チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

28  ケサルついに帰国。トトンの下男になった父からトトンの無法ぶりを聞かされる 

 ある日ケサルはふたりの王妃を連れて、馬に乗って狩りに出た。城を出たところで突然愛馬キャンゴ・ペルポが歌い始めた。

 

東方の吉祥の地中国には 

さまざまな地域から異なる言葉を話す商人たちが集まってきます 

商売の仕方はいろいろとありましょうけど 

商談がまとまればその人は故郷に帰っていくでしょう 

このにぎわう都会に身をうずめる人などいないのです 

来る者あれば、去る者あり、それが自然のことわりなのです 

 

チベットの神聖なる仏教の聖地に 

各地の僧侶が巡礼に訪れます 

歌をうたい、各教派の仏典について論議し 

兄弟のように意気投合することがあります 

それでもいずれ、おのおのの故郷に戻っていきます 

けっして所属する寺院を捨てることはありません 

来る者あれば、去る者あり、それが自然のことわりなのです 

 

世界の獅子王ケサルよ 

だれもがうらやましく思うタクツェ城で 

ドゥクモを妻として心から愛し 

深く信頼し合い寄り添うふたりとなったのに 

どんなことがあっても分かれることはないと誓ったのに 

この北方の地へやってくると 

ドゥクモを捨てたわけではないけれども 

魔物を倒すことにかかりきりになってしまった 

 

魔国はすでに平定され 

北の人びとは、食べものにも着るものも困らなくなりました 

しかしそのあいだに王妃ドゥクモはホルに連れ去られてしまいました 

リン国は未曽有の大災害におそわれました 

ホルの罪深い行為は国に満ち 

リン国にはいまにも降伏するときがやってこようとしています 

 

 ケサルの心の窓が開いたかのっようだった。あるいは心の目が見えるようになったかのようだった。彼はすぐさまリン国へ向けて出発する決心をした。メサは妨害しようとし、アタラモは思いとどまらせようとした。

「リン国はホル人から侵略を受けてしまいました。ドゥクモさまもクルカル王の王妃にさせられました。ケサル大王が北の魔国にとどまって9年になります。もし戻られないなら、天上の神々も竜の世界の竜神たちもみなわれわれを罰するでしょう。これ以上王の道をはばむのをやめなさい。あの健忘薬を二度と服用させないでください。大王さまはリン国に帰国し、いろいろな困難を片づけられるでしょう。われわれも大王さまにしたがって故郷に戻りましょう」

 キャンゴ・ペルポはケサルを乗せると天高く舞い上がり、リン国へ向かって飛んで行った。この宝の馬は天母の意思を受けて、ケサルに帰郷を促す歌をうたったのである。馬の心のなかでは、北の魔国にとどまっていたことに対する許しがたい気持ちもあった。しかしこのとき愛馬はケサルの心が矢のごときであるのを見て、いつもよりも増して快足を飛ばしてケサル王をリン国に届けようとした。

 あっというまにリン国に近づいたそのとき、ケサルは突然愛馬の首を叩いた。愛馬には主人がゆっくりと進みたがっているのがわかった。それもそうだろう、リン国を離れて9年、この9年のあいだにリン国で何が起こり、人々がどう変化したかわからないのだ。ケサルはそこで瞬時に羊飼いの少年に変身した。羊の群れをつれて彼はゆっくりとリン国へ向かった。

 三年前、ホル人は王妃ドゥクモを連れ去り、リン国の財宝を略奪し、英雄ギャツァを殺した。しかしトトンはしばしば情報を敵方に流したので、彼の財宝や家畜が奪われることはなく、それっどころかほとんどリン国の王といってもよかった。競馬では勝ち得たものはなく、おこぼれをあずかったにすぎなかった。七宝もドゥクモも得たわけではなかった。しかしリン国をほぼ自分のものとし、王位についたといってもよく、このことがトトンの虚栄心を満足させた。満足だったので、彼は享楽のかぎりを尽くし、王宮を豪華に飾りたてた。それは昼間、金色に輝いてまぶしく、夜になると爛々と光り輝いた。しかし彼の財力にも限りがあったので、結局は人民から搾りたてることになった。トトンが国王になってから、人々の心が休まることは一日たりともなかった。一日たりとも苦痛を味あわない日はなかった。苦しい日々がつづけばつづくほど、ケサル王への思慕の念は強くなっていくのだった。

