ケサル王物語のことわざ
宮本神酒男編訳
ケサル王物語はお母さんが子供に聞かせる物語でもなければ、古老が若い衆に語る民話やおとぎ話でもありません。ドゥンパという専門職の人(説唱芸人)が、集まった人々を前に、歌い、語るケサル王を主人公とする英雄物語なのです。
ですから、ケサル王物語は、やさしい語り口のわかりやすいストーリーばかりとはかぎりません。聞いた瞬間はわかりにくい、ことわざがたくさん含まれていることも特徴のひとつです。チベット人は、ことわざや格言、比喩がとても好きなのです。そこに知恵や機智がこめられていると感じられるのでしょう。チベット人の文化や思考法に慣れてくると、難解そうに思えても、案外理解するのが簡単になってきます。
王興先氏はことわざの表現法を二十種に分類し、ケサル王物語から実例を引用しています。
@ <一行のことわざ>
・自分自身を高く見積もる者は、隠れている問題点が見えない。
・しゃべりすぎるときは、重要なことがないということだ。
A <二行のことわざ>
・心から後悔が生まれる者は、愚か者である。
事より先に考える者は、賢者である。
・病状が手の施しようがないとき、よい医者は必要ない。
人が死ぬとき、よい導師は必要ない。
B <三行のことわざ>
高山は、雨や雪がウルウルと(パラパラ、はらはらと)降る。
海上は、水蒸気がウルウルと(シュワッと)発生する。
狂人は、ざれことがウルウルと(ぶつぶつと)出てくる。
*ウルウルは雑多な音を表す言葉。翻訳不能。
C <四行のことわざ>
高らかにうたえば歌は青空に響き渡り
妙なる言葉は空中にこだまし
麗しい話し言葉は大地の実りとなる
それは学問の理屈を超えたものだ
D <五行のことわざ>
遠い旅路の交易商人が
もし過程のことを気にかけないなら
たとえ無尽蔵の宝を得たところで
海の島の金粉を用いて
顔に塗ったとしても何の得があろうか
E <六行のことわざ>
正しい道を示す善良な人は少ない
心を乱さない修行者は少ない
恥を忘れない友人は少ない
正直に売買する商人は少ない
信仰心の変わらぬ弟子は少ない
仲睦まじい夫婦は少ない
F <八行のことわざ>
四方万里の空高く
鳥の王が天に届かんばかりに高く飛ぶ
六本の羽根を広げれば天の壁に接し
高く飛ぶために飛翔する
万里の空を駆けたあと
白い岩に戻ってくる
鳥が巣に戻るのは規律である
のちに天に上がるのも規律である
G <二行×2段>
火が赤くなるほど燃焼を強めれば
煮え立った湯であなたを消すこともできる
鉄が黒くなるほど硬く鍛えれば
火がなくともあなたを斬ることができる
H <二行×3段>
上部の雪山は不変のようである
雪山の獅子はどうしたら変われるだろうか
下部の大海は不変のようである
海の金の目の魚はどうしたら変われるだろうか
中部の大樹は不変のようである
木の上のホトトギスはどうしたら変われるだろうか
I <二行×4段>
智慧ある者が絶頂にあるとき
世の中が乱れすぎると自らを害する
国王の名が轟いたとき
考えすぎると自らの国家を害する
修行を積みすぎると
どれだけの苦難を受けているかわからなくなる
暴飲暴食が過ぎた人は
節制できないこと自体の中毒になっている
J <二行×5段>
水晶のような白雪山を跳びまわるとき
白獅子のなんと美しいこと
きらきら輝く岩場を跳びまわるとき
赤い角の野牛のなんと装飾の美しいこと
青い空をさっと横切るとき
胸の白い鷹のなんと山のように優雅で美しいこと
大きな森林のなかをはねまわるとき
一頭の赤い虎のなんと凶悪で恐ろしいこと
大海原を泳ぎ回るとき
クジラのなんと恐ろしげなこと
K <二行×6段>
腹黒くないおじいさん
よいことも、悪いことも同時に願ってしまう
何も知らない無垢の子ども
よいことも、悪いことも同時にしてしまう
人をかめない子犬
吠えながら、同時に鳴いている
大声でロバを呼ぶ
積み荷がひっくりかえろうとかまわずやってくる
残虐な赤い豹やオオカミ
生きたままでも死んでいても、皮になればおなじ
信頼できない男子
同時に人のためになり、人に害をなす
L <三行×2段>
巻貝は海からすくい取ったものである
真っ白の乳を用いて育てれば
勇魚(いさな)を防ぐのにも使える
六種良薬は中央チベットから買うものである
