リンのケサル王 

東チベットの英雄叙事詩の起源と意味について 

ジェフリー・サミュエル 宮本神酒男訳 

 

チベットの英雄叙事詩 

 ケサルはチベット人、モンゴル人両者のあいだで広く知られた英雄叙事詩の物語群の主人公である。これらはモンゴル人や中央アジアのテュルク系の人々のあいだに流布している物語や、アーサー物語をはじめとするヨーロッパの人々のあいだに流布している叙事詩の物語と類似している。

 ケサル王は奇跡によって誕生し、ばかにされ、無視された子供時代を過ごすが、統治者となり、驚嘆すべき技によって妻ドゥクモを勝ち取る。つづくエピソードのなかで、彼は人間、非・人間を問わず、攻撃を仕掛けてくるさまざまな外部の勢力から人々を守る。通常の死に方で死ぬかわりに彼は隠された領域に入り、未来のある時期に、敵から人々を守るために戻ってくる。ケサルはまた、モンゴル人や満州人の信仰の中心人物となり、戦神とみなされ、中国の戦神関帝と同一視されるようになった。

 チベットでケサルの物語を歌い語るのは、ドゥンパ(sgrung pa)、ドゥンケン(sgrung mkhan)などと呼ばれる遍歴する吟遊詩人である。彼らはしばしば文盲であり、物語の知識をもとに、あるいは物語の登場人物と幻影のなかで出会うことによって歌い語る。おもなエピソードは書き留められ、テキスト化されたバージョンとして流布している。

 東チベットではとくに人々はテキストを読み、楽しみのためにひとりで、あるいは友人とケサルの歌をうたって楽しむことが多い。現代チベット人のケサルにたいする考え方は、相当に広い。だれもケサルが歴史上の人物かどうかたずねることはないが、多くのチベット人にとってケサルの物語は物語にすぎず、それほど重要ではない。ほかの人々にとって、とくに東チベットや東北チベットの人々にとってケサルは偉大な霊的パワーをもち、叙事詩を歌い語ることは、実際に意味のある行為なのである。ケサルを呼び起こす儀礼があり、チベットの寺院によっては定期的に儀礼をおこなっている。

 チベット文化の多くの面でいえることは、筋の通った統一された姿などないということである。地域によって、宗教的な伝統によって、個人によって差異があるのだ。私はほかの場所でチベットの宗教と文化は「聖職者的」と「シャーマン的」の二極に分かれる傾向があると指摘したことがある。われわれはケサルを歴史上の人物として学問的に研究することができるが、同時にケサルや彼の将軍、大臣たちとシャーマン的なヴィジョンとして会うこともできるのだ。

 英雄叙事詩は通常無伴奏で、歌物語(シャントファブル)のスタイルで歌い語られる。歌い手は通常男で、散文調で語り、誇張し、変調を加えたトーンの語りを交え、またさまざまな登場人物の歌をうたう。歌にはそれほど多くないメロディがあり、登場人物や人物のタイプに応じて変化する。写本バージョンも印刷バージョンも、同様に歌物語の形式をとっている。そして名前は特定のメロディをもち、メロディはそれぞれの歌に使われる。

 チベットの英雄叙事詩ケサル王物語について書いた『チベットの叙事詩と吟遊詩人』の序論でロルフ・スタンは、1930年代にどのようにしてケサルについて研究するようになったかに言及している。テーマはシンプルで率直だと彼は考えていた。

「誰が言ったのか」とスタンは述べる。「私が深い森にとらわれ、登れない壁を登ろうとしていると」

 彼の本が出版された1959年までに、彼はもうそんな幻影にとらえられることはなかった。そして600ページ以上に及ぶ『チベットの叙事詩と吟遊詩人』は先駆的なバランスシートとなった。彼はこの本が多くの将来の研究者を惹きつけ、研究の一助となることを願った。

 英雄叙事詩が膨大なトピックを含んでいるというスタンの指摘は正しかった。それを十分に理解することによって、いかなる学者もかなわない領域に達した。スタンの希望は、彼の著作が人をまだ十分に理解されていなかったケサル研究に惹きつけることだった。近年、ヨーロッパやインドにおいて、ミレイユ・エルフェの英雄叙事詩の文学的、音楽的側面の研究(1977)やルドルフ・カチェフスキのテキスト編集や翻訳、その他の著作、ダラムサラのタシ・ツェリンの研究などを含む、多くの本質的研究成果が生まれることになった。また中華人民共和国のチベット人や漢族による研究の成果も現れるようになった。

