クリエーターにとってケサルは魅力的か
もしあなたが世界のサーガ(英雄や国王を主人公とする叙事詩的作品)をオリジナルとして映画やゲーム、漫画・アニメ、小説を作らなければならないとしたら、ケサル王物語は魅力的な素材だろうか。もし作るとするなら、どのように作るだろうか。それは漫画・アニメの「進撃の巨人」になるだろうか。「三国志」(コーエー)のような歴史シミュレーション・ゲームになるだろうか。ル・グウィンの「ゲド戦記」になれるのか。
もちろん何かほかのものを作らなくても、ケサル王物語は千年にもわたってチベットの民衆に愛されてきた。だからチベット語をネイティブとする人々にとって、チベットのような環境下で、ケサル詩人(説唱芸人)が歌い、語る物語は魅力的だったはずだ。ただ、われわれにとっては物語の筋や語り手の生きざまは興味深くても、物語を直接的に楽しむことはできない。
われわれが接することのできるケサル王物語は、芸能が文学化されたものだ。中国にも「宝巻」や「変文」などの説唱文学というジャンルがあるが、これも巷間で語り手が説唱してきたものが文字化されたものだ。アジア最強のコンテンツである「三国志」(三国演義)はそうやって形成されてきた。(われわれにとっては羅貫中作がおなじみだ)
ケサル王物語は、じつは意外なほどミュージカルとよく似ている。登場人物がはじめて登場するとき、いきなり歌い出すことも多い。たとえば、魔王は登場するや、いきなり長々と歌をうたって自分を紹介する。あるいは、自分の感情を強調するとき、気持ちを歌で表す。ミュージカルだと思えば、ケサル王物語は違った輝きを放ち始めるだろう。
そうした正攻法はさておき、テレビ・ドラマ・シリーズや映画、ゲームを作るなら、どうすればいいだろうか。中国では以前テレビ・ドラマ化されたことがあるという。しかしそれを見た友人の話では、少年時代のケサルがカンフーの達人のように描かれていて、がっかりしてそれ以降は見なかったという。面白くできるかどうかは、クリエーターの才能次第ということだ。以下、その材料となるべく登場人物や筋立てなどを紹介したい。
登場人物
そのサーガが魅力的であるかどうかは、ひとえに主人公やその他の主要登場人物の魅力にかかっている。といっても「三国志」や「水滸伝」と同様、登場人物だけで千近くにものぼるので、把握するだけでもたいへんである。以下に主要人物や動物を挙げる。(詳細はのちほど)
ケサル王 天神の子。リン国王で獅子大王と呼ばれる。周辺の魔国を制圧。
トドン(チョトン) ケサルの叔父。王位を争う。敵対行為をとる。馬頭観音の転生?
ゴクモ ケサルの母。竜女。死後地獄に堕ちるがケサルに救われる。
ドゥクモ ケサルの正妻。ホルの王にさらわれる。
メサ ケサルの第二妻。北方の魔国に連れ去られる。
アタラモ 北方魔国の王の妹。兄は妖怪だが、妹は美女。
魔王ルツェン 北方魔国の王。9首の妖怪。
ラジ・チンゴン 北方魔国の大臣。6首の妖怪。のちケサルの大臣。
グル・カル・ギャルポ ホルの白テント王。
ロンツァ・タゲン ケサルの叔父。リン国30英雄の一人で長老。総司令官。
シェンパ・メルツェ ホルの白テント王の大臣。のちケサルの寵臣。
ギャツァ・シェカル ケサルの義兄で弟の味方。30英雄の一人。ホル戦争で活躍も戦死。
ミチュン・カデ ケサルの叔父。医者。ホルの白テント王に仕えるがのちケサルの寵臣。
サタム ジャン国王。黒魔術に通じる。圧政を敷き人民を苦しめる。近隣に侵攻。
ユラ・トギュ ジャン国の王子。降伏後、リン国の将軍となる。
