チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

12 美少女ドゥクモのジョル探し。インドの貴公子に恋慕 

 競馬会の日時と場所が決まり、リン部落では知らない人がいないほど、話題の的になった。
 しかし老総監はジョル母子のことが心配でたまらず、ギャツァはといえば弟ジョルが夢の中にでてくるほど身を案じていた。リンの人々もジョル母子の帰還を待ち望んでいた。

 ジョルには競馬会のことを知ってもらい、競技に参加して王位を獲得してほしかった。だがいったいだれが知らせることができるだろうか? ふさわしい人がいなければ、母子は知るよしもないだろう。もしジョルが帰ってこなかったら、トトンを打ち負かす者がなく、その陰謀をあばく者もいない。

 老総監は考えに考えたが、なかなか適した人物を決めることができなかった。彼がほとんど白旗をあげようとしたとき、ギャツァとテンマがやってきた。総監はふと、若い彼らでも務まるかもしれないと考えた。

 ギャツァとテンマは総監に一案を示した。ジョル母子をリンに戻すには、美しい娘センチャン・ドゥクモこそ適任ではないかと。

 老総監は目からウロコが落ちたような気がした。このような考えがどうして生まれなかったのだろうか。ギャツァにはすぐにでもキャロ家に行ってもらおう。ドゥクモには状況を説明し、ジョルを探しに行ってほしい。

 ギャツァとテンマは命を受けてキャロ家の牧場にやってきた。宿営のテントをのぞくと、ドゥクモと彼女の父キャロ・トゥンパ・ギェルツェンがいた。この父と娘は競馬会が開かれることは聞いていた。トゥンパ・ギェルツェンは言った。

「あの母子にそもそも非はない。リンから追い出されるいわれはなかったのだ。この重要な時期だからこそ帰ってくるべきだろう」

「あのおぞましいものは、結局ジョルが作り出したものなのかしら」とドゥクモは自分が見たものを思い起こしていた。ジョルの変化(へんげ)が人を食べ、人を殺した。彼女が老総監にそのことを報告したことから、ジョル母子は追放されることになった。
 彼女はしかし後悔していた。自分が報告しなかったら、追放されることはなかっただろう。とはいえ、そうなってしまったものは、いまさらどうしようもない。失敗を取り返せるものもあるが、永遠に悔いだけが残るものもある。

「総監さま、ジョル母子を探しに適任の人を送ってください。わたしは競馬会の賜杯となっています。もしジョルが戻ってこなかったら、競技に勝つのはトトンでしょう。わたしはトトンのもとに嫁ぐつもりはありません」

 ドゥクモは女神白ターラーの化身であり、聡明で美しく、善良な心を持っていた。明るい太陽でさえ彼女と比べれば光が足りず、清らかな月であえ彼女と比べれば暗いといっていいほどだった。鮮やかな蓮の花でさえ彼女に光彩を奪われ、死神も彼女を見ると仕事を忘れるほど美しかった。だからこそリン部落の人々は競馬の賜杯として選出し、耳目を集めさせたのだ。リン国の英雄たちはもちろんのこと、身分の上下、老い若きを問わず、王位や七宝以上にこの美貌の女性を欲したのである。

 ギャツァとテンマがやってくると、ドゥンパ・ギャルツェンとドゥクモの父娘は自ら出迎えた。彼らはここに来た理由を述べたが、テンマはドゥクモに断られるのを恐れ、ジョル母子が追放された経緯などについて説明した。説明すると、トゥンパ・ギャルツェンは頭を下げて何も言わず、ドゥクモは恥ずかしそうにうつむいた。ギャツァはその様子を見て慰めるように言った。

「ことわざにも言います。敵に宝を与えるなら、水に流したほうがましだ、と。王位を争う重要な時期にさしかかっていますが、人々が安穏とした生活を送るためには、ジョルに帰ってきてもらうのが一番です。ジョルは勇者であり猛者です。ホルなら、トトンにかならず勝ち、賜杯を得ることができるでしょう。こうなればチベットの民衆から災いがなくなり、ドゥクモさまも幸せになられるでしょう。いま考えるに、ドゥクモさまが直接ジョル母子に会われるのが唯一の方法かと思われます」


