叙事詩ケサル王物語 試みの解釈 ジークベルト・フンメル 
Siegbert Hummel <Eurasian Mythology in the Tibetan Epic of Ge-sar>
                           訳:宮本神酒男

(上) 

 英雄叙事詩ケサル王物語には、いくつものバージョンがあることがよく知られている。その起源に関しては、意見の一致をみることはなかった。

 A・H・フランケがその起源を西チベットに求め、ケサル・デン(
Ge-sar-gdan)すなわちケサルの王座が古代の西チベットのことと考えたのに対し、アレクサンドラ・ダヴィッド・ネールは、東チベットのダルツェンド(Dar-rtse-mdo 康定)とジェクンド(rJe-kun-’gro 玉樹)のあいだととらえていた。

 A・ミゴーはこの考えに同調した。ミゴーによれば、ケサルは実際にゾクチェン(
rDzogs-chen)の北方のそれほど遠くない地域を治めていた。ケサル王の子孫の城(8°18 32°219)であるリン・ゾン、あるいはゴツェの写真はデヴィッド・ニールの本に掲載された。現存するケサルの子孫と称する人々の写真も、彼女の本やE・シェーファーの著作に見ることができる。

 ケサルの叙事詩のテクストは、19世紀にデルゲの王女の庇護下で書かれたものが、R・A・スタンによって刊行された。このことから、デヴィッド・ニールやミゴーが起源地とした地域が、すくなくとも伝説が醸成された地域の中心地であることを物語っているようだ。

 ラサのケサル寺院(Ge-sar lha-khang, Gesser-sume)は、東チベットの多くのケサル寺院と同様、中国人の寺院(rGya-mi lha-khang, Kuan-Ti-Miao 関帝廟)と呼ばれている。これはつまり康熙帝からはじまった満州人の王朝がラマ教の人々をコントロールするために、ケサル王と中国人の戦争神関帝を習合させた。

 このようにしてできた形象によって守護神となったのである。この習合的な神は守護神として、家畜や人間を病気や悪天候から守った。とくに東モンゴルではそういった面での役割が強調された。

 チャンキャ・クトゥクトゥ・ロルパ・ドルジェ(lCang-skya Qutuktu Rol-pa’i rdo-rje)の助言によって、乾隆帝はこの神の地位を国家の守護神にまで高めた。とはいっても、2世紀頃の人物(219年に死去)である関羽がもととなった関帝の性格のなかの神秘的色合いが排除されたわけではない。関帝の神秘的な馬はケサル王物語から取られたかもしれないのだ。

 ラマ教におけるこうした融合は、ケサル王が戦神(
dgra-lha)に属するかぎり、聖なることとみなされる。戦神(dgra-lha)とラマ教の戦神ベグツェ(Beg-tse)との関連に関してはすでに論じたとおりである。

 西チベットで、とくにラダック(La-dvags)では、すべての主要な村がそれぞれのバージョンのケサル王物語を持っているので、R・A・スタンが論じたように、われわれはどこかこの物語が発達した中心地を探す必要などない。

 ヒマラヤからバイカル湖まで、あるいはパミール高原からククノール(青海湖)まで、物語は育まれて豊かになり、「民間伝説の宝庫(
reservoir du folklore)」と言えるほどになった。そしてチベットの文化圏を越えて、たとえばフンザにまで伝播した。

 ケサル物語には古代のモンゴル神話のエピソードが取り入れられている。たとえば、ケサルは捕らわれて牢獄に入れられているとき、その暗闇をはらうため、黄金の投石器(ぱちんこ)を使って太陽と月を取ってくるという挿話がそうだ。この太陽神話はA・クーンが示したように、典型的な古代モンゴルのエピソードである。

 同時に、ケサル王の中国遠征と捕虜となったことには、冬の神話が隠されているというフランケの仮説に説得力を持たせるものである。この論点に関してはあとでまた触れることになるだろう。

