ケサル王 勇者の歌 ダグラス・J・ペニック (宮本神酒男訳)
第6章
1
孤独な瞑想修行が十年に及ぶ頃、窓敷居に置いてあった水鉢に反射した正午の光から、女神マネネが現れた。マネネはケサルに歌った。
おお偉大なる竜の王よ。
洞窟の中でぴかぴか光る安物の怪物のようにまどろむ者よ。
南の国の黄色い悪魔シンティ王が
毎日力を蓄え、影響力を増している。
いますぐこの魔王を討伐せよ。
でなければ遅きに失することになるだろう。
しかしケサルは、誓いを成就するにはあと3年の修行期間が残っているので、シンティ王の国に出征するとしても三年後になるだろうと答えた。彼はつねに誓いを守って生きてきたのであり、誓いと彼の存在はあわせてひとつのもののようだった。であるから、もし戒律を破るようなことがあれば、彼とほかの生きる者に災いをもたらし、リンの人々にもたいへんな困難にみまわれることになるだろう。しかしマネネは強く言い張った。
疑いなく、いまこそ
シンティ王を滅ぼす時なのです。
そうでなければ邪悪なるものが大地にはびこるでしょう。
これはパドマサンバヴァの望みであり
あなた自身の本性は行動を起こすことを求めています。
あなたに害のあることをなしてほしいとは私は思っていません。
個人的なよしあしの考えはあなたという存在にはかかわらないのです。
あなたの誓いは言葉や行為に向けられたものではありません。
それは「目覚めること」や「確信」に向けられたものなのです。
あなたは行動しなければなりません、しかも今。
疑ってはいけません。
そしてつぎの言葉はなく、両手を打つと、彼女は消えた。マネネが消えると、ケサルはセチャン・ドゥクモを呼んだ。彼女はケサルが瞑想修行を終わりにすると聞いて驚き、彼の健康状態やリンの人々の安寧が損なわれるのではないかと恐れた。ケサルはやさしくドゥクモを抱擁しながら言った。
「わが人生においてもっとも親愛なる者よ、悪魔に汚された人間界を浄化する、あるいは純粋な善性の方法を確立する道が、すべての人に開かれているなら、私はすぐに南の国の魔王を征伐しなければならない。もし私が生と死の間の行き来を恐れないなら、いかなる個人的な理由のために躊躇する必要があるだろうか」
ケサルはそう言いながら、一週間のうちにリン、ホル、ジャンの戦士たちを宮殿に招集するよう命令を発した。
ケサルが突然瞑想修行を終了したと聞いて、だれもがショックを受けた。しかしセチャン・ドゥクモが説明すると、みな納得した。リン軍の戦士たちは激しく動揺した。最近まで戦っていた敵の軍隊が遠征隊のなかに入っていたからである。
そこにケサルが、太陽の光を浴びてキラキラ輝く黄金の甲冑を着て彼らの前に現れ、またキャンゴ・カルカルが後ろ脚で立って喜びをあらわした。ケサルは王国がひとつになったように軍隊も合流すべきだと主張した。
そして彼は警鐘を鳴らした。嫉妬や不信、分離や優越感、そういったことが成功の障害になると。
「シンティ王はパワフルで、粗野で、暴虐かぎりない悪魔である」とケサルは言った。「彼は祖先神や護符、いかなる信仰によっても守られているわけではない。彼は政府や朝廷のようなものも持っていない。軍隊があればそれでいいのだ。彼はたんに冷酷残忍な強奪による蓄財によって、彼自身や身内の者のために私腹を凝らし、猿のような極度の貪欲さによって生きてきたのだ。しかしわれわれが統一してひとつになれば、彼の巨大な口でも飲み込めないほどの強大な国になることだろう」
マネネの出現から一週間以内にリン、ホル、ジャンの軍隊が集まり、準備が整い、出発すると、鉄の橋の前に至り、そこに宿営した。ここは塵埃の多いシンティ王の黄色い土の領土との境界だった。
川岸に展開する巨大な軍隊は、何千もの赤や金、銀の軍旗がはためき、さながら炎が踊る荒れ狂う海だった。川の流れの向こう側に、平原全体を覆うほどのとてつもなく大きな軍隊があらわれたのを見て、橋の警護兵たちは度肝を抜かされた。彼らが敵なのか味方なのかわからなかったので、使者たちを国王に送って指示を仰ぐことにした。
使者たちが国王の間に入ると、シンティ王は玉座に掛けられた血の染みがついた人皮の敷物の上で、身体を伸ばして寝そべるように坐っていた。使者たちは贈り物の毛皮を献上したあと、川の向こう側に集結している大規模な軍隊について報告した。