 「エッ」とドゥクモは驚いたが、ギャツァの話にはもっともなところもあった。トゥンパ・ギャルツェンはうなずきながら聞いていた。ドゥクモはギャツァを見据えながら言った。

「リン国の英雄ギャツァさま、ジョルの兄であるギャツァさま、あなたはわたしの心の痛みをご存知でしょうか。ジョルが追放されてからというもの、何も楽しいことがありませんでした。ただ苦悩あるのみ、六賢者の良薬でもその苦痛を取り除くことはできませんでした。もしわたしがジョルさまを迎えに行くことができるなら、それは運命でしょうし、この苦痛を取り除くこともできましょう」

 ギャツァとテンマはこんなにも早く快諾してくれるとは期待していなかった。またこんなにも誠実に考えてもらえるとは思っていなかった。彼らはドゥクモのことばに感動し、心から祝福を述べ、すぐに行動に移してもらうことを願った。ふたりがテントから出て行ったあと、ドゥクモは旅の支度をはじめた。

 ドゥクモは東へ向かい、谷を抜けると、人跡稀な荒野が広がっていた。するとにわかに空が掻き曇り、天候が急変しそうになったので、ドゥクモは鞭打って馬を走らせた。

 そのとき突然天から降ってきたかのように、黒馬に乗った黒い人が現れた。手には黒い長矛をもち、ドゥクモをさえぎるように止まった。黒い人は何も言わず、じっとこの美しい娘を見つめていた。彼女のからだはかろやかで、柔らかい枝が長い竹についたようだった。顔は明月のようにまるく、頬は紅を塗ったように赤く、潤いを湛えた両目は、しかし恐れおののいていた。つやのある黒髪は後ろに垂れ、その上には琥珀、トルコ石、珊瑚、胸には瑪瑙の首飾りとルビーのガウー(護身盒)、手にはサファイアの腕輪に金の指輪、棗色の衣にはビーバーの毛皮、緞子の靴には虹色の糸によって飾られていた。

 ドゥクモはこの黒い人をじっと見た。顔は墨を塗ったように黒く、目は銅鈴のよう、凶悪な面構えで、驚いて三つの魂魄が飛び出てしまいそうなほどだ。奇妙なことに、半日ものあいだ、硬直して動かず、手も動かさず、話しかけることもせず、目だけ彼女のほうをじっと見ているのだ。ドゥクモは気を静め、話しかけようとしたとき、黒い人はついに口を開いた。


もしここがどこか知らぬようなら

教えよう、ここはシャチン・ヨメ・ドゥク。

もしおれの名を知らぬようなら

教えよう、かの有名なペリ・ニマ・ギャルツェンさまよ。

おれの左側は鉄、右側は銅、

銅の腕に鉄の身体、金剛の頭、それがおれ。

敵の肉をおかずに食べて

敵の血を酒として飲んで

敵の財宝を戦利品とした。

ずっと前から言ってきた

慈悲なんてものは知らぬと。

驚くほどきれいな娘よ、

おまえは天女のように美しい

飾り物は星のよう。

富も美貌も手に入れがたいのに

なぜおまえは両方とも持っているのだ?

おまえはどこかの良家の子女にちがいない。

富家に嫁に行ったか、金持ち一族なのか?

ともかく、おれたちゃなにか縁があるようだ。

でなければなんでここで会う?

上策はおれと夫婦になること。

その身に着けた宝物といっしょにな。

中策はおれの一夜の愛人になること。

首飾りと馬はもらったぜ。

下策は身ぐるみはがされておうちに帰ること。

三つのどれにするかはおまえ次第よ。


ドゥクモはこの強盗の話を聞き、難を逃れるのはむつかしいと観念した。心の中で、ひとりの純白な娘がどうして強盗の妻にならなければならないの、と考えた。屈服するくらいなら死んだほうがましだ、とさえ思った。このように覚悟が決まると、かえって恐れはなくなり、目を閉じて死を待った。半日すぎても何も起こらなかった。何も動かなかった。目を開けると、黒い人は依然として彼女を見つめていた。ドゥクモは突如として生きたいと思うようになり、強盗に言った。