 もっとも重要なことは、印刷された、あるいは写本の、または口承の数えきれないほどのエピソードが中国、ブータン、インドなどで出版されたことによって、いまわれわれは東チベットの英雄叙事詩の伝統が広まったことを認識することができることである。

 しかし多くの疑問が解決されないまま残っている。これまでに刊行された著作、とくに西欧の言語で書かれたものは、ある一定の幅のなかのトピックに集中しているのである。つまり英雄叙事詩の背景と歴史上のケサルの特定およびその性格に偏っているのだ。英雄叙事詩の文化人類学的な側面についての研究はほとんどなく、ケサルの重要な儀礼的側面についてだれも取り組んでこなかった。

 この章における私の最大の関心は、東チベット(カム、アムド)の社会において、ケサルの場所がどこにあるかを理解することである。そのためには、文学的、音楽的、歴史的、文化人類学的な面を統合する必要があると私は信じる。ケサルは東チベットの社会や文化と多くの点で関係があり、英雄叙事詩の研究はこの地域の政治的、宗教的生活の研究に新しい光を当てるはずである。この章では私のケサル研究の軌跡をたどっていきたい。

 

さまざまな英雄叙事詩の伝統 

 シルク・ヘルマンは最近、ケサルの英雄叙事詩は基本的に口頭で作られたものであり、叙事詩のオリジナルのテキストを探すのは的を外していると記している。しかしわれわれは、ケサル英雄叙事詩を純粋にパリー・ロード・モデル(*ミルマン・パリーとアルバート・ロードは口承文学研究の先駆者)の創作物として扱うとき、注意しなければならない。とくに東チベットでは、口承と書かれたものとが互いに影響しあった複雑な体系から叙事詩の語り手のパフォーマンスが生まれているのである。歌い手は本をもとにして歌い、記憶や個人的なヴィジョンから朗誦するかもしれない。

 叙事詩のオリジナルに近いとされるものが存在しないということに関してヘルマンに賛成するものの、ある物語がより古く、ほかの物語が新しいこともたしかである。どのエピソードが初期のものであろうかと考えるのは自然の成り行きである。この疑問の答えを見つけるひとつの方法は、比較的独立した伝承をもつラダック、モンゴル、東チベットの物語を比べてみることである。

 フランケの下ラダック・バージョンからはじめよう。フランケのリストにはつぎのようなエピソードが含まれる。

(1)祖先。ドンスム・ミラ・ゴンモは奇跡的に生まれる。彼は9つの頭を持つ魔物を殺す。9頭の魔物の身体からリンの国が現れる。彼は18人の妻とのあいだに18人の英雄をもうける。18人の英雄がリンの国にやってくる。

(2)天界の王ワンポ・ギャシン(インドラ)は息子のひとりを国王の長男ドンドゥプとして、リンの国に送ることに同意した。彼は死んで鳥として転生する。そしてゴクサン・ラモの息子として転生する。彼こそケサルである。

(3)ケサルはブルク・グマ(東チベットのドゥクモに相当)と結婚し、リンの国王となる。

(4)ケサルは中国へ旅をする。そして皇帝の娘ユイ・コンチョクマと結婚する。

(5)ケサルは巨人の妻ゼモの協力を得て北の巨人を破る。 

(6)ケサル不在のあいだにホルの国王が彼の妻ブルク・グマを連れ去る。

(7)ケサルは帰還し、ホルの国王を破り、ブルク・グマをリンの国に連れ帰る。

 フランケがまとめた2番目のバージョンとツェリン・ムトゥップの3番目のバージョンは、全体的に上記の1番目と似ている。両者ともミラ・ゴンモの誕生は避け、18人の英雄の誕生からはじまっている。ムトゥップのバージョンからは中国のエピソードが抜け、シルク・ヘルマンのいくつかのラダック・バージョンも同様である。ヘルマンは演じられるほかのエピソードにも言及している。

 東チベット・バージョンははるかに多くのエピソードをもっている。ラダック・バージョンが純粋に口承であるのにたいし、東チベット・バージョンの多くは写本という形で伝えられ、よく知られたいくつかのバージョンが存在する。あまり知られていないシペ・レウの章はフランケのバージョンの最初のエピソードに相当するが、そこにはリンの国の起源について書かれている。

