ケサル王物語 ―チベット人の叙事詩の伝統― 

サムテン・G・カルメイ (宮本訳) 

 

 チベット人の英雄叙事詩ケサル王物語の歴史が相当に長いのは間違いない。しかしいつの時代にはじまったか、となると、学者はいまだに答えが出せないでいるようだ。

 とはいえさまざまな証拠から、11世紀まで遡ることができるのではないかと考えられている。書き留められた叙事詩の内容から遡れるのは、せいぜい15世紀ではあるが。

このケサル王物語は、しばしば世界最長の叙事詩と呼ばれることがあるが、けっして誇張ではない。私が見たものだけでも、チベット、中国、インドで出版された物語は50巻にも及んでいる。[訳注:現在、中国内だけでも100巻を超える物語が出版されている] 

 1959年以前、西側諸国の図書館や個人所蔵のケサルに関する稿本や写本は数が限られていたが、それらを多くの研究者が活用していた。20世紀初め、H・フランケやM・ヘルマンスはこれらをもとに研究論文を出版しはじめていた。これらの研究者のなかで主導的な役割を担っていたのはR・A・スタン教授だった。しかしこういった著作物はドイツ語やフランス語で書かれていたため、英語を話す国にはさほど知られていなかった。

 読者は、このチベットの叙事詩がどんなものなのか、見当もつかないかもしれない。ラーマーヤナやマハーバーラタといった叙事詩ならなじみがあるだろう。ラーマーヤナの一部はすでに9世紀には、チベット語に訳されていた。そしてマハーバーラタの一部も、仏教文学を通じてチベット人に知られていた。しかしケサル王物語は、これらのインドの叙事詩とは、直接的には結びつきがなかった。一方中国では、かなり早くから物語が作られていたものの、叙事詩文学は発展してこなかった。

 ケサルの英雄物語の揺籃の地は、アムドのアニ・マチェン山脈がある地域からカムの東部にかけての地域だった。この地域では、伝統的に叙事詩の人気が高かった。それらはチベットのなかだけでなく、翻訳され、取り入れられ、あるいは形を変えて近隣の国々に広がっていった。

チベットの西には、ブルシャスキ語によるギルギット・バージョンやラダック・バージョンがあった。[訳注:ブルシャスキは、ギルギット地区を指すブルシャという地名と関係があると思われる。ボン教徒は、古代シャンシュン国の西端はブルシャとする。8世紀前半、チベットはこのあたりにあった小ボロール国を侵攻し、版図に加えた] 

南では、いうまでもなくチベット語を話すヒマラヤの人々の間でケサルはよく知られ、シッキムにはレプチャ・バージョンが存在した。

チベットの北東や東のほうでは、さかんに翻訳され、モンゴルではさらに発展し、ゲセルという名で知られるようになった。

モンゴルからブリヤートへ行くと、地元のシャーマン儀礼とも融合した。これらモンゴル・バージョンとブリヤート・バージョンは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアやドイツの研究者によって広範囲にわたって研究された。

シベリア南部のテュルク語バージョンもまた、ドイツのルドルフによって研究された。

清朝の頃の中国でも、チベット仏教の信徒の間でとくにケサルの人気が高かった。しかしケサルは、彼らの神々のひとつとみなされていた。これに関してはまたあとで取り上げたい。

南に目を転じると、カムの最南端であり、現在は雲南省のムーリー(木里)でもケサルが流布しているが、チベットの他の地域ではリンのケサルと呼ばれるのに、ここではプロムのケサルとして知られている。[訳注:木里大寺を擁する木里は、雲南省ではなく、四川省にある] 

 チベットのとくにカムやアムドでは、ケサルは、庶民の間で絶大な人気を誇る。物語の中の英雄や馬の名が、人や馬の名に好んで用いられるのも、庶民人気を反映していることのあらわれである。

 チベットの村では、ひとりやふたりの長老は、とくべつな時になるとかならずいくつかの物語を語るものだった。とはいえ、寺のなかで歌ったり読んだりすることは禁止されていた。地域によっては、私有地の宗教的な聖域でも、そのような活動が制限されていた。

 夜の間、ひと気のない場所で、その状況に適した物語を読み、語るのは、狩人であり、匪賊であり、隊商の商人だった。

 しかしもちろん、語りに熟達しているのはケサルの語り手(ドゥンパ)である。彼らのほとんどは文盲だったが、子供の頃から学んできたとてつもなく長い物語を、心を込めて歌うことができた。

 ある地域では、特別な場合に、地方の名家や団体に招かれ、いくつかの物語を歌った。1950年代にスタン教授がカリンポンで会った語り手のサンダクも、摂政レティン・ラマの(お抱えの)語り手だった。[訳注:ネベスキ・ヴォイコヴィツが会った語り手と同一人物] 