調剤したものを準備すれば
寒熱の病気のときすぐに役立つ
M <三行×3段>
雪山の山頂の白獅子
もしトルコ石の鬣(たてがみ)を長く見栄えよく保ちたいなら
けっして平原の山里に降りてはいけない
森の中のまだら模様の虎
笑みの紋様を長く見栄えよく保ちたいなら
森から出て洞窟に住んではいけない
海の底の金の目の魚
もし金のウロコの表皮を長く見栄えよく保ちたいなら
海辺に出ていこうと思ってはならない
N <三行×6段>
僧侶に必要とされるのは正しい法である
法がなければただ赤や黄の衣を着るだけの者にすぎない
彼らは湖の黄色の鶴とどう違うというのか
智者に必要とされるのは正直さである
正直さを捨てて私欲に走る者は
人をだます悪人と何が違うだろうか
丈夫(ますらお)に必要とされるのは勇猛さである
身内の者を連れているのに足や腹がぶるぶる震えているのでは
小者の黄キツネと何が違うというのだろうか
年若い女性に必要とされるのは賢さと貞淑
腰までみだらに髪を伸ばして
老いた雌牛と何が違うというのだろうか
施食にはお返しが必要とされる
もしケチってお返しをしないなら
貪欲な悪鬼とどう違うのか
問われたら回答が必要とされる
もし口を閉じて笑いを浮かべるだけなら
話せない聾唖者とどう違うというのか
O <四行×2段>
上は雪山の水晶宮
白獅子の緑の鬣(たてがみ)は碧玉のごとし
彼はすべての猛獣の王
雪山でも燦然と輝いている
下は白檀の香りの碧き樹林
猛獣が浮かべる六本の笑みの紋様の美しいこと
彼は四つの爪の野獣王
森の中で笑みの紋様は燦然と輝いている
P <四行×3段>
ふたりの上等な男子が会いまみえたとき
それは絹と子羊の皮をいっしょにするようなもの
それらはより軽く、より柔らかくなり
温もり、暖かくなるのはよろしいこと
ふたりの中等な男子が会いまみえたとき
それは甘い食べ物と練乳をいっしょにしたようなもの
それは甘く、また脂っぽく
甘く蜜の味がしてとても美味なり
ふたりの低級な男子が会いまみえたとき
それはロバが転げまわって土埃が巻き起こるかのよう
土埃にむせて、頭がぼんやりしたかのよう
上級中級の四人を驚かせ、あわてさせる
Q <五行×3段>
真っ青の空に青竜あり
分厚い紫雲城に住まう
そこからすさまじい吼え声が発せられ周囲はおびえる
竜の口から出る雷の舌は矢の先端のよう
それは鷹の巣を砕き、赤い石峰を粉砕する
真っ白の雪山に一角が生えた雄獅子あり
白雪山の頂上の堅守の城に住まう
トルコ石の髪をかぶり、威厳を示す
すさまじい吼え声は大地を揺るがす
牙をむき、爪を躍らせ、猛獣を捕らえて飢えを満たす
はるか高みの色とりどりの岩山に野牛あり
色とりどりの山頂の堅守の城に住まう
角を磨く草山に煙のような霧が立ち込める
角はとがり蹄は固く威厳がある
敵は見たら逃げなければ命を失う
R <六行×3段>
大鵬は戦いながら飛び、その威厳を示す
地下の毒蛇は毒を吹き散らす
鳴き声は天空をすごい速さで跳び去る
容易に羽根を収めることはできない
毒蛇をすべて飲み込んでしまわなければ
大鵬の名誉が傷つくことになるのだから
赤い虎は森の中で眠っている
たくましい駿馬が洞窟の外を走っているとき
色とりどりの虎は六本の笑みの紋様を浮かべる
容易に四つの爪を収めることはできない
駿馬にかみつくことができなければ
赤い虎の名誉が傷つくことになるのだから
大河の流れは雪山から流れてきたもの
空中から小雨が降ってきて流れとなった
大河の流れは大きな道のよう
容易に流れが止まるわけにはいかない
六つの盆地を潤して海にならなければ
大河の名誉が傷つくことになる
S 八行×2段
上の雪山に水晶宮あり
緑の鬣(たてがみ)の雪獅子が住む
世界の百獣の王である
英雄のごとく力がある
しかし空をあおげば幾重も重なる雲の中から
青竜が吼えて天下を脅かしている
もし敵が青竜の命を奪わなければ
頭の上の緑の髪は白くなってしまうだろう
下には白檀の樹林あり
猛虎の笑みの紋様は火炎のごとし
それは四つ爪の獣の王である
さまざまな笑みの模様が輝いている
ただし里の村を見に下りたとき
長いしっぽの老犬は喜色満面である
もし敵が老犬の命を奪わなければ
長くなった六種の笑みの紋様は恥をさらすことになる