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ある朝ケサルは宮殿のバルコニーに立ち、うつうつとして空を眺めていると、大きな茶色のハヤブサが飛んできて、それほど離れていない欄干の上にとまった。最初ハヤブサは頭を羽根の下に入れているのではないかと思ったが、よく見ると、頭部がなかった。ケサルはひどく驚いて飛びのいたが、頭のないハヤブサは歌をうたい、ケサルに話しかけてきた。
「獅子王が玉座から消えたとき、疑いと憂鬱がリンの新しい王になった。リンの王妃は、玉座はもうないものとみなし、自分で自分を祝い、形だけの儀礼をおこなうようになった。大臣たちも自分たちが生き残れるかどうかについてのみ心配し、戦士たちはみな去っていった。
勇者の道の確信はたんに思い焦がれるだけのものとなり、遠い日々の安っぽい物語は祝福するときのために残された。われわれは実際、自分たちが生きていようがいまいが、もうどうでもよくなっていた。
獅子王、リンの王ケサルよ、戦っていたものすべてを捨てた者よ、あなたを愛した人々、あなたをあてにしていた人々を捨てたいま、すべてを捨てすぎてしまったために、私がだれであるかもわからなくなってしまったのか?」
ケサルはハッとした。夢を見ているかどうかもわからない彼は、頭を振るのがやっとだった。頭のないハヤブサはつづけた。
「私はギャツァだ。リンの前の国王シンレンの息子ギャツァだ。おまえは喜んで私を兄さんとか友だちと呼んでくれたではないか」
突然リンでの生活の記憶が洪水のごとく押し寄せ、ケサルは驚愕した。混乱した彼は話すのがやっとだった。
「ギャツァ、ギャツァ……おお、ギャツァ、わが兄弟、わが友人、どうしてこんなおぞましい姿をしているのだ? 何があったのだ?」
「おまえが魔王ルツェンを退治するために北へ向かってから6年の月日が流れた。しかしリンのだれひとりおまえからの消息を聞いた者がいない。おまえがもうひとりの王妃、もうひとつの王国を見つけたことは知られていない。おまえは殺されたと信じられているのだ。いやそのほうがよかったのかもしれない。
おまえが不在の間に、リンはホル国の白い魔王クルカルに征服されてしまったのだ。クルカル王の銀の大盾はオンドリの目印で見分けがつけられる。兄弟のクルセル王、青ざめた魔王の真鍮の大盾はイノシシの目印で見分けられる。そしてクルナク王、黒の魔王の鉄の大盾は蛇の目印によって見分けられる。
おまえの妻はとらえられ、クルカルの妻となり、いまやホル国の王妃だ。リンの戦士や英雄、私もそのひとりだが、ほとんどが殺されてしまった。
そしておまえのかわりに国を治めているのはトドンだ。おまえの母さんはトドンの召使として働かされているよ。
私は見てのとおり頭のない身だ。ホルの魔王クルカルに首を斬られてしまったのだ。私の首は警告とお守りの意味をこめて、ホル城の門につるされている。この首が埋葬されないかぎり、私はもとの身体にならないし、人間として生まれ変わることもできない。私は仕方なくこのような姿で生まれ変わり、おまえを探しに来た。おまえをリンに戻して、人々の仇を討つつもりだ」
聞いているうちにケサルはいたたまれなくなり、涙を流した。悲しみのあまり彼は石壁に何度も頭をぶつけた。
「いったいどうしたらいいんだ……」
「感覚を取り戻したばかりだから、ケサルよ、どうかそんなまねはやめてくれ。また府抜けた状態に戻るかもしれないだろう? つらいだろうが、つぎの話を聞いてくれ。
6年前、ホルの魔王クルカルは花嫁探しをすることに決めた。彼はキツネを南の人間界の国へ、鷹を東へ、カラスを西のリンへ送って、王室の家族に適したものがいないか調べさせた。鷹とキツネはたくさんの美しい女性を探しだしたが、だれにもひとつやふたつの欠点が見つかった。カラスだけが完璧な候補を探し当てた。それがセチャン・ドゥクモだった。そのときはおまえが死んだので、やもめだと思われていたのだ。魔王三兄弟は一羽の巨大なハゲワシに変身した。クルカルは雪のように白い頭に、クルセルは黄色い胴体に、クルナクは黒い羽根と尾になったのだ。(*訳注:原文に間違いがあり、修正)