 チベットの叙事詩は散文と韻文から成っている。散文ができごとの語りであるのに対し、韻文は対話、ときには敵対する者同士のやりとりであったりする。それぞれの敵対者は彼の名前、出自、戦いの目的などを述べる。あるいは戦闘に加わる以前にどのようにしてきたかを説明する。対話は詩的な言葉で交わされることが多い。語り手はそれゆえ、さまざまな音調で語り、詩をうたう。チベット人の語り手は、モンゴル人の語り手と違い、楽器を使うことはない。また私が去年収録したビデオを見ていただきたいが、女性の語り手もいる。

 チベットの叙事詩はなお広がりを見せている。主人公の英雄の誕生から死まで、年齢にしたがってできごとが起こるのだが、一部の学者が考えるように、単純に昔からおなじものが語られてきたわけではない。

 ケサルの遠征の物語は、セットとして何度も語られてきた。時系列的に並べられるこれらの物語以外にも、カムトゥル(Khams-sprul)のような近年の作者が新しい物語を付け加えてきた。彼が作った物語のひとつでは、英雄が戦う国の名をチリン・ジャル(Phyi-gling ’Jar)としている。これはナチス政権のドイツのことと考えられている。

 一方、カル・リンポチェ(Kha-lu Rinpoche)のような作者は、より仏教哲学的な言葉で物語を著してきた。彼の作品では、ほかのケサル王物語のように実際の戦闘が繰り広げられるのではなく、死の悪魔との戦いを主眼としている。

 しかしながら、叙事詩のもともとの意図は、チベットの庶民文化、英雄の輝かしい行為や世俗的な偉業、山々や村々の俗人たちが讃嘆するものを描くことにあった。

 このようにテーマが世俗的であるがゆえに、叙事詩自体、仏教の影響がけっしてないわけではないが、宗教方面から高い評価が得られない傾向があるのは、いたしかたないことだった。

しかし結局のところ、名もない作者の大半は仏教徒なのである。また叙事詩に仏教の影響があるため、一部の学者は仏教を布教するための媒体として使われてきたと考えた。あるいは仏教が普及していない地域を教化するために利用してきたと考えた。

英雄や英雄の行為の仏教化は疑いなく多くの物語中に顕著に見られることだった。たとえば、ケサルはさまざまな形で、チベットの仏教の聖者であるパドマサンバヴァの化身とみなされている。

 宗教化がもっともはなはだしかったのは、19世紀末、ジュ・ミパムがケサルの英雄叙事詩をサーダナ(修練)に捧げ始めたときだろう。この儀礼のなかで英雄は仏教の神となるのである。

これは目新しいことではない。というのも、仏教が到来したところではどこでも、地元の、あるいは土着の精霊を転向させ、変じさせ、そして仏教の神々の体系に組み込んできたからである。

 この宗教方面における発展は小さくないとはいえ、幸いなことに、英雄叙事詩の伝統の主流とはなりえていない。

 もうひとつ、傾向がある。それはチベットのラマたちによって英雄が仏教の神格と同一視されることである。これらの神格はかならずしも仏教の神である必要はなかった。それは政治的な理由からそうなったものである。たとえば、18世紀、ケサルは奇妙なことに清朝の守護神である関帝と同一視された。

このことによって、チベットが清朝の属国となった1720年から1912年の間、チベットの一般の人々に混乱をもたらすことになった。チベットの一部に満州人の居住区ができると、この関帝の寺(関帝廟)が建てられた。すると一般のチベット人はそれをケサル寺(ラカン)と呼ぶようになったのだ。実際、関帝とケサルはまったく関係がなかった。それは中国人にはよく知られた唐代の将軍が神格化されたものである。[訳注・関帝は関羽であり、もちろん唐代というのは三国時代の間違い] 

 モンゴルでは、ケサルは面白いことにチンギス汗と同一視された。また1920年に共産主義からモンゴルを守ろうとしたロシア白軍の軍人ロマン・ウンゲルンと同一視されることもあった。[訳注:ウンゲルンはロシア人だが、モンゴル最後の汗(ハーン)と称せられる] 

 英雄叙事詩とケサルの世俗的な面についてもうすこし補足しよう。主人公の英雄の名前であるケサルは、はじめギリシアの、のちにはテュルクの称号となるカイサルが転じたものであり、国王、あるいは帝王を意味する。そしてチベット語のフロム(Phrom)のケサルは、直接的ではないが、ペルシア発音を通して訛ったものである。このことに関しては脇に置いて先に進もう。とういのも、複雑すぎて、到底この小論では論じきれないからである。[訳注:カエサルの発祥はやはりギリシアではなく、ローマ帝国と考えるべきだろう。日本ではユリウス・カエサルことジュリアス・シーザーが有名だが、カエサルはあくまで称号] 