 「ラ・リン(
Lha gling)」「トゥン・リン(’Khrungs gling)」「タ・ギュ(rTa rgyug)」には、ケサルが天国から送られたこと、ケサルの誕生と子供時代、競馬およびそれによってケサルがリンの国王となり、ドゥクモと結婚することなどのエピソードが書かれている。それらはフランケの2番目、3番目のエピソードに相当する。フランケのバージョンの残りのエピソードは、東チベットの「ギャ・リン(rGya gling)」「ドゥンドゥ(bDud ’dul)」「ホル・リン(Hor gling)」に相当する。

 東チベット・バージョンでは「ドゥンドゥ」「ホル・リン」のエピソードにつづくのが、ケサル王が、征服する2つの魔王(bdud)のエピソードである。すなわち、ジャン・リン(’Jang gling)のエピソード中のジャン(’JangあるいはlJang)のサタム王(Sa-tham)と、ロ・リン(Lho gling)あるいはモン・リン(Mon gling)のエピソード中のロ・モン(Lho-Mon)のシンティ王(Shing-khri)である。

 4つの魔王の国を征服したあと、いくつものエピソードがつづく。そのなかでリン国の戦士や早いエピソードで味方に付得た戦士たちがともに戦い、周囲の地域の都や要塞(ゾン)を征服していく。こうした地域のほとんどは、実際の地名を特定することができ、まだ悪魔的な敵(bdudあるいはsrin mo)が物語の筋を作っているとはいえ、これらのエピソードはより「史実的」であり、「神話的」な色合いが薄いのである。

 数字が意図されたものかどうかはともかく、伝統的にラ・リン、トゥン・リン、ホル・リンを含む18のゾンがあったとされる。実際には18よりはるかに多くのエピソードがあることが知られている。最後のエピソード、ニェル・リン(dMyal gling)では、母親を救うためケサルは地獄の領域を訪ねる。

 4つの魔王のエピソードは、しばしば四方と関係している。それはおそらく4つの方向の王の天界の4人の息子を反映しているのだ。さまざまな資料からこの構成は知られているが、そのうちの王のひとりはトム(プロムあるいはクロム、PhromあるいはKhrom)・ケサルという名で呼ばれている。いずれにせよ、チベットのケサルは国王になったあと、四方の悪魔的な支配者を征服し、彼の王国を確立し、彼が地上に送られた当初の使命を果たすことになる。

 印刷されたモンゴル・バージョン(1716年)に目を向けると、そこに7つのエピソードをわれわれは見出す。

(1)神々の領域のプロローグ、ケサルの誕生と青年時代、ログモ(ドゥクモ)との結婚、そして彼のリンの国王即位。

(2)ケサル、黒い縞の虎を制圧 

(3)ケサルの中国への旅と中国の王女との結婚 

(4)魔王の妻の協力を得て、ケサル、魔王を倒す 

(5)シャライゴル(ホル)の3人の王との戦争 

(6)ケサル、ラマを装った悪魔を倒す 

(7)ケサル、母を助けるために地獄の領域へ旅をする 

 モンゴル・バージョンの7つのエピソードのうちの4つ(1、3、4、5)は、ラダック、東チベットとも一致する。もうひとつのエピソード(7)は東チベットと一致するが、(2)と(6)はどれとも一致しない。近年、モンゴル・バージョンは全体的にまとまったエピソードを含んでいることがあるが、これは純粋にモンゴルでの創作と考えられる。考えられる唯一の例外は、「ラ・リン」に先立つできごとの口承のモンゴル・バージョンであり、東チベットのシペ・レウのエピソード、またフランケの最初のエピソードに相当する。

 モンゴル・バージョンとラダック・バージョンには、四方向の構図がないことは特筆すべきである。これは東チベット・バージョンが比較的遅く発展したことを意味するのかもしれない。東チベット・バージョンのこの構図のもっとも古いものと思われるのは、よく知られた「タシク・ノルギェ(sTag-gzig nor ’gyed)」のエピソードである。タジクへの遠征から得た富を分配するという内容で、ゾクチェン・パドマ・リクズィン(16251697)によるものである。

 チベットにおいて数少ない木版で印刷されたこのエピソードで、ケサルとリンの人々の野営が、4つの魔(bdud)の国々への遠征のときに味方につけた人々に囲まれている。右側にホルの人々、左側にジャンの人々、後ろにモンの人々、前に北の魔国の人々という具合である。

 ケサルの巻頭の歌のなかで、彼が征服した7つの大ゾンをあげているが、その最初に来るのはタジクである。ほかはソグ・ギ・タゾン、アタク・ズィゾン、チェリ・チュルゾン、ドゥグイ・ゴゾン、ミヌプ・ダルゾン、そしてギャナク・ジャゾンである。そのほか小さな遠征としてあげられているのは、カチェ、ベリ、チャン・シャンシュンなどである。