彼らはリンに飛んでいき、上空からドゥクモを眺めた。彼女がテントの上を旋回する巨大なハゲワシを見たとき、それは邪悪なものにちがいないと考え、リンの人々にこの鳥を射落とすよう頼んだ。だがだれもこたえてくれなかった。大きなハゲワシはあらゆる角度からドゥクモを観察し、彼女が完璧であることを知って、一路ホルへ向かって飛んでいった。ホルに戻ると、兄弟は軍隊を招集し、ドゥクモを奪うため、リンに向けて出発した。
トドンがホル軍の侵攻とその目的を知り、リンの戦士たちに、ケサルの妻をホル王に差し出し、戦争を回避したほうがいいとアドバイスした。しかし人々はその提言を無視したため、そのあと大戦争がはじまることになる。ホルの軍隊は押し返された。しかしリンの支配者になる機会をうかがっていたトドンは、敵側の軍営地に行き、彼を総督に任命する約束のかわりに、どうしたらリンに勝つことができるか方法を教えた。こうしてホルの戦士たちは、トドンのアドバイスにしたがって、退却したように見せかけた。彼らは物陰に隠れ、リンの軍隊がいなくなった頃を見計らって戻ってきて、全員を殺戮した。そのなかには私も含まれていた。私は必死に抵抗しようとしたが、無駄だった。トドンはリンの新しい君主の座に就いた。セチャン・ドゥクモはホル国に連れて行かれた。
2年間というものドゥクモはクルカルに執拗に結婚を迫られたが、拒み続けた。しかしまたもトドンのアドバイスによって、彼女の引き延ばし作戦は失敗してしまった。そしてついに逃げ場がなくなってしまった。彼女はクルカルと結婚した。クルカルはドゥクモをとても愛し、気を使い、彼女のためならどんなことでもした。時間がたつにしたがい、彼女もクルカルを愛するようになった。いまはもう、ケサル、おまえが生きているかもしれないという考えには耐えきれなくなっている。トドンはおまえの宮殿にいて、国を支配している。トドンは巨万の富を築き、一方リンの庶民は貧苦にあえぎ、季節から季節へと、なんとか生き延びているというありさまだ。リンの生き残った戦士たちは分散し、農耕をしてなんとか食い扶持をつないでいる。わが兄弟よ、これがおまえの長逗留がもたらしたものなのだ。これが悪魔の元妻にすべてを費やした結果なのだ」
ケサルの混乱は度を増し、苦い涙は黒い渦となって流れ落ちた。彼はこの不実な世界で泥濘にはまることがいかに痛々しく、希望のないことか、はじめて理解できた。彼の本性である超人的な力と彼の意図の純粋さにもかかわらず、自分自身や彼がもっとも親しんでいる人々を裏切ることを避けることはできなかった。
「私はどれだけ、あなたがたすべてに悪いことをしてしまったのだろうか。わが兄弟、かけがえのないわが妻、わが偉大なる戦士たち、大切な友人たち、ああなんということだろうか」
あまりにも大きな声で泣いたので、それは地下奥深く、キャンゴ・カルカルがつながれている洞窟にまで響いた。泣き声を聞くと、驚異の馬はつないでいた縄を切り、牢獄の木の門を突き破った。そして力強くいなないて、主人を激励叱咤した。
「さあ、ようやくあなたは知力を取り戻しました。もうぶたれた奴隷みたいに天国に向かって泣きわめくのはやめませんか。鎧(よろい)を取ってください。剣を、弓を、槍を持ってください。ここにいる女性は、洞窟に入れてやって、残りの人生、修行させてください。彼女の自己中心的な悪知恵もすこしは修正されるかもしれません。さあ、私に乗ってください。リンに戻って、あなたの過失によってなされたことが少しでも改善できるかもしれません」
駿馬と騎士がリンに向かって疾駆すると、頭のないハヤブサもまた、飛び立って天空を飛翔した。