ケサル王の地獄救母

 

 王妃アタラモを地獄から救ったあと、ケサル王はリン国に戻り、センドゥク・タクツェ城(seng ’brug stag rtse rdzong)で寝ていた。ケサル王は夢の中で、小仏洲吉祥宮のグル・リンポチェに会いに行けという天母の託宣を聞いた。ケサル王は身体を起こし、隣の妃ドゥクモ(’Brug mo)にそのことを話した。

 王がいかなるところへも出向き、魔を倒すことには慣れていたが、別の世界へ行くとなると、ちがった。頭のてっぺんから足の先まで、また足の先から頭のてっぺんへ激痛が走り、そのあいだの心臓は張り裂けんばかりに痛んだ。ドゥクモは這いつくばるようにして王のもとで懇願した。

「恩情あふれる両親が他界すると、どんなおいしい料理も味わうことができません。これはチベットのことわざの言うとおりです。満月がラーフラ魔に食べられたとき、だれがそれを除くことができましょうか? 王様が別の世界へ旅立ったとき、だれがリン国の衆生を守るのでしょうか? もし王様が私を帯同したとしても、姫を帯同できないなら、私は死んだも同然です」。

 ケサル王はドゥクモの話を聞いて不満に思った。そもそもそんなこと言えたものではないではないか。

「黄色のホル国(ser po hor)の城を取り囲んだとき、どうしておまえは自殺しなかったのだ? 白帳王(Hor gur dkar rgyal po)がおまえを捕らえて妃としたとき、なぜ自殺しなかったのだ? いま私は平穏であり、べつに死のうとしているのではない、ただグル・リンポチェに会いに行こうとしているだけだ。衆生のためを思ってやろうとしていることを、おまえは阻むのか?」。

 ドゥクモは過去の話を持ち出されたため、何も言い返すことができなかったが、心の中は悶々としていた。別の次元の世界へ行くのは簡単ではなく、はたして王は帰ってくることができるのだろうか?

 ケサル王はドゥクモの諫言に耳を貸さず、リン国の各部首領を招集し、グル・リンポチェに会うため小仏洲吉祥宮に出向くことを告げた。

「今後、征伐のため軍を興すこともないだろう。戦場で駿馬を駆けさせることもないだろう。兵器庫から武器を取ることもないだろう」。

 首領たちはケサル王のことばを聞き、なにも言うことができなかった。吉と出るか凶と出るか、わからなかったのである。

 ただダロン長官チョトン(sTag rong dpon po Khro thung)のみが心の中で喜んでいた。この獅子王がいなくなったら、リン国の宝座につくのは、自分以外のだれがふさわしいだろうか? 残されたドゥクモだって、老いたりとはいえ、この自分以外のだれと再婚するだろうか? そう考えれば考えるほど、楽しくなり、口はなめらかである。

「今年は吉祥のしるしにあふれています。占いも吉と出ました。天神の託宣もたいへんよいものです。この三つの吉兆があることは、大王が別世界へ行くのは問題ありません。ただ後事の按配はよくしなければなりません。王位はだれが継承するのでしょうか? 王妃はだれによって守られるのでしょうか? 臣民や庶民はだれが率いるのでしょうか?」。

 人々は互いに目を合わせたが、だれもなにも言わなかった。総官ロンツァは心の中で思った、「チョトンめ、相変わらず腐った心根の男だ。老いて鬚も白くなったが、なにも変わっちゃいない。毒蛇は木にまとわりついているが、木の根が腐っても放そうとしない。死んで埋められても、疱瘡を病んだ死体は土の中でなお毒をまき散らす。あやつの口をふさがぬかぎり、人々は安心できぬ」。

 総官ロンツァは述べた。

「センロンやゴクモを首とするリン国12名の長老が世を去る前に大王は別の世界へ行くことなどありえません。王位継承のことをチョトンがあれこれ憂慮することはないのです。英雄たちも愁うことはありません。大王は地獄で衆生を救うという仕事が残っているので、それを終えずに別の世界へ行くことはできないのです」。