 もうひとつの早期のチベット・バージョンは、タシ・ツェリンによって編集され、ダラムサラで出版された短いエピソードのシリーズである。これらは18世紀後半以降のものであり、「ラ・リン」「トゥン・リン」「タ・ギュ」「ドゥンドゥ」「ホル・リン」「ジャン・リン」などを含んでいる。いくつかほかのエピソードもあるが、それはモン、ティン、タジク、中国への遠征や地獄のエピソードである。四方向の構図はここでは明確でなくなり、実際テキストは「タシク・ノルギェ」よりも早期の(ラマ化の度合いが少ない)叙事詩の状態を表わしている。

 現在流布している「ニェル・リン・ゾクパ・チェンポ」のエピソードが書かれた頃(19世紀後半)までには、四方向の構図は確立されていた。作者はしかしながら、東チベットの地理の知識と妥協しながら作っていかなければならなかった。そこで彼は東にも魔(bdud)のエピソードを加え(kLu khri stag mgo)、ジャンを四方向の構図以外の5番目の魔のエピソードとして扱った。「ニェル・リン」はケサルによって征服された25のゾンのリストにつづくものである。とはいえこれらは口承の、あるいは写本という形のものとして知られるエピソードのリストは、完全とはとうてい言い難い。

 18エピソード、あるいは18ゾンという概念は、東チベットだけでなくラダックでも知られているが、多分に恣意的である。18とは結局共通の数字なのである。ラダックの18の戦士のエピソード以外にも、チベットの宇宙開闢神話の18の最初の卵やシャンシュンの18国王、ギャロンの18部族、ジェツン・ミラレパを攻撃する18の魔物、ジェツン・ミラレパの18のゾンなど枚挙にいとまがない。

 これらのことは英雄叙事詩について何を語ってくれるだろうか。われわれは最近でさえも、ラダック、東チベット、中央チベット、モンゴルの伝統が互いに影響し合っていないとはいえない。東チベット、中央チベットの写本はラダックとも通じているだろう。そしてモンゴル人とチベット人はアムド地方やその他の地域と密接な関係にある。しかしもしわれわれが核となるオリジナルのエピソードを見つけようと思うなら、もっとも有力な候補は3つの伝統に共通するエピソードだろう。それは「ラ・リン」「トゥン・リン」「タ・ギュ」「ドゥンドゥ」「ホル・リン」と中国のエピソードであり、おそらく宇宙神話的な前奏曲として「シペ・レウ」も加えられるだろう。これらのテキストをすべて含んだものが書かれたとは、私は考えていない。早期においては、これらのエピソードは純粋に口承で伝えられていたはずだ。

 私が知るかぎり、モンゴルと東チベット・バージョンしかない地獄のエピソードは核となるメンバーとは考えにくい。おそらく、驚くべきことに、ジャンとロ・モンのエピソードは、東チベットでは輝かしい存在であるにもかかわらず、ラダックやモンゴル・バージョンにはなく、核となるには弱すぎるのだ。数多くのゾンのエピソードはほとんど東チベットにのみあり、後期の発展の結果とみなされうる。

 6つ、あるいは7つのエピソードの核となるものを私は「原型叙事詩」と呼んでいるが、それはすくなくとも17世紀までさかのぼることができる。しかし実際はもっとはるかに古いだろう。モンゴル、東チベット、ラダックの伝承がいつ独自の発展をはじめたかとなると、明確な基準はないようである。

 

歴史上のケサル 

 では原型叙事詩といわゆる歴史上のケサルとの関係はどうなっているのだろうか。ほとんどのチベット人学者は、英雄叙事詩のリンのケサル王を歴史上のリンのケサル王と同一人物とみなしている。その根拠としているのは14世紀から15世紀にかけてチベットの大半を支配したラン(sLangs)王朝の一族の年代記であるラン・ポティセル(sLangs Po ti bse ru)の記述である。ラン・ポティセルのケサルはラマ・チャンチュブ・デコルの世俗のパトロンであり、このテキストの物語はのちの英雄叙事詩の物語と共通点を有しているのである。

