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 ホルの国境に到達すると、風景は、暁(あかつき)の弱いピンクや黄、青に染まった、柔らかくて美しい白い雪だまりに覆われた。ケサルは家臣たちに言った。

「ホルの国境は取り払われているにちがいないから、この地の土着の魔神にわれらは警告することなくただ進めばいい。そして時が来れば、ここに戻ってきて、そのとき魔神を滅ぼせばいいだろう。私はいまあなたがたの助けを必要としている。そしてこの地域の守備がそこなわれたとき、もう一度あなたがたが必要になるだろう。

 それまでの間、私を助けてくれる人はいない。ホルの悪魔たちの力は強大で、かつ緻密である。ホルの王クルカルはいかなる人間より美しく、輝く赤い唇と銀の歯は悪魔の本性に背いているとさえいえた。彼の物腰は魅力的で、堂々としていて、人を惹きつけるところがあり、人は本能的に彼を喜ばせようと思ってしまう。このように彼は人々の心をつかんでしまうのだ。彼の家臣は熱狂的な支持者となって生きるようになり、彼らの忠誠は不確かな将来の幸せにたいして尽くされる。彼らは熱烈に、この幸せを追い求めていくのだ。彼らはこのような生き方は、単純な論理の帰結だと感じるようになる。

 一方兄弟のクルセルは金色に(訳注:正確には黄色)輝くデブ男だった。人は彼の面前でひとりよがりになっているように感じ、満足感を持ってしまう。そして彼の影響によって、ホルの人々は所有欲を持つようになり、同時に、所有しているものを失うことに恐怖感を覚えるようになった。

 また兄弟クルナクは小柄だが、性格は激しく、暴力的だった。彼の黒い歯はとても長く、目はいつも充血していた。彼はいかなるところにも脅威を発見した。そしてつねに機先を制することに精力を注ぎ、プライドを保った。彼はホルの臣民の恐怖をたしかなものとし、しだいに彼らは自分たちを守ってくれるのはクルナクだけだと考えるようになった。

 クルカルは人を惹きつけ、クルセルはそれを維持し、クルナクはそれを守る。三人の兄弟は、利己的な人々ばかりの地域をこうして束縛していた。彼らがしていることを損なわせるために、また彼らの力を弱めるために、私はこの王国に穏当に入ろうと考えている。私は獲物に近づく虎のように存在を消さなければならない。そして彼らが弱みを見せたとき、急襲するのだ。おだやかに、静かに、粘り強く、ゆっくりと、千の笑顔の衣を着て、私は彼らの自信を損ね、時が来たときには滅ぼさなければならない」

 そう言いながら、ケサルと家臣の戦士たちはホルの地の光を放つ地域に入っていった。

 彼らはおよそ一日進んだが、雲の中を通っているかのようだった。すると突然、赤い眼、血まみれの口をもった巨大な白子の牛が襲いかかってきて、炎を吹きかけてきた。ケサルと戦士たちは逃げてちりぢりばらばらになった。彼らはまわりから矢を雨あられのごとくこの怪物に向かって射たが、どの矢も皮を通過することはできなかった。ケサルは戦士たちを4つのグループに分けた。四方から彼らは牛の怪物に近づき、その脚に縄を投げ、引っ張り、牛を雪の中に倒した。牛の怪物は雪の中で窒息死した。

 別の日には、形を変える幻惑的な地へ馬を走らせた。行く手に黒い川が流れていて、川岸には、大きな身体をした船乗りの悪魔の種族が住んでいた。彼らは舟渡を職業としていたが、ホル王国の客は歓迎したものの、招待されていなかったり、招かざる客であったりすると、川の真ん中で客を水に投げ込んで溺死させ、馬や金品は盗んだ。彼らはホル王国の第二の守備前線であり、ホルの旅行者の情報源でもあった。ケサルは自分の軍隊を川の土手に隠し、彼らの視界から消えたとき、ケサルは幻影の家畜、つまり馬、ラバ、ヤクの大きな群れを連れ、交易のための絹や商品が入った大量の梱(こり)を運んでいる、旅をする僧に変身した。

