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 馬に乗ってリンへ戻る途中、ケサルはトドンをだまして国王になると勘違いさせるという作戦を思いついた。トドンが長年、家のまわりをカーカーと鳴きながら飛んでいるカラスから予言めいた占いを得ていることをケサルは知っていた。そこで真夜中、リンまであと二日の地点まで彼らは近づいていたが、ケサルは自身の姿をカラスに変え、トドンが寝ている部屋の窓に飛んでいった。

 カラスになったケサルはぼうっとしているトドンを起こし、叫んだ。

「カァ、カァ、トドンさま、未来のリンの王様、わたしは神々の領域からあなたをお助けするためにやってきました。リンの人々に、シンレンさまが巡礼の先でお亡くなりになったことをお知らせください。後継者を早く探さないと、リン国は滅んでしまうでしょう。お金持ちであるけちんぼうのタムパ・ギェルツェンにも言ってください、あなたの世継ぎが新しい国王になると。娘のセチャン・ドゥクモが嫁ぐ男が新しい国王になるのです。そして新しい国王がマギェル・ポムラ山に隠された莫大な宝を取り戻すのです」

「だ、だが、どうやって! わしがどうやって新しい国王になるのだ?」口から泡を飛ばしながら、いまはすっかり目が覚めたトドンが言った。

「競馬がおこなわれるでしょう」とカラスは言った。「だれもが参加できる競馬です。老いも若きも、金持ちも貧乏人も参加できる競馬です。勝者は、すなわち国でもっとも偉大な騎馬人は、セチャン・ドゥクモを妻とし、タムパ・ギェルツェンの後継者となり、マギェル・ポムラの伝説的な財宝の唯一の所有者となり、またリン国の国王となるので」。

「そ、それでわしは勝つのか?」

 トドンは興奮して自分の耳が信じられなかった。

「トドン、もっともすぐれた馬を選びなさい。あなたが勝者になることをすべての神々が保証してくれるでしょう。あなたが勝利するのはまちがいありません」

 そうしてカラスは飛び去って行った。

 トドンは天にも昇るような気持になった。彼は妻を起こし、いましがたカラスに言われたことを伝えた。しかし長年連れ添ってきた妻は、夫のことをよく知っていたので、彼の計画に疑問を呈した。

「あなたはいつも欲の皮が突っ張りすぎて失敗しているわ。酔っていたのよ。鳥は鳥でしょ。もし鳥が言ったとおりにするなら、後悔することになるわ」

 しかしトドンの頭の中では、彼はすでに国王であり、新しい妻を迎え、莫大な財宝を手に入れていたので、妻に何を言われようとも、聞こうとしなかった。

 翌日、トドンは一万村の各長(おさ)を招集し、神の命令について伝えた。競馬競技の実施は三日後とし、トドンのカラスが布告した内容したがって、勝者に与えられる賞品の中身が決められた。

 競技会場は少し離れた大きな谷間に決定した。ゴール地点はひさし状に突き出た岩の下で、そこに黄金の玉座が置かれた。そこに貴族の妻や年長者たちが、黄金の刺繍が入った衣を着たタムパ・ギェルツェンや娘とともに待つことになった。娘はトルコ石や珊瑚、真珠などで髪を飾るだろう。

 谷の真反対のスタート地点には、毛皮や絹の衣に包まれた、駿馬中の駿馬に乗ったリン国中の名うての騎士たちが集まった。馬の尾や鬣(たてがみ)には油が塗られ、青や赤のリボンで飾られた。馬の首にかけられた鈴からチリンチリンという音が聞こえた。そして鞍は美しいカーペットで覆われた。すべてがすべて、騎手と同様に、リンの支配者になれるかのように、駿馬は誇り高く、見栄っ張りだった。

 ほかのだれよりもきらびやかなのは、トドンである。彼の青灰色の絹の外衣は、トルコ石で縁取られ、金の房飾りがついている。彼の暗青色の馬は美しい黒い鬣(たてがみ)と尾を持ち、金銀の市松模様で飾られたトカゲの皮製の鞍を運んだ。トドンが空腹を感じて遠くを眺めると、光あふれるなかで、女神のように輝いているセチャン・ドゥクモの小さくなった姿が見えた。やせおとろえた馬が遠くから姿を見せるまで、トドンは勝利を確信していた。キャンゴ・カルカルは幻術を使って自身をそう見せているのだ。鞍もつけないでその馬の背中に乗っているみすぼらしい少年は、たしかゼデンの息子である。