「宝が欲しいなら、あげるわ。首飾りが欲しいなら、あげるわ。馬はあげられないし、愛人にもなれない、妻だなんてばからしいわ。もしあなたがいい男なら、こんなかよわい女なんかほっといて。わたしには大事なことがあるの。ジョルを探して、つれてもどるのよ」

 黒い強盗はそれを聞いて言った。「それなら勘弁してやろう。おまえのやることが終わるのを待とう。七日目の朝、首飾りや馬を持ってここに来い。おまえの誠意を試すのだ。それからおまえの金の指輪をくれ。そしたら無罪放免だ」

 ドゥクモはどんなことがあっても金の指輪を渡すものか、と思った。しかしこの黒い人とその黒い馬は忽然とどこかへ去っていた。

 ドゥクモがなおも前進していくと、空は明るくなり、荒野も消えていった。向こうには「七つの砂山」という砂の丘が見え、馬に乗った七人の男が出現した。
 いましがた恐ろしいことがあったばかりなので、人の姿が見えただけでほっとしてうれしかったが、恐ろしいようでもあった。

 彼女が男たちのほうに近づいて見ると、彼らは馬から降りてここで休憩しているようだった。馬をパシッと鞭打って彼女は彼らの面前に出た。首領らしき男は大きな岩にもたれかかってくつろいでいた。ほかの男たちは荷物を整理したり、火を焚いて飯を作ったりしていた。ドゥクモは首領らしき男を見て驚きのあまり呆然としてしまった。

 なんと美しいのだろう。いままで見たことがない、きりっとした美少年なのだった。肌は法螺貝のように白くてきめ細かく、その頬は潤んだ紅色、服や飾りもあざやかで、その姿態はきちんとして威厳があった。彼は嬉しそうに笑ったり、隣の男に話しかけたりしていたが、ドゥクモの存在には気づいていないようだった。

 ドゥクモは目の前の美少年を見てうっとりとし、自分が何をしているのかわからなくなり、時間も使命も忘れてしまった。彼女は目を見開いたまま、その場に呆然と立ち尽くした。その美少年はドゥクモにとくに興味を持ったようには見えず、彼女がなぜそこに立っているのか理解できなかった。彼女はこんなにときめいたことはなかった。

 リン国では、家から出た彼女と話をする機会があったら、それは幸運なことだとされた。もし彼女に問いかけて、答えてくれたら、それはもっと大きな福であった。しかし眼前の少年は暇を持て余していたのか、雑草をとっていじりまわしているだけで、リン国の美女を見もしなかった。

 しばらくたって、彼女は夢からハッと醒めたように我に返った。辱めを受けたかのように感じた。少年にいじられている雑草になったような気分だった。ドゥクモが馬の向きを変え、立ち去ろうとすると、少年が口を開いた。


ぼくを知らないのかい。

ぼくはインドの大臣パルク。

求婚するためリンに来た。


 ドゥクモはそれを聞いてまたも立ち尽くした。この美少年がリンへ行ってだれかの娘に求婚するのだろう。
「あっ」彼女は気づいた。「これって、これって……」ドゥクモの心臓は飛び出しそうになり、顔が赤らんだ。

 インド人パルクは彼女の反応のすべてを見逃さなかった。


ぼくは聞いた、センチャン・ドゥクモがいかに美しいか。

ぼくは聞いた、トゥンパ・ギェルツェンがいかに富裕か。

本当かウソか、それは知らない。

その娘を娶れるかどうか、それはわからない。


 ドゥクモの美貌は有名であり、インド人はみな「リン国に美女ドゥクモあり」という噂を知っているのだと少年は言った。そう聞くとドゥクモから自己を卑下する考えが消えた。彼女は自分の珊瑚や金の護身符をまさぐりながら、心の中で考えた。
「装飾品を強盗にとられなかったのは運がよかったわ。あるのは金の指輪くらいのもの。でもこれだってたいしたもんじゃない」

