チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
17
競技もたけなわ、行程の半ば近くに達しようとした頃、ジョルは両足を放した状態で神馬キャンゴ・ペルポを疾駆させていた。そのほかの英雄たちも鞭をふるい、ひたすら馬を走らせた。トドンが乗った玉鳥駿馬(rta mchog g-yu bya)はつねにグループの先頭に位置していた。
そのとき上空にもくもくと黒雲が湧き出てきた。それは黒い魔物のようだった。空は次第に暗くなっていった。黒雲を切り裂くように稲妻が光ったかと思うと、巨大な雹が降ってきた。
いったいこれはどういうことなのだろうか。山の神様を怒らせてしまったのだろうか。じつはここアユディ山には虎頭(タクゴ)、豹頭(ジクゴ)、熊頭(ドムゴ)という3つの荒ぶる神が住んでいた。虎頭は言った。
「今日はここで競馬会が行われておる。ゆえに人間の足や腹は後ろに曲がり、膝は前に突き出て、馬が駆けるとあたり一面砂埃が舞うという事態に至っておるのだ。砂埃に混じって、山の上は馬糞だらけよ。どこもかしこも汚物だらけだ」
「つまり人間は」と熊頭は、怒りをおさえながら言う。「雪山に踏み入り、草原を蹴散らかすやから」
「われら山神はどれだけ人間どものばか騒ぎを我慢せねばならぬというのか」と豹頭は憤懣やるかたない口調で言った。「今日はまあ、よかろう。しかし今後、そうはたやすく騒ぎ立てる気にはならないようにさせてやろう。漢地の茶商人やチベットの旅商隊も二度と帽子を脱いでわれらに敬礼することもなくなるだろう。ラマも官吏も、遊牧民も貧乏人も、みなわれらに石を供えることはなくなるだろう」
虎頭、豹頭、熊頭はリン国の人々に怖い目に遭わせようということで意見が一致したので、家来の暗黒軍を招集したのである。それらは黒雲となって現れ、稲妻となって震え上がらせた。しかし雹となって地上に降り注ぐ頃、3つの荒ぶる神は突然動くことができなくなった。
彼らはジョルの投げた鎖によって捕えられ、馬に乗ったジョルの前に引き立てられてきた。彼らはジョルが神の子であることを知ると、ひたすら頭を下げて従順であることを誓った。
黒雲が消えると、世界は光に満ち溢れた。光の中からマメ(rMa smad)地方、すなわちマチュ河(黄河上流)下流域のダーキニーが3つの宝をジョルに献上した。すなわち甘露(アムリタ)に満ちた水晶瓶、グラザ石山から取れた宝石を嵌めた銀の匙、そして八吉祥の絹のカタ(儀礼用の布)である。
感謝の意を伝えたジョルはすぐに会場に戻った。苦労しながら馬の隊列の最後尾につけていたのは、猫背のグル(sGu ru)だった。ジョルはからかい気味に声をかけた。
われは翼(ル)の上に乗る(ジョ)ジョルなり
そなたは猫背(グル)のグルではないか
われらふたりはいいコンビではあるまいか
息がぴったり合うようだ
ジョルとグルの仲良しコンビ
われらいっしょに競い合おう
われらふたりで賞金を得ようではないか
それでふたりの借金返済だ
グルはみるみる顔を紅潮させた。彼はジョルの貧乏くさい顔を見て、なぜ賞金の話をするのかいぶかしく思った。列の後ろのほうにいるのに、力をあわせようとはどういうことなのか。力をあわせることに意味はなさそうだった。きっと借金でもしようというのだろう。おれから借金しようというのなら、言語道断である。
そんなことを考えながらグルは虎のようないかめしい顔でジョルに言った。
「気をそらすようなことは言わないでくれ。おれはバカではないぞ。やぶからぼうにわけもなく賞金の話をするのは魂胆があるからではないか。いま現在の状況では、われらふたりが賞金を得るのはむつかしいだろう。もし天の助けで賞金を勝ち得たとしても、おまえと分け合う道理はないからな。もしおまえが賞金を得たとしても、おれがおまえにたかるということはない。おまえにお金を貸すなんて気はさらさらないからな。おれとおまえは雪と火のようなものなのだ。ウマがあわないというのに、協力しあおうなんて言わないでくれ」
