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 ルツェンの死の国の領域はとても高い平原に広がっていた。その中央には大地からぬっくと飛び出したかのような黒い山がそびえていた。その山頂には三つの石壁の輪があり、渦巻く灰色の堅固な雲に囲まれたルツェンの鉄城がそびえていた。この雲からたなびいて線状になった硫黄の蒸気が下方に向かって流れ、その地は凍てつく霧と、それに混じる熱い有毒の煙で満たされた。

 英雄獅子王の胸当ては太陽のように輝き、兜は月のように光った。そして愛馬キャンゴ・カルカルが平原をゆっくりと駆けると、経かたびらと武器類がたのしげな鈴の唱和のようなかろやかな音をたてた。この戦いの領域に入ると、彼の心はより快活になり、自己規律はいっそう厳しく、鋭くなった。雪獅子が峰から峰へとはね回るように、彼と驚異の馬は遊び心たっぷりに、影だらけの起伏が多い景色のなかを飛び跳ねた。

 しかし悪魔の死の領域に入ると、ケサルの甲冑は霧のなかで重くなり、馬や騎手の音や声もくぐもった。霧の中、馬を走らせるとオオカミや野犬のはかない影が静かに競い、ハゲタカや内臓をえぐられた動物の叫び声が深い暗闇を貫いた。ときには姿が見えない家畜の大きな群れや、長い隊商がすぐそばを通っているような気がした。

さらに進んでいくと、からっぽの要塞のような巨大な石の構造物が現れ、また用途のわからない巨大な錆びた鉄のエンジンのようなものがその横に、どこからともなくあらわれて物質化していた。空気は圧迫され、脅かされ、重々しかった。

英雄の心はしだいに故郷が恋しくなっていった。セチャン・ドゥクモやリンのよく知っている人々のもとに帰りたかった。

 突然、血走った黄色い眼をした、とてつもなく大きな煤煙のように黒い牛が、蒸気のような息を吐きながら、地面の覆いから飛び出してきた。それは立ち止まり、爪で地面を掻きむしり、うなると、襲いかかってきた。ケサルは牛の燃える息によって顔が焦がされたように感じた。そしてケサルを乗せた驚異の馬は走り回って牛の鋼の角を避けた。

彼らは顔をあわせたかと思うと、離れる、ということを繰り返して、また鉢合わせたとき、ケサルは稲妻のような矢を牛の心臓めがけて射た。しかし木片が石に当たったような軽い音がしただけで、矢はばらばらと下に落ちた。彼は牛を退治する力がないことにショックを受け、意気消沈したことを隠すのがやっとだった。牛は繰り返しケサルと愛馬に襲いかかってきた。彼らは走り回ってよけるのがせいぜいだった。

「もうへとへとに疲れたのかい? 何を待っているんだ? 簡単に勝てるときだけ勇敢なのか? 称賛する大衆に取り囲まれていないと何もできないのか? だれかが見ているときだけ自信たっぷりなのか? もっとも長い矢を牛の目の間に放って!」

 キャンゴ・カルカルは息もつかず叫び続けた。そしてケサルは昏睡状態から覚めたかのように、加速した矢を魔牛の眉間深くに射た。それは下に落ちて死んだ。ケサルが魔牛の上に乗ると、それは蒸発して消えてしまった。

 夜の帳(とばり)が降りる頃には、ケサルはへとへとに疲れてしまった。彼が休んでいる間に、キャンゴ・カルカルはつぎに何と戦わねばならぬか見るために、瘴気の沼を飛び越えた。戻ってきた愛馬は、彼らが山の麓の近くにいること、三重の岩の輪が山を囲っていることを教えた。

最初の輪を守っているのは、神々の領域から降りてきた戦士の軍隊だった。つぎの輪を守るのは、人間界から来た戦士の軍隊だった。そして最後の輪を守るのは、悪魔の軍隊だった。

 ケサルは敵と早く戦いたいと思い、ほほえみを浮かべると、奇跡の駿馬に乗り、夜までに魔王ルツェンの隠れ家に到達した。

 彼らは山の麓を覆う低い森の中を走ったので、彼らの耳はひどい叫び声、うめき声、呪いのささやきなどにさらされつづけた。しかし「真珠の尾根」と呼ばれる最初の岩壁の輪に達したとき、英雄獅子王は叫んだ。

