ケサル王物語 彼らが語るひとつのストーリー 訳:宮本神酒男 

 「ケサル王物語」は中国内のチベット族やモンゴル族が居住する地区、また土族やユグル族の地区に流布している。*1  
 物語を語るケサル詩人のうち、90%以上を占めるのはチベット族である。とくに青蔵高原(チベット自治区、青海省、四川省西部)と雲貴高原(雲南省)、黄土高原河西走廊(甘粛省)に集中している。歴史や地理的要因が複雑にからみ、交通が不便で互いに交流するのも難しく、チベット語には方言が多く意思の疎通もままならぬのに、なぜか、ほぼひとつの物語が語られてきたのである。
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<ケサル王物語の共通するあらすじ> 

 昔々、人間の世界には妖魔が横行し、災難がつづき、人々は苦難の中にあった。慈悲深い観音菩薩はこの惨状を見るにしのびず、白梵天(ブラフマー)と相談し、天神のひとりを地上に派遣し、人類を救済することにした。白梵天は3人の息子のうちのひとりを派遣することに決めた。しかし3人のなかでだれがいいだろうか? 弓矢、投石、サイコロなどによって占い、最終的にトゥパ・ガワに決定した。こうして人々を助け、妖魔を懲罰するという重責を担ったトゥパ・ガワは、人間の胎内に投じられたのである。 

 このとき、人間世界に小さな国があり、その国王には5人の子があった。長男のセンタン・ラギェはゴクザ・ラモを娶った。彼女は竜女の化身であり、賢くて機知に富み、温和で善良だった。しかし子宝に恵まれなかったので、センタンは第二夫人を娶った。しかし彼女も子宝に恵まれなかったので、第三のナティメンを娶った。

そのとき50歳になっていたゴクザ・ラモに事件が起こった。ある日乳搾りをしていたとき、突然天から耳に心地よい歌声が聞こえてきた。顔を上げると、天女に囲まれたひとりの天神が歌いながら降りてくるのが見えた。その瞬間、彼女は意識を失って地面に倒れた。

 ゴクザ・ラモが目を覚ましたとき、彼女の胎内に天神トゥパ・ガワが宿っていた。彼女が妊娠したという知らせはすぐに国王の第三夫人ナティメンの耳に届いた。嫉妬した彼女は国王に讒言をし、そのためゴクザ・ラモは荒野に放逐されたのだった。 

 彼女に与えられた財産は、風雨をしのぐこともできないボロボロのテントや老いた母騾馬、目が見えない乳牛、老いぼれヤギ、足の悪い母犬だけだった。ゴクザ・ラモはきわめて困難な時期を送ることになる。

 ある年の真冬の日、大雪が舞う夕暮れ、トゥパ・ガワは人間世界に生まれた。その刹那、風も雪もぴたりと止まった。夕陽が破れたテントを照らすなか、母騾馬、乳牛、母ヤギ、母犬が相次いで子供を産み、草原には見はるかすかぎり瑞兆の光が現れた。トゥパ・ガワは天神の子としてジョルと名付けられた。生まれたときからジョルは普通の子供と違っていた。生まれた瞬間、彼はすでに大きく、3歳児に見えた。国王の弟、すなわち叔父であるトドンは彼に害を加えようとするが、そのたびに神力と知恵で退けた。数々の困難に直面するが、彼は非凡なる本領を発揮していった。

 リン国では特別な競馬会が催された。*3 この競技に勝てば、王位と美女ドゥクモが得られるというのである。ジョルはライバルである叔父トドンや並み居る国の英雄たちと争い、勝利を手にする。規定通り、ジョルはリン国の黄金の玉座に坐り、ドゥクモを妻とし、リン国を統治することになった。このときに正式名称である世界獅子大王ケサル・ノルブ・ダンドゥを名乗る。*4 

