼女の頭上にのせた。

「福に恵まれた娘よ、父王から別れて以来、そなたは私と離れたことはない。いまは、そなたがチベットの民のために善事をなす時である」

 パドマサンバヴァはつづけて言う。

「覚えておきなさい。今年の三月八日は神の子が投胎される日である。神の子はチベットの四大城、八小城、および周辺の十二小国の王となり、妖魔を制圧する、恐ろしい力を持つ神、また黒髪のチベットの王となるだろう。

 覚えておきなさい。神の子が誕生したら、上あごにラマの長命水を塗る。そして最初に頭頂から食べ物を摂る。同時にボンラ神を祭る。また憤怒神によって衣服が与えられる。敵を倒したあと、天を祭る。これらのことをしっかり記憶に刻み込みなさい」

 竜女は目を覚ました。パドマサンバヴァはもうどこかに消えていた。メトラツェは感激した。ますますグル・リンポチェに対する信仰を篤くした。

 三月八日の夜、メトラツェとセンロンはいっしょに寝ていて、夢の中に、従者を連れた、金の甲冑を着た黄色の人が現れた。前の夢でも見た金剛杵が唸りをあげて飛んできて、自分の頭頂に突き刺さった。朝目が覚めると、身体が軽くなったように感じた。数日間、普通の食事を摂る必要がなくなり、普段着る服も必要なかった。

 九ヶ月と八日の後、すなわち虎の年の十二月十五日、ゴクモは自身の身体が棉のように柔らかく、透明で、隠すところが何もなくなっていることがわかった。しばらくして、痛みはまったくなく、三歳児ほどの大きさの、機敏な、だれもが見て喜ぶような赤子が生まれた。
 ラマはただちに嬰児に灌頂を与え、(儀礼として)バターをその口に擦り入れた。そして「敵を倒す如意宝珠、世界英雄ケサル」と命名した。
 空には雷鳴がとどろき、花の雨が降ってきた。ゴクモの天幕は色鮮やかな雲に包まれた。ギャサは奇怪なものと思い、テントに近づいた。中を見るとゴクモがかわいらしい嬰児を抱いていた。ギャサの心中には喜びと憂いが混じり、何と言っていいかわからなかった。ともかくもこの子を抱いてギャツァ・シェカルのところへ行くべきだと思った。

 ギャツァは母親が赤子を抱き、その後ろにゴクモがついて歩いてくるのを見て奇異に思った。

「これはどういうことですか」

「ゴクモが子どもを生んだのですよ。でも将来有益なのか、そうでないのか、わかりませんけれども」と憂慮深げに言った。

 ギャツァは子どもを抱き上げ、その顔をよく見て、内心とても嬉しかった。

「なんて喜ばしいことだろう! ぼくの願いがかなったんです。弟ができたんですよ。この子は生まれたばかりなのに三歳児の身体をしています。ドン氏の家族のなかには、白獅子の乳を吸って育ち、大鷲の羽に包まれて育った神変の子はたくさんいます。いまあらたに、六芸を備えもつガルダのような子どもが生まれました」

 前世からの縁なのか、この生まれたばかりの神の子は、ギャツァが見ると上半身を起こし、顔を輝かせ、嬉しそうな様子で動作も機敏だった。ギャツァは赤子の顔に自分の顔をぴったりと寄せ、「兄弟がいつもいっしょなら、敵を破るときは鉄の錘のごとし、と言いますよね。二頭のラバがいっしょなら、財を築く基礎となります。われら兄弟ふたりなら、どんなことがあっても成功しないことはありません。いま、この弟のことを仮にジョル(Jo ru)と呼びましょう」

 ギャツァは赤子をゴクモに渡しながら言った。

「これからは緞子と三種の素食(牛乳、バター、糖)でしっかりと育てましょう」

 トトン王は心の中で考えた。チューペン・ナクポ氏は長、中、幼の三つの系統に分かれた。もともとひとつだが、三つに分かれたのであり、上下関係はない。しかしギャサがギャツァ・シェカルを生んで以来、幼系が力を増してきた。いまゴクモから子が生まれた。父はセンロン、竜王は外祖父ということになる。竜女ももともと神によって派遣されてきたというし、竜はそれを自慢げに語っている。父が強大で、母もこれだけの力を持つということは、早急に除かなければ禍根を残すことになろう。

 トトン王は毒を盛る計画を立てた。三日目の朝、神馬に乗り、毒入りの団子と蜂蜜などの食べ物を持ってゴクモのテントにやってきた。

 「なんと喜ばしいことか、ゴクモの子はわが甥っ子。うまれて三日目、すでに三歳児のような優良児とは、ドン氏一族の誉れであろうよ。叔父であるわしが特別な食べ物を持ってきた。これを食べれば、権勢を得ることになるだろう」

 そう言い終わる頃には、ジョルは食べ物を平らげていた。トトンは「してやったり」と心中思った。おとなでも消化できないのに、嬰児には無理だろう。消化できなくても、塗りこめた毒薬が効いてジョルはまもなく死ぬことになるだろう。

 トトンはじっとジョルを観察したが、何ら変化が現れなかった。ジョルはルン(気)を用いて毒薬を一種の黒い蒸気に変え、排出していたのだ。ジョルの鼻や耳から黒い煙が出ているのをトトンは見逃していた。

 トトンはこの計略が通じないことを思い知った。しかしゴムパ・ラザというボン教の呪術師のことが思い浮かんだ。彼は呪術によって人の魂を奪うことができた。過去何度か彼に依頼し、望んだとおりの結果が得られた。彼にジョルの命を奪うよう頼んだら、そのとおりになるだろう。トトンは心の中でそうしたことを考えながら、ニヤリと笑った。