「神々の息子たちよ、なぜあなたがたはこの壁の中の下劣なものを守っているのか?」

「もしわれらの主がおまえを、赤い足の死すべき運命の者を見つけたら、即座に皮をはいで食ってしまうだろう。それからわれわれを食ってしまうだろう。だからお願いだ、すぐにここを離れてくれ」

「それはできない。なぜなら私はリンの国王ケサルだからだ。私はあなたがたの主を殺さなければならない。死の恐怖は私には無縁の話である。自分の領域にそのような恐怖が入ってきたところで、すぐに破壊してしまうだろう」

「この予言についてたしかに聞いたことがある」

「魔王ルツェンがあなたを私の前に立ちはだからせるよう仕向けたのか」

「子どものとき、親に行くなと言われていたのに、われわれはある日の午後、人間界に遊びに来てしまった。ルツェンは黄金の尾根の人間の護衛にたいしてしたのとおなじように、われわれを捕まえたのだ。そしてわれわれを従者として働かせるために、生かしておいたのだ。あなたはわれわれを臆病であわれな者と思っているかもしれないが、それはルツェンのパワーを知らないからだ。ルツェンのことが心に入り込んでくるだけで、われわれは希望を失い、恐怖を覚える。ルツェンに見られるだけで、われわれは焼かれているかのように感じる。その名前すら本当は口にしたくない。それは痛々しい無残な死について考えるのとおなじくらいに、われわれを不安にさせる。われわれに関して言えば、ルツェンに言われたことだけをしていれば、何もされずにすむし、ルツェンにもらったものがあれば生きていけるのだ」

「それならもし私があなたを解放し、もとの領域に戻すとしたら、協力していただけるだろうか」

「あなたのおっしゃるとおりにしよう」

 ケサルは神々の息子の兵士のなかを通って馬を走らせ、黄金の尾根の城壁に着いた。そこで人間の警備兵たちに、神々のところへ行こうとしている旨を伝えた。彼らはケサルに同意するばかりか、全面的に助けてくれた。ケサルは2つの軍隊を作り、二列で行進させた。しかし一番上の輪である黒い尾根の悪魔に訴えたところで、むなしいだけだった。彼は愛馬に乗って空高く飛び、稲妻で、あるいは丘ほどのサイズの雹で悪魔の警備兵を攻撃した。この攻撃で死ななかった悪魔たちは黒い尾根からジャンプしたが、下で待ちかまえていた警備軍の軍隊に殺されることになった。ケサルは神と人間の兵士たちを送り、自分自身、そしてキャンゴ・カルカルを岩に変え、ルツェンと戦う前にルツェンについて吟味することができた。

 すぐに黒い悪魔が大股で魔城の門から出てきた。彼は人の三倍大きく、12の頭を持っていた。それぞれの頭が長い真鍮の牙、異なる色の輝く目を持っていた。頭たちは上下に揺れ、その目でジロリと見て、首の端でポキポキという音をたてた。首から下は筋肉隆々の身体だったが、それは黒い金属のウロコに覆われていた。長い力強い腕と銀の鉤爪が生えた手をもつ姿は死神に似ていた。悪魔は怒って吼えたて、木々をなぎ倒した。彼自身の護衛が逃げ出すのを見ると、彼は死にもの狂いで見つけ出そうとした。

 ケサルは馬に乗ってルツェンの魔城の中庭に、無頓着なふうに入っていった。そこで彼らは、バルコニーから見下ろしている悪魔の妻が、エレガントで美しい中国の貴婦人であることに驚いた。一方の彼女も、彼女の空間に突如闖入した輝く甲冑に身を包み、はためく旗を挿した、力強い駿馬に乗った戦士が美男子であることに驚いた。

「見知らぬ人よ、あなたがどれだけ勇猛であろうと、強かろうと、美男子であろうと、あなたの馬がどれだけ能力を持ち、強靭であろうとも、ここをすぐ去るべきでしょう。なぜならここはルツェン、12の頭を持つ魔神の城なのです。そのパワーは圧巻で、怒りは持続しているのです。ルツェンの支配は死のように絶対的で、死の恐怖のようにすべてに浸透しているのです。その生き方は単純です。人を脅し、麻痺させ、殺すのです。これがすべてです。