 そう考えるとドゥクモは顔を上げた。インドの美少年はつづけた。


上等の女は仙女のごとし。

福寿も栄華もみな備わっている。

中等の女は明月のごとし。

権勢にしたがって満ち欠けする。

下等の女は刀のごとし。

挑発するばかりがその本領。


上等の女は良薬のごとし。

衆生すべてに益を与える。

中等の女は水晶のごとし。

損得は定まらず縁に拠る。

下等の女は毒花のごとし。

心からの伴侶には縁がない。


娘の数は、山上の草より多く、

真の伴侶は、黄金より少なし。

我に黄金はあまるほどあるが、伴侶はいない。

娘さん、

ぼくは遠くから歩いてここに来た。

娘さん、

ぼくはドゥクモはいらない、あなたが欲しい。


 インドの大臣の話を聞き、ドゥクモは嬉しくも悲しくもあった。嬉しいのは、自分の美貌がこの傲慢な王子を動かしたことである。悲しいのは、天下の男たちがこのようにひとりの男がひとりの女を愛するというものではないことだ。彼はいまだわたしがだれであるか知らない、ドゥクモでなく目の前の女を娶りたいと考えている。これは少年が、美しいが薄情者ということではないか。しかしこのように悲哀を感じるのは、喜びが抑圧されているからではないか。

 ドゥクモは自分を保つことができず、女性特有の羞恥心で喜びの気持ちを隠していたが、その目からは激しい情を含んだ光が漏れていた。彼女はおのれの美貌に自信を持ち、それで美少年の愛情も得られるとうぬぼれていた。彼女のプライドは地に落ちていたが、笑ってもそれを覆い隠すことができなかった。彼女は酔いしれたかのように喜びを感じながら、高慢にパルクに言った。


マメ(マチュ下流域)地方の七砂山の山頂に

高く聳える白い崖の上の宝物

いきいきとして、しとやかな霊鷲

からだに六つの翼を持つ豊艶なる者、それがわたし


マメ地方の七砂山の山腹に

白雪のような宝物

すばやくて、堂々とした白獅子

頭上に緑のたてがみを持つ豊艶なる者、それがわたし


マメ地方の七砂山の山麓に

立てたリン・カルポの宝物

あでやかで、うつくしいドゥクモ

身体中になよやかな香気を持つ者、それがわたし


マパム・ユムツォ湖に生きる白鳥

湖を捨てて飛び立つことはできない

大臣のあなたはドゥクモのことを想うけど

ドゥクモを簡単に捨て去ろうなどと思わないで


ドゥクモはすでに競馬の賜杯

だれが神のような駿馬でわたしドゥクモを勝ち得るのでしょう

もし競技に参加しないなら

黄金を敷きつめても娶るなどと思わないで


南方の炎暑の地の弓竹

樹上の白頭鷲の羽毛

粘り気があり堅固で、にかわの汁が取れるなら

ふたつだあわさって矢筒の装飾になりましょう


チベットの高地の清水を用いて

南方インドの紅茶を作りましょう

香りが泡立ち、水で冷やす

ふたつがあわさって浄水瓶の玉液ができましょう


あなたはインドの大臣パルカ

ドゥクモを娶りたいとリンへ向かう

リン・カルポでは競馬(きそいうま)を挙行する

勝った者がわたしと夫婦になるという


 ドゥクモが語り終わると、インド人は目の前の美女がドゥクモとは信じられず、いぶかしく思いながらたずねた。

「人生は不思議なことだらけだ。あなたがドゥクモだとどうやって証明できるのですか」

 ドゥクモはすこし時間をおいて携えてきた長寿酒を取り出した。この酒はジョルのための贈り物である。瓶の蓋にはキャロ家の漆の焼印が押されていた。この印章によって証明できる。

 インド人は酒瓶を見て、この酒を試さなければ彼女がドゥクモであるかどうかわからないと言った。自分の話を実証するため、彼女は蓋を開け、瓶を傾けた。すると魔法のように酒がインド人の口に流れ始めたのである。
 ドゥクモははじめて怪しく思った。本来ほんのわずか口に含むだけのはずなのに、一滴残さず口に入ってしまった。これは天神の仕業だろうか。それならふたりは夫婦になるべきと? もしそうなら……。

