チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

37  シンティ王が君臨するモン国へ向けてリン軍出発 


 ある夜、ケサルがタクツェ王宮で寝ていると、神馬に乗った梵天が天空にあらわれ、ケサル王に告げた。

「わが子、トゥパ・ガワよ。おまえはいままでに3人の魔王を倒した。しかし南の魔王シンティはまだ生きている。シンティは54歳、彼の馬ミセンマルポは7歳、大臣クラトギェルは37歳である。運命によって定められているとおり、今年はシンティ王を調伏しなければならない。もし年が明けてしまったなら、この魔王、魔馬、魔大臣は手が付けられなくなってしまうだろう。シンティ王を破らなければ、南方の黒雲は晴れず、大地の凍土は溶けず、太陽も月も見えず、草は生えず、花は咲かず、衆生の苦しみは除かれないだろう」

「父なる王よ、子に教えてください。シンティ王はリン国にたいしていかなる罪を犯したというのでしょうか」

「おまえがこの世に生まれる前、ギャツァもまだ幼かった頃、モン国のふたりの将軍アキュンとモキュンが、15万の騎馬兵を率いて、リン国のタクロン18部を侵略したのだ。馬や糧食、牛、羊、さらにはリン国に伝わる珍しい宝を奪い、多数の無辜の民とタクロンの二人の重臣を殺した。当時のリン国は弱小国で、兵士の数もすくなく、すぐに仇を討つことはできなかった。いま、おまえは妖魔を制圧する力を持つようになった。仇を討つには絶好の機会である」

「仰せのとおりにいたします。ではあす、モン国へ向けて軍隊を出発させましょう」

「いや、モン国の悪行はすべてトトンが所属するタクロン18部においておこなわれたもの。夢に託してタクロンの憤怒王(トトン)に兵を起こさせるようにしむけるといい。さて、25歳になるモン国のとても美しい公主メトク・ドルマは、タクロン家に嫁ぐことになっている。これはまたとない機会だろう」

 そう言うと、梵天は白雲に乗って去っていった。空が白々と明けると、ケサルは王宮から出て外の空気を吸った。梵天の言葉をよく考え、タクロン部落に行ってトトンの予言を伝える決心をした。

 トトンは遠くの高原で放牧を終え、タクロン地方に戻ってきたところだった。タクロンはケサル王が与えた土地だった。トトンは恩を感じるとともに、幾分の慚愧(ざんぎ)の念をもっていた。それゆえ放牧のよき以外、彼はあまり外に出なかった。この日、彼が静かに瞑想をしていると、予知鳥が飛んできて彼にメッセージを伝えた。

「修行をなさっているトトン王さま、修行も大切ですが、むかしの仇のことを思い出してください。宝の六摺り雲錦宝衣は、まだモン国王シンティの手の中にあるのです。タクロン部落の二人の重臣が彼らによって殺されたことを思い出してください。モン国の牧場で育てられているタクロンの良馬や牛、羊のことを思い起こしてやってください。
 それにドゥクモとおなじように美しい、モン国公主メトク・ドルマは25歳になります。トトン王と結婚することになっていたのではないですか。今年はまさにその年なのです。
 年が改まれば、手遅れになってしまいます。さあ、行動をおこしてください」

 メッセージを伝えると、予知鳥ははばたいて飛び去った。

 予知鳥が残していった予言がいつまでもトトンの頭のなかでこだましていた。とくに公主メトク・ドルマとの結婚のことが耳元に残った。
「わしが美人公主と結婚することになっている? よくわからんが、予知鳥が言うんだからまちがいあるまい。何か久しぶりに心が燃えてくるのう。若さはないが、わしはカネも土地も地位もある。モン国一の美女だってわしの魅力の前にとろけてしまうだろうよ」

 よく知られたことわざをトトンはド忘れしていた。
「歯が抜け落ちた牛ほど、みずみずしい草を喜んで食べたがるもの。年のいった男ほど若い娘と結婚したがるもの」

 トトンは気分が高揚して、瞑想修行に戻ることができなくなった。そして家来の者たちに言った。

「タクロン部落の人馬70万、全員集合せよ。色つやのよい茶を準備せよ。酒を整えよ。その他肉やバター、チーズをそろえよ」

 妻のテンサは、トトンが瞑想修行しているとき、どんな魔物にとりつかれたのだろうかといぶかしがった。いったいトトンは何をしたいのだろうか。

 トトンはなにやら張り切ってことを進めようとしていた。妻が疑問をぶつけてきたので、トトンは予知鳥の予言のことを話した。すると妻は冷たく笑いながら言った。

「あらまあ、王どのは、競馬大会の前の馬頭明王の予言のことをもうお忘れですか。それに62歳の老人が若い娘と結婚ですって? 先のない老いぼれがなにをほざいているんですか」