 この日、トトンは金色に輝く王宮の屋上を散歩していた。屋上からケサルが羊の群れを連れてやってくるのが見えた。トトンはこれは金儲けのいい機会だと思い、ケサルの父親であるセンロンを呼んだ。トトンはセンロンに、羊飼いのところに行って「水税」「草税」を徴収するよう命じた。

 かつてはその名がとどろいたセンロン王も、いまやトトンの召使いに落ちぶれていた。トトンさまの命令とあらば従わざるをえなかった。彼は足の悪い馬に乗って、びっこをひく馬に揺られながら斜面を上り、ケサルが扮した羊飼いのところにたどり着いた。彼はぜいぜい息を吐きながら言った。

「若いお方。われらの大王さまがおっしゃるには、あんたの羊が水を飲むので、水税を払う必要がある。草を食べるので、草税を払い必要がある、とのことだ」

 ケサルは父親の落ちぶれた姿を見るのは耐え難かったが、平静を装って言った。

「そうです、そうです、ごもっともです。おじいさん、まあそこに坐ってください。おたずねしたいことがあるのです」

 ケサルは虎皮の座布団を敷いて老人に坐るようすすめた。

「この座布団はずいぶん高そうだな。こんな老人にはもったいなや」と彼はためいきをつきながら、座布団の端に坐った。

 ケサルは自分の「吉祥円満碗」を取り出してお茶をすすめ、また水晶刀を出して肉を切ってセンロンに渡した。センロンはそれらを見ると、疑心暗鬼になった。わが息子のお碗と刀がなぜこの羊飼いの手の中にあるのだ? 老人は気持ちをおさえきれなくなり、号泣しはじめた。ケサルもたえきれなくなり、ついに老人の胸に飛び込んで「お父さん!」と叫んだ。

 センロンはおのれの耳を疑い、あわててケサルを抱き起した。どう見たって、こんなの自分の息子じゃない。老人はとまどってしまった。

「若いお方、わしの息子は世界獅子王ケサルじゃ。あんたはだれじゃ。わしはあんたなど知らぬ」

「ぼくはケサルです」そう言って獅子王は本来の姿に変身した。センロンは目の前にいる若者が昼も夜も、毎日、毎日思いを馳せていたわが子、すなわち世界獅子王ケサルであることをやっと納得した。

 センロン王はもう泣かなかった。彼はケサルが出発してから何が起こったか逐一説明した。英雄ギャツァが命を落としたときの話にさしかかると、ケサルは涙で袖を濡らさざるをえなかった。ドゥクモがホルに連れ去れた話にさしかかると、ケサルの心に火がついたかのようだった。トトンが敵に投降した話にさしかかると、ケサルはくやしさのあまり歯を鳴らした。彼は怒りをおさえられずに言った。

 

真っ暗な籠のような夜空に 

星々は自らの輝きによって光を放つ 

まさに太陽が東方から昇るとき 

星々はその姿を跡形もなく消してしまう 

 

繁茂する森の中で 

まだらの虎がその強さで輝いている 

まさに勇士が弓と矢を手にしたとき 

自分の毛皮を置いて逃げるだろう 

 

東方のリン・カルという国で 

トトンは自分の権力によって輝いている 

まさに獅子王が北方から帰ってきたとき 

なんとか身を隠そうとするだろう 

 

