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 夜の闇の中、かつて輝く身体を持っていたキャンゴ・カルカルは、見る影もなくすっかりやせ衰えた姿でたたずんでいた。それでも心は明晰で、強さを保っていた。悲しみの暗い底に住んでいたとはいえ、遠くから漂ってくるかすかな風の香りをかぐことができた。毎晩、ケサルの愛馬は暗闇の中で歌った。


はるか遠くから、かすかではあるけれど 

夜の闇の中、季節の香りが漂ってきます。 

あちらでは大気が冴えて輝いています。 

あたらしくアザミの花が咲き、花の王冠のようです。 

刈られたばかりの干し草から煙が出ています。 

その上に載せられた葉っぱがいぶされて乾いています。 

黒い湖に冬を告げる最初の氷の結晶が現れました。 

コウモリは飛び回り、ツバメは飛翔します。 

ネズミが穴を掘り、灰色の猫がそれを追いかけています。 

ハエがうるさくブンブンうなっています。 

人は歩き回り、闊歩し、

隠れたり、飛んだり、噂話をしたりします。 

葉先には今にも落ちそうな露の輝く雫(しずく)がとどまっています。 

見えない蜘蛛の巣の上には、光の塊が引っかかっています。 

これらはすべて「見えるもの」は、イリュージョンにすぎません。 

偶然の魔術なのです。 

無視され、祝されることのない 

怠惰な思考という雑草がはびこった休耕田なのです。 

 

ヒヒーン 

切望と悲しみのわがいななきは 

獅子王を起こせない。 

王は私のことを忘れてしまったのか。 

心地よい夢に抱かれ 

熟睡している者を起こす手立てはないのか。 

 

春の約束、夏の贅沢、秋の満足、冬の深い沈黙 

四季はめぐります。 

天空を横切る太陽の進行を追っていきます。 

月の満ち引きを感じます。 

夜空の星座のなかに、

悪魔や野獣、神々の神秘的な配列を見出します。 

この世界にあって生とは儚いもの 

成熟した愛の官能的な香りに負けて 

かき乱されれば、怒りも湧きます。 

答えのない質問のような感覚です。 

終わりというのは恐怖なのです。 

これらの微細な、奥深いリズムは 

よく似た呼び声なのです。 

われわれの心は終わりのない切望でいっぱいです。 

魔術で用いる共鳴の力です。 

もし深い情熱も自己規律もないならば 

この偉大なる音楽は流浪者のように大地をさまよいます。 

流浪者は自分自身に話しかけて生を無駄に費やしています。 

 

ヒヒーン 

切望と悲しみのわがいななきは 

獅子王を起こせない。 

王は私のことを忘れてしまったのか。 

心地よい夢に抱かれ 

熟睡している者を起こす手立てはないのか。 

 

草の多い平原にかかる、まばゆくて鮮やかな虹の宮殿は 

たまたま見た人には認識されません。 

夜、犬がほえていても、それが夜かどうかわかりません。 

遠くから聞こえても、遠いかどうかはわかりません。 

鳥が目をあけて飛び立つ前の暁(あかつき)の静けさが 

さまよう人の足をとめます。 

駆ける音のしない馬に乗った騎手は 

光輝く雨まじりの雪の沈黙の渦巻きを通って 

一瞬の時に馬と一体化します。 

二元性の鮮明なできごとがない中心には 

非二元性の泉の水の冷たい辛辣な味があります 

魔法と生の深くて不思議な関係のはじまり 

競う思考と沈痛作用のある妄想に頼ると 

非思考の明確な心は、雨雲のない空となります。 

そして人の世界は、使い古した、不毛の塵埃の嵐

平和のない世界となります。 

 

 

ヒヒーン 

切望と悲しみのわがいななきは 

獅子王を起こせない。 

王は私のことを忘れてしまったのか。 

心地よい夢に抱かれ 

熟睡している者を起こす手立てはないのか。 

 

ここ洞窟の漆黒の闇の中に囚われているのは 

キャンゴ・カルカル、偉大なる風馬(ルンタ) 

今であることの現存する力 

偶然の自ら起こる智慧 

そういった世界の現象の網から自発的に生まれたものです。 

私の身体は「疑いなし」 

私の脚は奇跡 

私の名は「勇敢」 

私の絹のような尾は輝いている。 

私の心臓は渇望の山の小川 

だれにも乗られていないとき 

私の「純粋」の力は消え失せます。 

乗り手がいないとき 

人間界のすべての美徳は劣化します。 

真の人間の尊厳の伝統は捨てられます。 

兄弟はケンカし、妻は家を飛び出し 

子どもたちは見捨てられ 

年長者は放置されたまま腐るのです。 

支配者は私利私欲でしか動きません。 

自分のためにのみ権力が求められます。 

すべてが、そしてだれもが、搾取の対象となります。 

人々はもはや受け継いだものに敬意を払いません。 

彼らの世界はうつろな時間のぞっとするような幻覚です。 

 

ヒヒーン 

切望と悲しみのわがいななきは 

獅子王を起こせない。 

王は私のことを忘れてしまったのか。 

心地よい夢に抱かれ 

熟睡している者を起こす手立てはないのか。 

 

 自動人形のように動き、魔王ルツェンの銅緑色のロバに乗って狩りに出かける新しい日々の生活にも慣れ、ケサルは満足していた。しかしキャンゴ・カルカルの歌はケサルが眠っているあいだにしみこみ、何年かたつうちに、ゆっくりとではあるが、作用をもたらした。ケサルは次第に不安になり、心が休まらなくなっていた。