 聞いていたトトンは白鬚をぶるぶるふるわせ、トルマ(麦粉をこねて作った小偶)のように顔を膨張させ、真っ赤になったが、言い返すことはできなかった。

 テンサはトトンが怒りにふるえているさまを見て、自分の言ったことが図星であったことを理解した。彼女はあわただしく部屋を出ていき、戻ってきたときには右手に酒盛りの銀の壺、左手にお茶をいれる金の壺を持っていた。彼女は酒や茶をすすめながら言った。

「王どの、静かに座っているときに立たないでください。修行中に中断しないでください。この予言とやらは、神の予言ではありますまい。モン国は大国です。タクロン部落がどうやってこの大国に勝つというのでしょうか。メトク・ドルマは若くてとても美しい方です。どうしたらあなたのような老いぼれが結婚できるでしょうか。あなたの頭は真っ白です。歯は全部抜け落ちて一本も残ってなく、まるでからっぽの袋みたいです。顔は樹皮みたいにしわだらけです。王どの、やみくもに出て行って災いをもたらすようなことはやめてください。それはあなたのためであり、私のためであり、一族のためでもあるのです」

 彼女が一息ついたところで、ここぞとばかりにトトンは逆襲に出た。

「この醜いババアめ、恥知らずとはお前のことだ! わしはトトン王さまだぞ。タクロンの軍隊は沸騰している毒の海のようになっておるのだ。そんな連中にシンティ王と戦うなと言えるのか? それにトトンさまを愛せぬ女がいるだと? 女人のことなら、わしはよく知っておる。頭髪が白いかどうかなど、雄羊が戦えるかどうかを見るようなもの。口に歯がなくてもかまわないだろう。子羊のような接吻ができるぞ。顔にしわがあっても、だれも気にしないだろう。娘どもは木の枝のように、わしの喉にからみついてくるからな。だれもがわしと愛をかわしたいと思っているのだ。デンサ、おまえのような糞ババア以外はな! モン国に出征するのは天の定めなのだ。これ以上口をはさむなら、おまえをたたき出すぞ」

 テンサはトトンのこのような居丈高で横柄な様子を見ると、魔物と何がちがうのだろうかと思った。もう夫を説得するのは不可能だった。彼が集めた軍隊がほんとうにモン国を攻めそうで怖かった。タクロン軍のような小さな部隊がどうやって大国であるモン国と戦うことができるだろうか。トトンだけでなく、タクロン部落の男たちがみな死んでしまうかもしれないではないか。

 あきらめの境地に至っていたとき、デンサはふと思いついた。眉間に寄っていたしわが扇のように開いた。

「王どの、これ以上王の邪魔はしません。ただしひとつお約束してください。それはケサル王に知らせてもらうことです。もし獅子王が同意してくださるなら、同意するだけでなく、かならずあなたを助けてくださるでしょう」

 トトンは思った、たしかにケサルの助けがあれば、リン国の軍隊の出動が可能になり、シンティ王を死にいたらしめることができるだろう。しかし獅子王が助けてくれるだろうか? 自信はないが、試す価値はありそうだとトトンは考えた。

 トトンはもう何も言わず、帽子や服を着替え、馬に乗ってタクツェ城をめざして走っていった。

 ケサルはトトンが来るのを知っていた。というのも予知鳥はじつはケサルが変身した姿だったのだ。目的は、トトンに兵を起こさせることだった。トトンが王宮に到着すると、ケサルはすぐに迎えに出た。

「おじさん、ようこそ。何かあったんですか。まあ、どうぞこちらにかけてください」

 そう言いながらケサルは侍女たちに茶と菓子を持ってこさせた。

 トトンはすこし慌てているようだった。ホルとの戦争のあと、ケサルはトトンに恨みを抱いてはいたが、同族でおなじ家系だったので、殺すことはなかった。のちにケサルはトトンによって僻地からタクロンに戻されたので、トトンには大きな借りがあったが、昔のいやな記憶を消すことはできなかった。こうしていつもケサルはトトンにたいして冷淡だった。トトンにとってもケサルを全面的に信頼することはできなかったが、この笑顔を見るとやはりケサルに心を許してしまいそうだった。このように気持ちは揺らいでいたが、平静をたもちながら言った。