 彼は舟渡一族の首領と話をした。じつはこのあとに本体がやってくるのだが、そこには大ラマと8人の富裕な商人が含まれると言った。彼が川を渡ると、彼らがつづくというのである。しかしいくらか疑念をいだいたものの、悪魔の舟渡はそのような金持ちの隊商がやってくると聞いて、盗みを働くいい機会だと思い、ケサルの物品を彼の舟に載せてしまったのである。

 100艘の舟がめいっぱいに荷物を積んで川を渡っていった。そのとき突然嵐がやってきて、すべての舟をひっくり返した。悪魔たちは泳いでなんとか岸辺にたどりついたが、そこへやってきたのはリンの戦士たちだった。彼らはいとも簡単に悪魔の舟渡たちを切り殺した。

 ケサルはリンの戦士たちに指令を出した。

「われわれはいま、これらの悪魔と面と向かい合って戦うだけの強さを持っていない。だから今日のところはリンに帰ってくれ。帰って強さを身につけ、子供たちを立派に育て、家畜の面倒を見て、畑の作物を育ててくれ。そして3年以内に強くなって戻ってきて、彼らをたたきつぶそうではないか。その間に私は彼らの国の真ん中に入って、悪魔の力をそいでいくつもりだ。あなたたちとは別々になってしまうが、われわれのやるべき役割は違うのだ。われわれはひとつの目的達成のためにそれぞれ動くのだ。

 すべての準備が整ったとき、私はあなたがたを呼ぶだろう。疑ってはならない」

 ケサルはそしてホルのクルカル王の銀の宮殿へひとりで向かった。彼は変身して召使になった。そして巨大な隊商の宿営を宮殿の手前の草地に現出した。奴隷が隊商について報告したとき、クルカルは兄弟たちと食事をしていた。クルカルは自分の領地に壮麗な隊商の宿営が出現したと聞いて驚いた。というのも国境警備兵から何の報告も入ってなかったからである。クルカル王は兵士をひとり草地に送った。兵士はケサルが変装した召使に向かって、隊商は許可を取っていないから、すぐに立ち去らなければならないと告げた。ケサルは厚かましい兵士にたいし、この隊商がインドから来た大ラマに属していること、そして遠くから東の魔神にそなえものをするためにやってきたことなどを話した。このことを聞いて、クルカルはセチャン・ドゥクモを送って旅人に挨拶をさせた。ケサルの心に喜びと悲しみが入り混じった。しかしいま目的から逸脱することは許されなかった。彼はドゥクモに夫への贈り物を持たせた。

 クルカルは贈り物の箱をあけた。なかには夫人(ドゥクモ)向けのイヤリング、黄金の鞍、金の手綱、巨大な鉄釘についた2本の鉄の鎖、8個の銅の釘、隕石の鉄の剣などが入っていた。

「これはなんとも奇妙な贈り物だな」

 クルカルは兄弟のクルナクに言った。そして用心深い兄弟はこたえた。

「これには隠された意味があるかもしれんな。まあ、友情のしるしなどではなさそうだ。体のいい脅迫かもしれんぞ。リンのケサルもありえるな。ケサルの魔術はこんな感じだからな。もしそうなら、鞍と手綱をおまえの上に置くというのは、おまえをホルから追放するということ、つまり、おまえが屈服する前兆ということだ。鎖は敵がおまえの城に侵入するのを助けるという意味のようだ。釘類は、おまえの将軍や大臣の心臓に釘が突き刺さるということだろう。剣が意味するのは、この地に雷が落ちるように攻撃を加えるということだ。イヤリングは、ケサルがふたたびセチャン・ドゥクモを自分のものとするということだ」

「おいおい、兄弟よ。そりゃないだろう。これらがいかに美しくて、珍しいものばかりか見てみろよ。ここにあるものほどすごいもの、いままで見たことないよ」とクルカルは疑いをいだかずに言った。「あすこの贈り物をした本人に会いに行こう。そうすりゃこの意味がわかるさ」

