ケサル王 勇者の歌 ダグラス・J・ペニック (宮本神酒男訳)

 

第5章 

 

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 永遠に日没の朱色に染まった西方の地、それがジャンの魔国である。自身の領地の美しさに心を奪われた神のように、飽き飽きするほど長い年月にわたって統治してきたのがジャンの国王サタムだった。ところが二番目の妻を娶ると、彼はしだいに落ち着きをなくし、いらつくようになり、貪欲になった。

 彼の常軌を逸しているといっていいほどの新しい王妃にたいする情熱は、大小のレベルで豪勢に祝われた。希少な食べ物、音楽、誇大な演説、贅をつくした飾り物などで祝宴は催された。

 見た目にも気分がいいという理由から、彼はいくつかの山頂に王宮を建てるよう命じた。また観閲行進をおこなうよう命じた。花嫁は国王の増大する力を称賛した。こうして国王は近隣諸国、および地域を征服し、未来永劫につづく一大帝国を築き上げるという夢を見た。

彼の国の領域のすべての祖先神がさまざまな色の雲に乗り、漂っているという夢を見た。祖先神のひとりは赤褐色の馬に乗り、月の色の経かたびらをつけていた。もうひとりは黒いヤクに乗り、鉄の甲冑をまとった。もうひとりはまだらのヤギに乗り、雷の甲冑を着ていた。彼らがサタム王のもとにやってきて、偉大なる約束の歌をうたった。

 

おお、ジャンの王サタムよ 

おまえもわれわれと同じであるはずだ。 

欲望のように限りなく 

大地のように忍耐強く 

突風のように自由である。 

おお、ジャンの王サタムよ 

おまえもわれわれと同じように生きられるはずだ。 

やむことのない、また恐怖を味わうことのない 

無我夢中の喜びのなかで。 

おお、ジャンの王サタムよ 

おまえもわれわれと同じように宴をも催さなければならない。 

生命を、美味なる本質を飲め 

そしてわれわれに加われ。 

周囲の国々を征服せよ。 

ケサルを滅ぼせ、リンを制圧せよ 

この強さの黄金の液体を飲め 

永遠にわれらの仲間になれ 

おお、わが兄弟王よ 

 

 この夢と夢から生まれた策略を聞いたペトゥル・カロンは、リンの恐るべきケサル王の敵対心を煽ることになるのではないかと恐れた。しかしジャンの王サタムは忠実な友人でもある賢臣の諫言にも思いとどまることはなかった。思いとどまるどころか、自分の策略を推進しようとしていた。

 はるか遠くのリンでは、宮殿の屋上にケサルが立っていた。そのとき突如として彼はジャンの国で起きていることを見ることができた。彼にはサタム王が永遠の至福のなかで世界を滅ぼそうとし、玉座の上で燃えさしのように燃えている姿が見えた。また地球全体を「発狂天国」に変えようとする永遠を求めた乱痴気競争のなかで、彼が情愛と特定の人々のことに駆り立てられている姿が見えた。魔王は、現実世界を自分が望んだ形に曲げることに、心を集中した。そして直接的な攻撃にたいしても屈服しない、不死身の身体を会得した。ケサルは、サタムの勢いをいま止めなければ、均衡が保たれた自然の理がかき乱されると、混沌の状態に陥るように、リンがせっかく勝ち得た平和もすぐに覆されるだろうと考えた。

 しかしケサルが頼りとするのは彼自身の身体ではなく、心の「確信」の力だった。

 サタムの宮殿の中心に、塀で囲まれた庭があり、その中に小さな石窟寺院があった。この寺院の中に巨大な法螺貝を彫琢して作った馬の像があり、それはここがジャンの魔王の庇護にあることを表していた。

サタムが夢を見たその朝、3頭の白いラバが寺院を囲む塀の中の扉のない場所に現れ、そこに生えている黄色の花をおとなしく食べているのを宮廷付きの下僕が見ていた。下僕はいつも妻を連れそっているサタム王を呼んだ。奇妙な光景を見た彼らは、ぽかんと口をあけて驚いていた。しかしはっきりと見ようと身を前に乗り出した妻は、バランスを崩して庭に落ちて死んだ。

 激しいショックを受けたサタムは、命じて塀を壊し、愛する妻の遺体を玉座の間に運ばせた。彼は腕の中に妻の遺体を抱いたまま、それを下に置こうとも、だれかを部屋に入れさせようともしなかった。彼は妻の死について話すのを、あるいはほかのだれかの死についても話すのを禁じた。葬送儀式を国の法律として禁止した。

彼は寺院の庭に現れた3匹の白いラバが、白い虹のように空に消えたと聞いて、妻を殺したのがケサルの作り出した幻影であったことをはじめて理解した。そして玉座の間に閉じこもっていたサタム王は、リンとの戦いを宣言した。ケサルの陰謀というわけではないが、利用された法螺貝でできた像を破壊させた。妻にたいする永遠の愛を誓って、サタムは息子が率いる精鋭部隊を派遣した。