 インド人がドゥクモの美酒を飲むと、その頬はさらに赤くなり、若々しさがみなぎり、美少年ぶりが増した。彼はさっそくでも競馬に参加したいと言いはじめた。彼は勝ちたいし、勝てると自信たっぷりに語った。
「でもぼくには王位も財宝も必要ない。欲しいのはドゥクモだけだ。ドゥクモを娶ってインドにつれて帰りたい。インドの王宮はチベットの王宮よりずっと大きく、きれいで立派なんだ」

 ドゥクモはこの美少年にすっかり魅了されてしまった。彼女は少年にぴったり寄り添い、甘いことばをささやきかけた。この忘れがたい場所を記念して、彼らは大きな岩に彼らにしかわからない記号を刻んだ。大臣である少年は水晶の腕輪を彼女の腕にはめ、ドゥクモは九つの結び目のある白絹の帯を彼に渡した。競馬会での再会を約束し、断腸の思いでふたりは別れた。

 黒い人とこのインド人が、ともにジョルがドゥクモの貞節を試すために作った変化(へんげ)であることを、だれが気づきえたであろうか。彼女が一杯食わされるとだれが思っただろうか。

 大きくも小さくもない山を越えると、ドゥクモの目の前には高くも低くもない山があった。彼女が驚いたことに、丘の上に無数の尾のない地ネズミの洞窟が無数に開いていて、すべての洞窟の前にジョルが坐っていた。その光景を見て、黒い強盗に会ったときとおなじように心拍が高まった。彼女はあえて進まないで、巨石の陰に身を隠し、気持ちを落ち着けた。

 しばらくしてドゥクモが物陰から顔を出すと、ジョルはひとりのジョルになっていた。ジョルは巨大ネズミのバケモノを倒したところだったのだ。ドゥクモは走り出て、思い切って叫んだ。

「ジョル!」

 ジョルはドゥクモのおびえた様子を見て、彼女がインドの大臣に甘い声でささやきかけたのを思い出し、懲罰を加えようと考えた。ドゥクモを魔女とみなして、投石器を持って構えながら歌った。


マメ地方はすばらしい、すばらしい

尾なし地ネズミが走り回る

領土はこれ地ネズミに属す

権勢は妖魔に属す


ジョルがこの地に来て

妖魔の生死帳簿が作られた

ジョルはネズミと大決戦

奇怪なネズミはみな退治した


鬼女は何しにマメに来た

剥きだすおまえの牙、逆巻くおまえの頭髪

おまえの魂を地獄の関所に追い返そう

おまえは知らないのか、おれがジョルだと


 歌い終わると、ジョルはふたつの石を投げた。それらはドゥクモの歯と髪に当たった。すぐさまドゥクモのキバは折れ、口はあいた袋のようにズタズタになった。頭髪は抜け、頭は大きな銅の杓子のようにデコボコになった。ドゥクモはジョルが情け容赦ないことを見て取り、自分も鬼のようになったことに気づき、泣き出したい気持ちでいっぱいだった。

 ジョルはそのさまを見てさすがにあわれに思ったが、すぐにもとの姿に戻すのはよくないと考えた。彼は急いで自分の宿営のテントに戻り、母ゴクモに言った。

「ドゥクモがやってきました。お母さん、どうかドゥクモを迎えに行ってください」

 ゴクモは巨石の後ろに行き、ドゥクモの姿を見ると狼狽した。昔は花のように、玉のごとく、美人だったのに、いまは髪が抜け落ちた、歯のない老婆で、醜いことこのうえなかった。ゴクモはその姿を哀れに思ったが、ジョルの考えがわからず、声を張り上げないで、なぐさめるようにたずねた。