 もしラン・ポティセルの歴史的記述を文字通り受け取るなら、この実在したケサルを10世紀か11世紀の人物とみなすことができる。しかしながら、ラン・ポティセルのさまざまな章においてその時代と史実性は議論の余地があるのだ。この点において私は議論の輪に加わるつもりはないが、もしケサルという名の11世紀の国王あるいは首領を実在する者として受け入れるなら、かえって単独の原型叙事詩のケサルと認めることはできなくなるのだ。叙事詩はさまざまな性質を有している。そのことは実在するケサルは、ほかの、またおそらくはるかに古い物語が結晶化したものであることを示している。こうした特徴を以下にまとめてみる。

●11世紀のケサルに関しては、驚くほどその実在性の証拠に欠けている。唯一の証拠はラン・ポティセルである。このことはつまり、ケサルが実在するとするなら、英雄叙事詩のケサルと違ってぱっとしない人物であったことになる。

●ケサルがどこで生まれたか、彼の人生における大きなできごとがどこで起きたか、たいへんな混同がある。東チベット・バージョンでさえ、東チベットのどこで生まれたのか曖昧であるのに、さらに西チベットではケサルが西チベットで生まれたことになっているのである。似た論議は、ホルやタジク、その他の重要な国や地域の所在地についても起こるのである。

●話の筋の神話的特徴もたくさんある。ケサルはとくに核となるエピソードにおいて、実在する人物以上に魔物の王とよく出くわす。ケサルの中国への旅は、ソンツェンガムポ王と唐公主との結婚を反映していて、これもまた史実というより神話である。

●ラン・ポティセルのケサルはいくつかの重要な点において英雄叙事詩のケサルと異なっている。とくに叙事詩のなかでは、魔(bdud)を倒すのはケサル自身であるが、ラン・ポティセルではチャンチュブ・デコルである。

 

英雄叙事詩の仮の歴史 

 現在の知識をフルに使って、英雄叙事詩の歴史を再構築しようとすると、どうしても恣意的な要素が含まれてしまう。じつにたくさんの仮説だらけになってしまうのだ。ここに私が示すものは、直感的にもっともありえるものである。

 まず示したいのは、実在するケサルは英雄叙事詩にとってそれほど重要ではないことである。ラン・ポティセルのケサルが歴史上実在したかについて、私はそれほど強い意見をもっているわけではない。しかしそのような実在したケサルと叙事詩のケサルの間の距離は、実在したインド人シッダ(成就者)パドマサンバヴァと、のちのチベット密教のグル・リンポチェの距離ほどに遠いのだ。

 グル・リンポチェあるいはパドマサンバヴァは、すでに述べたように、ケサルの叙事詩のなかでも重要人物である。東チベット・バージョンでは、ケサルが地上に降臨することから責任を負っている。そしてケサル自身、転生ではないにしても、この地上におけるグル・リンポチェの代理人の役割を担っている。

 さらに加えるなら、パドマサンバヴァ自身の生涯のなかで、「パドマ・カタン」や「カタン・デンガ」などのテルマのなかで叙事詩のように語られているが、それはケサルの叙事詩のなかでは、より仏教的な要素を示していると考えられている。パドマサンバヴァの神々や悪魔の征服は、彼のアイデンティティの中心をなすもので、チベット人にとっては重要なことである。ケサルが東チベット・バージョンでラマのように行動するとき、そのふるまいはパドマサンバヴァそっくりである。それは魔術的な力であって、社会から身を隠して寺院で修行するのとはかなり違っているのだ。

 このことは東チベットで起きている特別な形式について説明してくれるが、なぜこういう発展を遂げたかの説明にはなっていない。スタンやゲザ・ウレイが論じたように、東チベットの英雄叙事詩の発展は、リン・ツァン国の発展と深い関係にある。

 リン・ツァンはデルゲが勃興する前、数世紀のあいだはカム地方において支配者だった。その全盛期は13世紀から14世紀であり、すくなくとものちにデルゲが支配する地域全体は領土に含まれていた。リン・ツァンの支配者一族は、ケサルの異母兄弟であるギャツァの息子の子孫を主張していた。カム地方のいくつかの重要な家族は同様に叙事詩の登場人物の子孫を称していた。

 このように東チベットの叙事詩はリン・ツァンの支配者のオリジナルの神話、あるいは神話的人物になった。そのような起源神話はチベット文化では一般的である。よく知られた例としては、チベットの初期の王の祖先神話とは別に、モンゴル朝の時期のチベットの支配者だったサキャのコン氏族の神話がある。そして14世紀と15世紀、チベット中央部を支配したラン氏族も(ラン・ポティセルに述べられたように)その一例である。