 しかし翌日彼らが草地の宿営を訪ねると、そこには隊商の影も形もなかった。完全にこの世から消失していたのでる。

 一週間後、鍛冶屋の娘が、宮殿の近くのゴミの山で遊んでいる5歳の少年を発見した。彼女は子どもを家に連れて帰って父親に見せた。少年は驚くほど賢く、なんでもよくできたので、鍛冶屋の仕事を手伝ってもらうことにした。すぐに熟練した年長者よりもうまく鍛冶ができるようになった。

 この少年に変身していたのはケサルだった。このように彼は地道に、ひそかに仕事をしながら、東の悪魔の破滅の機会をうかがっていたのである。

 鍛冶屋の主人は、この少年が作ったものをクルカル王に献上した。そしてこの少年がどれだけ驚異的であるか話した。興味を持った王はこの少年に会いたがった。しかし同時にこの少年が王にとって驚くべきもの、すばらしいものを作るよう要求した。

 そのために王は、十分な金、青銅、銀、銅を用意した。少年はこれらの金属を鍛錬して作品を、歌をうたいながら作った。

 

心がつかむままにせよ 

小さなものを大きなもののようにとらえよ 

心が魅了されるままにせよ 

ひとつのことからつぎのことに跳躍せよ 

心が執着するがままにせよ 

それをもつ手をゆるめよ 

真の王国を思い描け 

まちがった王国の姿を信じる者どもを麻痺させよ 

これら自己愛の悪魔たちが 

ぼくが考案した「影法師」によって 

陶酔し、惚けてしまいますように 

 

 三日間のうちに少年はクルカルに、作品が完成したので、それが受け入れ可能なものであれば、自分自身で王のもとに届けたいという旨を伝えた。召使たちを使って、少年が作った作品を、行ったり来たりして宮殿に運ぶのに、丸一日かかった。

 少年は金を用いてラマと彼の講義を聞く1000人の小さな僧侶を作り、青銅を用いて国王と彼の法の講義を聞く700人の家臣を作り、銀を用いて旋律の美しい歌をうたう100人の踊り子の乙女を作り、銅を用いて将軍と彼が勇敢さを吹き込んだ1万人の兵士を作った。さらに法螺貝から少年は、名士らのために3千頭の馬を作った。

 国王と宮廷を前に、少年の作った「魔法の人形たち」は本物の人間や動物のように動き出した。クルカル王と兄弟、王妃、大臣、将軍、官吏らは、ミニチュア王国の出現にすっかり魅了された。そして寝食も忘れて何時間も見つづけた。彼らが心ここにあらずというとき、ケサルは本来の自分を取り戻し、キャンゴ・カルカルを呼んだ。

 だれの目にも見えず、馬と騎手は空高く飛翔し、ホルの4人の守護神を殺した。ひとりの神は棲み処である山の頂で殺した。もうひとりは丘の上の宮殿にいるところを雪崩でつぶして殺した。もうひとりは山の川の流れを変えて殺した。もうひとりは空中で雷によって殺した。これらは語るよりも短い時間で終わった。つまりわずかな時間で4人の守護神を片付けてしまったのである。

 鍛冶屋見習いとしてのケサルは、いなくなっていることにほとんど気づかれなかった。その夜の終わりには、人形たちはもとの配列に戻った。そして現実の人や動物のように眠った。

 夜、ケサルは夢をクルカル王に送った。馬に乗った祖先神のひとりが、彼の前に高くそびえる雷雲の上に現れた。そして祖先神である自分のために、ホルのすべての人が参加する競技大会を開くよう要求した。

「このとおりにやれば、おまえはわたしのようになれるだろう」と神は言った。

 そして朝、クルカルとふたりの兄弟は、この吉兆の予言を満たすための準備をはじめた。そして一日中、ホルの戦士たちは競馬やアーチェリー、レスリングなどのコンテストに参加し、競い合った。そしてすべての競技を勝ち抜いたのは、屈強で負け知らずの巨人だった。クルカル王がこの巨人をチャンピオンとしてたたえ、表彰しようというとき、小さいが、挑戦的な声がかけられた。