 この時期、リン国の北部に魔国があり、国王ルツェンは童男童女を食べていた。*5 彼は暴虐な王で、人民は塗炭の苦しみを味わっていた。魔王はケサルの二番目の妃メサを奪い去った。人食いの魔王を倒すため、また愛妃を奪還するため、ケサルは北方の魔国へと攻めていく。彼は内部にいるメサと示し合わせて、魔王との戦いを有利に進め、最終的に勝利をもぎとり、魔王を殺した。しかしメサはリン国に戻って第二王妃になることを望まなかった。彼女はケサルを独り占めしたいと考え、ケサルに迷魂酒を飲ませた。こうしてケサルは北方魔国にとどまり、12年間もメサと幸福に過ごしたのである。

 しかしこの12年の間、リン国には受難がつづき、内憂外患というありさまだった。とりわけひどい目に遭ったのは、愛妃のドゥクモだった。

 リン国の北東にホル国があり、3人の同母兄弟が国を治めていた。*6 彼らはテントの色によって、黄色テント王、白色テント王、黒色テント王と呼ばれていた。もっとも武芸に秀でていたのは白色テント王で、その威信は四方にとどろいていた。あるとき彼は人を集めて集会を開き、美女を探すべく白鳩、カササギ、オウム、カラスを四方に送った。カラスはリン国に至り、絶世の美女ドゥクモを発見し、白色テント王に報告した。王はとても喜び、さっそくリン国へ出兵した。ケサル王が北方魔国を攻めている機に乗じて実権を握ろうとしていたトドンが内応し、白色テント王を国に入れた。王はリン国の富と財宝を盗み、ドゥクモを奪い去ったのである。

 ようやく酔いから醒めたケサル王は、北方魔国からリン国に戻り、トドンを厳しく処罰した。ケサルは扮装してホル国に入り、白色テント王を殺し、ドゥクモを救出した。

 リン国の東南にはジャン国があった。*7 国王のサタムは魔法妖術に精通し、貪婪で飽きることを知らなかった。彼はリン国の塩海を占領しようと企てた。一方、ケサル王は元ホル国の将軍で、投降後重用されたシェンパ・メルツェを派遣し、サタムの王子ユラ・トギュルを降伏させるとともに、自ら大軍を率いて湖辺に駐屯した。ユラ・トギュルから細かい情報を得ることができたので、ケサルはサタムの動向をよく把握していた。そしてケサルは金魚に変身し、サタムが水を飲むときに水といっしょにおなかの中に入った。おなかの中でケサルは千の車輪に変身し、たえず動き回り、サタムを苦しめた。ついにサタムは根を上げ、降伏した。

 南方のモン国は、リン国と長い間敵対関係にあった。*8 かつてリン国が弱小部落にすぎなかった頃、モン国の軍隊はリン国のダロン部に侵入し、殺戮や略奪など悪事の限りを尽くした。このとき以来両国の関係は決定的に悪くなってしまった。いまや強大な国となったリン国のケサル王は、すでに4人の魔王のうち3人を制し、残るはモン国の王シンティだけとなっていた。天神からの神意を授かったケサル王はモン国に侵攻し、憂いを断つ決断を下した。同時に、絶世の美女として名高い、香しい年頃のモン国の公女メト・ドルマを妃として迎え入れたいという野望を抱いていた。

 ここにケサル王は出兵し、戦争がはじまった。それは想像を絶するほどの激烈な戦いとなり、双方に死傷者がたくさん出たが、両者とも一歩も引かなかった。ついにケサル王自らがシンティ王との一騎打ちを申し出た。最終的にケサルの神矢がシンティ王の護心鏡を射抜き、自軍の陣地の前でシンティ王は息絶えた。こうしてケサル王はモン国を制圧し、美女メト・ドルマも手に入れたのである。ここにケサル王は四大妖魔を退治し、衆生を解放した。四方は平和になり、人々の生活は幸福で豊かになった。

 ところがいさかいの種がなくなったわけではなかった。品格が劣る叔父のトドンがタジク国の良馬数頭を盗み、それが引き金となってリン国とタジク国との間に紛争が勃発したのだ。*9 両者が譲らない中、ケサル王が出陣し、タジク国を撃破した。ケサル王は国の宝庫から獲った財宝を人々に分け与えた。