「グルよ、私は親切心で言ったのですよ。あなたの猫背を見てかわいそうだと思ったのです。心から助けてあげたいと思っているのに、どうしてそんなおっしゃりかたをするのでしょうか。後悔することになるのではないですか」
話を聞いたグルは大笑いした。
「かわいそう? 助けたい? ジョル、おれの猫背がどんなにすばらしいか、おまえは知らないようだな。リン国の上部(チェ系)では神の背中と呼ばれているのだぞ。もしおれの神がかり的な力がなかったら、国は衰退してしまっていたのだ。リン国の中部(ディン系)では富の背中と呼ばれているのだぞ。もしおれの富がなかったら、国は衰退してしまっていただろう。リン国の下部(チュン系)では幸運の背中と呼ばれているのだぞ。もしおれの幸運がなかったら、国の命運は傾いていたことだろう。リン国の人が歌っているのを聞いたことはないのかね?」
よく曲がった上弦の三日月
それは夜空に掛かった飾り物
よく曲がった豊作の穂先
倉庫のなかは生気にあふれる
よく曲がった天空に架かる虹
天と地はぴったり接しあう
猫背の男子は武芸にすぐれ
猫背の女子は見識が高い
曲がった武器はよく人を倒し
曲がった道は競馬を面白くする
「ジョルよ、おれはおまえよりはるかに金持ちだ。おれは9頭のゾモ(雌牛)、9つの田をもち、9男9女に恵まれたからな。春と冬、酒に欠いたことはないし、夏と秋、我が家にはたっぷりとチーズがある。ジョルよ、そんなおれとおまえがなぜ力を合わせる必要があるか? おれはおまえと協力関係を結ぶ気はさらさらないからな」
ジョルはグルの態度を見て、怒りを感じることもあれば、笑いを禁じ得ないこともあった。菩薩を見分けられない見る目のなさには怒りを覚え、背中をいからせて闘牛のごとく興奮するさまには失笑した。しかしグルが自分の猫背を礼賛することには皮肉のひとつも言いたくなった。
曲がった刀は己を傷つけるという
曲がった角は己の目を突くという
曲がった手は自分の顔を叩く
猫背の口は己の足にかみつく
さかさまに置いた水瓶には水を入れることができない
曲がった虹は衣服のつぎあてにはならない
身体の外側の湾曲は病によるもの
病人は用心しなければ命を失う
内側の心が曲がるのはわがままから
わがままが重なれば気が触れる
百人の人が山の上へ向かうとき
猫背の人はその頭が足に当たる
百人の人が立ち上がるとき
猫背の人は寝るかのよう
兄弟たちが馬に乗って前へ走るとき
グルの馬は後退するかのよう
ジョルは歌い終えると、鞭で馬を叩き、前方へ駈け出した。グルはジョルの歌を聞いて怒りがおさまらず、ぶるぶると震えた。彼は死にもの狂いで背中を伸ばそうとした。ジョルと言い合ったあとだったので、なんとしてでも伸ばしたかった。
グルは思った。自分とジョルとではどのみち分け前を等分することなどできないだろう。そう考えると癪(しゃく)に障るばかりだった。だが気がつくと、ジョルはずっと前方に駆けて行ってしまっていた。
グルは自分が乗っている額が白い馬に、鞭をめちゃくちゃにふるった。馬はびっくりして飛び跳ね、あちこちを走り回った。ふと後ろを見ると、ジョルがそこに立ちはだかっていた。ジョルは心の中でグルの愚昧さを嘲笑った。彼は自分の馬、キャンゴ・ペルポに耳打ちした。神馬(タムチョク)は主人の意図を察し、いなないたかと思うと、グルの馬を道端のくぼみに押しやった。馬がくぼみに落ちるとき、馬の鞍がはずれ、グルの口に飛び込んだ。グルはあわてて走り出し、屋根の上が金色で壁が赤い小さな神廟の中に逃げ込んだ。中にはぴかぴか光る金色の仏像があった。グルはその前に跪き、神の助けを請うた。しかし外から馬が力を加えると、グルは馬糞といっしょに外へ押し出された。グルは馬糞の上で何が起きたかわからず、きょとんとしていた。額の白い彼の馬がやってきて、馬糞まみれのグルの手をなめた。
彼は立ち上がり、見回してジョルを探したが、その姿はすでになかった。心の中は後悔でいっぱいだった。彼は馬にまたがると、大きなため息をつき、競馬会はあきらめ、家に戻ることにした。
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