「図体がでっかいだけで、こいつはたいしたことないよ。ぼくのほうがはるかに強いよ」

 だれもがこの言葉に驚愕したが、もっと驚いたのは、巨人に挑戦するためにテントの後ろから少年が姿を現したときだった。クルカルはこの少年が鍛冶屋の見習いであることに気づいたが、みなが笑いこけているとき、王だけはいやな予感がしていた。

「おまえが鍛冶屋の見習い小僧だとするなら、私はおまえに借りがある。だがわれわれのもっとも偉大な戦士と戦いたいというのなら、おまえの味方をすることはできぬ。おまえを失うことになるのはつらいことだ」

「おお偉大なる王よ、ぼくは自分からそういうことは言っておりません。実際あなたがそうおっしゃるので、ぼくに少しは借りがあるのかもしれません。そしてもし借りを返したいとおっしゃるなら、どうかこの巨大なウスノロと戦わせてください。ただしひとつだけ条件があります。もしだれかが殺されても、それで借りがチャラにならないようにしてほしいのです」

 クルカルは、巨人が少年をばかにして事がすめばいいのにと願い、成り行きにまかせることにして、うなずき、賛意を示した。巨人は子どもと戦うことになったのは屈辱的だと感じ、とっとと片付けようと少年に向かった。ところが気がつくと床の上に転がっていた。足をとられたようだ。それから何度も足をとられて転がった。最後には巨人は怒りをおさえきれなくなり、猛烈に少年に突っかかっていった。しかしまたもひっくり返され、クルカルの玉座の下の黒い岩に頭をぶつけた。巨人の頭は破裂し、脳みそが流れ出てクルカルの王衣の裾を汚してしまった。

 これはケサルの狙い通りだった。信じがたいほどの強さを見せて、悪魔の自信を損ねるというのが狙いのひとつだった。ホルの人々は失望し、何をすべきかわからず、落ち着かない気持ちで、押し黙ったまま家路についた。幸先よく一日がはじまったのに、ひどい終わり方だとだれもが思った。

 クルカルが起きたことをセチャン・ドゥクモに話したとき、彼女は恐怖を感じた。鍛冶屋の見習いはケサルにちがいないと考えた。そしてもしホル王国が存続するなら、ケサルは殺されなければならないことを知っていた。

 彼女はケサルの賢さと力についてよく知っていたので、クルカル王に、ケサルを倒すためには策略を練る必要があると訴えた。クルカル王は少年の見事な腕前が気に入っていたものの、彼女が言ったことにはなにかの真実が含まれているだろうと感じた。そこで翌日、クルカル王は若い鍛冶屋を宮殿に呼んだ。

 クルカル王は、これ以上にないほど楽しそうな笑みを浮かべて少年を遇した。ケサルのまわりには、信頼感あふれる暖かい雰囲気があった。

「わが宮殿の北方の山脈の向こうに、大きな赤い虎がいる。そこで虎はわが臣民に害を与えている。おまえは賢くて強い。ぜひ野獣をとらえて、わが玉座の部屋に鎖でつないでくれないか」

 ケサルは若すぎてそんなに強くなく、怖がっているふりをした。しかしひとつひとつ異議を唱えても、クルカルは笑ってすました。クルカルは少年を納得させ、ようやく自由にさせた。

 何週間もケサルが不在の間、ホル国では、すべてがうまくいっているように見えた。そしてクルカル王と王妃セチャン・ドゥクモが、彼らを悩ましていた問題が収束したと感じはじめたとき、鉄の鎖に巨大な虎をつないだ見習いの少年が戻ってきた。彼は鉄の鎖の端を玉座の間につなげた。するとクルカル本人も、ふたりの兄弟もほかのだれも、怒る野獣が恐くて、玉座の間に入れなくなってしまった。

「虎はお腹をすかしています。エサが与えられるまでは、おとなしくなりません」と少年は叫んだ。「しかし人間の肉の味を覚えたため、ほかの肉は食べられなくなってしまっているのです」

 自分の家臣のひとりを、新しいペットのエサとして犠牲にするという考えは、とうてい受け入れがたかった。しかしこのディレンマについて頭をめぐらす前に、虎はホルの宰相にとびかかり、噛んでズタズタに引き裂き、その肉を食べ、血を飲んだ。