 今日はいつも以上に怒っています。あなたの強さはあきらかですが、ルツェンは24の目がまばたきするよりも速くあなたを調理して食べるつもりなのです」

 しかしケサルは彼女に向かってほほえんだだけで、動こうとしなかった。彼女はすねたようなそぶりを見せて言った。

「まあ、そうね、あなたがゲストだって言い張れば、夕食ぐらいは終えることができるでしょうね。でもあなたがだれなのか、どうしてここに来たのかくらいは説明する必要があるでしょうね」

「ああ、月の笑顔より美しい王妃さま、私はリンの国王ケサルです。私の強さは永遠です。私の兵士は数えきれないくらいたくさんいます。私の土地は横切るのに馬で百日かかります。私の富は12日以内に12人のけちんぼうが数えても、数えきれないほどあります。

 私はあなたの夫を破滅させるために、また有毒で残忍な国の存在に終止符を打つためにやってきました。あなたは私の手助けをしてくれますか?」 

「私は夫ルツェンがあなたについて話すのを聞きました。あなたは夫の心にためらいを生じさせた唯一の存在です。そして私自身興味を持ったことを認めなければなりません。なぜならこれまで夫はなにひとつ恐れることがなかったからです。でもあなたを助けるために私に何をしろと? ルツェンが嫉妬深くて過酷であることはたしかです。でも私にはよくしてくれるのです。夫はいつも私のライバルを殺して食べました。そしていつでも私のためにあれこれと気を使ってくれるのです。それにあなたが殺されたら、私はどうすればいいのですか」

「ああ、王妃さま、あなたはとても芳しく、たいへん賢いおかただ。しかし私があなたの悪魔の主人を滅ぼすことは予言されているのです。そのことに疑問の余地はありません。ただあなたの手助けがなければ、ことはそう容易ではありません。もし協力してもらえるなら、さまざまなものを用意します。ルツェンが退治されれば、あなたは自由の身になります。あなたは私の王国のなかに王宮をもつことができます。それには広大な土地がありますし、召使もたくさんいます。必要という言葉はまさに必要なくなるでしょう。私はあなたに百反の絹の織物と二箱の宝石を贈ります。

 しかしそんなことはどうでもよく、重要なことは、おお王妃さま、あなたを愛さずにはいられないことです。あなたのような魅力的で美しいかたが、妖怪のような生き物にしばられるなんて。運命というものを呪いたくなります。あなたが最善を尽くしてきたことはよく理解できます。私はあなたの夫を観察しましたが、その抱擁の仕方はとても奇妙です。彼があなたに触るとき、人間に触れられること、また人間に愛されることについて考えたことはないですか。12の頭を持つ魔神とのあいだにできる子孫について恐怖を感じることはありませんか。生まれてくる子供は望んでいる子どもの姿よりもサソリに近いものかもしれません。あなた自身と似た美しい子どもをほしいとは思いませんか」

 彼らの会話はこのようにつづいた。一目見たときからリンの王に好意を抱いていることに王妃自身が気づくのに、それほど時間はかからなかった。彼女はキャンゴ・カルカルを城の地下の洞窟に隠した。そしてケサルを、手を引いて悪魔の隠れ家に導いた。そこで数時間ふたりは楽しい時を過ごした。それから、彼女はケサルを床下の穴の銅の鍋の下に隠し、注意深く聞くように言った。というのもルツェンが戻ってきたとき、どうやってだまして悪魔を退治するか話すつもりだった。

 すぐに魔王は帰ってきた。今まで以上に魔王は不機嫌で、怒っていた。というのもエサとする人間の遺体がひとつしか見つからなかったからである。人間や神界生まれの警備兵らが突然消えたため、彼はイライラしていた。なにより悪魔の守護者たちが惨殺されたこと自体に動揺していた。

 もしかすると自分以上にパワフルで恐ろしいやつがいるのではないか。魔王はいやな予感にとらわれていた。彼は妻のうわべのあいさつを無視した。そして占い用の骨を手に取った。占いはやはり凶だった。名前もリンのケサルと出た。長い生涯においてはじめて魔王ルツェンは、心臓を針で突かれるような、純粋な恐怖を覚えた。彼は狂ったように、何度も何度も骨占いをしたが、結果はいつもおなじだった。ついには骨を部屋の反対側に投げ捨てた。