「それについてははじめて聞くな。彼らがだれであろうと、彼らが軍営地を置いている平原はずっと昔からわしの土地である。もしこのあとわずかでもいつづけるつもりなら、それなりの賃貸料を払ってもらうことになる。でなければ、即刻ひねりつぶして、そいつらの骨まで砕いて塵にしてやるわ。彼らがなにものかを調べて、いま言ったことを伝えてくれ」
使者たちは橋まで戻り、川面の向こうの軍の指揮者を呼び、国王のメッセージを伝えた。ケサルの命令で使者たちを招き、話し合いの場をもうける提案をした。使者たちは彼らのふるまいから危険はないと判断し、ケサルの軍営地の中に入った。彼らは大胆にもシンティ王の要求と脅しを伝えた。
「メッセージを伝えてくれてありがとう、友人たちよ。私のところまで来てくれた勇気に敬意を払いたい」とケサルは安心させるような口調で言った。「だが私は言わねばならない。私は北、東、西の悪魔の征服者にしてリンの王、ケサルである。私は自分に適していると思えばそこに滞在する。それが一日にすぎないか、一年になるかはともかく。この土地はシンティ王の所有地ではない。だからシンティ王に報告する義務もなかろう。あなたがたの君主も軍隊も私と同等ではない。だから何も恐れる必要はないのだ。
しかしながら私がここに来た目的はまったく異なっている。わが叔父トドンはリンの戦士のなかでも、もっとも尊敬され、称賛されていて、その体格はすばらしく、智慧と富も持っている。そのトドンには20歳になる息子がいる。まあ、私の甥ということになる。過去12年間、一年に一度、私は夢を見た。夢の中で甥は、シンティ王、つまりあなたがたの王の娘、メトク・ラツェと結婚するのだ。記憶に間違いがなければ、王の娘さんはいま15歳だろう。結婚適齢期だ。もしシンティ王が許可をくれるなら、私はお礼としてあびるほどの金銀を差し上げよう。もし拒むなら、王の領地に廃棄物を置いて、王の娘を連れ去るだろう。これが王の選択なのだから」
「王女さまはシンティ王のたったひとりの子どもです。王女さまが国のものすべてを引き継ぐので、南の国の王座も継ぐことになるでしょう」ともっとも勇敢な使者がこたえた。「国王がひとり娘を羊飼いと遊牧民の国に嫁がせると思いますか。国王はあなたの要求をもっとも無礼千万なものと思い、あなたがたをみな殺しにすることでしょう。しかしあなたが望むようにあなたのメッセージを国王に伝えたら、どういうことになるか、はっきりわかるでしょう」
使者たちは、戻ってシンティ王に報告するときには、それほどの勇敢さを示さなかった。彼らはケサルの軍隊の大きさや力、リンの王の堅固な確信などについて報告し、王女のメトク・ラツェがトドンの息子と結婚するのが最善であると奏上した。
するとシンティ王は怒りの叫び声をあげ、炭のように黒い歯をきしらせ、玉座に掛けられた血の染みた人皮の敷物の上に立ち上がった。彼は兵士たちの前に連れていき、金の鞭を取り出し、木の幹ほどもある太い腕をふりあげて、使者たちを叩き始めた。そしてトランペットのような音で彼は演説をはじめた。
人生には絶対に間違わない法がひとつある。
それを知らない者は、実際のところ、すでに死んでいるのだ。
物事はたったの二種類しかない。
それはわしのものと、わしのものでないものである。
もし片方が上げ潮に乗るなら、もう片方は下降まっさかさま、
そんなことはだれもが知っている。
もしわしが畑を見たら、それはわしのものである。
もし名をひとつ耳にしたなら、それがだれの名であろうとも、
それはわしの名だ。
楽しみも痛みもなければ
それはわしの領地ではなく
そこには考えも、夢も、いかなる可能性もない。
おまえたち、わが家臣は
この法にしたがうことによって利益を得た。
もしこのあさましい成り上がりものを滅ぼさなかったら
そいつが何と言おうと、われわれを滅ぼそうとするだろう。
われわれは城塞から追い出され
希望のない喪失の連鎖の領域に入ることになるだろう。
シンティ王はリン軍を攻撃するために自軍の半分を送り出し、残りは宮殿である要塞の守備に回した。彼は怒りを爆発させながら、自分の部屋に戻った。