 センロン王は興奮して発狂せんばかりだった。彼はケサルの手を強く握りしめた。

「さあ急いで、急いで家に帰るのだ。急いでリン国に帰るのだ。早くかあさんに会うといい。早くもどって罪深いトトンを罰するといい」

 ケサルは父親の手を軽くなでながら彼を落ち着かせようとして言った。

「どうかぼくがリン国にもどったことを人に話さないでください。まだいろいろと見てみたいのです。この目でトトンを見てみます」

 センロンは依然として息子から離れられなかった。彼は心の底からうれしかった。この苦難からようやく逃れることができるのだ。リン国の人々も苦難から逃れることができるだろう。彼は自分をおさえることができず、つい大声を出してしまった。

「これからはな、ついてない人もいるだろうが、景気いい人も出てくるだろ! みんな願いが実現すればいいな!」

 

 翌日、白髪まじりの年寄り乞食がトトン王の王宮の正門前にやってきて、声を張り上げた。

「長生きの百歳のご主人さま、どうかこの老いぼれ乞食に食べ物を!」

 なかから頭を出してトトンは言った。

「おまえはどこの乞食だ? こんな早くから門の前に来て叫ぶとは縁起が悪いな」

「尊敬すべきご主人さま、わしは北の魔国からやってきました」

「魔国からだと? それならこっちに来い! おまえに聞きたいことがある」

 魔国から来たと聞くと、トトンは老人を王宮のなかに入れた。彼ははじめ侍女に食べ物を持って行かせようとしたが、思い直し、バターを盛った豪勢な焼きそばと酒瓶をもち、迎えに行った。

「おい、じいさんよ、おまえに聞きたいことがある。だがこれは機密事項だから他言は許さぬ。もし包み隠さず話してくれたら、おまえは食べ物や着るものの心配を二度としなくていいぞ」

「ご主人さま、いったいどうなされましたか?」と、老いぼれ乞食は焼きそばをもぐもぐ食べ、酒をあおりながらたずねた。

「9年前、わしの甥のケサルが北の魔国へ魔王を退治しに行った。はじめの3年は、ケサルが死んだと聞かされていた。だがその後の3年は、死んでいないと聞かされた。この3年は何の音沙汰もない。死んだのか、生きているのか、知っているならくわしく述べてみよ」

「ああ、獅子王とか称していたケサル王ですな。そのかたなら8年前に亡くなりました。ケサルの愛馬はメサとかいうかたの雑用の馬になりました。矢を入れていた袋は魔女のハンドバッグとして使われております。魔王ルツェン殿も愛用しておられるようで……」

「本当か? それは本当か?」

 トトンは歓喜したが、あえて自分の耳を信じようとしなかった。

「本当ですとも。わしはルツェン殿に命じられて3年も奴隷として働かされていたのですから。そんなことは自然と知ることになります」

 老いぼれ乞食が言うことはもっともだった。

「めでたいぞ。まるでわが心の中の石が落ちたかのようだ。太陽が夜にやってきて温めはじめたかのようだ。人は年をとってなお幸福である。この甥の消息はどうしても確かめたかったことなのだ。この地上にあいつが一日でも生きているなら、わしは王として安心して寝ることもできぬ。めでたいことだ。あいつに長寿など向いていないのだ」

 こう言うとトトンじゃ侍女たちに命じて肉をありったけ持ってこさせた。大きな碗に酒を満たして持ってこさせた。老いぼれ乞食にこうしてふるまいながら、彼自身もたらふく食い、酒を浴びるように飲んだ。

 と、老いぼれ乞食は突然ぶるぶるふるえはじめた。そしてトトンの目の前で変身していき、ついに獅子王ケサルになったのである。トトンは自分の目がどうかなったのかと思い、目をこすり、すがめで見たりしたが、目の前にいるのはどう見てもいま自分が罵倒した獅子王ケサル本人だった。トトンがあっけにとられていると、ケサルは水晶刀を取り出し、トトンの胸にあてた。