「甥よ、偉大なる国王よ。叔父がここに来たのは重要な話があるからだ」

「どうぞ話してください」

「南方にモン国があり、その国王シンティは4大魔王のひとりである。ケサル王よ、あなたは3人の魔王を制圧したのに、なぜ残りのひとりを退治しないのか。シンティ王はずっと昔、リン国を攻め、わが国の人を殺し、馬やその他の家畜を奪っていった。リン国の宝、六摺雲錦宝衣もシンティ王の手中にある。かつてわれわれは無力で、仇をうつことができなかった。しかしいまやリン国は強大な国のひとつとなり、国王の名声も四方にとどろいている。モン国に出征しない理由があるだろうか」

 ケサルは聞きながらほほえんだ。トトンはお人好しで、ぺらぺらと本心をしゃべりまくる。彼がどれだけ立派な高説を垂れようと、またどれだけ正義感面しようとも、メトク・ドルマを娶るという話はおくびにもださない、そういう人間なのだ。

「過去のことは過去です。現在われらリン国は平和を享受しています。国民はみな幸せに暮らしています。どうしていま戦火を交える必要があるでしょうか」

 とケサルはゆっくりと語った。

「どうしてかだと? 殺人の償いはまだされていないぞ。奪われた宝はまだ返されていないぞ。俗に言うではないか。聞かれて答えないのはバカである。敵討ちをしないのはキツネである、もしシンティ王を生かしたままにしておくなら、ケサル王の名声にも傷がつくことになる。それはわが国が脅かされることになる」

「ん? シンティ王があえてリン国に侵略するというのか?」

「モン国は現在180万の兵馬を保有している。わが国とほぼおなじだ。シンティ王はまたつねに周辺国に向かって侵攻し、殺人や略奪を繰り返し、その版図を拡大しようとしている。もし彼らの兵力がリン国のそれをひとたび上回ったなら、それはリン国が危険な状況におかれることを意味する」

「おじさんの言っていることには道理があるな。私も梵天から予言をもらっている。予言は、モン国に侵攻して、宝衣を奪い返し、昔日の恥をそそげ、というものだった。おじは美しい公主をめとるべきだともいっている」

 トトンは秘密がもれてしまったように思って羞恥で顔を赤くした。黙ったままだった。

 ケサルはそれ以上トトンに何も言わず、すぐにリン国180万の人馬を招集した。そして白鶴3兄弟に命じて北方魔国の大臣チンゴン、ホル国のシェンパ・メルツェ、ジャン国のユラ王子を呼んだ。

 先陣に立ったのは、下が赤い金模様の衣をまとい、カワウソの皮で縁取った上衣を着て、鎖帷子の柔らかい鎧(よろい)をその上に着けて、大鵬の巣の兜をかぶり、白い矢筒を装着した50本の銅尾の矢をもち、雷鳴のような音を発する弓を装着した褐色の弓袋と宝剣をたずさえたトトン王だった。トトン王は得意満面でリン軍の先頭を走った。

 ドゥクモは色とりどりのカタをもった王妃たちを率いて、ケサル王や英雄たちを見送りに来た。ドゥクモは歌った。

 

世界獅子王ケサルさま 

一日も早くシンティ王を調伏することを願います 

三枚の白いカタを献上します 

これは白梵天さまをお送りしたときに献じたカタです 

別れのカタではなく再会のためのカタです 

三枚の黄色いカタを献上します 

これはゲチョク神をお送りしたときに献じたカタです 

別れのカタではなく再会のためのカタです 

三枚の青いカタを献上します 

これは竜王ツクナ・リンチェンをお送りしたときに献じたカタです 

別れのカタではなく再会のためのカタです 

三枚の赤いカタを献上します 

これは戦神をお送りしたときに献じたカタです 

別れのカタではなく再会のためのカタです 

火を恐れぬカタ三枚を献上します 

水を恐れぬカタを献上します 

金に縁取られた、金の図案の三枚のカタは 

大臣らを送ったときに献じたものです 

別れのカタではなく再会のためのカタです 

 

歌い終わったドゥクモの目から雨のように涙があふれてきた。沿道には婦人から老人、子供までさまざまな人が、夫や親戚など縁のある者の出征を祝し、一日も早くシンティ王を倒して無事に凱旋できることを願った。

 天地を揺るがすような180万の騎馬部隊がリン国を出発し、まっすぐモン国をめざした。一日で南方のダラチャウ山の山頂に達した。

 ここからの眺めはよかった。ウー・ツァン(チベット中央)4部、モンの18部落、みな目にすることができた。遠くの山なみも、近くの山々も、明るい陽射しのもと美しかった。獅子王ケサルも大臣も、英雄たちも、しばらくこの絶景に陶酔した。ケサルは兵士たちにしばらくここで休むよう命じた。彼らはここで酒を飲み、おいしいものを食べ、しばしの宴を楽しんだ。