 ロンツァのこのひとことは人々を安心させ、トドンもなにも言えなかった。獅子王は人々に語った。

「私が小仏洲へ行ったあと、三人のラマのもとみな祈祷をしてほしい。そうすれば私は15日以内にリン国に戻ってくるだろう」。

 と言い終わると、霞のような光のなかに消えていった。

 リン国の人々はケサル王のことばにしたがい、祈りながら待った。

 

 パドマ・サンバヴァの住居は、羅刹国の中心にある小仏洲である。羅刹国の地形はのこぎりの歯のようで、もっとも細い歯は須弥山である。谷は深く険しく、崖は急峻で生えているすべての木が棘で覆われ、石という石はすべて毒を含み、水の流れはすべて逆巻いている。昼間は暴風が吹き荒れ、夜は火が焼き尽くす。

 国には七つの大洲、四つの小洲、四つの辺洲があり、それぞれ羅刹に制圧されていた。国の北側には大海があり、四つの大河が注いでいた。海の中央には赤銅色の吉祥山が聳えていた。山頂には城郭があり、そのなかに円形の宮殿があった。その西側には花園、北には塔院があり、中間には吉祥花と如意樹があった。

 国の東には210万の小仏白豆園林、南には6千万の銅灰禿山城、西には290万の肉城、北には260万の暗黒城があった。

パドマ・サンバヴァはそれぞれの羅刹の王に変化していた。ケサル王はこの地に着くと、まず各パドマ・サンバヴァの変化に謁見し、それからグル・リンポチェ本人が住む蓮華光無量宮へ入った。

 無量宮水晶門の横には珍しい宝石でできた宝座があり、その上には花弁模様をしつらえた錦織の座布団が置いてあった。ヴァジュラ・ヨーギニーが迎えにやってきて、ケサル王に宝座に坐るよう促し、パドマ・サンバヴァに告げに行った。

 ケサル王は宝座に坐って大師が来るのを待ったが、行ったり来たりする羅刹らから耐え切れない死臭が漂ってきた。獅子王がどうしたものやらと考えあぐねていると、左手に浄瓶、右手に鏡を持った白衣のダーキニーがやって来て、言った。

「尊敬すべき大王よ、よくぞいらっしゃった。この水晶の瓶には慈悲の福水が入っております。大王の身の汚れをこれによって清めることができます」。

 と言うと、ダーキニーは瓶を傾け、鏡の上に水をそそぎ、それをケサル王の身体にかけた。すると王の皮膚の毛穴がすべて開き、蝿、サソリ、毒蛇などありとあらゆる穢れたものが出てきた。

 次に現れたのは赤衣のダーキニーである。五種の宝石をちりばめた香炉を持ち、ケサル王の身体全体に香りのいい煙を焚きつけた。

 つづいて四人のダーキニーはおいしい食べ物を、べつの四人のダーキニーは色とりどりの絹衣を、最後の四人のダーキニーは道案内をし、威厳がある無量宮中のきらびやかな大殿にケサル王を導いた。

 大殿の中央にはさまざまな珍しい宝石をちりばめ、ライオン、孔雀、共命鳥、駿馬、象の図案が施された宝座があった。宝座の下には羅刹が押しつぶされ、苦悶の表情を示していた。

 宝座の上に畏怖堂々と君臨していたのはパドマ・サンバヴァその人だった。ダーキニー、持明、羅刹らがその周囲を囲んでいた。

 ケサル王が大殿に入るやいなや、大師は赤、白、青の光を発し、獅子王に当てた。すると王はいっそう輝き、無数の化身に変化し、大師にたいして礼拝した。それから座布団を幾重にも重ねた宝座の上に座り、大師に話しかけた。

「尊敬するラマ、ダーキニーを迎えによこされ、ありがとうございました。おかげで暗黒無明の濁地からこの浄土へ参ることができました。ラマにはいくつかお尋ねしたいことがあります。なにとぞ耳を傾けてください。南贍部洲の黒髪の衆生はどうして平和を享受することができるのでしょうか? 私はリン国にさらにどれだけ住まわなければならないのでしょうか? どうしたら苦しみのなかにある衆生を解脱させることができるのでしょうか?」。