 叙事詩の設定上、ケサルは東チベットの小さな王国を統治するリンの家族に生まれたことになっている。リンは実在する場所である。

彼にはまた天界や天神との仏教的な結びつきを可能にする「天の家族」があった。しかしこの叙事詩の神秘的な仏教的側面は、表面的なものにすぎなかった。それはチベット人社会が仏教徒から成っていることに反応して形成されたものなのである。

天から与えられたケサルの使命は、仏教の理想的な聖人がそうであるように、地上の人間に平和をもたらすことだった。いくつかの物語のなかで、主人公の英雄の敵が仏法の敵として描かれているのは、この仏教徒のイデオロギーである。しかしその構図は、彼および彼の王国が軍事的遠征に関わることで、もろくも崩れてしまう。

ケサルは特別な競馬に勝つことによって、リンの国王の座に就くことができ、美女ドゥクモ(’Brug-mo)を妻として迎えることになる。競馬に勝つことを通じて王座を勝ち得たので、彼はしばしば「選ばれた王」と呼ばれている。彼は物語の中で、4つの大国を倒し、18の軍事的遠征を行う宿命が与えられる。このことはケサル英雄叙事詩の核となるものである。

 いくつかの物語で中心的なテーマとなっているのは恋愛である。巨大な怪物、あるいは悪魔として描かれる、もっともおぞましい敵であるルツェンは北方のヤルカムに住んでいた。この怪物はケサルの愛妃メサ(Me-bza’)を誘拐する。メサは妻ドゥクモのライバルでもあった。

この北方への遠征の当初の目的は、したがって、まずメサを奪還することだった。この事件において、ケサルは、城に残らないといけないが、王といっしょに行きたがっている妻と、誘拐されたが、王が追ってくると知っている愛妃との間で引き裂かれそうになっていた。

ケサルは結局愛妃を追って救出に向かうことにする。おなじテーマは、テュルク・モンゴル系の国ホルとの戦いのときにも現れる。ケサルが不在のとき、リンはホルの軍隊の侵略を受け、そのとき妻ドゥクモが誘拐され、ホル王との結婚を強いられる。このエピソードはホルへの侵攻という結果をもたらした。

 ケサルという登場人物は、同時に超人、奇跡を起こす人、魔術師、歴史的人物、伝奇物語の英雄、妖精世界の王、技ありのトリックスター、そして枚挙に暇がないのだが、手におえない略奪者という役柄も同時に演じている。

 このように蜘蛛の糸のようなテーマが張り巡らされた、生産的な、魅力的な中世の物語なのである。アーサー王物語の王のように、ケサルにも騎士の存在がある。ケサルの場合、30人の騎士はパトゥル(dpa’ thur)と呼ばれ、王に忠誠を尽くし、どんな命令も引き受ける覚悟ができている。これらの騎士の助力なしでリンという国を治めることはできなかった。

チベットの社会において、こうした観念はその伝統文化や社会生活に忠実に影響を与えている。言い換えるなら、それは1959年以前に存在した伝統的な生活の真の鏡なのである。この観点から言えば、社会学的に、あるいは人類学的に叙事詩を調べるのは興味深いことである。というのも、これまでは叙事詩の研究といえば、もっぱら文学的、歴史的、文献学的な側面に集中し、それにチベット仏教のイデオロギー的なアプローチが加わったにすぎなかったからである。

 よく知られているように、チベット文化において仏教は支配的であるが、それは表面上のことであり、水面下にはじつは土着の文化が流れている。一方英雄叙事詩は、固有の観念や信仰を土台にしているからこそ存続してきたのであり、こうして文化や国家におけるチベットの独自性を保持し、表現してきた。

 つまりケサルは美徳や愛国の規範なのである。もっとも、この傾向はチベット人よりもモンゴル人のほうにより強く表れているのだが。疑いなく、チベット人において、とくにカムやアムドの人々にいて、文化的愛国主義のシンボルとしてケサルは存在しているのである。

 モンゴルでは抑圧の対象となったのは反政府主義者ではなかった。1948年から1949年にかけては、ケサルの英雄叙事詩が弾圧されたのである。出版されたケサル王物語は図書館から没収され、書店で売ることが禁止された。叙事詩を収集した者は処罰され、学問的価値がないという烙印を押された。

 チベットでは同様の体験をすることはなかったが、そのかわり、文化大革命の間、それが宗教的であれ、世俗的であれ、チベット文化全体が弾圧されたのである。そこには特に攻撃されるべき文化的要素はなかった。

そして1970年代末、中国ではさまざまな分野、とくに経済の分野で「開放」がはじまった。中国当局にとって、チベット語の刊行物を禁止する理由はなくなった。さらには、文化大革命の余波で入手しがたくなっていた宗教的な書籍も、市場に現れるようになった。中国の私的な印刷業者やチベット人の出版者が外に出て、宗教的テーマの本のビジネスを行うことができるようになった。