 ジャンの王子が自分の国からはじめて外に出た日の夜、夢の中に、輝く赤い馬に乗った堂々たる戦士を見た。翌朝、軍隊のほかの者が寝静まっている頃、王子は起きて少し離れたあたりを偵察した。

 夢の中で見たのとおなじ馬に乗ったおなじ人と出会ったとき、どうしたわけか王子は驚かなかった。実際、長い間不在だった父親に、ひさしぶりに会ったかのような喜びを覚えた。戦士が彼にほほえみ、彼が近づいていくと、突然鞭(むち)の先が彼のおでこに当たった。王子は意識を失って馬から落ちた。目を覚ましたとき、戦士は彼を上から見つめていた。

「おまえは私がだれか知っているか」と戦士がたずねたとき、王子は心が安心と歓喜の輝かしい光にあふれるのを感じた。王子の心から、とてつもなく大きな欲望と父国王の領土にたいする絶望的な執着が取り払われた。彼は歌った。

 

限りない渇望の朱色の光 

太陽が提示する黄金の長い光線が 

一日の終わりに大地の端を這い、 

そびえ立つ空の宮殿の輝く紫が 

燃えて、薄れて、影が消えゆく。 

ケサルの公明正大な輝きの影のない正午 

あきらかになるのは目覚めた心。 

あなたを見るうちに、私は私自身に会う。 

 

 王子は、リンのケサルの真の性質は彼自身とおなじであり、彼らの間に相いれない点はひとつもないことを認識していた。ケサルは奇跡の馬、キャンゴ・カルカルに乗り、ジャンの中心部へ飛んでいった。彼は宮殿の近くの聖なる湖の端に降りた。

 ケサルはキャンゴ・カルカルを一本の木に、鞍を櫂(かい)に、兜や甲冑、衣服などを水辺に咲く花に変身させた。そして彼自身はカミソリのような鋭い羽根を持った小さな鉄のハチに変身した。

息子が行方不明になったと聞いたサタムは、またもケサルの魔術が原因であることを知った。そして必要があればジャンの軍隊を自ら率いるつもりだった。というのもサタムは彼自身を祖先神と同一視していた。そして祖先神は彼とともにあると考えていた。それゆえサタムの身体は矢に射抜かれることはなく、外部からやってくるどんなものにも射られたり傷つけられたりすることはなかった。

 しかしもし彼が身体の病気や腐敗に屈することがないなら、それは聖なる湖の女神が彼に与えることを誓った生命の水を飲んだからに違いなかった。それゆえ腐りゆく、愛する妻の遺体にキスをし、抱擁したあと、サタムは遺体を玉座の上に置き、湖岸へと行った。そこで彼は湖の女神を呼んだ。小さくて、繊細な女神が、香る霧の中、漂いながらこちらへ向かってくるのを見たときは、おおいに安堵した。彼は手を伸ばして女神が黄金の水瓶からそそぐ水をもらおうとした。しかし彼が水滴を飲もうとしたとき、鉄のハチが彼の口に飛び込んだ。ハチはそのまま飲み込まれた。

 ケサルは猛然と、鉄の刃の羽根を振り回し、内臓をズタズタに切り裂きながら進んだ。胃や腸、血管などを切ってそれらをミンチにした。身体の内部で攻撃を受けたサタムは痛みのあまり絶叫しながら、剣で自分の身体をめった刺しにした。最後に、ケサルが悪魔の心臓を刺すと、耳から、鼻から、口から血を流して息絶えた。

 王のとっぴで無謀な計画に反対していたジャンの宰相は、そのおぞましい死を目撃して恐れおののき、これがケサルの仕業であることを確信した。どうやってかはわからないが、王の身体内部にケサルが侵入したのはまちがいない。彼は逃げる前に、遺体の穴という穴にバターを塗って封じ込め、荼毘に付した。

 しかし炎が痛い全体を包み込む前に、ケサルは小さな赤いハエに変身し、サタムの意識をみすぼらしい黒いハエに変身させた。彼らは頭のてっぺんの割れ目から、身体の外に脱出した。それからケサルはサタムの意識を宇宙に解き放った。

ケサルは本来の姿に戻り、成功を喜び、軍隊を指揮した。リンの戦士たちは何の抵抗も受けずに進み、毒湖のそばで宿営しているジャンの大軍と遭遇した。

 両軍は真正面からぶつかった。上空を大量の矢が飛び交ったため、空が曇るほどだった。何千頭もの馬が足踏みし、つっかかり、くるくる回り、その蹄から真っ黒の埃の雲が生まれた。あまりにも暗くなったため、光るものといえば、宙を舞う剣の刃や槍の先が盾や甲冑に当たったときに発するかすかな光だけだった。矢のビュンビュン空を飛ぶ音、甲冑がぶつかりあうガチャガチャという音、人や動物がぶつかるときの重い音など、終わりのない雷鳴のようにすさまじかった。戦闘は大地を割く怒りの雷の嵐に似ていた。