 ケサル王はグル・リンポチェを拝みながら見ると、身体からさまざまな光が発せられた。

 東方からは金剛菩薩が白光の上を歩いてきた。南方かたは宝生仏が黄光の上を歩いてきた。西方からは無量光仏が赤光に乗って降りてきた。北方からは不空成就仏が緑光の上を歩いてきた。

 無限に広がる虚空のなか、花の雨が降り、虹の垂れ幕が下がり、香気が漂い、歌声が流れてきた。そのなかにパドマ・サンバヴァが登場し、ケサル王に語った。

 

 ケサル王が生まれ出る前、贍部洲は妖魔に満ちていた。

 鬼や羅刹が互いに食い合い、衆生は約束をたがえて悪事を働いた。

 父と子のあいだでさえ盗みあった。

 叔父と甥のあいだでさえ憎みあった。

 病気や災害、戦争ばかりがはびこった。

 山の上の雪は日を浴びて融け、山の下の森は火に焼き尽くされた。

 白いライオンの緑のたてがみは血に赤く染まり、

 猛虎の牙は折れてしまった。

 毒の火は田んぼに広がり、

 暴風雨や黒雲は怒涛のごとく荒れまくり、

 チベット全体に不安は満ちて

 四方へ戦乱の火は広がった。

 

「息子よ、おまえが天界から下界の贍部洲に降りてから、暗黒の地に花が咲き、月がラーフラ魔に飲み込まれることもなくなった。もし衆生の安息を願うなら、第一によく禅定し、おのれを養え。第二に、丹田の火をよく保て。第三に、馬をつねに走らせよ。第四に、知恵を武器とし、働かせよ。第五に、因果の鎧兜をまとえ。第六に、欺くことなく正法のみをおしえよ。六道衆生を苦しみから救ったとき、おまえは天界に戻ることになるだろう」。

 そう言い終えると、パドマ・サンバヴァは虹のなかに消えていった。

 ケサル王はリン国に戻るときだと悟り、祈祷した。

 

 頭を垂れ、五仏に慈悲を請う、

 地に五毒が収まらんことを、

 五種の知恵を作り出さん。

 六種の汚れを取り除くため、

六度の修行を成し遂げん。

 五穀豊穣をせつに願い、

 六畜の繁殖をただ祈る。

 

 ケサル王は祈祷したあと、四人のダーキニーに案内され、五つの仏国土を見て回った。それからリン国へ向かった。そのころリン国ではみな懸命に祈祷していた。ケサル王の姿が見えたとき、喜びは満ち溢れ、王が神の子であるという確信をいっそう強めた。

 リン国に戻ってきたあと、ケサル王はセンドゥク・タクツェ城に七ヶ月滞在し、それからインドの香水河七度口で金剛延寿法を行おうとした。人々は反対したが、パドマ・サンバヴァの意思であることを説くと、だれも反対しなくなった。

 この頃生みの親であるゴクモが白いカタを献上し、息子であるケサル王に言った。

「息子よ、ことわざにもこう言います。冬のあいだ雪に閉じ込められた岩石は、夏の旱魃時にもなお融けがたし、と。氷に閉じ込められた心の煩悩は、幸福の日差しでもってしても、なお消えがたいのです。今年になってから、私は悪い夢ばかりを見ます。身体は灯油が尽きるように老いています。これは死が近い徴なのでしょう。人はみな言います、生みの親の恩寵は山のように重いもの。もし死の際に息子が枕辺にいなかったら、どんな報いを受けるでしょうか。かならずや地獄に堕ちて、苦難を受けるでありましょう」。

 母親の話はケサル王の心を苦しめることになった。母親はかけがえのない存在である。自分が生まれたときには漢妃の嫉妬を受け、自分が長じてからはリン国を追い出され、さまざまな苦難を味わったことは重々承知している。母親を安心させるため、ケサル王はつぎのように歌った。

 

 子を産んだときの母の苦しみはいかほどだろう。

 骨肉が張り裂けんばかりの母の思い。

 子が初七日の儀式を迎えたとき、

 口移しで食べ物を与える母の思い。

 ようやくさまざまなことを学びはじめたとき、

 懸命に教える母の思い。

 昼夜となく子を抱き、

 いつくしむ母の思い。

 夜、子がすやすやと眠るとき、

 その傍らで笑みをうかべる母親。

 子が強風に晒されているとき、

 暖めようとする母の思い。

 

