ケサル王「よくある質問」 

        宮本神酒男 

 

 何かを購入したとき、あるいは何かに加入したとき、かならず目にするのが「よくある質問」です。「お客様サポート」の基本中の基本といえるでしょう。私はこのケサル王に関しても「よくある質問」が必要だと考えます。なぜならほとんどの日本人にとってケサル王はなじみが薄く、基本的なことすらわからないことが多いからです。

 

:あまりよくわかっていないと、質問するのもむつかしいものです。ケサル王物語とはどういうものなのか、全体的に説明していただけますか。

:チベット文化圏とモンゴル文化圏という広大な地域に流布する英雄叙事詩のことです。世界でもっとも有名な英雄叙事詩といえば、古代ギリシアの英雄叙事詩(「イリアス」「オデュッセイア」など)やヨーロッパ中世の「ニーベルンゲンの歌」があげられるでしょう。あるいはインドの「ラーマーヤナ」を思い浮かべる人がいるかもしれません。「ラーマーヤナ」はとくに敦煌文書のなかにチベット語訳の写本が見つかっているので、直接ケサル物語に影響を与えた可能性があります。
 実際インドにはごく最近まで英雄叙事詩がたくさんありました。いまもその伝統は細々と受け継がれています。(→ ダルリンプルの『英雄叙事詩の歌い手』抜粋
 中央アジアも、モンゴルだけでなく、キルギスからアゼルバイジャンまでたくさんの英雄叙事詩があります。

 ケサル王物語は吟唱する芸能者が現存する生きた文化です。吟遊詩人がいまもたくさんいて、各地でパフォーマンスをしているのです。ほかと大きく異なるのは、物語が厖大で、バリエーションに富むことでしょう。

:ケサルの語り手は何人くらいいるのですか。またどんなタイプの語り手がいるのですか。

:すこし古いデータですが、中国国内にかぎると、チベット族99人、モンゴル族46人、土族6人となっています。中国以外にもおなじ数くらいの語り手がいるでしょうから、全体的には300人以上になるのではないでしょうか。(→ ケサル詩人分布図)  
 全体の4分の1(25%)を占めるのが、「天から物語が降りてくる」というタイプ(神授型)です。彼らは夢の中で、あるいはトランスの中で物語を受け取るのです。彼らはもっともケサルの語り手らしいタイプと思われています。彼らはほとんど文盲です。
 過半数を占めるのは、耳で聞いて覚えたり、本を読んで覚えたタイプ(聞知型)です。彼らは通常多くて数巻しか読めません。
 ケサル王物語をテルマ(埋蔵宝典)として受け取るテルトン(埋蔵宝典発掘師)型は、ニンマ派がさかんな地域に限るので、数的にはそれほど多くはありません。彼らはたとえば岩の中や土の下から具体的に発見し、それを書写することもありますが、意識の中からゴン・テル(意識のなかの埋蔵宝典)を発見することがあります。なかには「自動書記」のように、筆が勝手に走って物語を書き留めることがあるようです。
 吟唱することを専門職とする吟唱型や、銅鏡をのぞきこんで物語を見る円光型といわれる語り手もいます。
 ここで留意すべき点をひとつあげておきますと、「語り手」といいますと歌をうたうという重要な面を見逃してしまいます。「歌手」といいますと語り手であることが看過されてしまいます。歌と語りのコンビネーションであることを忘れてはいけません。

:ケサル王物語はどういう物語なのですか。世界最長の英雄叙事詩というのは本当ですか。あらすじといえるものはあるのですか。あるのなら、教えてください。

A:英雄叙事詩ケサル王物語はたしかに、たいへんな分量の物語です。なかには150巻もの物語を歌うことのできる語り手がいます。1巻あたり吟唱するのに数時間かかりますから、全体にすると1000時間をはるかに超え、しかもそのすべてを記憶しているというのです。
 物語の伝承の要といえるのは「神授型」なので、いくらでも新しい話が生まれてしまいそうですが、どうしてだか、ある程度の枠に入った物語しか生まれてきません。それは天界の話、乱れた地上にケサルが送られる話、子供時代のエピソード、競馬に勝利して国王の座に就き、美女ドゥクモと結婚する、といった初期の物語と、最後の地獄で母親や妻を救う物語などを除くと、多くは戦争の物語です。
 もっとも重要な戦いは周辺の4つの国との戦いです。それは北の魔国、ホル、ジャン、モンといった国々です。そのあと18大ゾン(ゾンは要塞、国の意)を制圧します。語り手によってはこのあともさまざまな国が出てきます。類型的な話も増えてくるのは事実ですが、ともかく、物語の泉は尽きることがありません。