 その姿を見た瞬間、トドンはぞっとするような感覚に襲われた。しかしあらたなそよ風が顔を撫でていくと、彼の恐怖も流された。そしてだらしのないかっこうをした騎手にからかいの言葉を投げつけた。

「やあ、おまえはロバの上のヤギのように見えるぞ。たしかゼデンのみすぼらしいガキだな。おまえには本当にこの競技の参加資格があるのかい」

 ケサルは嘲笑の渦のなかでだまったままだった。そのとき年長者が大きな声を張り上げてトドンたちをたしなめた。

「この競技にはだれだって参加できる。それが規則だ!」

 いま、だれもが黙したままで、各自じぶんの馬に乗ってスタート地点にやってきた。馬たちは荒い鼻息をもらし、脚踏みをし、後ろ脚をはねる。騎手たちは手綱を固く締め、あぶみを調整する。彼らは互いに押し合いながら、場所取りの駆け引きをして、緊張しつつ合図が鳴るのを待っている。

 突然、赤い旗印が上げられた。そしてもう競技ははじまっていた。騎士たちの叫び声や雄叫びが飛び交い、千頭の馬の蹄の音が大地を揺るがす。彼らの後ろには、くすんだ大きな塵の雲が渦巻いて、空高く舞い上がっていった。

 ケサルの心臓は冷え、高地の泉のように脈打つので、彼は愛馬キャンゴ・カルカルの手綱を強く握りしめた。彼は動かなかった。塵の雲がはるか遠くで高く舞い上がった。それら競馬から発したものは、蹄から生まれる火花だった。心臓が脈打ち、静かに身体から魂が離脱していくかのように感じた。彼はあたかも空から見下ろしている鷲になったかのようだった。そしてこれらすべての勇猛な男たちや真昼の太陽と戦っている高貴な馬たちを見たことによって深遠なる喜びが生まれた。

 キャンゴ・カルカルはケサルのほうを向いた。

「何かほかに考えがあるのですか」と鼻息荒く言った。「あなたは平原を単独で縦断しようとしているのですか」

 ケサルは笑っただけで、頭を振った。しかし手綱は緩めなかった。

「そんな勇気、そんな大胆さ、そんな強さなど……」

 キャンゴ・カルカルはそんな戦士たちの王の姿を見ると、体全体にあふれる喜びを感じた。

「ああ、この世界は真に善なり。わたしが成し遂げることになるのは……」

 奇跡の馬が自分の体重を変化させると、ケサルの体と心はひとつのもの、ひとつの意図、ひとつの願いになった。ケサルは奇跡の馬の脇腹にかかとを入れた。すると一体となったケサルと馬は、おそれも躊躇もなく、天空へ向かって飛翔した。彼らは見えない高速があるかのように空を飛んだ。そして地上に着陸し、騎手たちが争っている集団のなかに入った。それは全行程の3分の1に位置した。

 ケサルは、汗まみれの男たちや動物が渦巻く大混乱の砂塵に飲み込まれた。騎手たちがビシビシと鞭で馬を叩くと、馬の口から泡があふれ出て、目玉は狂ったかのようにギョロギョロ動いた。

 突然ゴールも終点もなくなり、粗野で荒々しい大地の裂け目だけが存在しているかのように思えた。この裂け目というコースに騎手たちは捉えられ、前方に押し出された。ケサルは胸が張り裂けるような、深い悲しみを感じた。このレースは、人間社会そのものだった。悲しみの重さは軽減することができるかもしれないが、自分自身、すでに捉えられ、おなじレースに参加していたのだ。

 王になること、支配すること、富や権力を得ること、愛すること、ほめたたえることといった彼の使命は、渦巻く群衆のなかで、レース参加者中もっとも狂気なる者のそれと、いったいどう異なるというのだろうか。彼はその違いを見いだせなかった。彼はキュンゴ・カルカルを一段と速く走らせ、大ジャンプで一挙に集団の先頭に躍り出た。横を走るトドンとの一騎打ちになった。