 ジャン軍一万の戦士たちが死亡したが、リン軍側の犠牲はわずか百名にとどまった。ジャン軍はパニックに陥り、みなが虐殺から逃れようとして大混乱になった。怒りまくった追っ手から逃げようと、あわてふためいて走りまわった。

 ジャンの戦士のなかでただひとり屈服しない男がいた。彼は毒湖の黒い水面の横で、殺された、あるいは叩き潰されたリンの戦士たちの遺体の山を前に、血まみれの剣を持ち、立ちはだかって抗戦の構えを示した。

 この戦士こそジャンの宰相ペトゥルだった。主君亡きあと、軍を率いていたのはペトゥルだった。もともと疑いを持っていたが、彼は自軍を率いながら、自分の神々と民族の力と目的を信じていた。

 ケサルは驚異の馬に乗り、空高く飛んでいった。彼の頭のまわりには虹の輪ができ、宝石を施した甲冑は炎が実際に燃えているようだった。キャンゴ・カルカルからは黄色い炎の舌と煙の黒い羽毛が空に向かって波のようにうねっていった。こうした光景を見てもジャンの宰相はひるまず、それどころか大きな声でうたった。

 

ケサルよ、リンの邪悪な魔術師よ 

私はおまえがどんな者か知っている。 

光の破壊者であり、喜びの破壊者である。 

おまえは偉大なる悲しみであり 

死に際の暗黒の空虚である。 

わが主君は向こう見ずではあったが 

情熱は無辺であっぱれだった。 

わが主君はとっぴなかたではあったが 

思い描いていた世界はたとえようのないほど美しかった。

高貴な存在であることは 

鼓舞と喜びを経験することであり 

おまえの俗世界の働きずくめの堕落社会とはまったく異なっていた。 

おまえのたくらみによって 

主君も王妃も亡くなり、王子は消息不明ではあるが 

主君の尊い力はなおもわが心の中に生きておられる。 

私は光のように永遠の存在である。 

私はおまえをはるかにしのぐ力を持っている。 

おまえは今日、この毒湖で煮られることになるだろう 

 

 ケサルとペトゥルは互いに無数の矢を射まくった。どちらかが射れば、相手がはじき返す、といったことが、矢筒がからになるまでつづいた。彼らは役に立たなくなった弓を投げ捨てた。それからケサルは馬から降りて、ふたりは剣を持って戦った。叫んだり、互いに呪いの言葉をぶつけたりしながら、どちらかが剣をふれば、相手はそれを受け流した。

 ついにはペトゥルが優勢になり、ケサルを湖の端まで追いつめた。そこでふたりは剣を捨て、つかみあいのケンカになった。ケサルは生まれてはじめてすべての神聖パワーをあつめても、力が弱まっているのを感じた。

 そのとき突然、追いつめられた主人の姿に耐えきれなくなったキャンゴ・カルカルが飛んできて、鐙(あぶみ)のひとつにペトゥルの腕をはさみこんだ。馬はもがいている宰相を上空高くに持ち上げた。そして黒い毒湖の中央に落とした。水面から泡がぶくぶく出たあと、ぐつぐつと煮え、骨と肉がばらばらになって浮かび上がってきた。

 ジャンの征服のあと、ケサルはぐったりして戦士たちとともに宿営地に戻り、朝までぐっすり眠った。あまりに疲れていたので、食べることも火をつけることさえしなかった。

 翌朝、壮麗な甲冑に身を包んだケサルは、キャンゴ・カルカルに乗り、ジャンの王子を玉座の前に連れてきた。ケサルは王子に、リンのためにジャンの地を治めるように命令した。

 それから馬と騎手は雲のない青空へ高く飛び立った。そこで彼らはひとつになり、空の中央で、ハゲタカの翼を持つ巨大な黄金のガルダになった。彼らはうきうきした音調の歌をうたった。

 

何かに頼ることなく 

何かを長引かせることなく 

何かを終わらせるために急ぐこともない。 

空で虹が脈動するように 

人生のドラマは生き生きするかと思えば 

跡を残さずに消えていく。 

光の弧の色の濃淡のように  

体験という潮は満ち引きしている。 

そのような魔術的な空の橋で 

人や悪魔、神々はさまよい 

希望と恐怖の毒ある行為を演じ切る。 

私ケサルは、自ら生まれたガルダである。 

冷たい空の純粋な虚空を 

はるか遠くへ、記憶を超えて飛んでいく。 

輝く水晶の風は 

私の心の部屋を通って直接的に吹き込まれる。 

それは楽しいものではあるのだが 

リンの王国に戻ったとき 

この歌の記憶がよみがえるだろう