 ケサル王は歌いながら、ふと思った。今年、母親は逝去するだろう。もし母親が死んだとき、そばにいなかったら……。しかしもしインドへ行かなかったら、大師との約束をたがえることになる。ケサル王はあれやこれやと考え、迷いの虫になった。

 息子の様子を見るうち、母親のゴクモはおおいに不安になった。ケサルに身辺にいるよう強要できなくなり、かえってインドに早く行ってくるよう勧めるのだった。しかしもちろん心の中では自分のことを第一に考えてほしかった。

 ケサル王は母親の様子を見て、母親に自分がインドに行っているあいだ宮中で長寿聖母法を修してもらい、リン国に戻ってきたら長寿灌頂を受けてもらおうと考えた。こうすれば寿命を延ばすことができるだろう。この旨を伝え、ケサル王はインドへ向けて旅立った。

 ケサル王がリン国を離れて百日たった頃、グモは熱病にかかり、治療もむなしく、没した。王妃ドゥクモや国の英雄たちはからだの産毛の数ほどもある経典を読経したが、諸仏は衆生を地獄から救ったものの、グモを助けることはできなかった。リン国の三人のラマは、ゴクモが地獄に堕ちたこと、獅子王以外に救い出すことはできないことを、英雄たちに告げた。王妃や英雄たちは、協議し、すべからく帰国するよう、インドへ特使を派遣することにした。

 ケサル王はすでに百日の修行を終え、すべての持ち物を愛馬に載せ、リン国への帰途につこうとしているところだった。香水河七渡口で王はリン国から派遣されたペルギェと会った。ペルギェは、グモが地獄に堕ちたことを伝え、一刻も早く救い出すよう頼んだ。

 ケサル王がマントラを唱えると、宝馬は稲妻のごとく飛び立ち、あっというまに生死砂山に着いた。そこでは死者たちが吹雪のなか、上ったり下ったりする姿があった。

山を越えると、渡ることのできない河が流れていた。ケサル王は剣を取り出し、波を切って道を作った。

ケサル王は宝馬に乗り、茫々とつづく砂地を渡り、閻魔王の宮城に着いた。しかし母親の姿はそこにはなかった。ケサル王は心中穏やかでなく、「降魔三界」という弓を取り出し、矢を放った。

「横暴なる死刑執行人よ! 閻魔、おまえには良心のかけらもないのか。前回はわが妻アタラモを地獄に落とし、今回はわが母親を連れ去るとは! すみやかに母親をここへ連れてくるのだ!」。

 そう言いながら金の矢を放ったが、閻魔王には当たらなかった。ケサル王はまた「願望成就」という藤の鞭を取り出し、閻魔王に問いただした。

「閻魔王よ、だれもがおまえは善悪の判別をよくすると言う。善行を積む者には解脱をさせ、悪徳を積む者を地獄に落とすという。わが母は善を成してきた者。それなのにどうしておまえは母を地獄に落としたのか。これでは善と悪の区別がつかなくなるではないか」。

「どうしてそう単純に考えるのか。善悪因果というものは、たとえていえば一本の頭髪を八つに分けるようなもの。あるいは芥子を百に分けるようなもの。微妙だが、まちがいはないのだ。

 おまえの母親は善行を積んだかもしれない。しかし、おまえだ、おまえが無数の魔物を倒したとき、同時に無辜の民も巻き添えにしてころしてきたことが問題なのだ。

 彼らの一部は地獄に堕ちただろう、一部は中有のなかをさまよっただろう、しかしおまえはだれも救わなかったではないか。だからこそ母親は地獄に堕ちたのである」。

 閻魔王はこのように整然と述べた。

 ケサル王は臆面もなくまくしたてるのを聞いて、憤慨やるかたなく、剣を抜いて閻魔王と五大判官に斬りかかった。五大判官というのは、東方金剛仏の化身である獅子頭、南方宝生仏の化身である猿頭、西方無量光仏の化身である熊頭、北方不空成就仏の化身である豹頭、中央ヴァイローチャナ仏の化身である牛頭のことである。これらの化身は首を斬ったところで、死ぬわけではなかった。閻魔王や化身のなにひとつ斬ることができなかったが、獅子王、すなわちケサル王自身、頭を斬られてしまう。