シンティ・ギャルポ モン国王。偉大なる王だが、ケサルの弓によって魂の毒サソリが殺されたため、腑抜けた状態になった。
クラ・トギェル モン国の将軍。リンの英雄デンマとの死闘が有名。潔く散る。
キャンゴ・ペルポ 王位継承をかけた競馬で勝利をもたらした駿馬。
ツァンペ・ンゴルク 三大美青年の一人。
クンシェ・ティクポ 占い師。
クンガ・ニマ 神医と称される医者。
ニマ・ティジェ 中国の皇后。絶世の美女だが、魔女。
国
北の魔国 国王ルツェンは人肉を食らい、人血を飲む。残忍で凶悪。9尖塔の魔鬼城に住む。城壁には人頭を用い、幟は死体を使う。妖魔が横行し、民衆は苦しんだ。ケサルが閉関儀礼を行っているときリン国に侵入し、ケサルの第二妃メサを奪った。
ホル国 ホルは強大な国でつねに他国を侵略し、租税を納めさせ、臣を名乗るよう強要した。リン国も税を払っていた。ギャツァの執政時、納税を拒否し、ケサルが王位につくと完全に廃止し、ホルの怨みを買った。ケサルが北の魔国へ出征している間にリンを侵略し、ケサルの正妃ドゥクモを奪った。
ジャン国 18万戸の大国。国王サタムは好戦的で、暴政を敷いたので、人民は苦しんだ。また近隣諸国をつねに侵略していた。リン国には大きな塩湖があったが、ジャン国との境界に近かった。あるときサタム王は軍隊を送った。塩湖を奪うためである。ジャン国は雲南省麗江を中心とした地域だろう。元南詔国、のちの木氏の国。(塩湖はナシ族の領域内にある現在の四川塩源県の湖と思われる)
モン国 ケサル生誕以前に、モン国のシェンティ王の大臣ふたりが15万の兵を率いてリン国を侵略し、18部落を破壊し、人や馬を殺し、財宝を奪った。ケサルは白梵天の予言を受け取り、モン国を攻める決心をした。モン国のモデルは17世紀前半にチベットと紛争を起こしていたブータンか。
カチェ国(カシミール) 42万戸の大国。国王ツェダン・ルベは在位9年の間にオルカ王を屈服させ、属民とした。またニンカ王を征服し、その娘を妃とした。カチェ王は三大国(インド王、中国王、チベットのプギェル王)以外はすべて自分のものだと豪語した。カチェ王はついに3万の兵をリン国へ送った。カシミールは紀元前から発達した地域・国であり、仏教が栄えたが、チベットに侵攻したのは19世紀のドグラ族のゾラワル・シン将軍である。ケサルのカチェ国はイスラム教徒の国。ケサルはカチェ国との戦争に勝ち、財宝を得ている。
タジク国 ペルシア。タジクとの戦争が起こった原因は、トドンがタジクの駿馬を盗んだことである。駿馬といえば中央アジアの汗血馬の産地フェルガナ盆地(ウズベキスタン)が浮かぶ。ここはゾロアスター教の中心地だった。ボン教の伝承によれば、インド、中国とならんでチベットに影響をもたらした国である。きっかけはともかく、タジク国のセティ・ニマ国王は数々の犯罪を起こした魔王だった。タジクと激しく戦い、制圧したあと、ケサルらはタジクの宝庫を開いて驚く。そこには無数の財宝があったのだ。
ジャナ国(中国) 中国皇帝の側室は1500人もいたのに、皇后がいなかった。ようやく竜宮から絶世の美女ニマ・ティジェを迎える。しかし彼女は9人の魔女の血と肉からできた毒婦だった。公女らの求めに応じてケサルが降魔に乗り出す。しかしそのための法器は三節竹杖であり、それを持っているのは仇敵関係にあるミニャク国の王だった。皇后のモデルは武則天か。
トゥク国 突厥? ウイグル国? 戦争に勝ち、珍しい武器を得ている。ケサルはまた、ここから大鵬の卵を盗んだ。
ジェリ(ベリ)国 ネパール? ペマカン? 四川の白利?