 ドゥラーン寺院の僧侶たちが、ケサルをラマ教(チベット仏教)の人物とはまったく異なったふうに敬っていることをわれわれは知っている。東チベットではなかんずく、ダライラマはケサルの転生とみなされる。(ウルガのジェツン・ダムパはどういうわけかケサルの馬の転生とみなされているが)

 そしてクンブム(タール寺)にはケサル王の足跡が刻印された石が保存されている。すでに述べたように、ケサルは聖域(ケサル寺院)をもったノルブ・ダンドゥとして、周縁的で、伝説色が濃いものの、チベット仏教に受け入れられてきた。それゆえチベット仏教や現代のボン教の寺院でケサル王物語がよそ者とみなされ、歓迎されないことがあるのは、さらに驚くべきことである。

 ケサル王が仏教徒により尊ばれるのは、東チベット、モンゴル、ブリヤートである。とくに東チベットはケサル王の神話が形成されるもっとも重要な地域といえる。

 E・フルマンがケサル王物語の序文でその北ヨーロッパ起源について述べているが、その証拠を挙げたわけではないにせよ、少なくとも豊富な伝説の資料にあたってみる価値はあるだろう。

 以下にかかげるケサル王物語から抽出したモティーフは、ヨーロッパの神話や伝説と比較されうるものである。登場人物の名が何通りもある場合があるが、それについては正確な比較検証を行っていない。

 ケサルの生涯を分析することによって、構成上、あるいは主題において独立して、あるいは決定的に、話が互いに関連し合っていることがわかってくる。ケサルの運命はつねに女性とつながっている。その背景にあるのは、フランケが主張した「神話学的自然現象解釈」のように思える。その最初の話は、妻としてドゥクモを勝ち取ることである。

 この場面で開催されるスポーツ・コンテストはシグルドリファ(あるいはブリンヒルド)をめぐるシグルド(ジークフリート)の戦いを思い起こさせる。実際、両者の一致は驚くべきものである。

 もしわれわれがエッダ(北欧神話)の背景に同等のものを求めるなら、フランケの「神話学的自然現象解釈」の仮説を無視することはできない。その解釈によれば、ケサルはすべてを活性化する光であり、その光は眠れる冬の大地に結婚を申し込み、それを征服し、覚醒させる。

 ラダックのケサル春祭りでブルグ・グ・マ(
’Brug-gu-ma)が水晶女(Shel-lcam-’brug-gu-ma)と呼ばれるのも理由がないことではなかった。

 今日でさえチベットの新年祭(ロサル)には年ごとの自然との戦いが現れている。春は大地が刷新される季節なのだ。たんなる象徴のあらわれではなく、大自然のなかで起こる魔術的な達成と考えられるのだ。

 西チベットではケサル祭のとき、とくにアーチェリー競技が催される。またラサの新年祭でゾン・ギャブ・シャムベ(
rdzong-rgyab zham-be)と呼ばれる競馬競技の参加者は、ケサルの武士とみなされる。

 冬の束縛から大地を解放するというジークフリートの中心的なモティーフは、北国の冬の巨人と戦うケサルの物語に含まれる。敵の要塞の9つの門を通り(ネベスキー・ウォイュコウィッツが述べるラサのバージョンではテント)英雄は部屋に閉じ込められた魔物の妻と会う(西チベットのバージョンでは鉄の檻)。彼女からなんとか得ることができた秘密によって巨人を殺し、ケサルは彼女を救い出す。

 実際のところケサルはそのあと、冬の巨人の妻バムサ・ブムキ(
’Bam-za-’bum-skyid)にもらった忘却の魔薬を飲んだあと、長い間巨人の城に残るのだが。このエピソードからフランケは冬の神話を連想した。とりわけ定期的に巨人がやってきて、去っていくとき、氷の嵐がそれを告げる点に注目した。

 魔物の要塞には、ふたり以外、動物も人間もいなかった。忘却の魔薬を飲んだことにより、大地は(以前はケサルによって解放されたのはドゥクモだった)暖かい陽射しを奪われたままだった。