仏教やボン教の本を求める気概をくじくために、当局は世俗文学をもっと読むように促した。ラサには、ケサルに関する本が出版できるような空気が生まれていた。

西蔵人民出版社がケサル王物語をはじめて出版したのは1979年のことだった。それは前書きもなく、チベット人の地域の倉庫に保管されていた写本をもとに編纂したという但し書きがあるだけだった。それにもかかわらず、それは導火線に火をつけることになり、多くのケサル本がつぎつぎと出版された。

すぐにほかの地域、たとえば青海省、甘粛省、四川省、雲南省でも英雄叙事詩のさまざまな物語を含む本が出版された。北京や成都、蘭州、西寧、そしてもちろんラサの社会科学院蔵学研究所にも、小さな調査グループが発足した。

学者たちは同時に語り手を探し出し、口承による素材をテープに録音するようになった。蔵学研究所だけでもカセット2000個分も録音したという。私が短期間の現地調査を行った1985年の時点で、ケサルやほかの英雄たちが描かれたポスターがあちこちで見られるようになっていた。また有名な語り手が演唱したテープは店や市場で入手することができた。

アムドのアバ地区(rNga-khog)にいたとき、市場で中年の女性らがラジオのまわりに集まっている光景を見たことがある。そのときラジオからは、ケサルが地獄から愛妃を救う場面の演唱が流れていた。

 しかしながら、中国のプロパガンダ製造機は、英雄叙事詩を利用する好機を逃さなかった。ケサルの異母兄弟 [訳注:ギャツァ] は、ケサルの騎士(将軍)として重要な役割を担っているが、母親が中国人だった。プロパガンダ担当者はこの神話中の人物をチベット人と中国人の友好のシンボルとしたのである。この騎士(将軍)のポスターをよく見かけるが、アムドでは、しばしばケサル以上に輝かしい存在として描かれる。

 厖大なケサルの本が出版され、口承バージョンも採集され、録音された。調査チームはチベットや中国だけでなく、ヨーロッパでも組織され、ケサルの英雄叙事詩に関するシンポジウムも開催可能と考えられるようになった。

 1987年、成都で最初の学術会議が開催された。何人かのヨーロッパに住むチベット学者が招待された。何人かは招待状を受け取り、何人かは当時ラサで敷かれた戒厳令に抗議して断った。

 二度目のケサルのシンポジウムは、去年(1991年)、ラサで開催された。主宰したのはラサの社会科学院蔵学研究所である。今回は私も参加し、この30年間ではじめてさまざまな地域から集まった33人のチベット人の学者と会う機会を得た。彼らは叙事詩のさまざまな面に関する論文を書き、提出した。

 会議には、そのほか15人の西洋人、17人ほどの中国本土、香港、マカオ、台湾の中国人、何人かの日本人やモンゴル人が参加した。

 会議には3人の語り手も参加した。このときに私は彼らの演唱をビデオに撮ることができた。

 最初に演唱したのは、カムからやってきた71歳の老人、サムドゥプ(bSam-’grub)だった。彼は文盲だったが、演唱することができた。彼はおよそ50巻の物語を語った。彼は1985年以来、ラサの蔵学研究所で調査グループとともに働いていた。

ビデオのなかでは、彼はバルラ・ルクゾン(Bal ra lug rdzong)の一部を歌っている。これは専門家も知らなかった物語である。[訳注:楊氏の資料によるとBal bo lug edzong(百波綿羊宗)である] 

 すでに述べたように、彼は典型的な昔ながらの職業的な語り手である。彼のような語り手はほんのわずかしか生き残っていない。

 2番目は女性の語り手、35歳くらいのユドン(gYu-sgrin)である。彼女もまた文盲だが、もっとも若い世代の代表といえるだろう。彼女は正真正銘のプロフェッショナルとは言い難い面もあった。しかしビデオのなかで、彼女は競馬の場面をじつによく演唱している。ちなみにこの場面はずっと昔にフランス語に翻訳されている。

 3番目は59歳のトゥブテン(Thub-bstan)である。彼はもとセラ寺の僧侶だったが、還俗していまラサの劇場で演出家として働いている。彼の演唱は、ケサルの兜の神秘的な起源について語ったものだ。それはさまざまな場面で描かれ、象徴的な意味を持っているのである。

 彼はホル・リン戦争の一部を演唱している。この物語は、ホルの国に遠征して戦うというものである。彼はコミカルなしぐさを入れ、まるで劇の一部を見ているかのようだった。語り手がかぶる帽子は、ケサルの帽子と似ているとチベットの庶民は考えてきた。それゆえときには、この帽子をかぶり、トランス状態に陥り、自分自身をケサルとみなすこともあった。