「娘さん、泣かないで。さあ起きて、ジョルのところへ行きましょう。あなたのからだはもとよりも美しくなりますよ」ゴクモは彼女をテントまで連れて行った。

 ジョルはドゥクモを見るなり、「ハ、ハ、ハ」と笑った。

「ドゥクモではござらぬか。なぜこのテントに入らなかったのか。叫ぶものだから、鬼女かと思ってしまったではないか」

 ドゥクモはそれを聞いてただ泣きじゃくった。

「競馬のために、まず総監はギャツァに命じてわたしとお父さんを探させたのです。それからつぎに、わたしがあなたたち母子を探し、あなたを競馬に参加させ、賜杯を手に入れさせようと考えたのです。遠い旅路をものともせず、妖魔も怖いとは思わず、ひたすらあなたたち母子を探しました。まさかあなたが呪詛によってわたしを鬼女にするとは思いませんでした。こんなおぞましい姿になるなど夢にも思いませんでした。こんな姿でリンへ戻れるでしょうか? こんなおぞましいなりで人に会えるでしょうか?」

 ジョルは心の中で嘲笑した。人に会う? あの美しいインドの貴公子に会うのが怖いのではないのか。とはいえ彼女のあわれな姿を見ると、これ以上もてあそぶのはよくないとも思った。

「おまえはもとの美貌を取り戻すことができる。いや、いままで以上にきれいになる。しかしひとつ条件がある。おれのかわりにやってもらいたいことがあるのだ」

「ひとつだなんて言わないでください。十でも百でも、おおせのとおりに」

「このことはそんなに簡単ではない。おれは競馬に参加したいのだが、一頭の馬もおれは持っていないのだ」

「それなら大丈夫です。父の厩舎には良馬が百頭います。好きなのを選んでください」

「その百頭のなかでどれがトトンの神馬を上回るのか」

「それは……」と彼女はことばに窮した。

「無数の野生馬のなかでも、キャンゴ・ペルポというずばぬけた駿馬がいるという。それを捕獲できるのはわが母とあなたしかいない。そこでお願いしたいのだ」

 ジョルは期待をこめた目でドゥクモを見ていた。

「野生の馬……わたしがどうやって……」ドゥクモには勇敢さもあったが、自分ができるかできないかではなく、大事なことが遅れてしまうのではないかと心配だったのだ。

「できるさ! 馬は人の話を聞くことができる。うまく捕まえられないなら、ぼくの兄と弟の力を借りるとよい。彼らは日月神を使って助けてくれるだろう」

 ドゥクモは頷いたが、何かすっきりしなかった。

 そのときジョルの唇がかすかに動き、ドゥクモの頭と顔をまさぐると、瞬時の間に頭から黒い頭髪が生え、顔もまた明月のように丸く明るくなった。ゴクモが鏡を差し出すと、ドゥクモはおのれの顔が以前にも増してきれいになっているのがわかり、恥ずかしいくらいだった。

 母のゴクモは笑い、ジョルも笑った。



⇒ つぎ 











リン国でもっとも富裕なキャロ家の娘ドゥクモは、絶世の美少女として知られていた。彼女はなぜか、まだリンに戻ってきていないジョルを呼びに行くという役を命じられる。 
*ドゥクモの父はキャロ・トゥンパ・ギェルツェン(sKya lo sTon pa rgyal mtshan)。リン国一の金持ち。平民(sbyi mi)だが、三十人の英雄のひとりに数えられることが多い。

ドゥクモ 
のちにケサル王の王妃となるセンチャム・ドゥクモ(Seng ljam 'Brug mo)。名のセンは獅子、チャムは貴女、ドゥクは竜、モは女性を意味する。ドゥクモは自らについてつぎのように説明している。
「私は前世において、トルコ石で国中が飾られた国の金色に輝く無量宮の白色法螺貝の宝座にあり、白ターラー女神と呼ばれていた」 
 このように前世は白ターラーであったと述べている。そして降臨するとき、めでたい兆しが現れたという。
「私が生まれましたのは辰の年、青い空に青竜の吟ずる声が響き渡り、大地には蜀葵(タチアオイ)の花が咲き誇り、雪山の頂には白獅子がいましたので、この名センチャム・ドゥクモをいただきました」
 上述のように父はリンでもっとも豊かなキャロ・トゥンパ・ギェルツェン。軍人でも政治家でもないが、実力者である。彼女が競馬の「賞品」であるのは、われわれにはやや理解しがたいところ。しかしそれは国王の正妻になることを意味していた。




ドゥクモはケサルを探しあてた