 トドンの驚きおののいた表情を見て、ケサルは笑わずにいられなかった。彼は自分の驚異の馬にささやいた。

「わが愛する疾風(はやて)よ、二跳びでチベットの栄光の馬たちに追いつく駿馬よ。おまえの蹄でトドンと彼の馬を蹴散らせ。蹴散らして地面に砕けさせよ」

 キャンゴ・カルカルはこの老いた騎手と彼の美しい青黒い馬を少しだけ追い越したかと思うと、その力強い蹴りで、彼らを吹っ飛ばし、地面に叩きつけた。

「おお、どうしていまえはわしにこんなことをするんじゃ」とトドンは泣きわめいた。

「叔父さん、ぼうは自分の宝を守ろうとしているだけです。あなたの美しい馬がちょうどその宝があるところに行こうとしているように見えたのです」

 最後にケサルは、彼の驚異の馬にもう一跳びさせた。大跳躍をすると、降りたところはゴールの線を越え、からっぽの玉座の目の前だった。ほかの騎手たちははるか遠くを走ってこちらに向かっていた。

 こうして突如として、奇跡の馬に乗ったケサルが玉座の前にいた。馬は平然と草をむしゃむしゃと食べていた。

 ケサルはニコニコしながらまわりの年長者や貴婦人たちを、黄金の絹の衣を着たタムパ・ギャルツェンを、トルコ石や珊瑚、真珠の衣を着たセチャン・ドゥクモを見た。

 彼らは一様に愕然とした表情でケサルを見ていた。彼が勝者だとしても、彼は羊の皮をはおった、やせぎすの馬に乗った汚らしい粗野な少年だった。そんな少年がリンの国の玉座に坐るというのだろうか。

 少年は馬から滑り降りると、すばやく、だれかが異を唱えるよりも前に、玉座に坐った。それが奇妙な光景であることは彼自身わかっていた。黄金の玉座に浮浪児なんて、これほど似つかわしくない組み合わせも珍しい。しかし彼自身は自分はじつにこの玉座にふさわしいと感じていた。

 そして彼が振り返ってこれらの人々の顔を見ると、彼を見上げるその表情はだんだん変わってきていた。その目から奥深い考えを読み取ることができた。

 ある者は恐怖を感じていた。ある者は黒魔術が使われたのではないかと疑った。ある者は面白がっていた。ある者はすでにこの少年にどんな味付けができるか考えていた。ある者は、このような王はかつてないほどの繁栄を人々にもたらすという予言について考えていた。

 タムパ・ギャルツェンは不安な気持ちを克服する心構えができつつあった。というのもこの少年の見かけがどうであろうと、少年はもうリン国の王だったのだ。もし少年が国王にならなかったとしても、タムパ・ギャルツェンの家族の名誉が損なわれるわけではなかった。大いなるプライドから、何十人もの見かけのいい、あるいは家柄のいい求婚者を断ってきていたセチャン・ドゥクモは、今回も拒否しようと考えていた。

 暗黒色の空に雲はなく、太陽は照りつけて暑かった。完璧な日だった。リンのすべての騎手が笑いながら、はやしたてながら、ゆっくりと馬を走らせた。ある者は地面にみじめに転がっているトドンをからかった。彼らは玉座の前のゴールに達すると、馬をとめて、お辞儀をした。

 その瞬間、ケサルは真の姿を現した。黄金の兜(かぶと)は光線を放ち、それに挿された旗が空にはためいた。盾と鎧(よろい)は自ら輝いていた。彼の武器は十分に脅威を与えた。彼の笑顔は愛情にあふれていた。しかしその目にはすべての欺瞞を見透かす鋭さがあった。彼の声は雷鳴のとどろきのようだった。

 