 壁上の輪を抜けたり、巨人の妻を救ったり、恋人同士が恋愛ゲームを楽しんだりといったことは、ジークフリートが冬のウォーバーローフを抜けて馬を走らせたこと、あるいは眠れる森の美女が目覚めたことなどを連想させる。ケサルが巨人の妻を花嫁として連れ出そうとしたのかどうか、デーヴィド・ニールが編集したバージョンのように、未解決のままである。

 作者にとってもはや問題ではないだろう、というのもこのモティーフの目的には何の影響も与えないからだ。そして話のつづきはどうでもいいだろう。これもまた自己決定的なのである。入手できるテクストのほとんどにおいて、ケサルは彼女と結婚生活を過ごしたあと、力を取り戻して彼女のもとを去るのである。

 夫が留守の間、ドゥクモは多かれ少なかれ不埒である。疑いなくいわゆる冬の神話が第三の自己決定的な伝説を結びつけている。それは分かれたふたり(ケサルとドゥクモ)がふたたびいっしょになるという主題である。

 I・J・シュミットが編集したバージョンは、フランケが春と冬の神話と呼んだ関係性を成就することである。そのエピソードのなかでは、ケサルが巨人の城(アラルゴ・ゴア)から解放した女がもともと英雄の配偶者のひとりなのである。

 ターフェルが収集したバージョンでは、ケサルは巨人の妻を連れ去って二番目の妻とする。第一の妻はドゥクモである。フランケの解釈によれば、このふたりの女性は、神話学的な起源という意味では、ソンツェンガムポ王のふたりの王妃(緑と白)と一致する。彼女らは緑のターラー(ドルマ)と白のターラーの化身と信じられている。実際、フランケは巨人の女に緑の明妃を、ドゥグ・グ・マ(ドゥクモ)に白の明妃を見ている。

 北方の魔国にいる間、ケサルはしばしば緑のアモーガシッディ(不空成就如来)と同一視されている。アモーガシッディは北方を主宰し、緑のターラーを妃とする。そしてドゥグモは白のターラーの化身と考えられる。

 図像学的には、さまざまのターラーの化身を識別できるのは、色においてである。インド人と中国人の王妃たちが白と緑のターラーに識別できるかといえば、あやしいといわざるをえない。いずれにせよ、ケサルの物語には神話学的な説明がされうる要素がたくさんあるのだ。

 フランケの「神話学的自然現象解釈」に異を唱えたのはH・ハーマンスだった。ケサルの物語がそうであるように、チベットには重要な大地の女神が存在しなかったからである。昔のチベット人にとって、ケサルの神話は、たとえばソンツェンガムポの時代のような歴史的事実、あるいは記憶だったのだ。

 北の国の巨人が9つの目、9つの角を持っているという「事実」、ターフェルのバージョンにあるように巨人の棲家が洞窟であり、人間を食らうおぞましい怪物であったが、ケサルに殺されたという「事実」の信用性は、リンドヴルム(ドラゴン)の物語とおなじくらいなのである。この「神話学的自然現象解釈」の比較は、ジークフリートとケサルの比較と同等だといえるだろう。

 チベット人はソンツェンガムポの生涯、たとえば中国との戦い、とくに苦心して文成公主を得て王妃としたことがケサル王物語の第3巻に反映されていると考えてきた。もしソンツェンガムポの遠征が叙事詩に取り入れられていたとしても、物語の基本的な性格を変えることはなかっただろう。

 第
3巻の枠組みは第2巻から受け継がれたものだ。すなわち光が冬の要塞に差し込み、女性の形象を取った大地を解放する、あるいは勝利を得る。しかし二つの場合では、枠組みの裏にある考え方は異なっている。北の国の巨人のところへ遠征するとき、光は消え、一時的に捕らわれの身となる。

 のちに大地は冬の束縛から解放される。ここが第
1巻の考えとの接点である。すなわち光は大地に求婚する。3つの巻はのちに融合して春から翌年の春までの一年周期に統合される。