 このことは宇宙神話的な序章(シペ・レウ)や神々の世界からの降臨(ラ・リン)の意味を説明してくれる。しかし英雄叙事詩の起源が純粋にリン・ツァン王朝の起源神話とは考えにくい。たとえば、リン・ツァンの支配者がわれわれが期待するようにケサル本人の後裔とされるのではなく、異母兄弟のギャツァの後裔としている。

加えて、ケサルの性格をみると、(文化人類学的意味において)トリックスターであり、国王というより魔術師なのだ。とうていこれでは王統の創始者に期待するような模範的な君主とはいいがたい。

 実際、ケサルがかなりの古代の人物であることを示す証左もある。天界の4人の息子(天子)という構図のひとり、プロム、あるいはクロムのケサルは10世紀までさかのぼることができ、疑いなくバクトリアの支配者プロムのケサルの存在を反映している。マリア・ピラクトゥはラダックのケサルがいかに「祖先・英雄」の役割をもっているかを述べている。ケサルの結婚は現在のラダック人の結婚のモデルとなっている。

ラダック年代記は、チベットの王たちがラダックに来る前の上ラダックの支配者を、ケサルの後裔として描いている。ザンスカルの年代記は、歴史のはじめにケサルが風景をたいらにしたと述べている。このことからラフルのケサルの物語を思い出す。ケサルは杖を矢として使い、クル谷とラフルのあいだのロタン峠を開いた。

 これらのことから、ケサル以前に存在した叙事詩が、リン・ツァンの支配者や貴族の系譜作りの要望に応じて修正が加えられたことが推測される。ケサルがチャンレシク(観音)やグル・リンポチェの化身であると認識されるのは、この修正作業の一環といえる。それは「マニ・カブン」などを通じて、チャンレシク神話やグル・リンポチェ神話を中央チベットの王制に結びつける作業と並行して進められた。「原形叙事詩」はしだいに形が整えられ、新しい役割を担うようになった。祖先であるギャツァの息子ダラがリン・ツァンで担う抜きんでた役割は、「ホル・リン」のエピソードの東チベット・バージョンにおける典型的な例である。

 ほかの論文で私は、仏教がチベットで成功を収めることができたのは、タントラのシャーマン的プロセスにおいて前仏教的なシャーマニズム的宗教要素を取り込んできたからではないかと論じた。チベット仏教における次第と所作はシャーマン的要素を取り入れるプロセスの段階を表わし、シャーマン的、ヨーギ的要素と僧院的、聖職者的側面の統合にさまざまな種類があることを強調した。

 またべつの論文で、私は初期のニンマ派や新しいボン教の系譜を具体的に調べ、チュー(
bcod)の実践やのちのカギュ派やニンマ派のヨーガの教え、テルマの伝統などがシャーマン的側面を代表する一方、ほかの面や動き、とくにカダム派やゲルク派が(専売特許というわけではないが)仏教の僧院的、聖職者的な側面を強調しているのではないかと論じた。

 残りの大衆的かつシャーマン的伝統の要素は、仏教の吉祥というたてまえのもと、神霊が憑依する神託(パウォ、ラパ、チューキョン)やデーロク(死者蘇り)、土地の神々や精霊を扱う膨大な儀礼のなかに生き続けている。

 これら残りの要素はとても興味深い、というのも、現在も叙事詩はあきらかにチベットの宗教と関係があるからだ。多くの叙事詩の語り手が本や記憶をもとに吟唱しているが、なおある人々はトランス状態で、叙事詩のできごとを眼前に見ながら歌うのである。彼らはパウォと呼ばれる霊媒やミクトンと呼ばれる占星術師のようなシャーマン的実践者と類似している。

 古典的なシャーマンの幻視体験からケサルの語り手が生まれるというケースがしばしばみられるが、これは現在のパウォやデーロクの誕生の仕方とほぼおなじである。叙事詩の新しい本はしばしば幻視から生まれ、作者がケサルの信奉者である場合、前世の記憶から湧き起こってくると信じられている。

 多くの社会においてシャーマン的実践者の主要な役割は、集団の神話と物語を生み出すメカニズムを提供することである。それは新しい社会や政治のリアリティをつねに書き換えていくメカニズムなのだ。起源神話としてリン・ツァンの統治者に叙事詩を生みだして提供するのは、一般的なプロセスの例として挙げられるだろう。初期の王朝期のドゥン(sprung)がケサルの叙事詩の語り手とよく似た叙事詩の歌い手であるなら、おそらくおなじような役割をもっていたはずだ。