「どうしたの、旦那さま」

「警備兵がみないなくなったのだ。探したが、見つからない。おれに引導を渡そうとしているのはリンのケサルというやつらしい。そいつはすぐ近くにいる。占いによればすごく近くにいるらしい。土の下深くの小さな穴にいるようだ」

「あなたがそのケサルという人の話をしたことがあるのは覚えているわ。でも占いからはっきりわかるのは、その人は死んでいて、墓に入っているということでしょう?」

 と、恐れをなした王妃は当意即妙にこたえて切り抜けた。魔王はうなずいて、妻が言っていることはそのとおりだろうと考えた。しかし、なくなりかけていた確信がもどってきた。

「でも占いによれば、恐れるべき何かが近くにいるということでしょう? 警備兵がいなくなったのです。もうあなたを警護する者がいないのです。私、とても恐い。もうあなたを守る者がいないのでしょう? わが愛する旦那さま、頼もしい隣人のひとりに助けを求めて使者を送るべきです。あなたの力は強大ですが、おそらく十分ではないのです」

 王妃は魔王にしがみつき、泣き崩れるふりをした。ルツェンは怒りに身を震わせて叫んだ。

「ふざけるな! おれの身体は深遠なる、あるいは繊細な方法で保護されているのだ。そんなふうにピイピイ泣くな! おれの力を疑うな! ケサルとやらが、まあ生きていればだが、おれを殺す? ほかのだれかがおれに勝つ? やられる前にやっちまうだけの話だ! わが美しき妹よ、死の欲望のように魅惑的な者よ、東の空の王国の愉悦の木の頂に住むわが渇望の本質よ、もしおれを殺すというのなら、そいつは翡翠のコガネムシを、つまりわが生命力の種を手に入れなければならない。それは生と死の真実の信仰だ。だがそれは死の恐怖ほどに恐ろしい、秘密の食人魔のわが妹によって守られている。妹は西の空の王国のわが憤怒の本質なのだ。

そしてそいつは夜にやってきて、おれが眠っているあいだに右の鼻の穴から滑り出て、おれの右肩の上で遊ぶ確信の黄金の魚を殺し、左の鼻の穴から滑り出て、左肩の上で遊ぶ意識の銀の魚を殺さなければならない。

 それでもしおれがまだ死んでいなかったら、おれの12の頭部をすべて切り落とさなければならない。おれが自分を守れるかどうか、このことを知れば判断できるだろう、わが美しき者よ。だからもうピイピイ泣くな」

「あなたのように大地を闊歩し、天高くそびえ、大海を縦横無尽に泳ぐかたを知りません。あなたの妻であることを誇らしく思います」

 彼女がそうこたえると、魔王は称賛の言葉に満足して横になり、すやすやと眠った。

 翌朝、最初の光が射すと、ルツェンは緑銅色のロバに乗り、自分のガルダを探しに出かけた。しばらくするとケサルは驚異の駿馬に乗って空高く上った。一瞬のち、彼らは東の空の王国で出会った。愉悦の木にもとでケサルは馬から降りた。

「どうしたら」ケサルは木の高みに坐っている、静かで、めくるめくような翡翠のような美しい人を見ながら、心の中で叫んだ。「人はこんなに美しくなれるのだろうか。彼女はいかなる人間よりも美しいので、神か竜神の娘にちがいない。しかし呪われたかなにかで、こんなところに閉じ込められているのだろう」

「まあ、だけど」と魔王ルツェンの妹は考えた。「どうして私が? 私は鳥じゃない。私が降りていってこの美男子戦士と話してはいけない理由はないわ」

 美しい魔女は地上に降りた。そしてリンのケサルの前に降り立ってニコニコ笑った。

「何をしにここに来たの? 神様かしら?」

「美しいお嬢様、この世界の囚われの身になっておられるのでしょうか。しかしその名は三世界にとどろいています。わたくしがここに来たのはお嬢様にごあいさつをするためです。今日はかつて竜王が所持していたとされる黄金の首飾りを持ってまいりました」