:ケサル王物語の分布は相当に広いということですが、その中心地はどこなのでしょうか。ケサル王物語がとくにさかんな地域というのはあるのでしょうか。

:モンゴル文化圏では、もっとも遠いところではカスピ海沿岸のカルムイク共和国まで広がっています。チベット文化圏では、パキスタン北部バルチスタン地方まで広がっています。もちろん現在はイスラム教徒しかいませんが、このあたりまでチベットの版図に入っていた時期があるのです。このあたりには、いまもケサルの語り手がいます。
 一方、ケサル王物語の中心地ははっきりしています。カムのデルゲ(四川省徳格)あたりからアムドの聖山アニマチェン山(青海省ゴロク州)にかけての地域は「ケサル王物語の揺籃の地」と呼ばれ、むかしから語り手がたくさん生まれ、さかんに歌われてきました。物語の発祥の地の可能性があります。

 最近はデルゲに近いゾクチェン寺(ニンマ派)を中心として、布教活動の一環としてケサル王物語が広められてきました。「タジクの宝ゾン」のエピソードはゾクチェン寺の活仏によって書かれ、人気を博しました。ニンマ派にはテルトン(埋蔵宝典発掘師)という伝統があります。ニンマ派のケサルの語り手はテルトンであり、物語をテルマ(宝典)として岩や洞窟、ときには心の中に発見します。チベット仏教の寺院で仮面舞踏(チャム)をおこなうのは珍しくありませんが、ゾクチェン寺ではケサル王を題材としています。これは珍しいといえるでしょう。デルゲだけでも12の寺院(ニンマ派だけではない)で上演されています。

:そもそもケサル王とはだれなのでしょうか。古い物語の架空の主人公なのでしょうか。それとも実在したチベットの王様なのでしょうか。

:ヨーロッパのアーサー王を思い浮かべてください。アーサー王は12世紀頃から大衆文学の主人公として登場し、その後数々の「アーサー王物語」が書かれ、最近では何度も映画化されるほどの大衆人気を得てきました。このアーサー王、あるいはそのモデルとなった王様は、6世紀頃に実在したブリトン人だといわれていますが、「そんな人物などいなかった」とする説も根強いのです。

 ケサル王も似た存在だといえます。ケサル王はリンという国の王様です。このリンという国は実在したのでしょうか。昔、10世紀頃から12世紀にかけて、いまの四川省のデルゲのあたりにリン・ツァンという国がありました。このリン・ツァンがリンではないかといわれています。ところがリンというのは日本語でいえば「くに」のような一般的な言葉で、島や大陸、寺院などを意味します。チベット仏教寺院の多くの正式名称は「何とかリン」なのです。リンという国名は「くに」という国名のようなものなのです。

 このリン・ツァンの初期の国王がケサルだったといわれます。しかしそのことを裏付ける文献は、14世紀頃チベットを支配していたラン氏の家族史「ラン・ポティセル」だけなのです。自分たちの祖先は、ケサル王の異母兄弟ギャツァの息子ダラである、と彼らは主張しています。なぜならケサル王には13人の王妃がいたのになぜか子供がなく、この世界を去るとき、国政を甥のダラに委ねたからです。

 チョギャム・トゥルンパ(19391987)という欧米でたいへん人気があったチベット人ラマがいましたが、彼が属するムクポ家はケサルを生み出した家系だと主張していました。実際、ケサルはムクポ氏族の出身なのですが、地域によって微妙にムクポという名でない場合もあります。私がかつてパキスタンのバルチスタンで会った人物は「ケサルの子孫である」と自慢していました。もしかすると、ケサルやケサル王物語に出てくる主要人物の子孫を称している人はたくさんいるのかもしれません。

 さて話をケサル王の実在性にもどします。大きな可能性はふたつあります。ひとつは架空の(創作上の)存在。中央アジアにはたくさんの英雄叙事詩があったので、その影響を受けてうまれたのかもしれません。もうひとつは、リンという国は実在したが、それほど大きくはなかったという可能性。私は東チベットのとなりに住むナシ族やイ族の歴史を学んできましたが、そんなところに強大な国があったとは考えづらいのです。イエス・キリストやゴータマ・ブッダだって、その実在性を問うと、意外とこたえるのがむつかしいものです。