守護神
ケサルの13戦神 ガルダ、玉竜、白獅子、猛虎、白口野馬、青オオカミ、岩ワシ、白胸熊、ハヤブサ、鹿、白腹人熊、黄色金蛇、双魚 戦神は人の体、武器、馬などに附く。武器の性能を高め、馬を千里走らせる。戦神の附いた刀は敵に触れただけで殺せる。
蛇首人身の子ども ケサルが生まれたとき、母親の心臓から光が発出された。それは卵のよう。光の卵から蛇首人身の子どもが駆けだした。自らが言うには、神の子に従う影のような存在で、骨の神だという。
馬の守護をする娘 またケサルが生まれたとき、母の臍に虹がかかった。虹の端に女の子の姿があった。人の形をしているが転生はしないという。この娘は馬(キャンゴ・ペルポ)の守護神だった。
ウェルマ神 リン国で、ムグ部落の捕虜将軍ザチェンとドンスム・セノンを、ダラ・ツェギェルを長とする長老会議が裁いていたとき、縄に縛られていたザチェンがセノンを腋の下にはさんで猛スピードで逃げ出した。そのときウェルマ神の力を使っていたので、だれも追いつけなかった。このようにウェルマ神は強大な力を持っている。ボン教徒が好む神。ナシ族のトンバ教の主神イァマはウェルマ神のこと。
ミヌブとの戦いに用いた戦神 ケサルが数人でミヌブ部落を急襲したとき、将軍ワンニ・ベンバは就寝中だった。将軍は大声を出して部下を呼んだが、だれも異変に気付かなかった。なぜなら戦神が彼の声を聞こえないようにしていたからである。この戦神は、上述の13戦神のひとつだろう。
ポラ(pho lha) 肩の守護神。
武器
ケサルの鎧・かぶと
ケサルの魔杖チャンカル・ベルカ
ケサルの鞭
ケサルの競馬帽
ケサルの神矢
ケサルの投石器 魔国の黒いヤクを石弾で倒す。
雲衣、霹靂、木鳥 ミニャク国王ユツェ・トゥンパの武器。
ギャツァの鋭利刀
デンマの銀の矢筈の矢
ガデの雷鳴大砲
シェンパの右旋法螺貝の矢
シェンパの風の鉄矢
グル・カル(白テント)の魂の刀
ホル国の王妃の矛
グル・セル(黄テント)のフデラジュという腰刀
ホル国のチョンラの白鎖
ユラの電光石火の鎖
ホルの大鷹刀
戦術 (未整理)
ギャツァの戦術
タクラ・ギャルポの戦術
シンティ・ギャルポの戦術
グル・カル・ギャルポの戦術
シェンパの戦術
デンマの英雄譚
センタ・アトムの英雄譚
ストーリーより
ケサルの王妃たちのゴシップ
正妃であるドゥクモ以外に12人の王妃がいる。なぜこんなにいるのだろうか。それに実質的に12人ではなく、北の魔国とホル国征服後に加わった 二人(アタラモとチョツン・イェシェ)などを含めると、十数人である。12という数字は占星術と関係するのか。また13(12+1)という数字は吉祥の数字として物語の中で頻繁に登場する。
7世紀のソンツェンガムポ王の時代、唐朝の影響もあってか、チベット王室は周辺国の妃を迎え、それらの国と姻戚関係を結んだ。王妃の数と力の強さは比例するかのようだった。たくさんの妃をもつのは、当時、一夫多妻が一般的だったからだろう。しかし庶民においては一妻多夫も多かったと思われる。いまもネパール・フムラ地方などのチベット系社会では一妻多夫(夫は兄弟)が一般的である。
ケサルの正妃であるドゥクモは、リン国一の美女と考えられ、ターラー女神の化身で善良な心を持つとされた。しかしヒロインのはずなのに、彼女のネガティブなエピソードがつづく。彼女はインドから来たイケメン少年にメロメロになる。少年がジョル(ケサル)の変化と知らずに。また間違って鹿を殺してしまう。動物とはいえ殺生は最大のケガレである。しかも彼女はそれを名誉の問題ととらえ、殺したことを後悔しているように見えない。ジョルにとって彼女の浮気性は許しがたいものであり、執拗に彼女を責めた。