 閻魔王はケサル王の首が落ちるのを見たが、天神の子であることを知っていたので、あわてなかった。神の力がある者はじぶんで首をつぐことができるのである。

 ケサル王がもとの姿にもどるのに、さほどの時間はかからなかった。金剛仏化身の獅子頭の判官はつぎのように語った。

「われらは善悪の判定を正確緻密におこなうものであり、因果帳をこと細かくつけている。閻魔王の面前では、豪傑も武力を用いることができない。横暴な者も、頭を上げることすらできない。ペテン師も、あわてて話すことができない。怒り狂った者も、こけおどしは通じない。おまえケサル王も世間では大王と称せられているが、地獄ではその力が通用しないことを知れ」。

 それを聞いたケサル王は納得するどころか、いっそう腹立たしく思った。神仏の命にしたがうことはいけないのか? 衆生に福を与えることはいけないのか? 閻魔王や判官の言うことは、どうも理解しがたい。彼らの顔色をうかがうにも、どうやら獅子王がどんなにすごいか彼らは知らないようだ。そう思い、ケサル王は閻魔王や判官たちにつぎのように歌った。

 

 わが神馬にひと蹴り蹴らせ、

地獄の火を燃えつきさせたい。

わが神剣にひと振り振らせ、

地獄の銅鍋を打ち破りたい。

我は冥府の無畏城をぶち壊したい。

地獄の橋を壊したい。

鉄の大海を甘露に変えたい。

鏡をうがって穴をあけたい。

罪悪の網を破りたい。

生死の帳簿を燃やしたい。

五毒のもとを断ち切りたい。

すべての衆生を浄土へ行かせたい!

 

「閻魔王、判官のみなよ、あなたたちはパワーをもつのだろう、馬を速く走らすだろう、武芸もよくできるだろう、天へ飛ぶ者もあれば、地へもぐる者もあるだろう。しかし私獅子王は母親を地獄から救出しなければならない。もしそれを阻むのであれば、わが智慧の神剣でもって、たたっ斬る!」。

 閻魔王は強がりを言うケサル王を見て冷笑した。

「高い山の上にも天がある。山が高さを自慢したところで何の意味があろう? 暴君の上に閻魔王はあるのだ。暴君はうぬぼれているかもしれないがね。鷲の上に鳳凰がいるのだ。技を誇ったところで侮られるだけ。大河の上にも船と橋がある。凍ってみせたところで苦しむのはおのれなのだ。身体が大きくても、須弥山にはかなわない。弁舌巧みでも稲妻には勝てない。権力を持っているとはいっても、しょせん閻魔王には勝てないんだよ。気概をどうこう言っても、虚空界にはかなわないのだ。

 それにだいいち、おまえの母親が仏法を信じないのではなく、息子の罪が大きいのだ。ケサルの犯した罪の結果なのだ。それがグモの身に蓄積されたのである。もしおまえが私に斬りかかるなら、おまえ自身ののどをかっ切ることになるだろう。おまえがいかに善行を積んできたか、語らずとも、我らは知っている。母親を救出するのも善行の一環であろう。しかしさらに悪事を働くなら、母親はさらに苦しみを増すことになるぞ。

 もし母親への愛情があるなら、母親のいるところどこへでも行けばいい。堅固なよろいがあるなら、鎧兜を着るがよい。もし鋭い刀を持っているなら、刀の舞を舞うがいい。もし駿馬を持っているなら、馬を走らせるがいい。もし勇気を持っているなら、果敢に戦うがいい。

 急いで行け。ゴクモはいま刀剣地獄で苦しんでいるところだ。寒地獄と熱地獄でも苦しみを受けるだろう。沸騰した鉄の汁がおまえの母親の口にそそがれるだろう」。

 ケサル王はそう聞いて、あたかも刀で自分が斬られたかのように叫び声をあげた。酷刑がまるで自分の身に起こっているかのように感ぜられた。ケサルは身を震わせながらよろいを取り、かぶとを着け、神剣を握り、手綱をふるい、母親のもとへ向かった。虎頭判官がケサル王のために道案内をした。