 ケサル王が戦ったリンの周辺の国々は、実在するとまでは言いきれませんが、モデルとなった国はありました。わりあいはっきりとしているのは、ジャンという国です。ジャンはナシ族の国(古くは南詔国、のちはムー氏の国)かと思われます。ジャンの王サタムの名は、ナシ族の神様である三タン(サタン)から採られたと思われます。リンとジャンは塩をめぐって争いますが、(リンではなく)チベットとナシ族は長年にわたって塩をめぐり戦っていました。現在の四川省塩源県の塩湖は、漢代、すでにモソ(ナシ族)のものでしたが、とくに唐代、この塩湖をめぐって争いが起きています。
 そのほかホルはウイグル、モンはブータン、タジクはペルシアが有力候補ですが、特定されたとまでは言えません。モンゴルやトルコ(ウイグル?)、(滅んでしまった)シャンシュンなど、実名のまま登場する国々もあります。中国も実名のまま登場しますが、これが唐の時代のソンツェンガムポ王と文成公主の結婚を反映しているのはあきらかです。

 ケサルという名称そのものについても説明しておきましょう。ケサルは辞書によれば花の蕊(しべ)という意味にすぎません。このケサルにチェンをつけたケサルチェンという語は、蕊をもつ者という意味ですが「蓮華の異名」と辞書は説明しています。ケサルは蓮華を表しているのかもしれません。いうまでもなく蓮の花は仏教の象徴です。またスタンはカエサル起源説を唱えました。ケサルはローマ皇帝の称号であり、ケサルも称号ですから、あながち荒唐無稽な説ともいえません。

:日本で、たとえばダライラマ法王の名はよく知られていると思います。チベット仏教に興味を持っている人も、けっこういると思います。しかしケサルはどのくらい知られているのでしょうか。また外国ではどうでしょうか。日本と違って知名度は高いのでしょうか。

:残念ながら日本ではまだまだ知名度が高いとはいえません。スピリチュアル志向の強い人がチベット密教に興味をもつことがあっても、そのような人にはケサルのような民俗色の濃いものは興味の対象にならないのでしょう。「世界の神話伝説」といった類のシリーズに含まれていることがあります。でも、ほかの神話伝説はほとんど活字でしか存在しません。ケサル王物語だけが具体的に物語を語り、歌う専門職がいるのです。80年代に君島久子さんが少年少女向けの世界の文学シリーズとして『ケサル大王物語』を出されたことがあります。これはこれで意義深いことではありましたが、生きた芸能であることはまったく世間に伝わりませんでした。

 しかしそれは欧米でもおなじです。はじめて西欧に知られたケサルはモンゴル・バージョンでした。清の康熙帝のときにまとめられたケサルがモンゴル・バージョンであり、ロシアにいたアムステルダム出身のシュミットという宣教師がたまたまそれを発見したからです。シュミットはモンゴル・ケサルをドイツ語に翻訳しました。

 モンゴル・ケサルの英訳版が出たのはそれから何十年もたってからで、時代は20世紀を迎えていました。チベットのケサルは19世紀に青海省でロシアの探検家よって発見されていましたが、ラダックで発見し、本格的に英訳したのはフランケでした。しかしこういったことはアカデミズムのなかでの話であり、欧米の大衆に向けて発信されるのは、フランス人のアレクサンドラ・ダヴィッド=ネールまで待たねばなりませんでした。

 彼女は女性でありながら単身チベット中を歩いて回った探検家であるとともに、チベット学をきわめた研究者でもありました。当時神秘的なチベットを題材にした本は数えきれないほど出版されましたが、彼女の話はファンタジーではなく、すべて本当の話でした。しかもとても面白かったのです。学問的にきっちりと書かれているのに、内容まで面白いとあれば、ファンタジー作家はたまったものではありません。

 彼女が書いたケサルですから、面白くないわけがありません。いま読み直してみますと、英訳版はややごてごてと装飾たっぷりに描かれている面があり、もうすこし修正してほしいと感じます。内容もかなりよく書けているのですが、残念ながら、彼女の冒険的な旅行記と比べるとそこまでは売れていません。しかしこのビッグネームに取り上げられたことにより、今後もブームを迎えたときには一冊本を出したことがなんらかのかたちで役に立ってくるでしょう。

 先ほども言及した人気ラマ、チョギャム・トゥルンパは、ケサルの名を欧米に広めるのに寄与しました。トゥルンパはムクポの家族出身で、ケサルと同族でした。彼は教義の中心に「シャンバラの勇者の精神」をかかげましたが、ケサルはこの勇者の存在の象徴だったのです。