 何世代にもわたり、霊感をえたシャーマン的な語り手が叙事詩の素材を選び、取り入れることによって、結果としてリン・ツァンに起源神話がもたらされることになった。ゾンの長いリストは、すくなくとも部分的には、近隣の集団を神話によって結びつけるのに役に立ったであろう。

 15世紀から16世紀にかけて、リン・ツァンが支配者の地位から落ちたとき、何が起きたのだろうか。リン・ツァンの威光のもと、新しいエピソードが作られることによって、しばらくは統治を続けることができたかもしれない。現代にいたってもリン・ツァンの王子は残存しているのだ。しかしながら新しい発展があり、それは叙事詩の役目と意味に変化をもたらす。この変化は、当時の東チベットの宗教の大変革と関係している。

 ダライラマ5世の盟友であるモンゴル人、グシ・ハーンによる1640年から41年にかけての東チベット征服は、この地域におけるゲルク派の急激な勢力拡大をもたらした。多くのカム地方のゴンパはこの時期に創建されている。そして宗教生活は仏教寺院を中心とした方向に変化していく。総括するなら、ゲルク派はケサルとはほとんど関係がない。神話学観点からいえば、ケサルとペハルのあいだには敵愾心が存在する。ペハルはネチュン寺に住む神で、ゲルク派の重要な守護神である。しかしながらゲルク派はいかなる場合もチベット仏教の代表であり、ケサルの語り手のシャーマン的活動には理解を示さないのだ。

 東チベットにおけるニンマ派のリバイバルと、のちの19世紀から20世紀にかけてのニンマ派、カギュ派、サキャ派、ボンポのラマたちのリメ(超宗派)運動は、まったく別の問題である。このリバイバルは、非ゲルク派の寺院がカム地方においてしっかり土壌を固めたあと、17世紀後半からはじまったものであり、それは非・寺院組織であり、ヨーガの構成要素をもち、ケサルやケサルに代表される文化に寛容だった。

 これまで見てきたように、17世紀のゾクチェン・ゴンパの創建者パドマ・リクズィンは「タジク・ノルギェ」の本文を書いたといわれる。それはノル・ラ(富をもたらす神)としてのケサル信仰と関連している。19世紀、ほとんどのリメ運動のラマたち(ジャムゴン・コントゥル、ジャムヤン・キェンツェ・ワンポ、ド・キェンツェ、チョギュル・リンパら)はすくなくともひとつのケサルの儀礼や叙事詩のテキストについて書いている。一方でジャムゴン・ジュ・ミパム・ギャツォやテルトン・ソギャルはおびただしい文章を残している。ジュ・ミパムはまた、叙事詩からエピソードを抽出して編集し、印刷までしている。

 つづくリメ運動のラマたち、たとえばザトゥのジャムゴン・ツァンニ・トゥルク、彼の弟子カムパ・ガルの8世カムトゥル・リンポチェ・ドンギュ・ニマ、タシ・ジョンは、厖大なケサルの儀礼のテキストを生み出すとともに、仏教徒としての関心を反映させたいくつかの新しいエピソードを付け加えた。叙事詩は疑いなく仏教の思想と概念の色が濃いものとなっていた。すでに述べた「ニェル・リン・ゾクパ・チェンポ」は、チベットでは数少ない木版印刷されたエピソードだが、それまでと物語のトーンが異なっている。このテキストでケサル、彼の信奉者、ほかの登場人物すべてがボーディサットヴァ、シッダ、ダーキニーとして描かれているのだ。ニェル・リンはついでにいえば、注釈によれば、テルマである。これはニンマ派とリメ仏教、ケサルがそろったときにたまたま起きた現象といえるだろう。

 ケサルの儀礼的側面は、西欧の専門家によってほとんど研究されていない。この時期に起きた重要な発展を知る鍵が隠されているはずである。17世紀のモンゴル人のゲセル・ハーン信仰にはそれにまつわる証拠もあるのだが。のちにゲセル・ハーンの儀礼はモンゴル人のあいだで重要になっていく。満州(清)の戦神としてのケサル信仰も発展し、中国の戦神関帝と習合する。チベットの数多くのケサル廟、それにはラサのケサル廟も含まれるが、これらは満州の信仰である。