 ふたりはまず八寒冷地獄(grang dmyal brgyad)に達した。寒冷は八層に分かれ、一層ごとに寒さは9倍になる。第一層の冷声地獄(a chu zer)は人間界の寒さの9倍も寒い。第二層の叫寒地獄(kyi hud zer)は人間の頭ほどの鉄球をふたつに割るほどの寒さ。第三層の長嘆地獄(so tham tham pa)は鉄球を四分割するほどの寒さ。第四層の裂如蓮華地獄(padma ltar gas)は八分割の寒さ。そうしてウトバラ地獄(utpala ltar gas)ともなると千分割の寒さとなる。ケサル王は衆生が刀剣に裂かれ、錘に押しつぶされ、金切り声をあげるさまを眺めた。しかし母親はここにはいなかった。ケサル王は虎頭判官にたずねた。

「わが母はどこにいるのでしょうか。それにしてもここ寒冷地獄にいる衆生はこんな責め苦に値するいったいどんな罪を犯したというのでしょうか」。

 虎頭判官は大笑し、言った。

「人はみな、ケサル大王はなんでもお見通しだというが、案外役立たずのようだな。これらの人間は人間世界で互いに殺し合い、食い合い、深山に放火し、川に毒をまいた、ゆえに八大寒冷地獄に落とされたのだ。もし彼らの魂を安楽の地に送ってやることができたら、母親に会うこともできるだろう」。

 ケサル王は衆生の受ける苦しみを見るにつけ、悲しく、樹上の露のようにぽたぽたと涙が落ちてきた。心の底から諸仏に祈りを捧げたところ、体内の脈から風(プラーナ)が生じ、それは強い風となって衆生の身体を持ち上げるほどだった。そしてケサル王が、「パッ!」と一声あげた瞬間、彼らのすべてが浄土へ送られた。

 虎頭判官はつぎにケサル王を八大熱地獄へ連れて行った。この八大熱地獄もまた八層からなり、一層ごとに熱さは9倍に大きくなった。第一層では空も地上も山も川もすべて鉄筒の火が燃え盛っていて、熱風が吹き荒れ、火炎はあらゆる方向から伸びていた。火炎の先からは恐ろしい音がうなっていて、その勢いはすさまじかった。火炎の真ん中に人頭のかたちの石が三つ置かれ(かまどとなり)その上に銅鍋があった。鍋の周囲は18馬駅ほどもあった。鍋のなかでは水が沸騰し、逆巻き、たくさんの穢れた男女がぐつぐつと煮られていた。その叫び声は天地を揺るがすほどだった。かまどの横には煮すぎて黒くなった遺体があったが、どれも母親ではなかった。ケサル王は耐え切れなくなり、ほかの場所に移るよう虎頭判官に促した。

 判官はつぎに孤独地獄に連れて行った。そこに燃える赤い鉄砂の浜があった。火の中で無数の男女が耕作をしていたが、それぞれ舌がぺろりと垂れ、その表面には四つの牛型の燃える杯が置かれていた。虎頭判官によれば、彼らは生前、うそをついたり、たわごとを言ったり、世をみだすことを言ったりしたため、懲罰を受けているのだという。ここにも母の姿はなかった。

 判官がつぎに連れて行ったのは、血の海地獄だった。ここでは人々は血の海で皮が溶けるほど煮込まれ、渦巻く赤い波のなかで白骨となっていった。

 それからケサル王は鉄山、鉄城、鉄房、毒水、火穴……などを見て回った。見れば見るほど、王の心は痛んだ。

 

 原初の時代の普賢菩薩は、

六道の苦しみを見られたのだろうか。

この血の海、毒の海の衆生は、

まさにあなたが解脱に導かねばならないのに!

持明上師蓮華生よ、

この六道の苦しみを見られましたか?

この鉄の城、鉄の部屋の衆生を

浄土へ導かねばならないのに!

 

 とケサル王が祈ると、つぎの瞬間、地獄のすべての男女が浄土へ至った。虎頭判官はケサル王を花と緑の道を案内しながら、言った。

「そなたの母も浄土へ行かれた。すみやかにリン国にお戻りください」。