「ええい、私を怒らせるなよ。覚えているか。北の魔国に遠征するときリン国を守るようあとを託したはずだ。しかしホル軍が来襲したとき、守るどころか敵に降伏するなどだれが予測できただろうか。ギャツァ兄貴は殺され、わが妃ドゥクモはホルに連れ去られた。敵軍が引き上げたというのに、おまえは王を称しているではないか。リン国の民衆は地獄の苦しみを味わっている。私は国賊を排除しなければならない。民のために復讐しなければならない。今日は国賊のおまえを殺さなければならぬ。さて、まだ何か言いたいことはあるか?」

 水晶刀のきっさきをつきつけられたトトンの顔色は土色に変わっていた。彼はしどろもどろにこたえた。

「そうです、そうです。甥っこさまのおっしゃるとおりです。あなたの叔父は有罪です。叔父はまちがったことをしました。でも心根まで腐ったわけではありません。わしがどんなに悪い人間でもあなたさまの叔父です。あなたはさまは老人の命を邪険に扱うべきではありません」

「叔父さんはあいかわらず、口先だけは巧みだな。やっていることはひどいことばかりだが。あなたのやったことを考えるなら、あなたを殺さなければなりません。おなじ一族であることを考えるなら、許したくもなります。仏像を用いて自分の信仰心を粉砕することもできましょうが、そんな行為をいいとは思いません。有罪の親族を殺したところで何がめでたいでしょうか。しかし殺さなければ、怨みの心は一生残ります」

 愛馬キュンゴ・ペルポは我慢できなくなり、トトンを口にくわえて連れて行った。

 その頃総監王ロンツァはケサルが帰国したという知らせを受け取った。そしてテンマら将軍をつれて出迎えに来た。しかし総監はかなり年をとっていたので、獅子王を一目見るだけで十分だと思い、歌をうたった。

 

めでたくも光が昇ってきた 

リン・カルポのどこかにすでに降臨されたという 

喜んで祝杯をあげようではないか 

歌って、歌って、歌いつくそう 

 

長官は民の心がわからぬという 

あなたにはただ心から民を愛してほしい 

あなたにはただ国家に忠実であってほしい 

あなたにはただ民の心を包み込んでほしい 

そうすれば光は国中に広がるだろう 

 

男子たる者、財産のことばかり気に揉むべきではない 

心に光明がさせば貪婪でなくなるだろう 

ただ牛や羊を愛し、牧畜をせよ 

ただ善良であり、人に慈しみの心をもて 

そうすれば財産も自然と増えていくことだろう 

 

女性もまた食べることばかり考えるべきではない 

あんたはただ節約をこころがけて家事にいそしみなさい 

あなたはただ客にたいし慇懃にもてなせばいい 

あなたはただ富める商人をもてなせばいい 

そうすれば食べ物に困ることはないだろう 

 

リン国の民はもはや何も心配することはない 

獅子王はすでに勝利を得ている 

バター、ツァンパが欠けることはない 

絨毯も羊毛の服も足りなくなることはない 

ラバや牛、羊に困ることもないだろう 

 

 総監王は、みなの心を代弁して歌ったのであった。人々は困難な時を何年も過ごしてきたが、今日、それは終わりを告げた。だれもが喜び、互いに祝った。

 まさにこのときだった。王妃メサとアタラモが魔国の財宝やラバ、牛、羊とともにリン国にやってきた。ケサルの牛や羊、その他の財宝は各家に行きわたるよう分配された。

 このときケサルの愛馬がトトンを口にくわえたままやってきた。ケサルはトトンにたいしてさえ分け前を平等に分配した。しかし彼は馬をダカ部落のほうで解放した。トトンは心の中では憤慨していたが、口先では何千回、何万回もケサルにたいする恩を述べた。「すばらしい甥だ」と何万回も繰り返さなければならなかった。

 ケサルはふたりの王妃を母ゴクモと父センロンの近くに置き、世話をするよう頼んだ。そして愛馬にまたがると、ホル国へ向けて疾駆していった。


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