 カチェ国のティダン王は覇権を唱えた。10 まずネパール、ゴルカを征服し、それからリン国に侵攻してきた。ケサル王は軍を率いて反撃し、ティダン王を殺し、カチェ国を滅ぼした。宝庫の中の財宝、とくにトルコ石の宝石類を人々に分配した。そして軍とともにリン国に凱旋した。

 そのあともリン国が侵略を受けたり、反撃に出たり、隣国を救援したり、ケサル王が全面に出て戦ったりした。またも貪婪なるトドンが騒動を起こしたり、隣国に出兵したりした。隣国との間には何度も戦闘が起きている。大小さまざまな戦争にケサル王は勝ち、各国の財宝、武器、食料、家畜などを得て、ますます国は強大化した。

 ケサル王は人間世界において降魔を成し遂げ、弱きを助け、横暴な者たちを懲らしめ、三界の安定を果たすという使命を全うした。それから地獄へ行き、愛妃アタラモと母親のゴクザ・ラモを救出し、国家のことは甥のギャツァダラに任せ、天界へ戻っていった。

 

 

<訳注> 

*1 中国以外では、インド・ラダックやパキスタン・バルチスタン、ネパール・フムラ、ロシア・カルムク共和国などにもケサル詩人がいる。

*2 これほどの広大な地域に分布しているのは、チベットがかつて「チベット帝国」と呼べるほどの大国であったことと無縁ではない。たとえば7世紀から8世紀にかけて、パキスタン北部には、大勃律(バルチスタン)と小勃律(ギルギット)という国があったが、チベット軍の侵攻を受けている。そのとき以来チベット文化が当地で継承されてきた。また、チベット人とモンゴル人は長い間文化的、宗教的に親密な関係にあった。とくに元代と清代のはじめ、両者は政治面と宗教面の強みを生かし、タッグを組んだ。 

*3 チベット中の地域神(ユラ)が白馬に乗った将軍として描かれることが多い。国王になる者は、馬上でスーパーパワーを発揮するべきだと考えられるのだ。

*4 ケサルの語源には諸説があるが、ローマ帝国のカエサルと関連があるという説には説得力がある。カエサル(シーザー)もまた固有名詞ではなく、一種の称号なのである。モンゴル語のハーンやペルシア語のシャーでないのは、それらがあまりにも身近でかつ近隣の外国の言葉だからだろう。

*5 北方魔国がどこにあったのか、はっきりとはわからないが、スタンは彼らがミニャク人で、青海湖あたりにあったと考えた。王妃ティショ(Khri shog)のティショが青海湖を示すという。

*6 スタンによると、ホルはもともとトゥルク(突厥)のウイグル人のことを指していた。とくに甘粛省のウイグル人(後世の黄色のウイグル人、ユグル族?)を示しているかもしれない。しばらくすると、ホルはモンゴル人を指すようになる。ケサル王物語のホルはおそらくウイグル人だろう。

*7 ジャン国は現在の雲南省麗江あたりであり、彼らはモソ(現在のナシ族)ということになる。モソとチベットはたしかに塩をめぐって長年争ってきた。境界の塩地は、塩井(チベット自治区)と塩源(四川省)の二つだが、とくに塩源の帰属が争点となった。楊福泉によると、その争いは晋の時代には勃発していたという。*塩井はナシ・チベット族キリスト教(カトリック)エリアの北限。 

*8 モン国はチベット南東部からインド・アルナチャルプラデシュ州にかけて住むメンパ族の地域(モン・ユル)のことだろう。スタンによれば、彼らは国王グワ・トゥンの末裔だという。

*9 タジクは現在のタジキスタンの語源でもあり、ペルシアのことである。ただし良馬を産出するとなれば中央アジア(ウズベキスタン)のフェルガナかもしれない。そうすると彼らはゾロアスター教徒のソグド人(ペルシア系)だろうか。

10 カチェはおそらくインド・カシミール地方のイスラム教徒。覇権を唱えたカシミール人というと、古代ではないが、西チベットまで攻め入ったジャンムーのドグラ人ゾラワル・シン(17861841)が連想される。