その夜、メトク・ラツェはひどい夢を見た。彼女の父親の全身の皮が、手足を槍で貫いて、彼の領地いっぱいに、四方向に広げられている。一片の土地の上には彼の心臓が置いてあった。そこに彼の城があり、炎の渦巻きのなか、それは倒れる。その窓や扉からは血がしみだしていた。
彼女は恐怖のあまり起きて、走って父の部屋に行った。父親は起きていたが、まだ寝台にいた。父親ははじめあまり気にしてない風だったが、彼女の話を聞くうちに、怒りがこみあげてきた。彼は娘の口のあたりをなぐり、城塞の上のほうの彼女の部屋に、戦争が終わるまで閉じ込めるよう警護の者に命令した。
しかしおなじ夜、ケサルも夢を見た。銀の甲冑をまとい、白い旗を兜に挿した小さな騎馬戦士が、彼を急き立てるのである。そこでケサルは明るくなる前、家来の半数を川の上流に上がらせて渡らせ、彼自身は残りの家来とともに鉄の橋を渡った。両軍ともシンティの軍の守備隊と衝突することになった。あとで南の軍の主体軍が到着したとき、彼らは包囲されていた。
戦闘はひどい惨状だった。戦士たちは、弓矢、剣、槍を持って戦った。輪投げの得意なリンの羊飼いは遠く離れた馬上からも、敵をとらえ、ぐいと引っ張った。そして引き立てられていく間、馬の蹄に踏まれた。
シンティ王の軍隊は虐殺され、率いていた将軍は首を斬られた。遺体は巨大な墓穴に投げ捨てられ、燃やされた。
シンティ王は胸壁の内側で、大股で行ったり来たりしながら、前線からの報告がないことに不安を感じ始めていた。遠くには脂っぽい黒煙が立ち昇っているのが見えた。それが勝利を意味するのか、敗北を示しているのかわからなかった。彼は護衛兵をのぞく兵士全員を送り込んでいた。もし彼の軍が勝っているなら、何も変わらないだろう。もし敗戦を喫したとしても、別の新しい軍隊がケサルの疲れ切った部隊を急襲するだろう。
しかしこの第二部隊も、第一部隊とおなじ運命をたどっていた。二番目の遺体を燃やして出る黒煙は、夜に入っていたので、シンティ王には見えなかった。
翌朝早く、太陽が昇り始めた頃、妙な胸騒ぎがして、シンティ王は十分でない眠りから覚めた。ケサルは夜の間に急いでやってきて、城塞を囲い込み、四つの方角から城壁に火をつけた。シンティは自慢の王国が火に包まれ、地獄と化していくのを見なければならなかった。彼は四方から炎の壁に迫られた。
彼は大地と空が分かれるかのような大きな破裂音を聞いた。振り向くと、領土の長寿の柱であり、城塞の基礎部から屋根の頂までの中核部を支えているトルコ石の本柱が、熱に負けて折れ曲がり、粉砕したのが見えた。しかし子ども時代から、緊急の際に逃げる方法を彼は知っていた。彼は魔法の梯子を鋳造していた。それを使って空高く、雲の中に逃げることができた。彼は屋根まで走り、そこで梯子を広げた。彼はそれを投げ、死にもの狂いで這い上がって雲の中に逃げた。ケサルはその様子を下から見ていた。
ケサルと奇跡の馬キャンゴ・カルカルは黒曜石の目をもつトルコ石の竜に変身し、煙が充満した空へと飛んでいった。竜は渦巻き状の煙の中で踊りながら、隕石の鉄の爪の一撃で梯子の黄金の縄を切った。
シンティ王は叫びながら、呪いながら、落下し、地上に激突した。
いまやルビーの目を持つ黄金の竜となったケサルは、火の中に飛び込み、炎といっしに踊った。そして魔神にとどめをさすため、身体から皮をはぎとって伸ばし、広げて4本の槍で四隅をとめた。
「この悪魔の皮は、乾いたとき、強力な薬となるだろう。それは解毒剤でもあり、あなたがたを悪から守るものでもあるのだ」とケサルは驚いている戦士たちに説明した。
メトク・ラツェに関していえば、彼女は燃え盛る城塞の塔の中に捉えられていたが、なんとか脱出しようと窓から窓へと移動していた。ケサルは窓の外側にへばりついている彼女を見て、彼女を呼んだ。
「もしあなたが心から魔女であるなら、炎の中に身を投げてください。もしあなたが高貴な種族に属するなら、空中を飛んで私のもとに来てください」
一途な乙女である彼女は、暗黒の地獄のような虚空に身を投げた。燃え盛る町の上空をしばらく漂ったあと、木の葉のように軽く、ふわふわと舞い落ちて、最後は偉大なる王の腕の中に飛び込んだ。
はじめ彼女は、黄金の目を持った、輝く黒竜のトグロの中に降りたのかと思ったが、そこはケサル王の膝の上だった。ケサルは偉大なる馬、キャンゴ・カルカルに乗って灰燼と帰しつつある町の上空を疾駆していたのである。