「この子を見ると、天覆いがたし、地載りがたし、ということばを思い出します。どうでしょうか、わたしはある立派なラマを知っています。そのラマにお願いして、灌頂を授けてもらい、長寿を祈ってもらうのがいいでしょう。わたしはすぐにラマのところへ参りますから、この清めた敷物の上に坐って待っていてください」

 ゴムパ・ラザはその神通力によって、トトンが来ることをとっくに知っていた。トトンの要求を聞いて彼は三日以内にジョルを殺すのは、それほどむつかしいことではないと考えた。
「ジョルはまだ幼く、竜の福運もまだ満たされていないのだ。一方の自分の力はといえば、金剛の山を粉砕するほど強大だ。南方の竜どもが平地に上ってきたところで、わしにかなうはずもないだろう」
 彼は心の中では勝利を確信していたが、表向きの口ぶりは違った。

「ダクロンの大臣よ、大臣の命令を尊重しないというわけではありませんが、わたくしごときには任が重すぎます。もし守れぬ誓いを立てたなら、地獄行きとなるでしょう」

 それを聞いてトトンはあわてておでこを何度も地面にぶつけ、九叩の礼を行った。
「天と地のあいだでは、あなたさまは無敵の力をお持ちであります。このたびはどうか助けてください。ジョルを殺すことができたあかつきには、冬も夏も満ち足りた生活を送ることができるでしょう」

「おお、このように誠実であられるとは。それならばさっそく参りましょう。ジョルの命は今夜までということになりましょう」

 トトンはそのことばを聞いて歓喜雀躍し、すぐさまゴクモのテントを訪れ、話しかけた。

「本日、ゴンガ・ラマさまのもとを訪ねようと歩いていると、ゴムパ・ラザ老人に会いました。そこで老人に占いをお願いしたところ、三日のうちに大難があるという占いが出たのです。ギャサとギャツァさまにたいへんな恩があるので、お守りしたいと申し出ております」

 ジョルはトトンがあわてて出て行く後姿を見て、母に言った。

「今日、妖怪ゴムパ・ラザを退治するときが来たようです。お母様、石を四つ持ってきてください」

 ゴクモは言われたとおり四つの石を持ってきた。ジョルは石を前後左右(正方形)に置いて目を閉じ、心の中で神々を呼んだ。

 ゴンパ・レツァは修行の洞窟を出て、第三峠に着き「ハッ」と声を発すると、空中の神はすべて見えなくなった。しかし900の甲冑を着た武神たちがジョルの周囲を囲っていた。第一峠に着き「ハッ」と声を発すると、すべての竜王が消えた。しかし900の眷属神は無事だった。テントが見える場所に達し、妖怪ゴムパ・ラザが「ハッ」と声を発すると、ツェン神は見えなくなった。しかし護法神は何事もなかった。

 ゴムパ・ラザがテントのところへやってくると同時にジョルは四つの石を投げた。900の白甲冑の兵、900の青甲冑の兵、900の黄甲冑の兵、900の空行神兵が現れると、驚いたゴムパ・ラザはほうほうの体で逃げ出した。ジョルの化身はゴクモを守り、本体はゴムパ・ラザを追った。

 ゴムパ・ラザは飛ぶように洞窟に逃げ帰った。ジョルは神通力でヤクほどの大きさの岩を持ってきて洞窟の入り口をふさいだ。ゴムパ・ラザは神への供え物を投げつけ、崖が崩れるかと思うほど揺れた。供え物をつぎつぎと投げつけ、ついに炸裂して崖に穴が開いた。そこにはパドマサンバヴァに変じたジョルの姿があった。ゴンパ・レツァはそれめがけてさらに供え物を投げつけ、洞内は霹靂のごとき騒音でいっぱいになった。ゴンパ・レツァは投げた物が穴から外に出ていると思っていたが、じつはすべて洞内の壁にぶつかっていた。ついに自身の投げた物によってゴンパ・レツァは木っ端微塵になった。

 ゴムパ・ラザに勝ったジョルは、その姿をとってトトンに会った。彼はトトンに恩に報いるように言い、杖を謝礼として欲しがった。

 もともとトトンの家には、天上の妖魔がシャンシュンのボン教徒に与えたジャンカル・ベルカという杖があった。これは魔神の宝物であり、真言を念じると飛ぶように歩け、好きに止まることができた。栴檀の柱の上にこの杖と弓矢をくくりつけておくと、だれもそれに触って動かすことができなかった。ジョルはそれを入手する絶好の機会だと思った。

 トトンは偽ゴムパ・ラザからジョルが死んだと聞いて内心喜んだ。しかしゴムパ・ラザが彼の家の宝物である魔杖を欲しがるのには困ってしまった。とはいえその要求にはさからえず、杖を渡さざるをえなかった。
 彼はジョルの死のことを老総監とギャツァに告げなければならなかった。もし自分がジョルを殺したのだと知ったら、どういう運命が待っているだろうか。トトンはそう考えると恐ろしくなり、ぶるぶると震えた。

 ことわざにも言う。権力がほかの人に奪われるのは、頭髪が木の梢にからめとられるようなもの、と。ほかに方法がない今、欲しいものは与えればいい。ゴンパ・レツァは年老いているので、そう長くは生きられない。死んだら、宝物は自分のところに戻ってくるはずだ。このように考え、トトンは魔杖をゴムパ・ラザに扮したジョルに渡した。



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