高貴なる貴族の方々や勇猛なる戦士のみなさんは 

私がだれであるかご存知だろう。 

いつかやってくるとささやかれた者 

予言書に書かれている者 

心の中では知っていただろう 

私はケサル、リンの国王。 

だれが繁栄と尊厳と喜びをもたらすだろうか 

だれが臆病を、幻惑を、奴隷根性を破壊するだろうか 

私はケサル、リンの国王。 

偉大なる征服者で、かつ偉大なるヒーラー 

私はあなたがたの暗闇のなかの光 

あなたの飢餓の食べ物であり 

あなたの腐敗の天罰である 

私は片手に真実の剣を持ち 

片手に平和の薬を持つ。 

わが王国の時は来た。 

疑いはまだあるだろうか 

恐怖はまだあるだろうか 

喜びはまだあるだろうか 

私生活のこまごましたことに戻りたいだろうか。 

この王国でわれらはひとつ 

尊厳においてわれらはひとつ 

勇気においてわれらはひとつ 

戦いにおいてわれらはひとつ 

やさしさにおいてわれらはひとつ 

光輝においてわれらはひとつ 

歓喜においてわれらはひとつ 

私たちはこの世界の約束である 

私たちはこの世界の栄光である。 

今日という日、私は心臓からあなたのなかに入ろう。 

無価値の心臓を震わせ、執着させた、 

鋼の戦士の心の確信である、

偉大なる風の中の風の力によって 

希望も恐怖もなく馬に乗ったとき 

あなたは王国を得るだろう。 

わが偉大なる馬、キャンゴ・カルカルは 

奇跡的な風の中の風 

おのずから成る力である。 

高貴なる戦士や淑女よ、このことを学べ 

そうすれば真正なる存在の王国は 

どこまでも拡大していくだろう。 

鹿や雪豹、和毛(にこげ)のウサギが住む 

雪を冠した岩山や冷たい水晶の小川、

杉や杜松、トネリコの深い森 

ヤクや馬が放牧されるやわらかい草の谷 

太陽が燦々と輝くこともあれば、

暗鬱な嵐が吹き荒れることもある 

鷲やカラス、鳩、フクロウの棲み処でもある 

広大な平和の空 

遠い星々と青ざめた月の影の

ビロードの夜の空のもと 

この厳しくも輝かしい地は 

あなたの目の前に見えるものであり 

それは私の体ほどの大きさである。 

この風景から、あるいはあなたから私は分離されることはない。 

われわれのたくさんの心臓はたったひとつの鼓動を打つ。 

さあ、われわれの世界は発展し、増殖していくので 

私はこの傲慢なほど誇り高い淑女を妻としよう。 

セチャン・ドゥクモを心の宝石としよう。 

彼女を一瞥したとき、喜びは無尽であることを知った。 

彼女は至福であり、勝利の旗である。 

彼女はわれらの王国の幸福である。 

私の人生は彼女のやさしい手のなかにある。 

彼女はその羽毛が抜きんでて美しい黄金のガルダである。 

彼女は旋律のいい歌をうたい、

わが人生の木の上で憩うだろう。 

 

 こうしてケサルは玉座から降りてきて、長い間セチャン・ドゥクモを探した。彼女は恐がっているのか、喜びにあふれているのか、自分にもわからなかった。ケサルが突然剣を抜いたとき、彼女はあやうく失神しそうになった。それは昼間の稲光のようだった。そしてケサルは刃で自分の手のひらの血管を切った。ハリケーンのような声で十方向にむかってケサルは宣言した。

「さあ世界の屋根の攻撃は断ち切られた。リクデンの祝福は流れでるだろう」 

 彼女の赤い唇によって、セチャン・ドゥクモは血を吸い出し、飲み、それゆえダラ戦神の母方の系譜と父方の系譜がひとつになる。

 ケサルはふたたび叫ぶ。ア・ラ・ラ・カ・カ・ヘ・ヘ・ホ! 

 彼女は頭を上げて彼を見ると、大きな笑い声をあげた。そして楽しみのために泣いた。この瞬間に真の王国は純粋な存在になった。そしてケサル自身完璧な存在になった。

 こうしてケサルはリンの国王となり、セチャン・ドゥクモは彼の妻、王妃となり、家臣たちは尊厳、やさしさ、親切を体験した。祝福と祝祭はこのあと3か月もつづいた。ケサルは住居としてシンレンの宮殿のなかに王宮を建てた。そして王宮の業務を通常に戻した。そして瞑想修行のため、ケサルはしばらく公的な生活から遠ざかった。