 第3巻における「神話学的自然現象解釈」をよく示すのは、ケサルが留守の間にドゥクモを拉致する支配者の名前である。白いテント(グルカル Gur-dkar)かケサルに屈する前、ケサルは彼に向かって矢を放つ。そのことをだれもが、とくにドゥクモが認識する。この矢は稲妻と解釈される。稲妻は春の先駆けである。先史時代からずっとチベットでは矢は稲妻のシンボルだった。

 先史時代の矢尻は落雷によって生じたものと考えられた。大湖高原地帯にある巨石遺跡の東端で見つかった巨大な矢尻から、ここで宇宙儀礼が行われていたことがわかった。ほかの論考で示したように、劇場の舞台で死と再生の儀礼が行われた地中海の前インド・ヨーロッパ迷路遺跡のように、この奇妙な巨石遺跡は解釈されるべきなのである。

 これらの遺跡で平行して並ぶ18の巨石の端から、矢が発掘された。そしてこの18という数字は、ケサルの仲間(アグ)の18人という数と一致する。フランケの考えでは、このアグは人の形を取った星である。両者の間に関係があるかどうか、はっきりと言うことはできない。しかしチベットの巨石と地中海の巨石の間に共通点があるのはまちがいない。

 ドゥクモはケサルに救出されたあと、不貞に対する罰として、頭を耕された。この「事実」は冬の間に失われた多産性を取り戻すために、毎年大地を耕すことと関係がある。

 第1番巻と第3巻で、フランケの言葉を借りるなら、春の神話を認識できる。そしてもうひとつの幕間、それは北の巨人の国へ出征する前だが、自己決定的な神話を見出すことができる。ケサルは中国へ向けて出発する。ケサルは最終的に公主ユイコン・チョグモ(Yu’i dkon-mchog-mo)と結婚する。

 彼女は緑のターラーとはウマがあわなかった。この遠征においてケサルは捕らわれの身となり、暗い牢獄にしばらく入れられることになった。彼はそこから投石器を使って太陽と月を射止める。われわれはこの章の最初にケサル物語に古代モンゴルの要素が取り入れられているのではないかという推論を建てる際に述べた。ふたつの冬の神話の間には、構造上の関係と考え方が容易に確認できるのである。

 ジークフリート物語のさまざまなモティーフとケサル物語との比較はさておき、両者の間にいくつかの特筆すべき点がある。まずひとつは、ドゥクモを救済しに出発する前、ケサルが鍛冶師のところへ行って修行をするエピソードだ。これは西チベット、東チベットの両バージョンに見られる話である。

 エッダ(北欧神話)の鍛冶師ヴェルンドのように、ドルジェ・レグパ(
rDo-rje-legs-pa)の化身である鍛冶師ガルバ・ナクポ(mGar-ba-nag-po)は、チベットの神話において、ゼウスの武器を鋳造した火と稲妻の神ヘーパイストスに相当する。

 チベット人の鍛冶師の神話学的意味合いをナシ族(発音はナヒ)の神話のなかに再構築することができる。ナシ族は民族的にチベット人と近く、彼らの居住地区は中国人区・チベット人区の境界の南縁にある。彼らはチベット北東部から移動してきた。この地域は先史時代、あるいは歴史時代の初期、チベット中央部に大きな貢献を果たしてきた。そしてチベットで失われた伝統を今日にいたるまで保持してきたのである。

 彼らの重要な神のひとつは鍛冶師ゴウラド(
Ggo-wu-la-ddo)だ。ゴウラドはユマ神(イァマ。チベットのウェルマ)の武器を製造する姿がよく描かれる。戦士ユマはケサルとおなじく戦神(ダラ)に分類されるのである。ユマ神もドルジェ・レクパも、夏至から夏至の一太陽年の360日のように、360人の兄弟があった。

 宇宙における聖なる鍛冶師、火と稲妻の神という概念があり、とくに太陽の軌道(黄道)における天頂と夏至(冬至)との関係から、ヘーパイストスは足萎えと考えられている。これは地中海の神話だけでなく、チベットの神話にも、またケサル王物語にも当てはまるものだ。ケサル王は稲妻とともに到着し、それはドゥクモとの再結合を暗示する。





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