 トゥルンパ本人よりもむしろ弟子たちのほうが、ケサル文化を広めるのに寄与しました。弟子たちのなかからケサルのオペラ(ピーター・リーバーソン)が生まれ、小説(ダグラス・ペニック)が誕生しました。日本でもそういったケサル文化が根付くことを祈ってやみません。

:中国ではケサル物語はどういう扱いを受けているのですか。また西欧人や日本人から見て、昔といまでは何か違いがありますか。

A:文革の時代に弾圧されていたのはたしかです。ある有名な語り手にみせてもらったのですが、体中に傷跡が残っていました。拷問を受けたのです。官憲はケサルの語り手を活仏と同等とみなし、毒物としての宗教の象徴とみたのです。

 しかし文革が終わると、国家をあげてケサルを「救済する」ようになりました。私も90年代に見たことがあるのですが、語り手がスタジオに入って吟唱し、それを録音し、一部は文字に起こして出版されました。一部にすぎないとはいえ、すでに120冊以上のケサル王物語がチベット語で出版されています。また50巻のシリーズ(チベット語)が最近完成しましたが、これがいわば「定本」となってしまうのかはわかりません。

 また2、3年ごとに「ケサル・フェスティバル」が開かれるようになりました。国をあげて推しているようにも見えます。ただしいつのまにかケサル王物語は「世界最長の中国の英雄叙事詩」と表現されるようになっていました。

 一方サブカルチャーのなかに浸透しつつあるのは朗報かもしれません。とくに漫画は注目に値します。漫画でもっとも驚かされたのは、ケサル王のリン国にとってライバルであり、最強のホル国の王が、イケメンに描かれていることです。これを読むと、ドゥクモからすると、北の魔国に行ったまま帰ってこない夫(ケサル)よりもイケメンのホル王のほうがいいのではないかと思ってしまいそうです。

 ケサル王物語は何度かテレビ・ドラマ化され、アニメ映画も作られました。「塵埃落定」や「空山」で知られる作家の阿来も語り手を主人公にした「ケサル王伝」という小説を書き、反響を呼びました。

 ひとつ気になる大きな変化があります。それはケサル王の「再臨する救世主」という面が忘れ去られていることです。これは一種の末法思想でした。当時流布していた噂では、チベットは中国に征服され、滅ぼされてしまうが、シャンバラの王としてのケサル王が再臨して人々を救うというものです。神父ユックやレーリヒ、ダヴィッド=ネールなど多くの人がこの再臨する救世主ケサルについて述べているのに、いまではまるでそんな話などなかったかのようです。危険思想ということで排除されてしまったのかもしれません。


:ケサル王には王妃がたくさんいるのに、子供はいません。どうしてですか。 

A:ケサル王には13人(実際はそれ以上)の王妃があったとされます。正妃は絶対的な美しさを持ったセンチャム・ドゥクモです。ドゥクモが特別な雰囲気を持っていたのは、白ターラー女神の生まれ変わりだからでしょう。ケサルが北の魔国に9年も捕らわれている間に、彼女はホル国のクルカル王にさらわれ、妻とされ、子供までもうけてしまいます。
 のちにドゥクモを奪い返したケサル王はこの乳飲み子を殺してしまいます。まさか自分に子供がいないので嫉妬して殺したわけじゃないでしょう。悪魔の血が入った将来敵となるかもしれない子供を生かしておくことはできなかったのです。

 メサ(メサ・ブムキ)やアタラモも重要な役柄を持った王妃です。とくにアタラモは食肉ダーキニーの化身とされ、北の魔国の王ルツェンの妹(あるいは娘)だったので、もともとは魔女だったのです。ケサルの王妃となってからは善行に励んでいたのですが、ケサルが遠征に出ている間に病死し、地獄に堕ちてしまいます。地獄に堕ちた第一の要因は、魔女時代に多数の無辜の民の命を奪ったことでした。

 このように王妃が13人もいたのは、ケサル王が覇業を成し遂げた世界王だったからです。いまでもアフリカの王様のなかには100人くらいの王妃をもつ者がいます。先だってはスワジランドで王妃候補が多数事故で死亡するというニュースが報じられました。庶民のレベルでは、チベットで一般的だったのは一妻多夫です。しかし王族レベルでは一夫多妻で、王妃の数もまた国王の力を表していました。