ケサルの浮気性は問われない。いや、12妃の相手をすることは、国王としては当然の務めである。しかし「こもりの修行」に同行する妃として第二妃のメサを選んだことに、ドゥクモは猛烈に嫉妬する。これはたんに身の回りの世話をするのではなく、タントラ儀礼のパートナー、すなわち明妃(みょうひ)であることを意味するからだ。平たく言えば性ヨーガである。日本人は宗教カルトを連想してしまうが、チベット人からすれば尊敬するパドマサンバヴァの善行なのである。
とはいえ聴衆は「ケサルとメサ妃は何をするんだろう」とついあらぬ想像をしてしまう。パドマサンバヴァがイェシェ・ツォギェルとやったのとおなじことを、ケサルはメサ妃とやろうとしているにちがいない。
しかしメサ妃は北の魔国の魔王ルツェンにさらわれてしまう。ケサルはメサ妃を取り返すとともに、この妖魔を征伐するのが自分の使命であることを認識する。
北の魔国では、魔王ルツェンの妹であるアタラモと運命的な出会いをする。兄が9首のバケモノなのに、妹が絶世の美女だなんて、ありえるだろうか。テレビ・ドラマ・シリーズの「V」のように、人間の皮膚の下は爬虫類のような妖怪かもしれない。現代のクリエーターなら、おそらくそういう設定にするだろう。「見かけが壇蜜であれば、皮膚の下が妖怪でもいいではないか」という悪魔のささやきが聞こえてきそうだ。男を虜にしてしまう美女というのは、震え上がらせる恐い顔をしたバケモノと同様、正統派の妖魔である。なにしろケサルは10年もここで愛欲生活を送ってしまうのだから。
ちなみにのちにケサルが地獄から救出する妻は、アタラモである。
ケサルが魔女にうつつを抜かしている間に、ホルがリン国に侵攻し、正妃のドゥクモを奪っていく。ケサルは北の魔国のときと同様、ドゥクモを奪い返すという目的をもちながら、他国を侵略するホル国に侵攻する。ホルは、元朝まではウイグルのことを指し、それ以降はモンゴルを指すようになった。ここのホルはウイグルのことを指しているように思われる。
匈奴の単于の妻となった王昭君のように、ドゥクモもそれなりの生活を享受するようになり、子供を何人かもうけた。彼女を救出したとき、まだ乳飲み子だったホル王との間の子どもをケサルは無情にも殺してしまう。ホル王は悪魔なので、悪魔の根は絶やさないといけないという論理である。しかしもしそれが現実に起こったことだとすると、悪魔の子だからというより、反乱軍の長に祭り上げられかねない存在は危険であるという政治的な判断によるものだろう。
呪術・反占い
ケサルは北の魔国に入り、魔王ルツェンが外出しているすきに魔宮の寝室に侵入した。このときケサルは食事をしたあと(身体を大きくしているので、いわば呪術的な食事)、かまどの下に9層の穴を掘り、そこにケサルは隠れた。
メサ妃は穴の上に大きな石を載せてふさいだ。その石の上に水を満たした盆を置いた。水面には各種の鳥の羽根を浮かべ、まわりに灰をまいた。それに指の印を押し、牛の腸を置いた。それらの上に草や樹木の枝などを乱雑に置いた。
ルツェンは部屋に戻ると、体中が何か変で、調子がおかしくなった。またさまざまな悪い予兆が見えた。それでケサルがやってきているのではないかと疑い、ルツェンは占いを試みようと考えた。
メサ妃は占いの道具を3度腋の下にはさみ、3度足の下に踏み、3度敷居をまたがせてから、ルツェンに渡した。
ルツェンが占った結果、つぎのことがわかった。ケサルは大きな川か湖の向こうにいる。あるいは9つの山か9つの谷の向こうにいる。ケサルの体は各種羽毛で覆われている。これはつまりケサルが死んだことを示している。骨の上に草が生え、樹木が育っているのだ。
この占いから、ルツェンは、ケサルがここに来ていないと考え、安心しきって寝てしまい、熟睡しているときに弱点である額を射抜かれてしまうのである。