 チベット人は実際、ケサルを祀る寺や廟をほとんど持っていない。しかしダラ神(戦神)や守護神としてのケサル信仰はまちがいなく古代からあったものである。ケサルは仏教以前の地元の神の重要なクラスの称号であるマサンと関連づけられる。そしてサンの儀礼のテキストでは定期的にケサルは呼ばれる。それらのうちいくつかは特にケサルに捧げられた儀礼なのである。ケサル儀礼はリメ運動のなかで発展し、今種の地方の神のひとつとなることもあった。彼はタントラのイダム(守護神)として扱われ、護法神のなかに組み入れられた。この発展を詳しく見ながら、この2、3世紀、ケサルと叙事詩の意味合いがどのように変遷してきたかを学びたい。



現代における英雄叙事詩の意味 

 現代において、英雄叙事詩は聴き手にとってどんな意味があるのだろうか。最後に私はこの問いの答えを導き出したい。現代の叙事詩は、シャーマン的パワーとその適宜な使い方がされた語りとみなされうる。

 現代の東チベットでは、さまざまな登場人物のための歌が吟唱され、散文的な語りとリンクしている。歌は、登場人物や人物のタイプに応じて微妙にトーンが変わり、歌われる。それぞれの音調は2、3、4行の韻文をカバーする。おして歌が終わるまでその音調は繰り返される。それは通常50行から80行つづく。

 それぞれの歌は登場人物の観点を表わしている。それは可能なリアリティを表わしている。つまり可能な世界の見方を表わしている。ひとつの歌は、ケサルの大臣や戦士のひとり、妻ドゥクモ、裏切り者の叔父トトゥンの考え方を表わしているかもしれない。グル・リンポチェやマネネ、予言やアドバイスによって叙事詩のなかで干渉しようとするほかの聖なる存在の観点を表わしているかもしれない。あるいはケサル自身の行動の様相を表現しているかもしれない。それは魔術的な力を見せる、状況に応じて命令を下し、幸運を呼ぶ、などである。

 これら登場人物、人物タイプ、行動様式、それぞれがそれぞれの音調をもち、音調は真実を見るための方法を呼び起こすということなのである。叙事詩の音調の繰り返しが構造的にマントラの繰り返しに似ているのは、偶然とは思えない。それは異なる種類の真実の本質的な呼び出しなのである。ほかの文化では、この呼び出しの歌をうたうのはシャーマンである。

 叙事詩は、登場人物と音調があらわすさまざまな種類の真実のあいだの持続する交互のやりとり、あるいは対話として聞くことができる。可能な現実、ポジティブあるいはネガティブな対話は、究極的には仏教の適性に使われたシャーマン・パワーのなかで、すなわちケサル自身の擬人化によって、エピソードの終わりに祝福の歌と吉兆のなかで、解決されるのだ。

 シャーマン的な方法がふだんから使われる社会においては、懸念されるのはシャーマンが現実を操作する際にまちがいを犯さないかどうかだ。つねによいシャーマンや慈悲深いラマの傍らには、魔術や呪術、黒魔術、邪悪な力が潜んでいる。ラマが請け負っている大きな役目のひとつは、邪悪で破壊的な力を押さえこむことなのである。これはグル・リンポチェの神話的な役割であり、いわばグル・リンポチェの弟子であり化身でもあるケサルの主要な役割でもあるのだ。このように叙事詩は部分的には、シャーマン的パワーを適正に使った物語とみなすことができる。

 ケサルの勝利は、旧来の意味における戦士精神によってよりも、魔術の力によってもたらされていることが多い。東チベットのポピュラーなエピソードでは、多くの場合、敵は結局悪魔や邪悪なタントラ魔術師であることが判明する。ケサルは国王というよりもラマである。遠征しているとき、彼は理想的な君主として、中央に権力を集め、階級社会を創ってその上に立って統治するのではなく、むしろ隠棲に入ろうとする。ケサルは強い(文化人類学的な意味における)トリックスターなのである。彼は権威を笠に着る人物ではなく、権威の外にいたがる人間であり、権威をもてあそび、権威を建物のなかに押し込んでしまうのだ。ケサルは国のパワーとみるべきではなく、ピエール・クラストレが呼んだように、「国家にたいする社会」の象徴なのである。

 ケサルの行動の反・構造的側面は、彼をジェツン・ミラレパやドゥクパ・クンレー、その他グル・リンポチェを含むチベットの歴史や伝説のよく知られた人物の系譜に並べることになった。しかしながら同時に、ケサルのシャーマン的な特質に立ち戻らなければならない。歴史的にさまざまな変遷があったものの、現代の東チベットでは、ケサルは現代仏教におけるもとの役割を取り戻している。シャーマン的宗教と仏教が、互いに属性と本質をまみえながら、両者ともいられる社会において、ケサルはもっとも適切な英雄なのである。