チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
26
ギャツァをはじめとするリン国の英雄がタクツェ城に到達したとき、なかはすでにからっぽだった。城門は大きく開かれ、宝庫のなかの金のシャカムニ像、銀の観音像、仏法刀、国法刀、吉祥水晶碗、甘露水瓶、朱金で書かれたカンギュル大蔵経典などはすでにホル人に持ち去られたあとだった。ギャツァは怒涛天を衝くごとく怒り、だれともはかることなく、ホル軍が退いていった方向へ狂奔するかのように馬を走らせた。
ギャツァがあせるのはもっともなことだった。ケサル王が北の魔国へ攻めていくとき、リン国のことを任されたのはギャツァだった。彼はリン国を、王妃を、家畜を守る義務があった。それなのに、王妃は連れ去られ、宝庫の宝物はすべて略奪されてしまったのである。ケサル王が戻ってきたとき、何と申し開きができるだろうか。
ことわざにも言うではないか。
「立派な男のなかでも、真の英雄であるかどうかは、危急の際にわかるものである。駿馬のなかでも、とくにすぐれた駿馬であるかどうかは、砂地を走らせればわかるものである。すぐれた人のなかでもとくに卓越した知恵ある者であるかどうかは、肝心なときに本領を発揮するかどうかでわかるものである」
ギャツァは馬を走らせながら、乗っている背の白い馬に問いかけた。
馬よ、白い背の馬よ
今日はおまえに乗って出陣しよう
山を越え、崖を飛び
平地のごとく突っ走る
大小の川を飛び越えるそのさまは
あたかも水中の目が金色の魚のごとし
胸が白い鷹と同様
雷鳴のごとく疾走する
今日われは敵を殺して仇を打つ
戦う伴はおまえだけ
われらふたりホルの陣営に突入する
敵王を殺せば相手陣営は大騒ぎ
馬よ 馬よ よく聞け
今日の伴はおまえひとり
国土を守るため
敵陣を陥落し、勝たねばならぬ
白い背の馬は言葉が理解できたので、風のごとく疾駆し、雷のごとく空中を飛翔した。どれだけの時間がたったのか、ギャツァの目の前に、そして白い背の馬の目にも、ホルの山のごとき数の兵馬が、密林のごときあまたの刀剣が、現れた。
しかしギャツァはひるむことなく、敵陣地に突入した。神刀でもってホル兵をつぎつぎと斬ると、兵士らの血肉が飛び散った。雷弓でもって矢を放つと、兵士らを射抜いて束ねた。兵馬はわめき、いななき、大混乱のうちにあたりを走り回り、四散した。
シェンパ・メルツェはギャツァが攻撃してきたことを確認し、好ましくない事態にいたっていることを理解した。ギャツァが恐いというよりも、リン軍がホル軍の退路を断つと、抜け出すのが困難になることを恐れたのだ。メルツェは眉間にしわを寄せて知恵をしぼった。
メルツェは馬に飛び乗って本陣から出てくると、ギャツァに向って歌をうたった。
ギャツァ・シェカルよ
苦労しながら追ってくる必要などないだろう
今日はまさに十五日
クルカル王(白テント王)は満月の戒をおこなっていらっしゃる
殺し合いからよい縁は生まれない
指に触れるのは白い絹織物
絹織物の上には短冊が貼ってある
そこにはさまざまな戒律が記されている
戒を守り刀は使わず
もし人を殺して戒を破るなら
容赦なく天罰が下るだろう
今日われら戦わず
かわりに遊戯を楽しもう
ギャツァは歌を聞き、もっともなことだと思い、それ以上追うのをやめた。
「メルツェよ、おまえはホル国の大シェンパ(大臣)だ。われらの王妃を連れ去るというのは許されざる行為である。王妃を奪い、宝物を盗むのをやめるなら、両国は戦いつづける必要もないだろう」
ギャツァがこれ以上追ってくる様子が見られないことがわかり、メルツェは喜んだ。
「英雄ギャツァよ、両国の関係がどうであれ、今日武芸を競ってみて、もしあなたたちが勝ったなら、私は自らクルカル王のもとへ出向き、ドゥクモ王妃と宝物を返すように進言することにいたそう。もしわれらが勝ったなら、英雄ギャツァ、あなたにはリン国にお戻りいただこう」
ギャツァはうなずいて同意を示した。シェンパ・メルツェはまず弓比べを提案し、それから刀の勝負を提案した。ギャツァは即刻、鵬(おおとり)の羽根の弓矢を取り出し、その矢を引きながら歌った。
シェンパ・メルツェよ、聞くがいい
武芸を競って強さを示して何になる
あなたの馬を私は射抜かない
馬を射殺したところで何になろう
あなたの鞍を私は射抜かない
鞍を射抜いたところで何になろう
シェンパの甲冑を私は射抜かない
甲冑を射抜いたところで何になろう
鞍の上のシェンパを私は射抜かない
人を殺して何になろう
あなたの頭の兜(かぶと)を私は射抜かない
兜を射抜いて何になろう
あなたの兜のひもから矢つぼを作ろうと私が欲するなら
兜のひもはすでに切れたことを意味している
歌い終わるや、ギャツァは矢を放った。矢はまさにメルツェの兜のひもに当り、それから天高く舞い上がった。矢は上空できらりと光ったかと思うと旋回し、ギャツァの矢筒に戻ってきたのだった。シェンパ・メルツェは恐れを成した。心の中で彼は思った。人はケサル王がすごいというが、このギャツァも負けずとすごい英雄である。いま彼を除かなければ、あとあとやっかいな存在になるだろう。
ああ、惜しいかな、ギャツァ。あわれなる大英雄よ。わが矢の餌食となる運命にあるとは。それはわが本意ではない! だがギャツァが追い回すかぎり、ホルとリンの戦いが終わることはないだろう。今日は絶好の機会である。そう思いながら、メルツェは笑みを浮かべつつ歌った。
ギャツァよ、あなたはすばらしい友である
あなたが語るすべてに仁義がある
われは天に向かって矢を放たない
なぜなら太陽や月に罪はないから
われは大気に向って矢を放たない
なぜなら鷹を射殺すのは悲しいことだから
われは大地に向って矢を放たない
なぜなら白い蓮の花を射るのは罪深いことだから
われはあなたの頭上の兜のひもを射止めて見せよう
われは弓矢の名人であり
百発百中、はずれたことは一度もない
メルツェは矢を放った。それは弧を描いてギャツァの額の真ん中に当った。矢先が額にめりこみ、甚大な痛みをもたらした。しかし英雄はけっして倒れなかった。彼は身体を起こしたまま、腰の刀を抜き、ホルの陣営に乗り込んだのである。ギャツァがやってくる前にメルツェは姿を隠していた。ギャツァはホル兵をつぎつぎと倒していったが、ついには力尽きて地面に倒れた。
ケサル王の兄であり、リン国の将軍、不世出の大英雄は、謀略に遭い、ついに斃れてしまったのである。
⇒ つぎ
義兄ギャツァ・シェカルを失うことほどケサルにとってショッキングなことはなかった
ギャツァ・シェカルは、テンマをリン軍へ呼びに行かせて、単騎でホルへ向かっていった
不覚にも敵の矢を大量に浴びてしまった