「宰相を取り戻せ! ここに連れてこい!」と悪魔の王は叫んだ。

 少年は満足した虎の鎖を結び目からはずし、遠い故郷に戻してやった。

 いまやクルカルの確信の感覚は損なわれつつあった。そしてホルの雰囲気はどこかおかしく、落ち着かなくなっていた。ケサルは東の悪魔の征伐に本腰を入れ始めたのだ。

 彼はインドの魔術師に変身し、クルカル王の前に現れた。そして天からの授かりものである隕石の鉄を宮殿の庫から出して、鋳造して鎖を作れば、すべての災難はのぞかれるであろう、とクルカルに述べた。

 この鎖は宮殿の門の頂に結わえるべきであり、まただれかがそこによじ登ってそこに掛けられているケサルの兄の首を取ってくるべきだと言った。首は取り除かれるべきである、なぜならそれは邪悪なものを惹きつけるからである、そして敬意を表して首は埋葬されるべきである。こうしたことがやり遂げられる前、偉大な魔術師である彼はクルカルと家臣たちにひとりひとり帽子をかぶせて、彼らを祝福する。こうしてホルはふたたび強く、また平和な国となるだろう。

 翌日、不安になった国王と臣下たちは集まって整列し、魔術師が持っている先が尖った油っぽい帽子を彼らの頭にかぶせた。すると彼らはひとりずつ、ものうげな、ぼうっとした状態に陥った。心がそのようになってからクルカルはケサルを呼んだ。そのとき鍛冶屋見習いの姿を取り戻しつつあったケサルは、クルカルに隕石でできた聖なる棒をわたし、彼が望んでいることについて話した。

 三日以内に大きな鎖が作られた。ホルの戦士の多くがひとりずつ、宮殿の壁をよじ登って鎖を門の頂に持っていこうとした。しかし試みた戦士の全員が失敗し、地上に落下してつぶれて死んだ。

 クルカルと兄弟たち、および宮廷の人々はこのおぞましい壮絶な光景を、恐怖のあまり硬直して眺めていた。ようやくこの光景が終わりを告げるのは、鍛冶屋見習いの少年が猿のように簡単に壁をよじ登り、鎖を門の頂に固定して、それから旧友の首級をもって、地上に降りてきたときだった。

 クルカルとセチャン・ドゥクモは、国王の宮殿の護衛が首級を山に埋葬している様子を見ながら、この悪夢を早く終わらせたいと強く願った。しかし一週間後、全身傷だらけになった使者が銀の宮殿に到着した。彼が王に言うには、首を埋葬したとき、山崩れが発生し、護衛兵全員が生き埋めになったという。
 クルカルの宮殿は、優柔不断の悪臭と避けられない運命の恐怖に満ちていた。

 その夜、3人のホルの祖先神に扮していたケサルは、クルカルの夢の中に入り込んだ。

「あすの朝、おまえの妻セチャン・ドゥクモ、兄弟クルセルとクルナクを、祭司や軍、家臣たちとともに南の大山の山頂へ送れ。そこで人々は、偉大なる奇跡を見ることになるだろう。生きている者がいままでに見たことのない、われらの従者の聖なるダンスを見ることになるだろう。ホルの人々への祝福はかぎりないものとなるだろう。

彼らがそれを見ているあいだ、おまえはこの宮殿にひとり残り、おまえの神々にたいし、休むことなくひたすらに祈らなければならない。このようにしてのみホルは生き残ることができるのだ」

 翌朝、クルカルは指令を出した。ホルのだれもが南の山の頂上へ行かなければならない。そして宮殿には彼ひとりで残らなければならないと。

 日が昇って山の頂上に達したとき、ツァラ・パドマ・トクデンという場所で7匹の巨大な輝く白蜘蛛が岩の上をゆっくりと動き、変身して7人の踊る男の神となった。彼らの動きはとても優雅で、独特の仕方で旋回し、ターンした。僧侶も俗人も、領主も召使も、これほどのダンスの敏捷性としなやかさ、衣装と形式を見たことがなかった。天界のダンサーたちの壮麗なコスチュームは、踊りの新しい動きごとに替わった。ダンサーたちはけっして疲れを見せず、継続して、中断することなく踊った。