 こういった古典的な国王像では、子沢山であることも求められます。ところがケサル王にはどう見ても子供がいないのです。(バルチスタン・バージョンではケサル王に12妃があり、それぞれが子供を産んでいます)これは相当に奇妙なことといわざるをえません。絶世の美女を妻としたのに、ベッドでは何をしていたのでしょうか。避妊をしていたのでしょうか。どこかの国と戦争をし、戦いに勝ち、国王の美人妻やかわいい王女を自分のものとしているのに、子宝に恵まれないとは……。

 しかしこれはあくまでも物語なのです。壮大な具体性のあるたとえ話のようなものなのです。ケサル王は天神に属します。天神に属する者は、地上の人間と普通の意味で交わることはできないのです。

 とても興味深い伝説があります。「ニェンチェンタンラの山神とナムツォの女神」のなかに、女神とのセックスの仕方が描かれているのです。なかば笑い話みたいですが、人と神(女神)が交わるとしたら、このような方法しかないでしょう。
 ケサルは87歳までこの世界に生きて、国王の座をダラ王子に譲ってから天界に戻ります。ダラ王子はホルとの戦いのときに殺された敬愛する異母兄ギャツァの息子です。ケサル王の末裔を称する人々がいるとするなら、それはダラ王子の後裔なのです。


*参考のために13人(実際は15人)の王妃のリストを載せます。
ドゥクモ 
メサ・ブムキ 
ティチャム・パーゾム 
コンチャム・ドルツェ 
カルツァ・デンマ 
キワ・パーツォ 
ルチャム・ツェマ 
モンパ・キデ 
チェラ・モプティ 
アカル・トゼ 
ガワ・ゾムパ 
アチャム・ダルキ 
アタラモ 
チョクツン・イェシェ 


:ケサル王物語の登場人物はとても多いのですが、名前が長く複雑で、なじみがありません。しかもいろんな発音があって、余計にわかりにくくなっています。どうしてこうなるのでしょうか。

A:名前がややこしくてなじみがないのは仕方ありません。発音がいくつもあるように見えるのは、基準が複数あるからです。中国から見た外国では、ラサ口語をもとにしたチベット語の標準語の発音を採用しています。
 たとえば「タシテレ」はラサ口語をもとにしています。アムド語(青海省の大半、四川省や甘粛省の一部)ではこれが「ジャヒ・デラク」となります。中国でラサ発音が嫌われるのは、それを標準語として認めると、チベットの独立性を認めることになると考えているのかもしれません。
 ただケサル王物語にかぎって言えば、それがもっともさかんな地域はチベット東部、すなわちアムド地方やカム地方なのです。ケサルの妻ドゥクモがジュクモやジュモと表記されてもとがめられる理由はないのです。
 しかしチベット西部のインド・ラダックやパキスタン・バルチスタンでは、ブルクマと発音します。綴りにもっとも近いのはこの発音なのです。ですから、文を書くときは、ラサ発音にあわせたほうがいいのではないでしょうか。


:ケサルの叔父であるトトン(チョトン)は、赤ん坊のケサルを殺そうとしたり、競馬のときは邪魔をしたり、揚げ句は外国(タジク国)の名馬を盗んで、それがもとで大戦争が勃発したりするなど、ケシカラン人物ですが、親戚だからか、つねに許されています。それはどうしてでしょうか。

A:トトンはいわゆる「トリックスター」的な存在です。トトンが歴史上の人物ではなく、フィクションの存在であることを忘れてはいけません。しかもトトンはタムディン(ハヤグリーヴァ)、すなわち馬頭観音の化身と考えられているのです。
 矛盾する言い方ですが、トトンは同時に実在したかのような具体性を持っています。トトンはタクロン部落の長でもあるのです。タクロン18大部落は大きな勢力だったので、トトンはふだんトトン王(ギャルポ)と呼ばれています。ケサルよりも、トトンのほうが国王にふさわしかったとも言えるのです。実在した(?)ケサルは少数派のリーダーでありながら、国王の座に就いたのかもしれません。
 リン国の王室はドン族に属していました。そのなかから多くの支系が派生しました。いま述べたタクロン18大部落のほかに、テンマ12万戸部落、ロンパ18大部落、ドゥ部落、ゴク部落、ガ部落、ガデ部落、ゴジョ部落、ジャナ部落、ガルル部落、ナル部落、キャロ部落、ンゴロ部落、ドロ部落などがありました。これらがフィクションとは考えにくいのです。