 彼はすばらしい金の鎖を手のひらの上にのせて出したが、彼女が手をのばすと、手のひらを閉じた。

「いえ、美しきおかた。わたくしの失礼をお許しください。長い旅をしてきたものですから、自分で首飾りをつけてあげないと満足できないのです」

 美しい魔女はほほえんで首をケサルのほうに差し出した。すると夏の稲光のごとく彼は魔女の首に金の鎖を巻き、それぞれの手で鎖の両端を持つと、グイっと強く引いた。

 魔女はギャッと叫ぶと、のたうちまわったが、最後には地面に横たわった。その刹那、美しい女の外見は失われ、大きな黒い蛇の姿になった。ケサルはこの死骸と木に火をつけて燃やし、西の空の王国へ向かって出発した。

 ルツェンは彼の領域の煙った平原を狂ったように進みながら、溶けた銅が詰まったかのように、4つの頭の中で激しい痛みを感じた。

 ケサルは西の空の王国に着くと、黄色い鹿が道の行く手を横切った。彼は鹿の額を矢で射ぬいた。矢の本体は鹿の体内に残り、隕石の鉄でできた矢尻が脇腹から飛び出た。すぐに鹿は見るからに恐ろしげな人食い魔女に変身した。それはあまりに巨大だったので、上唇は空に、下唇は地上についたほどである。

「あんたはだれ、大胆な戦士さん。このあたしを傷つけたんだからたいした根性だわ」と魔女は歯ぎしりした。

「どうしたんだい、妹よ、わからないのか、ルツェンだよ」

「ずいぶん変わったねえ、長らく会ってなかったから」

「おれは美しい中国女と結婚したので、彼女を喜ばすために姿を変えたのだ」

「じゃあどうしてこの残酷な矢であたしを傷つけるのよ、お兄さん」

「恨んでるんだよ。だって生まれたときからの生命力の種であるコガネムシをあんたは守ってきただろう? おれはそれを見たこともないんだ」

「あたしがそうしたのは、あんたに軽率なところがあるからだよ」と魔女はあわれな声で言った。「あんたを傷つけるつもりはないんだから」

「もしそれを見せてくれたら、すぐに矢を引き抜くよ、約束する」

 魔女はため息をつくと、身をよじらせた緑色のコガネムシをケサルの足元に投げた。するとすぐ彼はそれを踏みつけてつぶした。有毒な暗緑色の液体が地面にこぼれて広がった。それから彼は魔女の額に刺さった矢の羽根の部分をつかむと、ねじって回し、ギュッと押し込んだ。それが心臓を突き抜けると、彼女は地面にくずおれて、息絶えた。ケサルは大きなたき火を作り、人食い魔女とコガネムシを燃やした。それからルツェンの魔城にもどった。

 ケサルが魔城に戻ってすぐ、ルツェンが叫びながら帰ってきた。9つの頭部のうち8つの頭部に、燃える剣で突き抜かれたような激烈な痛みを感じたからである。彼は床の上でのたうち回ったが、最後には眠りに落ちた。

 しばらくすると、彼自身が言ったように銀の魚と金の魚が左右の鼻の穴から出てきて、彼の肩の上で遊び始めた。ケサルは急いで隠れていた場所から出てきて、両手にそれぞれ持った棍棒で、平たくなるまで叩きつづけた。両肩にどっしりと重みを感じたルツェンは目を覚まし、世界が揺れるほどの叫び声をあげた。

 しかしルツェンが何かをする前に、ケサルは稲妻剣を、渦巻きのなかに反射する太陽のようにきらめかせながら、魔王の11の頭部を切り落とした。

 残されたひとつの頭はケサルに懸命の命乞いをし、家臣になることを誓った。しかし悪魔の身体が青銅に変化しているのを見て、不死身の身体に変身するまでの時間稼ぎをしているのだと気づき、ケサルは剣を魔王の胸に突き刺した。しかし彼が剣を抜くと、それは溶けた金属に覆われていた。ケサルは剣を数えきれないくらい突いて、最後にはなんとかルツェンの最後の頭を切ることができた。魔王ルツェンはついに死んだのである。