クルセルはこの驚くべきショーに陶酔し、クルナクは神々の圧倒的なパワーにひれ伏した。ホルの人々はみな魔法にかかったようで、時の知識も忘れていた。丸ごとすっぽり異なる次元に移されたかのようだった。彼らは時間と空間の感覚を失っていた。

 ひとりだけ宮殿に残されたホルの王クルカルは、自分の心に集中することができず、一か所に落ち着いていることができなかった。一日中そわそわして、宮殿中をあてもなく歩き回った。彼はぶつぶつ祈りを唱えたものの、それは無味乾燥なつぶやきの反響にすぎなかった。

 ついに夜がやってきたが、彼は依然としてひとりだった。彼は眠りに落ちた。するとめくるめくような白い光が現れ、宮殿全体を包み込んだ。クルカルはびっくりして跳ね起きた。目の前に立っていたのはケサルだった。黄金の甲冑に身を包み、手に隕石の鉄から作られた剣を持ち、太陽のように輝いていた。

「私がだれかご存知か、クルカル、悪魔の王よ。私はケサルである。おまえが盗んだのは私の国である。おまえが略奪したのは私の妻である。おまえが殺したのは私の親友である。おまえが奴隷にしたのは私の家臣である。おまえが楽しんでいるのは私の所有物である。私は自分のものを取り返しにここに来たのだ」

「おおお……」目を恐怖のあまり見開いたままクルカルは泣いた。「あなたがここにいるのに気づかなかったとは、私はどんなに盲目だったのだろうか」

 ケサルはクルカルにつぎの言葉を発せさせるほど時間を与えなかった。彼は轡(くつわ)をクルカルの口に突っ込み、彼の背中に鞍を置き、床に押し倒した。そして一振りの剣で、収穫のときに鎌を振るように、クルカルの首を落とした。それは転がって部屋の中央で止まった。彼はそのあと夜明けの虚空に悪魔の存在を溶けさせた。

 翌日の明け方、ホルのすべての人は、どれだけの時間が経過したかも知らず、依然として神々のダンスを見ていた。昼が過ぎ、夜が過ぎても、彼らはいっこうに気にしなかった。そしてこのあいだにも、ケサルの呼びかけに応じてリンの軍隊が結集し、ホルの人々の周囲を四方から取り囲んだ。

 脅威とパワーの駿馬、キャンゴ・カルカルにまたがったケサルは、戦士たちが整列するなか、馬を走らせ、空の頂に達した。そこから彼は、雷の矢を滝のごとく放ち、魔王クルセルを殺した。イノシシのしるしがついた青銅の盾を通過して矢が刺さっていたが、クルセルはまるで幻惑的な神々のダンスに魅了されて、満足し、惚けて立っているように見えた。

 あらゆる方角から、リンの戦士たちは攻めてきた。抵抗する者はすべてその場で屠られた。多くは投降し、ケサルは彼らに忠誠を誓わせた。それから彼らをホルに戻させた。怒りの黒い悪魔クルナクだけが、彼に迫ってくる軍隊が強大であることを知り、逃走を試みた。サキャ派はこの悪魔と数人の従者を捉え、岩の牢獄に押し込め、現在にいたっているという。

 ケサルはセチャン・ドゥクモを呼び出した。彼女はおびえ、震え、夢から覚めたところなのか、悪夢から別の悪夢に移っただけなのか、確信がもてなかった。ケサルは彼女をリンに戻してやった。ケサルはあとに残った。というのも、彼はセチャン・ドゥクモとクルカルのあいだにできた子どもを殺さなければならなかったからだ。3歳の子どもはケサルにとっての不倶戴天の敵となるだろう。大きくなったら仕返しをしようと夢見るかもしれないのだ。子どもをどうするかについての考えに揺るぎはなかった。子どもが隠れていた峠からケサルは彼を突き落とした。地面に墜落して子どもは死んでしまった。この痛々しい行為のあと、ケサルはリンに戻った。