 ケサル王はもっとも若いジャン国王子ユラ・トクギュルに近づいて声をかけた。

「ユラ王子よ、わが愛する将軍よ。そなたはここに見える山々の名前やその由来、特長について語ることができるであろう」

「獅子王さまがひとつひとつ山をお指しになったら、つたないものですが、それぞれの答えを披露いたしましょう」

 ユラ王子は弱冠15歳だったが、血気盛んで、将軍たちの前でその才能を見せたくてたまらなかった。

「気に入った! 私が山を指したなら、すぐに回答してくれ」

「は、ユラ、承りました」

 ケサル王は遠くの峻険な山々を指しながらユラ王子にたずねた。

 

もっとも近くにあるあの山は 

卓の前でお香をもつ沙弥(こぼうず)のよう 

その山の名は何? 

傍らに紫の石がある岩山は 

岩の間を飛ぶ鷲のよう 

その山の名は何? 

黄色い帽子をかぶり 

雲のあいだの色鮮やかな霞をまとう仙女のよう 

その山の名は何? 

仙女の足元で 

美しい扇を広げる孔雀のよう 

その山の名は何? 

ユラよ、おまえは南へ行って見よ 

初三日の月が昇る山 

その山は何? 

中間にある4つの山 

勇壮なる山は大建築物のよう 

その山の名は何? 

北方に峻険な山がある 

まるで将軍が戦旗を持って舞っているかのよう 

その山の名は何? 

トルマ(麦粉で作った人形)を赤く塗ったような山 

その山の名は何? 

険しい山の後ろはゆるやかな斜面 

まるで国王が玉座に登るかのよう 

その山の名は何? 

ユラよ、東のほうを向きなさい 

ダーキニーが支える5つの山 

その山の名は何? 

山々のあいだに平坦な川が流れる 

平坦な川の上を大きな象が歩く 

その名前は何? 

赤子をかかえた美女が夫の帰りを待っている 

その山の名は何? 


 ユラ王子は兜(かぶと)を脱いで岩の上に置いて歌い始めた。その姿は傲慢なオンドリのように見えた。

 

沙弥(こぼうず)がお香を持つ山は、インドの檀香山です 

鷲が低く旋回する山は、インドのトゥル羽鷲山です 

仙女が黄色い帽子をかぶるのは、母なるチョモラリです 

孔雀が扇を開くのは、ネパールの長寿五眼(仏山)です 

三日月が昇るのは、ブータンの天雷轟山です 

中間の4つの山は、チベットの四大神山です 

将軍が戦旗を持って踊るのは、虎鷲七赤旗山です 

トルマを赤く塗った山はロンツェン・カワカポです 


国王が玉座に登るのは、ニェンチェンタンラ山です 

ダーキニーが5つの山を支えるのは、中国の五台山です 

象が平坦な川を走るのは、中国の峨眉山です 

赤子をかかえた美女の山は、ツェンデモ神山です 

 

 ケサルはいっきに100以上の山を口にし、ユラ王子はすべて、即座にこたえた。これが有名な「山讃」である。

 ケサルはユラ王子の「山讃」を聞いてとても喜んだ。侍従に命じて酒をもってこさせ、大きな杯についで酒をすすめた。ユラ王子は拒むことなく、大きな杯を高くかかげていっき飲みした。ケサルはここを宿営地と決めたが、ユラ王子から思い直すよう言われた。

「王さま、ここは美しい場所ですが、宿営には向いていません。われらは早く兵を進めるべきです。今晩はナンチェン・ザラワマに宿営すべきでしょう。そこにはモン国に通じる金橋があります。あすは川を渡り、速攻で攻めるべきでしょう」

 


⇒ つぎ 









モン国へ向けて軍隊が出征するとき、王妃ドゥクモは12人の王妃をはじめとする女たちとともに、勝利を祈願し、色とりどりのカタ(吉祥スカーフ)を持ち彼らを送り出した。



遠征するリン軍を率いる、元北の魔国の大臣チンゴン(
Phying sngon)と元ホルの将軍シェンパ・メルツェ。敵国を下したあと、有能な人材を登用するのもケサルの成功の秘訣のひとつ。



ユラ王子も、降伏したジャン国の王サタムの息子。かわいい顔をしているが、戦術にたけ、一対一の戦いにも強さを発揮する。