 彼女は床に横たわるグロテスクな怪物を見て、後悔の念に駆られた。

「偉大なる獅子王さま、あなたはいままでだれも成し遂げられなかった偉業を達成なさいました。そして大地を悪魔の汚染から救われました。しかしこの生き物はおぞましいとはいえ、私にはやさしかったのです。私の協力がなければこの悪魔を退治することはできなかったはずです。そこでお願いですが、この魔王が死から解放されるよう魂を導いていただけないでしょうか」

 ケサルはこの要求が正当なものであると思い、彼自身の目的にもかなっていることから、彼は巨大な死骸の横に坐り、歌いはじめた。

 

ルツェンよ、北の魔国の死の王よ 

私はリンの王、ケサルである。 

ルツェンよ、北の魔国の王よ 

私のためにあなたは恐れてきた。 

私のためにあなたは自分の姿で怒ることができなくなった。 

私のためにあなたはいま大いなる本性の解放を楽しんでいる。 

ルツェンよ、北の魔国の王よ 

私はリンの王、ケサルである。

ともにわれらはあるドラマを演じてきた。 

あなたは悪魔であり 

私は王である。 

いま私は自分の役割を演じなければならず 

あなたは足枷をはずされて自由になった。 

恐怖と死はいま解き放たれた。 

あなたの心は感覚と憤怒と悪知恵でびっしりとつまり 

死と死の具現化で満たされていたが 

いますっぱりと切られて 

純粋に生(き)の意識となった。 

あなたの暗く移ろいやすい虚妄と奔放な欲望の領域は 

恐怖と永続する恐怖に満ちていたが 

いま破壊され 

無限の広大な宇宙となった。 

宇宙と意識のあいだの見せかけの隔たりのため 

あなたは存在を求める戦いを強いられる。 

いま限りなく広がる輝きがあるばかりである。 

ルツェンよ、疑いや後悔と遊んではいけない。 

このことを信頼せよ。

生と死のうわべの対極という概念は切り捨てられる。 

あなたはいますべての本質を 

すべての行動の隠された本当の目的と終わりを 

欲望の内なる本当の質を体験している。 

武装を開始しようという誘惑に負けてはいけない。 

鞭打ったり、棍棒で突いたり、逃げたりしてはいけない。 

シンプルに覚醒した状態で休憩せよ。 

かき乱してはいけない。

なぜならそれではなにも達成できないからだ。

シンプルに空間のなかで休息せよ。

もはや容器もなければ、容器に入れるものもない 

それは原初の目覚めの限りない輝き 

死のない生の心の本質である。 

大きな鏡にどれだけはっきりと蜃気楼が映ったとしても 

この鏡が心であることを知っておかねばならぬ。 

存在の幻影をつかんではいけない。

この鏡は心であり、また心を超えたものであることを認識せよ。

輝く確信の鏡の中で輝け。 

永遠の朗々とした鏡の中で休息せよ。

すべてはめくるめくような、計り知れない自由の中で溶解する。 

心を開け、ルツェンよ、確信を持て。 

しりごみをしてはいけない。 

あなたはもう溶けてなくなったのだから。 


 
 魔城と魔国の雰囲気は恐ろしく、しめっぽく、靄に包まれていたが、突如として霧が晴れ、透き通った景色があらわれた。魔王の妻は泣き叫んだ。

「おお、リンの獅子王よ。スメール(須弥山)より風格のある者よ。あなたは悪魔とその子分をみな滅ぼし、かつての暗黒の地に真の自由をもたらした。どうかこのよく冷えたワインを飲んで疲れた身体をいたわってください」

 ケサルはこのとき本当に疲れ切っていて、休みたくてたまらなかった。彼女は黄金の杯に黒い飲み物をそそいでケサルに渡した。しかしこのワインには麻薬作用のある不純物質が混じっていて、ケサルの心を曇らせることになる。彼の王国、目的、彼自身の人格すらもおぼろげになり、遠い夢のようになってしまった。

 王妃はケサルを夫として身近なところに置き、北の王国のあたらしい王と王妃としてふたりは過ごした。ケサルに忘れられた愛馬キャンゴ・カルカルは、王城の下の暗い穴倉に長く閉じ込められることになった。腐った草を食べてなんとか生きながらえた。奇跡の駿馬は汚いやせ馬になり、立っているのがやっとのありさまだった。ケサルは6年もの長きにわたってぼうっとした夢の中のような状態で過ごしたのである。